1-34 藤吉郎のインテリジェンス
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
血の匂いと泥の感触は、いつまで経っても慣れることがない。
木太刀が空を切り裂く鈍い風切り音。男たちの荒々しい呼気。そして、地面に叩きつけられた肉体が立てる、嫌な湿り気を帯びた音。
戦国の世における「戦」や「立ち合い」というものは、現代のスポーツのような清潔なルールに守られたものではない。そこにあるのは、剥き出しの暴力と、生きるか死ぬかの理不尽なまでの二元論だ。
けれど、僕――木下藤吉郎にとって、それは決して覆せない理不尽ではなかった。
「はぁっ……はぁ……っ!」
今日の立ち合い。僕の足元で、大柄な武士が膝をついて荒い息を吐いていた。上島主水――それが彼の名だ。
彼の目には、明確な恐怖と絶望が浮かんでいた。刀を構える手は震え、僕を見上げる視線は、まるで理解不能な怪物に直面したかのように怯えきっている。
無理もない。僕は剣豪のように卓越した剣術を使ったわけではない。ただ、現代のゲーム理論や確率論のような「最適化」の視点を用いて、彼の動きを徹底的に予測し、選択肢を一つずつ潰していっただけだ。右に踏み込めば砂を蹴り上げる軌道上に立ち、左へ逃げようとすれば陽光が目に入る位置へと移動する。筋肉のわずかな収縮から初動を読み、彼が最も力を発揮できない間合いを常に維持し続けた。それは武術というより、完全な盤面支配だ。
「……この人、凡人ならず。我が及ぶところにあらず……」
主水はぽつりと呟き、ついには木太刀を手放して平伏した。実心から帰伏の色を顕したその姿を見て、僕の胸の奥で、かつて寺で培った「世界を静かに見る力」が静かに収束していくのを感じた。
「……さあ、顔を上げてください。」
僕は柔和な笑みを浮かべ、彼に手を差し伸べた。勝利の感傷に浸る時間は未来の記憶を持つ僕にはない。僕は次の一手を打たなければならないのだから。
清洲にある僕の屋敷は、家と呼ぶにはあまりに質素な造りだった。現代の気密性の高いアルミサッシや、柔らかなフローリングの感触を知っている僕からすれば、隙間風の吹き込む薄暗いあばら屋に等しい。
だが、それでも「僕の城」だ。奉公先で冷たい藁布団に丸まっていた夜を思えば、雨風をしのげるだけで十分に贅沢だった。それに、見た目は貧相でも、採光や風通し、そして密談のための空間配置には、現代的な物理の視点を用いてわずかな工夫を凝らしてある。
奥の一間に主水を招き入れると、僕は音を立てずに襖を閉めた。
部屋には、蝋燭の火が一つだけ揺らいでいる。光源を絞ることで、相手の心理的な不安を煽り、集中力を削ぐ。ビジネスにおける交渉術の初歩だ。
僕は黙って主水と向かい合い、あえて言葉を発さなかった。
沈黙というものは、相手に勝手な想像を膨らませる添加物だ。沈黙の時間が長引けば長引くほど、相手は自分の不利な状況を反芻し、勝手に自壊していく。僕が遠い空から世界を見下ろすような大らかな態度で座っているだけで、彼の呼吸は次第に浅く、速くなっていった。
「……あの、藤吉郎殿」
主水が耐えきれずに口を開きかけたその瞬間、僕はそれを遮るように、静かに、しかし冷徹な声で言葉を落とした。
「上島主水殿。――いや。ここでは仮の氏を捨てて、『大沢』主水殿とお呼びした方がよろしいですか?」
ビクリ、と。
主水の肩が大きく跳ねた。彼の顔から、文字通り血の気が引いていくのが暗がりの中でもはっきりと分かった。瞳孔は限界まで開き、口元は痙攣している。
僕はさらに言葉を継ぐ。手加減はしない。未来の外科医が患部を的確に切開するように、彼の最大の秘密を容赦なく暴き出す。
「あなたは、斎藤家の臣であり、鵜沼城主である大沢治郎左衛門殿の弟君ですね。同苗の、大沢主水。……そして、間者として当家へ入り込み、隙あらば主君・信長様を暗殺しようと計っている」
最後の一句を言い終える頃には、主水はまるで雷に打たれたかのように硬直していた。
全身から滝のような冷や汗を流し、肝を散らし、魂を失ったかのようにガタガタと震え始めた。無理もない。間者であることが露見すれば、即座に首を刎ねられる。それがこの時代の絶対的なルールだ。彼は今、死神の鎌を首筋に突きつけられているに等しい。
主水は畳に額をこすりつけ、低頭平身して声を絞り出した。
「……ご明察のごとく、私は斎藤家の臣、大沢主水にございます。……しかし、藤吉郎殿。貴方は、いかにして斯くも詳らかに、私の素性を……ッ」
恐怖よりも、驚愕が勝っているようだった。誰にも打ち明けていない、完璧に隠し通してきたはずの正体が、なぜこの成り上がりの小男に筒抜けになっているのか。
僕は小さく笑った。
(なぜって? そりゃあ、情報の重みを知っているからですよ)
心の中でそう呟く。未来の社会において、情報は力だ。企業も国家も、莫大なコストをかけて情報を収集し、分析し、利用する。しかし、この戦国時代において「忍び」や「間者」の運用は、まだ属人的でシステム化されていない。
僕は四カ国を流浪する中で、あらゆる階層の人間と接してきた。台所の女中、馬番、行商人、日雇いの人夫。彼らが持つ「些細な噂」や「断片的な情報」を、現代的なデータベース構築の概念を用いて脳内でつなぎ合わせる。
ハッキングやクラッキングのような高度な技術などいらない。ソーシャルエンジニアリング――人間の心理的な隙や行動のパターンを利用すれば、どんな強固な扉も内側から開くことができる。
「不思議ですか?」
僕は懐から数通の和紙を取り出し、畳の上に放り投げた。
「あなたに仕えている、中間の弥助という男がいますね。彼は、僕の腹心の者です」
「な……っ!」
「清洲の源左衛門という商人を口入――つまり仲介役として使い、偶然を装ってあなたの家へ仕えさせました。そして、そこにある書簡……兄君である治郎左衛門殿からあなたへ遣わされた密書を、こうして手に入れたというわけです」
物理的な証拠を前にして、主水は完全に崩れ落ちた。
彼の目に映る僕は、もはや人間ではなく、未来を見通す悪魔のように見えているのかもしれない。「ただの幼児」から「大物の幼児」へ、そして「渥淫の麒麟児」へと畏れられてきた僕の異質さは、大人になった今、こうして完成された戦術として牙を剥いている。
だが、ここで僕が「どうだ、僕の知略はすごいだろう」と誇ってしまえば、三流だ。
サラリーマン社会の不条理を、僕は知っている。出る杭は打たれる。有能すぎる部下は、時として上司の嫉妬を買い、粛清の対象となる。ましてや、僕が仕える織田信長という男は、超絶的なカリスマ性を持ちながらも、その内面は極めて合理的で冷酷な「ブラック企業のワンマン社長」のような存在だ。
ナンバーツー以下が自己顕示欲を持つことは、この時代において死を意味する。
だからこそ、僕は彼らのプライドを脅かさず、むしろ彼らの偉大さを演出する「プロデューサー」に徹しなければならない。
「――主水殿。震える必要はありません」
僕はあえて声のトーンを落とし、優しく、慈しむように語りかけた。
「これらすべて、僕が勝手にやったことではありません。すべては信長様の指示で行ったのです」
「信長、様が……?」
「ええ。信長様は、あなたの素性も、その計画もすべてご存知の上で、あなたを生かしておられる。志を改め、今日より誠をもって僕に仕えるのであれば……寛仁大度の信長様はお許しくださるでしょう」
嘘だ。信長はそんな細かいことまで把握していないし、僕が勝手に動かした駒に過ぎない。
だが、僕が絶対の忠誠心を演じ、この圧倒的な知略すらも「主君の掌の上」であると定義することで、主水の中にある織田信長という存在は、文字通り神格化される。
主水は、その言葉を聞いてますます驚愕に目を剥いた。
己を追い詰めたこの木下藤吉郎という男の底知れぬ才智。そして、それを自らの功績として誇るのではなく、すべてを主君の威徳に譲るその無私の忠義。
彼の目から、ついに大粒の涙がこぼれ落ちた。それは恐怖の涙から、深い感服と歓喜の涙へと変わっていた。
「……おお……何という……。私のような愚かな間者を、そこまで……っ。藤吉郎殿、いや、信長様の御心、しかと胸に刻み込みました。この主水、命に代えても信長卿に忠勤を励む所存にございます……!」
畳に顔を押し当て、慟哭する主水を見下ろしながら、僕は胸の奥で静かに息を吐いた。
(⋯⋯チョロい)
彼のような実直な武士は、一度「この人は自分より格上だ」と認識し、恩義を感じれば、決して裏切ることはない。これで、僕は優秀な駒を一つ、誰にも怪しまれることなく手に入れたことになる。
主水を別室に休ませた後、僕は一人、縁側に腰を下ろした。
夜空には、冷たい星が瞬いている。現代の高速道路を流れるヘッドライトや、色鮮やかなネオンサインの幻影は、今や遠い前世の記憶として僕の奥底に沈殿している。
代わりに僕を突き動かすのは、この狂った戦国時代で「どうやれば最も無駄なく、確実に生き延びられるか」という冷徹な計算と、それを実行に移すための熱い衝動だ。
泥まみれで、這いつくばって生きてきた日吉丸の時代は終わった。
僕は今、木下藤吉郎として、歴史という巨大な盤面の上に立っている。他人の心を読み、情報を操り、強者たちのプライドを撫で回しながら、誰よりも高く飛ぶための足場を組み上げている。
ふと、胸の奥で小さな拍動が鳴った。
(僕は、まだ生きている)
かつて母が見たという「日輪が懐に入る夢」。それがただの偶然なのか、それとも僕がこの時代に呼ばれた理由なのかは、まだ分からない。
けれど、もしこの胸の光が太陽の欠片なのだとしたら。
「……天下を獲る、なんてのも。悪くないかもしれないな」
誰もいない夜の庭に向かって、僕はぽつりと呟いた。
現代の知識と、寺で磨いた世界を静かに見る力。そして、泥水の中で身につけた生きた技術。そのすべてを総動員して、僕はこの時代を最適化してやる。
東の空が、わずかに白らみ始めていた。新しい朝の光が、僕の濡れた羽を乾かしていく。
僕はゆっくりと立ち上がり、次なる一手を打つため、静かに闇の中へと足を踏み出した。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉郎智主水を服す
上島主水、今日の戰ひに甚だ恐れをののき、「この人凡人ならず、我が及ぶところにあらず」と、實心に歸伏の色を顯はし、約束のごとく藤吉が組下となり、誘はれて木下が家に歸りぬ。藤吉一間なるところへ主水を招き、「汝上島とは假の氏、齋藤家の臣宇留馬が城主大澤治郎左衛門が弟同苗主水、間者となりて當家へ入り込み、信長卿を弑せんと計るならん。志を改め、今日より誠を以て仕へなば、寛仁大度の信長卿、舊惡を捨てて厚く用ひ給ふなるべし」と云ふ。主水これを聞いて全身冷汗を流し、肝を散らし魂を失ひ、低頭平身して答へて曰く、「明察のごとく齋藤家の臣大澤主水は則ち某なり。足下いかにして斯く詳らかに我が素姓を知り給ふ」。藤吉笑うて、「汝が中間彌助といふ者は、某が腹心の者なり。清洲の源左衛門といふ商人を口入として汝が家に仕へしめ、治郎左衛門より汝へ遣はす書翰これにあり」と數通の證を出し、「これ皆某が計を行ひしめ給ふなり」と云ふ。主水これを聞きますます驚き、殊に藤吉が功を君に讓り、才智に誇らざるを感服し、心を傾け信長卿に仕へて忠勤を勵みけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
大沢主水はNHK大河ドラマ・豊臣兄弟!にも登場してます。まさかのイケメンでしたw




