1-33 物理演算の槍
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
50人の足軽たちに「ただ真っ直ぐに長槍を振り下ろす」という単純な反復だけを組み込ませ、圧倒的な物理質量によって上島主水の部隊を粉砕したあの日から、清洲城内の空気は少し変わった。
僕――木下藤吉郎の評価は確かに上がったが、それは同時に「生意気な異分子」に対する強烈な警戒を生む結果にもなった。特に、長短槍の演習でメンツを完全に潰された上島主水は、僕に対する殺意に近い憎悪を募らせていた。
「……あのような卑怯な『群れの戦法』で勝ったからといって、武芸の神髄を知らぬ下賤の猿めが。俺個人の武まで侮らせはしない」
上島は、僕が提案した「今川に対する偽装降伏」という安全保障上の計略も、すべて「当家を滅ぼすための詭弁」であると決めつけていた。彼は夜陰に乗じて、筆頭家老である柴田勝家のもとを密かに訪れ、ある恐ろしい直訴を持ちかけた。
「柴田様。藤吉郎の奴、弁舌を振るって殿をそそのかし、我が織田家を今川に売ろうとしております。殿も血気盛んなお年頃ゆえ、あの猿の甘言に乗り、我ら古参の忠言をことごとく退けておられる。……こうなっては、もはや手段は一つ」
「何をする気だ、主水」
「……某と藤吉郎で、殿の御前にて『真剣による一対一の槍の試合』をお申し付けください。手合わせの最中に、あの小賢しい猿を串刺しにして始末し、当家の禍を永遠に取り除いてご覧に入れます」
暗殺計画である。勝家は本来、こうした陰湿な手口を好まない男だが、僕が台所から軍議にまで口を出し、自分たち旧臣の顔を潰し始めていることに少なからず苛立ちを感じていた。勝家は上島の提案に乗り、信長に「上島と藤吉郎の、御前での槍試合」を言上した。
信長は、この申し出にわずかに眉をひそめる。上島は、腐っても織田家で指南役を張るほどの槍術の達人だ。対する僕は、体格も小さく、まともな武芸の鍛錬を受けた実績もない。
いくら集団戦の指揮ができても、個人のステータスでは勝ち目がないと、信長も危惧していた。信長が返答をためらっていたその時、ちょうど僕が広間へ出仕してきた。信長は仕方なく、僕に上島からの「挑戦状」の件を伝えた。
広間に居合わせた重臣たちが、ニヤニヤと意地悪い視線を僕に向けている。断れば臆病者の烙印を押され、発言権を失うという完全な罠だ
「……承知いたしました。御前において、上島殿と一対一の試合、謹んでお受けいたします」
僕が平然と頭を下げると、信長は少しホッとしたような、それでいて面白がるような表情を浮かべた。
「よし。だが、単なる腕試しの仮の試合に真剣を用いるのは無意味だ。互いに、八尺(約2.4m)の竹槍を使うことを命ずる。殺し合いではないからな、分かっているな?」
信長なりのセーフティネットだった。だが、上島はどうせ腹の中で毒づいていただろう。
(……フン。真剣でなくとも構わん。竹槍でも、急所を突けば十分に人は殺せる。あの猿を、半殺しにしてやる)
その日の午後。清洲城の中庭に、緊張感が張り詰めていた。上座には信長が座り、その左右には柴田勝家、林秀貞、佐久間信盛ら重臣たちが固唾を呑んで見守っている。彼らの大半は「あの生意気な藤吉郎が、上島にボコボコにされる様を見てスカッとしたい」という、極めて低俗なエンターテインメントを期待していた。
中庭の中央。上島主水が、八尺の竹槍を上段に構え、力強く足を踏み鳴らした。その体からは、本物の殺気が立ち上っている。対する僕は、同じ八尺の竹槍をだらりと下げたまま、リラックスした状態で彼の正面に立った。
(……見くびられているな。まあ、無理もない)
しかし僕は、未来から持ち越した知識だけで生き残ってきたわけではない。蜂須賀小六という裏社会の暴力に蹴り飛ばされ、松下加兵衛という今川家最高の武芸指南役の元で何年も過ごした。僕は下僕として働きながら、彼らの剣術、槍、薙刀、弓、鉄砲に至るまで、その『身体操作のアルゴリズム』を極限まで観察し、自分の脳内で無数のシミュレーションを重ねてきた。
小兵ゆえの筋力不足は、テコの原理と重心移動の最適化でカバーできる。僕の武術は、いわば「物理演算の極致」だ。
「……死ねェッ、猿ゥ!!」
上島が咆哮とともに、地を蹴った。達人の踏み込み。狙うは僕の咽喉元、一撃必殺の突きだ。柴田も佐久間も、「あ、藤吉郎が終わった」と一瞬目を背けかけた。
だが、僕の世界の時間は、この瞬間、極限までゆっくりと流れていた。上島の筋肉の収縮、重心の移動、穂先の軌道。そのすべてが、完全に予測可能なデータとして脳内に入力されていく。
(……踏み込みが甘い。力みすぎだ)
僕は、槍を構えることすらしなかった。上島の突きが僕の喉元に届くほんの数ミリ手前で、僕は最小限の動き(ミニマム・ステップ)で体を半身に開き、その必殺の軌道を完全に回避した。
「なっ……!?」
空を切った上島が、バランスを崩して体勢を前のめりにしたその瞬間、僕は、稲妻のような速度で竹槍を跳ね上げた。
パァンッ!!
乾いた破裂音が響き渡り、上島の手から八尺の竹槍が弾き飛ばされ、宙を舞った。手の中の武器を失い、無防備になった上島の胸倉へ、僕はそのまま滑り込むようにして自分の竹槍の石突き(尻の部分)を叩き込んだ。
「ごふっ……!!」
肋骨に強烈な物理的衝撃を食らい、上島は息を詰まらせて仰向けに倒れ込んだ。
僕が上島を突き伏せ、竹槍の穂先をその喉仏に突きつけた時、中庭は完全な静寂に包まれていた。
「……そこまで!」
信長が扇子をパァン!と開き、歓喜の声を上げた。
「猿の勝ちだ! 見事な早業、藤吉の手柄であるぞ!!」
その声で、重臣たちはハッと我に返った。柴田も、林も、佐久間も、誰もが信じられないものを見る目で僕を凝視していた。一介の素浪人上がりの小兵が、槍の達人である上島主水を、手も足も出させずにたった一突きで完全に無力化してしまったのだ。
「……ば、馬鹿な。あの猿、いつの間にあれほどの鍛錬を……」
「あいつの才能は、小賢しい知恵だけではないのか……」
僕を侮っていた者たちの間に、明確な「恐怖」の感情が芽生え始めていた。圧倒的な知略と、常識外れの武力。その両方を兼ね備えた存在など、この戦国の世においても規格外でしかない。
「……上島殿。あなたの槍は『個の武』としては素晴らしい。だが、僕の槍は『生存のための計算』です。勝つべくして勝った、それだけのことです」
僕は倒れ伏す上島に冷たく言い捨て、竹槍を引いた。この日を境に、僕の「偽装降伏」の策に真っ向から反対できる者は、織田家の中から完全に消滅した。
僕の発言権は最大化され、信長もいよいよ、僕の描く非情で冷酷な「生存戦略のロードマップ」に沿って動き出すことになる。
(さあ、準備は整った)
見上げる清洲の空には、遠く駿河の方角から、黒々とした巨大な雨雲が不気味に広がり始めている。
戦国最強の魔王・織田信長と、未来からの特異点・木下藤吉郎。僕たち二人が、今川義元という時代の巨大な壁を粉砕するための「桶狭間」への歯車が、今、完全に噛み合った。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉上島と槍法を戰ふ
その夜上島主水、柴田がもとへ行きて密に談じけるは、「木下藤吉が辯舌を振ひ、君を勸めて國家を陥れんとす。君また血氣にやあり給へば、藤吉が詞を是なりとし給ひ、足下を始め諸老臣の諫めを用ひ給はず。所詮某と藤吉に、眞劍にて槍の試合を仰せ附けられ下さらば、永く當家の禍を除くべし」と云ふ。柴田も兼ねて藤吉が物事に差し出るを心惡く思ひければ、主水が所存に興し、信長卿へ主水が願ひを言上に及びければ、上島は槍術の達人、藤吉が手練の及ぶべしとも思ひ給はず、躊躇して、いまだ答へ給はざる前に、木下藤吉郎出仕ければ、已ことを得ずこの旨を藤吉に仰せ聞けらる。藤吉委細畏り、御前に於て上島と試合仕るべき御受申し上げぬれば、やがて主水をも召し出され、「假の試合に眞劍を用ふることその謂なし」とて、兩方互に八尺の竹槍を與へ、主水心中に、「竹槍にてもある、藤吉郎を半死半生になしくれん」と、力足を踏んで立ち向かへば、柴田を始め、林、佐久間その餘の人々(ひとびと)も、「あはや只今藤吉郎、主水がために突き止めらるべし」とて、手に汗を握つて見物す。ときに藤吉郎御前に向ひ、「さて今日は銘々 宿所へ歸り休息いたし、明日また來るべし」とて、座を立つて入らんとす。足輕ら暫し止む。木下方の士卒ども十分の勝利を得、勝鬨を三度揚げ、勇み悦び引取りしは、目ざましくこそ見えにける。信長卿、上島、木下兩人を近く召され、「主水自ら槍を遣はば短きを以て利を得べし。藤吉は衆と共に勝つの工夫、これまた戰國の心掛け、我が心にも叶へり。兩人ともにこの後いよいよ水魚のごとく忠勤を勵むべし」とて、百人の足輕どもへ御酒を下され、やがて御歸城し給ひけり。互に身繕ひ、竹槍提げ立ち上がる。もとより上島槍術に熟したる壯士なれば、小兵の藤吉ただ一突きと、上段に構へ飛びかかる。藤吉は天然不思議の早業、凡人の及ぶべきところにあらず、その上松下が家にありて、劍術及び槍、長刀、弓、鐵砲に至るまで、一を聞いて萬を知り、身力を盡し修し得たる手練なれば、飛び違うて稻妻のごとく突き入りければ、主水心中に大きに驚き、「この者いかなる鍛鍊をなせば、斯く鍛鍊せしや」と甚だ恐れ、一世の秘術ここなりと、精神を勵まし戰ひ得ず、難なく藤吉、上島が槍打ち落とし、一突きに突き伏せたり。信長卿扇を開き、「藤吉勝つたり、木下仕果せたり」と響め給へば、一座の人々(ひとびと)案に相違し、「思ふに違ふ藤吉が早業や」と、感ぜぬ者はなかりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
今話はお待ちかね「The なろう」回です。冒険者カードを発行して貰う際に、ギルマスの前で試験官を倒し、魔力測定機をブッ壊すイメージですw




