1-29 長槍論争、開戦
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
永禄三年(1560年)、正月十五日。この戦国の世にあっては、新しい年を迎えたからといって、無邪気に祝い酒を酌み交わすような空気はない。
吉野の桜がどれほど美しく咲こうが、更科の月がどれほど澄み渡ろうが、武将たちの話題は常に「昨日どこが攻められたか」「明日はどこを攻めるか」という血生臭いものばかりだ。
だが、この日の清洲城の広間だけは、例外的に華やいだ空気に包まれていた。織田家中の武将たちが一堂に会し、主君である織田信長に新年の祝詞を述べる式日。信長も上機嫌で、数刻(数時間)にわたる酒宴が催されていた。
その宴もたけなわとなった頃、信長がふと、盃を置きながら諸将に向かって問いを投げかけた。
「皆の者。槍の柄というものは……長い方に利があるか、それとも短い方に利があるか?」
その一言で、広間の空気がピリッと引き締まった。信長はただ世間話をしているのではない。彼は常に軍備のアップデートを考えている。この問いは、家臣たちの軍事への見識を問うテストだ。
真っ先に進み出たのは、槍術の腕前を買われて織田家に仕官していた、上島主水。
「信長様。槍は断然、短い方に利がございます。短ければ取り回しが良く、敵の懐に潜り込みやすく、何より乱戦での機動力が違います」
上島は自らの腕に自信があるのだろう、堂々と自説を述べた。だが、信長の顔には不満げな色が浮かんだ。それもそのはず。信長はすでに三間(5.4m)という異常な長さの朱槍を導入し、集団戦での優位性を直感的に理解し始めている。彼からすれば、上島の「個人の武術」に依存した回答は、ズレている。
「……他の者はどう思う。おのおのの見識を申してみよ」
信長が不機嫌そうに促したその時。最近、出しゃばることに定評のある僕――木下藤吉郎が、スッと末席から進み出た。
「僕は、槍の機能は長ければ長いほどよく、短い槍など、無用の長物に過ぎません」
僕が言い放つと、上島主水がカッと顔を赤くした。
「……藤吉郎! 貴様は武道に暗いくせに、何を偉そうに!」
僕は上島を一瞥もせず、信長に向かって言葉を続けた。
「信長様。上島殿の仰ることは『武道』としては正しいのでしょう。ですが、戦場の主役は上島殿のような一騎打ちの武将ではありません。おびただしい数の『足軽』たちです」
僕は広間の武将たち全員に聞こえるように、はっきりと論理を展開した。
「武術の心得のない足軽たちに、長い槍と短い槍を持たせて集団で戦わせれば、間違いなく長い槍が勝ちます。届く距離の差が、そのまま致死率の差に直結するからです。これこそが、軍備としての『槍の機能』でございます。論より証拠。目前で試してみられてはいかがでしょうか」
僕のあまりにも合理的な軍事思想に、信長は目を輝かせた。だが、メンツを完全に潰された上島主水は、怒りでプルプルと震え上がっていた。
「黙れ、この猿がッ! 槍術を知らぬ足軽だろうと、俺が三日間みっちりと稽古をつければ、貴様のような素人が適当に集めた長槍の部隊など、一瞬で叩き伏せてみせるわ!」
「ほう?」
僕はあえて、小馬鹿にするように首を傾げた。
「では、その3日間で、僕も足軽50人を預かり、『長い槍の利点』だけを教え込みましょう。4日目に馬場前で模擬戦を行い、長短どちらのシステムが優れているか……試してみますか?」
売り言葉に買い言葉。僕の挑発に、上島は「望むところだ!」と吠えた。
「ハハハハッ! 面白い!」
信長は扇子でバンバンと膝を叩き、大ウケしていた。
「よかろう。菅谷九右衛門!足軽100人を手配し、上島と藤吉郎に50人ずつ預けよ! 三日間で調練させろ。4日目に、俺も馬場前へ出て見物してやる!」
信長の鶴の一声で、この「長短槍論争」は、実際の軍事演習として決着をつけることになった。
翌日から、清洲城下の空き地では、上島と僕のそれぞれの調練が始まった。
「やぁーッ! とぉーッ!!」
上島主水の陣地からは、威勢のいい掛け声が響いている。彼は足軽たちに短い槍を持たせ、一対一の組手や、槍を払って敵の懐に飛び込むといった、高度な「武術」を必死に叩き込んでいた。
足軽たちは汗だくになりながら上島の動きを真似ようとしているが、素人に3日で達人の動きなどマスターできるはずがない。動きはバラバラで、疲労だけが蓄積しているように見えた。
一方、僕の陣地――木下藤吉郎の調練は、全く違うものだった。
「はい、止め! そこ、槍の先端が揃っていない。もっと隣の奴と間隔を詰めて、角度を一定に保て!」
僕は足軽たちに、三間(約5.4m)の異常に長い、重い竹竿を持たせた。そして僕が教えたのは、武術でもなんでもない。ただの「反復運動」だ。
「いいか。敵が来たら、槍を構える。号令に合わせて、全員で一歩前に出る。そして、槍を上から下へ一斉に振り下ろす! これだけだ! これ以外の動きは一切するな!」
長い槍は重い。突こうとすれば狙いがブレるし、体力も消耗する。だから僕は「突く」ことを禁じ、「叩き落とす」という物理的な質量攻撃に特化させた。50本の長槍が、隙間なく並んだ状態で一斉に上から叩きつけられれば、そこに「武術の技」など入り込む余地はない。純粋な物理法則の壁だ。
「疲れたら休んでいい。だが、号令がかかったら、思考を停止してこの動きだけをロボットのように繰り返せ!」
僕の調練は、実にシンプルだ。足軽たちは最初こそ戸惑っていたが、「ただ同じ動きをするだけでいい」と理解すると、みるみるうちに統率が取れ始め、五十人の動きが一つの巨大な機械のように連動するようになっていった。
(……勝負は、もう見えている)
僕は冷たい風の吹く空き地の端で、完成しつつある「長槍襖」を見つめながら、ニヤリと笑った。
個人の技量に依存する古い軍隊と、システム化され規格化された新しい軍隊。これは単なる槍の長さの勝負ではない。戦国という時代が、中世から近代へと脱皮するための、極めて重要なパラダイムシフトの実験だ。
「さあ……4日目が楽しみだ。」
僕の胸の奥で、日輪の光が静かに、けれど圧倒的な確信を持って輝きを放っていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木下上島と槍の長短の利を論ず
静かならぬ世にしあれば、年改まりぬれど、四方拜、朝賀などの古例も夙々に不行はれず、何となく打騒ぎたる世の中こそ疎ましけれ。況や兵を練り軍を手習、攻擊を事とする武家においてをや。み吉野の花、雲間に咲きみだれ、更科の月、いかに限なくさやけくとも、誰か長閑けき心ありて、これを稱れを詠めんや。「今日は誰がしが軍を發し某が國を襲ひ、昨日は誰がため何某も討たれぬるよ」と、武に携はらぬ雲の上人、または卑しき賤の男までも、假初の語り草も常ならず恐しき、亂れたる世の形勢なりけり。永祿二年も空しく暮れ、同三年春正月十五日、織田家の臣下殘りなく登城し、式日の祝詞を述べ、信長卿にも殊に氣色麗しく、数刻酒宴を催し給ふ。信長卿諸士に向ひ、「槍の柄は長きに利ありや、短きに利ありや」と尋ね給ふ。このとき槍術を申し立て、當家へ仕官せる上島主水進み出、「槍は實に短きを以て利あり」と申す。もとより信長、長柄の槍を好み給へば、主水が論を心となく思ひ給ひ、「諸將おのおのその見識を申すべし」と仰せければ、諸事に指し出る木下藤吉、進み出て申しけるは、「某が存ずるは、長きを槍の能とす。短きときはその能なし。試みに槍術不知の足輕に命じ、長き槍と短き槍とを興へ戰はしめば、必ず長き方勝つを取るべし。これ則ち槍の能なり。論には及ばず、目前に試み給へ」と云ふ。主水これを聞いて大に怒り、「足下槍術に暗くして猥りに言を發す。我五百人の足輕を預かり、三日が間槍術を教へん、汝長き槍を持たせて戰ひ勝つべきや否や」。藤吉笑うて、「勝つと負くとはこの席に論じて益なし。某も五十人の足輕を預かり、三日の間長き槍の利益あることを教へ、第四日に至らば馬場前にて戰はせ、長短いづれの損利ありや試すべし」と云ふ。信長卿この儀面白かるべしとて、菅谷九右衛門を召して、足輕百人を上島、木下へ分ち遣はし、槍術調練すべきよし仰せ渡され、「稽古熟せば、我も馬場前に出でて見物すべし」とて、座を立ち給へば、藤吉、上島、そのほかの諸士もことごとく退出す。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
古代ギリシャの事なんか知らなかっただろうに、感性で密集陣形を閃く信長は本当に天才だったんだろうなっていつも思います。
ファランクス(古代ギリシャ語: φάλαγξ、phalanx)は、古代において用いられた槍を持つ重装歩兵による密集陣形である。集団が一丸となって攻撃するファランクスは会戦において威力を発揮した。出典:Wikipedia




