1-19 盤外戦の果てに咲いた花――ねねとの出会い
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
信長という怪物からの評価を確固たるものにしつつあったある日、僕は思わぬ形で、プライベートの火種を抱え込むことになった。
発端は、僕を中間に引き立ててくれた恩人――足軽頭の藤井又右衛門だった。
「……藤吉郎。実は、折り入って頼みがある」
夜の詰所で、普段は豪快な又右衛門が、珍しく深刻な顔で切り出した。話を聞けば、彼の一人娘である「八重」に、強力な縁談が持ち上がっているというのだ。相手は、信長の小姓頭を務める「前田犬千代」――後の加賀百万石の祖、前田利家である。
「犬千代殿は、我が殿の覚えもめでたい強勇の若武者。家柄も将来性も申し分ない。ワシも大喜びで快諾し、娘に話をしたのだが……」
又右衛門は、頭を抱えて深いため息をついた。
「八重の奴め、何が気に入らんのか『絶対に嫌でございます。そのような荒くれ者の妻になるくらいなら、尼になります』と泣き喚いて、一歩も引かんのだ。……お前、知恵が回るだろう。なんとか犬千代殿のところへ行って、この縁談を穏便にキャンセルする手はずを整えてくれんか」
無茶な要求だった。社長の秘書室長からのプロポーズを、平社員の僕が代理で断りに行くようなものだ。しかし、又右衛門は僕を拾ってくれた恩人であり、ここで貸しを作っておけば、将来的に強力なカードになる。
「……承知いたしました。なんとか、やってみましょう」
僕は引き受け、翌日、前田犬千代の長屋を訪ねた。犬千代は、身の丈六尺(180cm)はあろうかという巨漢で、その目つきは虎のように鋭かった。僕が丁重に、しかし理路整然と「縁談辞退の申し入れ」を行うと、彼は露骨に不快感を露にした。
「……又右衛門殿は一度、俺の申し入れを承諾したはずだぞ。それを今更、娘が嫌がっているから白紙に戻せだと? 武士の約束を何だと思っている。到底、承服できん」
うん。全く正論である。この時代、親が決めた縁談は絶対だ。それを「本人の意向」で覆すなど、相手の面子を丸潰れにする行為だった。
このままでは、又右衛門と犬千代の間で致命的な派閥抗争に発展しかねない。僕は瞬時に脳を回転させ、一つの「危険な嘘」を捏造した。
「……犬千代様。どうか、怒らずにお聞きください」
僕は声を潜め、周りを憚るような芝居を打った。
「実は……八重殿が犬千代様との縁談を拒むのには、深い理由があるのです。又右衛門様もご存じないことなのですが……八重殿と僕は、かねてよりこっそり愛し合い、将来を誓い合った仲なのです」
ピクリ、と犬千代の眉が動いた。
「……何だと?」
「又右衛門様は、手前のような卑しい身分の男に娘をやるなど、到底お許しにならないでしょう。だから、八重殿は必死に抵抗されているのです。……どうか、犬千代様の広い侠気で、この名もない下郎の罪をお許しいただき、縁談をお引き下げいただけないでしょうか」
僕は深く平伏した。相手が「他の男と出来ている」となれば、さすがの犬千代も手を引かざるを得ないだろう。僕自身の面子は潰れるが、最悪、信長にバレる前にどこかへ逃げ出せばいい。そう踏んでの、起死回生のブラフだった。
しかし、犬千代の反応は、僕の計算を完全に裏切るものだった。彼はしばし沈黙した後、ふっ、と冷たい笑みをこぼしたのだ。
「……なるほど。お前と八重殿が、ね」
犬千代の眼光が、僕を射抜いた。
(……マズい。バレている)
犬千代もまた、強勇なだけの男ではない。後に、五大老として加賀・越前・能登の加賀百万石を背負って立つ器だ。僕のような「猿面の素浪人」と、町で評判の美女が密かに契りを結んでいるなどという出来の悪い三文芝居を、真に受けるはずがなかった。
「 『この話は藤吉郎が、八重殿と又右衛門のために一肌脱いだ嘘だな。八重殿には他に好きな男がいるのかもしれんが、それを庇うために自分が泥を被ったのだろう』 ……とでも、俺が思うとでも思ったか?」
犬千代は、わざとらしく明るい声を張り上げた。
「いやあ、すまなかった、藤吉郎!俺はお前たちにそんな深い絆があるとは露知らず、野暮な申し入れをしてしまったようだ! これは俺の完全な落ち度だ、どうか許してくれ!」
「え……あ、いえ、それは……」
「よし、決めた! お前たち二人の仲を引き裂くような真似は、この前田犬千代の武士道が許さん!俺が仲人となって、又右衛門殿を説き伏せ、お前と八重殿を正式な夫婦にしてやろう! なんなら、信長様にも俺から直接お願いしてやる!」
犬千代の「善意を装った悪意」に、僕は完全に言葉を失った。犬千代は僕の嘘を見破った上で、あえてその嘘に乗っかり、僕を退路のない絶壁へと追い詰めたのだ。信長の耳に入れば、もう「嘘でした」では済まされない。
(……やられた。完全に、カウンターを喰らった)
僕は青ざめた顔で、又右衛門の屋敷へと逃げ帰った。事の顛末を聞いた又右衛門も、頭を抱えて絶叫した。
「な、なんという大風呂敷を広げてくれたのだ、お前は!犬千代殿が仲人になって殿に言上するだと!? そんなことになれば、八重を無理やりにでもお前に嫁がせねば、ワシの首が飛ぶではないか!!」
「も、申し訳ありません……。完全に、僕の計算違いでした……。なんとか、別の手段で話を延期させて……」
「もう遅いわ!!」
又右衛門は畳をバンバンと叩いた。
「こうなったら腹を括るしかない! 八重にはワシから、お前という『猿面の男』に嫁ぐよう、涙ながらに説得する! お前も、責任を取って八重を妻に迎えよ!」
僕は絶望の底に沈んだ。絶世の美女と謳われる八重が、僕のような醜い素浪人を夫として受け入れるはずがない。
しかし――。数日後、又右衛門に呼ばれて彼の屋敷の奥座敷に通された僕は、そこで信じられない言葉を耳にすることになった。
「……藤吉郎様。この度は、私の我儘のせいで、とんだ火の粉を被せてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
襖が開き、そこに現れたのは、息を呑むほどに美しい少女だった。透き通るような白い肌、凛とした涼やかな瞳。彼女こそが、又右衛門の娘、八重――後の「ねね」、北政所(高台院)となる女性だ。
「父から、すべてを聞きました。藤吉郎様が、私を助けるために、ご自身の身の危険も顧みず、あのような嘘をついてくださったのだと」
八重は、静かに、けれど深い敬意を込めて、僕に向かって深く頭を下げた。
「……ですが、八重殿。僕は見ての通り、身分も低く、お世辞にも立派な武士とは言えません。犬千代殿の嫌がらせとはいえ、僕のような男の妻になるなど、貴女の人生を台無しにしてしまう……」
僕が自嘲気味に言うと、八重はパッと顔を上げ、僕の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その瞳には軽蔑の色は、微塵もなかった。
「……藤吉郎様は、ご自身を卑下されますが、私はそうは思いません」
彼女の清らかな声が、静かな座敷に響く。
「父から、藤吉郎様が台所奉行としてどれほど見事なお働きをされているか、いつも伺っております。身分や家柄に囚われず、自らの知恵と度量だけで、殿の御心を掴まれたこと。……そんな才智にあふれたお方が、私のために泥を被ってくださった。……これ以上の誉れが、女にあるでしょうか」
八重は、ふわりと花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「私でよければ……どうか、藤吉郎様の妻として、お傍に置いていただけないでしょうか。藤吉郎様がいつか、この世で一番の『大人物』になられる日まで、ずっとお支えいたします」
その言葉を聞いた瞬間。僕の胸の奥で、長年冷たく凍りついていた何かが、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
現代の記憶。流浪の旅。奴婢としての屈辱。誰も僕の本当の価値を見ようとしなかったこの戦国という時代で、初めて。僕の「器」そのものを、混じり気のない純粋な敬意をもって見つめてくれる人が現れた。
「……八重殿」
僕は、震える声で彼女の名を呼んだ。
「僕の歩む道は……おそらく、血と泥にまみれた、過酷なものになります。それでも、僕についてきてくれますか」
「はい。どこまでも」
迷いのない、力強い返答だった。僕は深く息を吸い込み、彼女に向かって、これまでの人生で最も深く、心を込めた一礼をした。
「……ありがとう。必ず、君を……この日ノ本で一番幸せな女にしてみせる」
こうして、前田犬千代の悪意ある「嫌がらせ」は、結果的に僕にとって、生涯の伴侶であり、最大の理解者を得るという、最高の恩恵をもたらすことになった。
吉日を選び、犬千代を仲人として、僕と八重は正式に夫婦の契りを結んだ。犬千代は祝宴の席で「どうだ、俺のおかげで可愛い嫁をもらえただろう!」と高笑いしていた。
八重の存在は、僕にとって「生き残る」ためだけの冷徹な生存戦略に、「守るべきもの」という新しい熱を吹き込んでくれた。
胸の奥の太陽は、もはや孤独な光ではない。僕と八重、二人の未来を照らす、力強く、温かい炎となって、確かに燃え上がっていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉郎藤井又右衛門の女を娶る
孤陰は則ち生ぜず、獨陽は則ち長ぜず。故に天地の配は陰陽を以てし、男は女を以て室とし、女は男を以て家とす。故に人生の偶は夫婦を以てす。陰陽和して後雨澤降り、夫婦和して後家道なれり。信長卿の足輕頭藤井又右衛門一女あり、名を八重と呼べり。もとより家富み榮える中に出生せし女なれば、萬の業に拙からず、加之容貌艷美しく、紅粉の色を借らずして、自からの國色この郷中に唱へ高し。ここに信長卿の小姓頭に、前田犬千代といへる若者あり。この八重を戀ひ慕ひ、媒人を以て又右衛門に女を乞ふ。又右衛門大きに悦び、まづ豫約諾をなし、女八重にこのことを語る。いかが思ひけんこの女、犬千代を嫌ひ、父の麁忽に約せしことを恨む。ここにおいて又右衛門、中村藤吉郎を招き、この次第を物語り、犬千代に理を告げて婚姻異變の儀を計らはしむ。藤吉領承して、犬千代がもとに至り、對面してさまざましかし説くども、もとより犬千代強勇の壯士なれば、曾て以て承引せず、「婚姻異變の趣意を聞いてその後に返答すべし」と云ふ。藤吉郎計策を構へ偽つて云く、「又右衛門女八重、某とかねて夫婦の契約あり。父又右衛門このことを知らず、貴殿に婚姻を許しぬれども、とてもこのこと成就すまじ。足下俠氣を以て某が罪を免し、この婚儀異變なし給はば大悦少なからず」と云ふ。犬千代甚だ驚けるが、「これは藤吉郎が頓計にて、かの女にほかに約せし男あるべし。いかにぞや藤吉ごとき猿面冠者に斯くまで深く馴れ合ふべき」と察しければ、わざと面を和らげ、「某曾て足下にかかる契約あることを知らず、不覺にも申し出し、多罪のがるる方これなし。今より我が婚姻は相止め、足下の媒妁となりて、必ずこのこと成就ならしむべし」と云ふ。藤吉、犬千代が心根を知りぬれば甚だ迷惑し、いろいろに斷れども、犬千代ますます意地強く、信長卿へ申し上ぐるに既に決定す。藤吉郎大に困り、是非なく又右衛門夫婦にこのことを告ぐ。又右衛門も詮方なく女八重にこのことを語れば、この女藤吉が醜面を嫌わず、悦んでこれを諾す。又右衛門夫婦大に悦び、また藤吉郎を招きてこの由を物語るに、藤吉郎いよいよ難溢し、「この一件我が一時の計策にて、斯くならんとは思ひもよらず。いかにもして事を延ばし、重ねて計議あるべし」と云へど、又右衛門さらに承引せず、「事すでにここに至れり。いかんともなしがたし。かつ女足下に嫁せんことを希ふ。殊さら君の御聞に達しぬれば、いづれ異變なりがたし」とて、終に吉日を選み、則ち犬千代を媒妁として、八重と藤吉を夫婦とす。犬千代ひそかに兩人が容體を伺ふに、さらに隔つる氣色もなく、八重が藤吉を敬ふこと、臣の君に仕ふるごとし。理なるかな、藤吉天下掌握のとき、北の政所と稱し、後に高臺院と號し奉るは、この御方のことなりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
先日、書き溜めてた話を投稿してしまい貯蓄ゼロです。ストックがないと⋯不安。そんなときは皆様の評価やブックマークだけが心の支えです⋯な・の・で・⋯www




