1-17 盤上のクイーン、魔王のゲーム
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
正徳寺での会見以降、織田信長という男の恐ろしさは、僕の中で確信から信仰に近いものへと変わっていった。
この戦国という時代に、現代の僕ですら思いつかないような冷酷な情報戦を仕掛ける男。それが、僕が「すべてを賭ける」と決めた主君の真の姿だった。その最たる例が、舅である斎藤道三の腹心たちを内側から崩壊させた、あの背筋の凍るような謀略である。
――時は少し遡る。道三の娘である濃姫は、政略結婚によって信長の正室となっていたが、彼女はこの尾張において非常に微妙な立場に置かれていた。敵国のスパイになり得る存在でありながら、一国の主の妻でもある。
信長は、この濃姫の「立場」と「心理」を、まるで盤上の駒のように完璧に操ってみせた。ある時期から、信長は夜な夜な不可解な行動を取り始めた。濃姫が寝静まったのを見計らい、毎夜密かに寝所を抜け出し、明け方になってようやく戻ってくる。そんな日々が一ヶ月以上も続いたのだ。当然、濃姫は不審に思った。
「殿……。夜毎、忍んで心を交わす相手がいらっしゃるのであれば、どうぞお呼び寄せくださいませ。私は決して嫉妬などいたしません。なぜ、コソコソと身をやつして通われるのですか?」
それは妻としての恨み節であり、同時に、自分の知らないところで何かが動いていることへの不安の吐露だった。だが、信長は冷たく突き放した。
「馬鹿なことを言うな。俺は今、誰にも言えぬ重大な『秘密の計画』を進めているのだ。お前に疑われるのも無理はないがな」
そう言い残し、信長はさらに一ヶ月ほど、同じように夜の外出を続けた。濃姫の心は、徐々に追い詰められていった。夫は自分に何かを隠している。もしかすると、美濃を――父・道三を滅ぼすための謀略を進めているのではないか。
ついに耐えきれなくなった濃姫が、涙ながらに信長にすがりついた夜。信長は、わざとらしくため息をつき、ひどく「仕方がない」といった態度で、恐るべき機密情報を口にした。
「……お前には隠しておきたかったが。実はお前の父・道三入道は、俺にとって長年の仇だ。一時的に和睦してお前を迎えたが、それが俺の本心であるはずがない」
信長の声は、氷のように冷たかった。
「今、美濃の家老である堀田道空と春日丹後の二人が、密かに俺に寝返っている。彼らとは、『道三を殺し、夜中の子丑の刻(午前零時〜二時)に狼煙を上げて合図とする』と固く約束を交わしているのだ」
濃姫は息を呑み、血の気が引くのを感じたはずだ。父の最も信頼する重臣二人が、すでに尾張と内通しているというのだから。
「だが、この五十日余り、俺は毎夜寒空の下で合図を待ち続けているが、一向に火の手は上がらない。おそらく、実行の隙を窺っているのだろう。今夜にでも狼煙が上がれば、ただちに軍勢を率いて美濃へ雪崩れ込み、斎藤一家を根絶やしにするつもりだ。……いいか、このことは決して口外するなよ」
そう言い残し、信長は濃姫の周囲に厳しい見張りの兵を配置し、美濃との文通を一切禁じた。
――もちろん、これはすべて信長の描いた真っ赤な「嘘」だ。
堀田も春日も寝返ってなどいない。信長はただ、城の裏山あたりで星空を眺め、時間を潰して帰ってきていただけだ。目的は一つ。濃姫に「偽の機密情報」を掴ませること。そして信長は、見張りの兵たちに「裏の命令」を出していた。
『わざと居眠りをし、隙を見せろ』と。
張り詰めた監視の中で、ふと見張りが持ち場を離れる。極限状態に置かれていた濃姫は、その一瞬の隙を突き、震える手で筆を走らせた。父を救わなければならない。その一心で、信長から聞いた「堀田と春日の裏切り」の顛末を細々と書き記し、決死の思いで美濃の道三のもとへ密書を送り届けた。
密書を受け取った道三の反応は、凄まじかった。あの蝮が、娘からの決死の忠告を疑うはずがない。道三は激怒し、有無を言わさず堀田道空と春日丹後を捕らえ、両名を斬首してしまった。
(……えげつない。本当に、えげつない)
馬丁として立ち働きながら、その噂の顛末を耳にした僕は、身震いするほどの戦慄を覚えた。信長は、一兵も損なわず、一銭の金も使わず、ただ「妻に嘘を吐く」という行為だけで、敵国の最重要戦力である家老二人を、敵の大将自身の手にかけさせた。
武力でもなく、金でもない。人間の心理の「バグ」――娘の父を想う愛情と、主君の家臣に対する疑心暗鬼――を完全に計算し尽くし、致死性のウイルスとして敵の中枢に送り込む。現代の僕ですら、これほどまでに冷酷で完璧な謀略を立案・実行することはできない。
「……やっぱり、この男しかいない」
僕は、自分の雇い主である「大うつけ」の恐ろしさを噛み締めながら、同時に強烈な高揚感を感じていた。これほどまでに智謀に長け、常識の枠をぶち破る怪物が、この尾張の片田舎にくすぶっている。
ならば、僕のやるべきことは一つだ。中村藤吉郎高吉。僕のこの小さな体と、現代から持ち越した知識。そのすべてを、この織田信長という底知れぬ器に投げ込む。
僕の胸の中で燃える「太陽」は、あの正徳寺の会見を、そしてこの冷酷な謀略を目の当たりにして、いっそう激しくその熱を増していた。
いつか、僕もあの盤面に上がり、この怪物の隣で時代を動かすプレイヤーになる。そのためには、今はまだ泥に這いつくばり、馬の背を擦りながら「その時」を待つ。
尾張の空は、これから始まる未曾有の戦火を予感させるように、高く、青く澄み渡っていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長奇謀堀田春日の兩士を斬る
信長、道三が女を娶り、因を結ぶといへども、終には美濃國を切り取るべき所存ありけるが、信長一計を生じ、毎夜道三が女濃姫が熟睡を伺ひ、密かに起きて外に出で、曉に至つて歸ること一月餘り、濃姫これを怪しみ、て、「君忍びて心を通は(かよは)し給ふ者あらば、露はして召させ給へ。妾いささかも妬む心侍らず。何ぞ身を窶して深く包ませ給ふぞや」と、恨み顔なりければ、信長、「いかでか然ることの侍らん。我一つの秘計ありて、人に語るべきことにあらねば、疑はるるも理」とて、また前のごとくすること一月ばかり、濃姫いよいよ心を苦しめ、「これほどにまで心置かれ參らせんとは、かねては思ひ知らざりける女心の愚さよ。御志の厚からん方をば、これに居ゑさせ給へかし。妾は何地にも出で往なばや」と涙を流しかこちければ、信長詮方なき體にもてなし、「汝が父道三入道、我とは久しき仇なり。一旦和談して御身を迎へ進らせぬれども、これ我が本心にあらず。今美濃の家老堀田道空、春日丹後の兩人、密に我と心を合せ、『道三を殺し、夜子丑の刻限に火を揚げて相圖とすべし』と固く約束したりしが、この五十餘日が間、毎夜星を戴き霜を踏んでこれを望めども、いまだ火の相圖これなきは、今にその便りを得ざるものなるべし。今宵にも相圖の火を揚ぐると等しく、軍兵を率し濃州へ微れ入り、齋藤一家討亡ぼすべし。あなかしこ、口より出し給ふな」と物語り、これより濃姫に守衛の兵士を附け置き、道三方の文通などを禁じければ、濃姫は信長の物語をまことなりと思ひ、日夜心を苦しめけるに、かの守兵信長の内意を得て、わざと怠りがちに、或ひは眠り、または席を立つて外に出づなんど、甚だ緩弛なりければ、濃姫こまごと文に委細を認め、父の許へ告げければ、道三大いに驚き怒り、終に堀田、春日の兩人を斬罪す。これ信長が寸謀なり。かかる智謀の大將なれば、藤吉郎志を織田に傾け、折を見合はせ居たりける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
信長が奇策で、道三の家老を嵌める緊迫の場面です。軍記物でよく使い回されるテンプレですがこの構成、最初に考えた人は凄いなぁと思います。誰か知りませんけどw




