2-48 女を奪った代償――朝倉家崩壊
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
浅井を救うため、朝倉義景が越前全軍を挙げて出兵の準備を進めている。その報せは、虎御前山に陣を敷く僕たち織田軍の血を沸き立たせた。餌に食いついた。あとは、あの愚かな当主が近江に足を踏み入れるのを待ち、一網打尽にすり潰すだけだ。
――しかし。そこから数日が過ぎ、半月が過ぎても、越前からの援軍は一向に姿を現さなかった。
「……遅い。なぜ動かない」
本陣の床几に座る信長が、苛立ちを隠そうともせずに呟いた。国を挙げての行軍に時間がかかるのは当然だ。だが、それにしても遅すぎる。小谷城の包囲は日に日に狭まり、浅井長政の命脈は文字通り尽きようとしているのだ。一刻の猶予もないこの盤面で、義景は何を渋っているのか。
僕は、密かに越前へと放っていた草からの報告を受け取り、その内容に目を疑い、思わず失笑を漏らしてしまった。朝倉義景が出陣を延引している理由。それは、軍略でも天候でも、兵糧の不足でもなかった。
なんと、一人の「女」を巡る、あまりにもくだらない痴話喧嘩が原因で、朝倉の軍中が真っ二つに割れ、騒動が起きていたのである。
「……馬鹿な。嘘だろ」
僕は報告書を握り潰しながら、戦国大名という存在の底知れぬ愚かさに眩暈を覚えた。
事の発端は、数年前から朝倉家に身を寄せている一人の食客にあった。かつて信長に美濃を追われた稲葉山城の元城主、斎藤右兵衛大夫 龍興。彼は義景の扶助を受けて気楽な居候生活を送っていたのだが、ある酒宴の席で、義景に向かってとんでもないことを吹き込んだ。
「義景殿。この一乗谷の城下に、天下無双の美女がおりまするぞ」
酒の勢いもあったのだろう。龍興は、城下の上坂という場所で見かけた、一人の若い女の美しさを熱弁した。年の頃は20歳ばかり。みすぼらしい足軽の家から、色鮮やかな絞り染めの絹をしどけなく着こなして現れ、垣根の萩の小枝を折って童に与えるその姿は、この世の者とは思えぬほどに恍惚とする美しさであったと。
色好みの朝倉義景が、これに食いつかないはずがなかった。
「ほう、我が城下にそれほどの美女がいるとは。ならばその女を探し出し、貴殿に与えて夜の伽とさせようではないか」
義景はすぐさま配下に命じて女を特定させた。女の正体は、大野作右衛門という、身分の低い足軽の娘であった。義景は大野を城に呼び出し、「城中第一の美女であると見込んだ。斎藤龍興の妻として差し出せ」と厳命した。主君からの絶対の命令である。足軽の身分で逆らえるはずもない。大野は「風邪が治り次第、すぐに差し出します」と平伏して請け負った。
……ここまでは、よくある戦国大名の横暴な振る舞いだ。
だが、問題は大野の娘が、すでに別の男と深い仲になっていたことだった。その男とは、大野の直属の上司にあたる組頭――前波九郎兵衛。
前波九郎兵衛は、昨年の冬からこの娘の美しさに心を奪われ、身分の違いを越えて愛し合うようになっていた。二人は「末の松山、波は越さじ(決して心変わりはしない)」と誓い合うほど、固い絆で結ばれていた。
父親の大野から「君命により、娘を斎藤龍興に差し出すことになった」と聞かされた前波は、怒りと絶望で発狂しかけた。
「ふざけるな! あれは俺の女だッ!」
前波はすぐさま城へと登り、主君である義景に直談判に及んだ。
「義景様! あの大野の娘は、すでにそれがしと夫婦の約束を交わした女です! いまだご報告申し上げていなかったのは私の落ち度ですが、よりにもよって国を追われた敗軍の将、食客ごときの斎藤に、自分の妻を奪われるなど、武士の面目が立ちません!」
必死の訴えだった。前波は「どうかご恩をもって、龍興の恋慕をお留めくだされ。さすれば我ら夫婦、死をもってご恩に報いましょう」と、血を吐くように懇願した。
だが、朝倉義景という男は、ここで決定的な「為政者としての致命傷」を露呈する。部下の切実な忠義の誓いよりも、自分の面子と、食客である斎藤龍興への約束を優先した。
「前波、貴様ごときが言語道断である!」
義景は激怒し、一喝した。
「わが配下の武士たる者、婚姻を結ぶには必ず余の許しを得ねばならぬはず。それを密かに通じ、しかも余が龍興に女を与えると約束した後にしゃしゃり出て、余に二言を強いるというのか! ええい、問答無用! 力者ども、今すぐ大野の家から女を引きずってこい! 異議を唱えるなら、前波も大野もその場で叩き斬れッ!」
主君の暴挙により、力自慢の男たちが30人も大野の家に押し入り、女は泣き叫びながら強引に連れ去られ、斎藤龍興の元へと与えられてしまった。
――そして。愛する女を理不尽に奪われた前波九郎兵衛の胸中に、どれほどの憎悪と怨念が渦巻いたか。
「おのれ、斎藤龍興……いや、朝倉義景ッ!」
前波は怒りで牙を噛み砕き、その怨恨の炎は、朝倉家の内部に決定的な「亀裂」を生み出すこととなった。前波だけでなく、この義景の理不尽な裁定に不満を持つ家臣たちが続出し、軍事会議は女一人の処遇を巡って大紛糾。出兵の準備は完全にストップしてしまったのである。
「……阿呆の極みだな」
忍びからの報告書を火鉢に放り込みながら、僕は心の底からの軽蔑と、薄ら寒い虚無感を覚えていた。数万の将兵の命が懸かった、浅井家存亡の危機。織田との天下を分けるかもしれない絶対的な決戦の盤面。
その出陣が、「一人の足軽の娘を、どちらの男が抱くか」という下半身の事情で遅れている。未来の歴史書には決して載らないであろう、戦国大名の底知れぬ愚劣さ。神仏のように領民から崇められている権力者の実態が、これだ。
信長にこの事実を報告すれば、間違いなく「くだらん」と吐き捨てて一笑に付しただろう。だが、僕はこの朝倉内部の「亀裂」を、単なる笑い話で終わらせるつもりはなかった。
(使える……。この『恨み』は、盤面を完全に崩すための最高の劇薬になる)
僕はすぐさま、越前に潜り込ませている忍びたちに新たな指示を飛ばした。ターゲットは、女を奪われた前波九郎兵衛、その当人である。彼に密かに接触し、朝倉家に対する不満を極限まで煽り、織田家への内通を促すのだ。
『愛する女を奪うような愚かな主君に、忠義を尽くす価値があるのか。織田に寝返り、朝倉を滅ぼせば、女はお前の手に戻るぞ』
悪魔の囁きである。だが、復讐心に燃える男にとって、それは何よりも甘美な救済の言葉だったはずだ。結果として、この女を巡る痴話喧嘩は、朝倉義景の命運を完全に絶つための「致死毒」となった。
出兵が遅れに遅れたことで、小谷城の浅井長政は完全に孤立し、城内の士気は限界を迎える。そして何より、前波九郎兵衛という重要な武将の心が朝倉から離れたことで、のちの決戦において、朝倉軍は内側からボロボロと崩壊していくことになる。
―― 賢を賢とし、色に易えよ。
孔子の教えだ。「賢人を尊ぶ心を、美人を愛する心と同じくらい強く持て」という意味だが、朝倉義景はその逆を張った。忠臣の心をへし折り、一時の色欲とちっぽけな見栄のために、自らの国を滅ぼす種を蒔いた。
僕は陣屋の出口に立ち、冷たい秋の夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。人間の欲望、愛憎、嫉妬、執着。それらすべてが絡み合い、巨大な歴史という歯車を狂わせていく。
なんと醜く、なんと滑稽で、そしてなんと面白い盤面だろうか。朝倉義景。お前はもう、将棋の駒ですらない。自らの欲望に溺れ、盤面から転がり落ちるただの豚だ。
僕は暗闇に向かって、冷たい刃のような笑みを浮かべた。早く来い、朝倉義景。お前がその重い腰を上げた時、そこにあるのは小谷城の救済ではない。義景自身の、そして朝倉一族の、地獄の釜茹でだ。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
義景前波が妻を奪はしむ
賢を賢とし色に易へよとは、聖人の教なりけり。朝倉義景は淺井長政が頼みに従ひ、援兵を出さんと用意しけるに、不思議の騒動出来て、心ならず出陣延引しぬ。その始終を尋ぬるに、濃州稲葉山の城主齋藤右兵衛大夫龍興、美濃没落の後、所々(しょしょ)に身を寄せ、このごろは朝倉にたより、義景の扶助を得て遊客となり居たりしが、あるとき義景と酒宴の席にて、龍興申しけるは、「この城中に天下無雙の美人あり。國主これを知らせ給ふや」。義景おどろきて、「わが城中にさる美人のあるべしとも覺えず。これは足下の見誤りなるべし」と云ふ。龍興このとき顔色を改め、「我いまだ年を老いたるにあらず、眼すでに明らかなり。いかんぞ見誤り申すべきや。昨日城中上坂のほとりを通りしに、足軽の家居と覺しき賤しの戸口に、二十ばかりの女、色よきくくり染めの絹をしどけなく着なし、女の童の十ばかりなるに、籬に咲ける萩の小枝を折りて與へぬるその姿、この界の人とはおもはれず。われ一目かの女を見しより、心神恍惚となりて、さらに忘れがたし。いかなる者の娘なるらん。聞かまほし」と語りぬれば、義景大いに興に入り、「實にわが城中の女なりせば、その女を尋ね糺し、足下に與へて枕の伽とせんはいかん」と云ふ。龍興頭を席につけ、よろこんで恩を謝す。義景即時に人を走らせ、その女が親を尋ね問ふに、やがて使ひ馳せ帰り、「御尋ね候女は、前波九郎兵衛が組下の足軽大野作右衛門と申す者の娘にて候」と申す。義景ただちに大野作右衛門を召し寄せ、城中第一の美女にて候と物語、女を差し出すべき条、厳重に命じければ、作右衛門かしこまり、「委細承知奉る。しかし娘儀、今朝より風邪の心地にて打臥し罷ありあれば、平癒次第すぐ に御宮仕へに差し出し申すべき」と言上して退く。この作右衛門が女、艶色あるを以て、去年より組頭前波九郎兵衛深く恋慕ひ、組下の足軽なれば、あからさまに作右衛門に語りて思ひ者と成し、末の松山浪はこさじと、行末かけて契りけるを、親作右衛門も組頭の前波なれば、とかう否むべきことにもあらず、そのまま差し置けけるが、このたび大守義景の命を蒙り、齋藤龍興が妻に差し出すべき旨領承して退き、まづ前波にこのことを語り、暇の證を取りて齋藤に仕へさせんと、組頭前波九郎兵衛がもと(もと)に至り、つぶさにこのことの次第を物語ければ、前波大いに驚き、いかがはせんと心を苦しめけるが、ややありて申しけるは、「元来汝が女と我が深き語りあることを大守義景知らざる故、齋藤が望みに任せ、汝を召して命じ給ふと覺えたり。我れ物の数にもあらずといへども、人並の軍功を積み、朝倉家にて一方の将をも命ぜらるる某なれば、敗國の弱将が國の食客たる齋藤といかで見替へ給ふべき。汝かならず女を出すべからず。われ國守にこの次第を申し上げ、明らかにわが方へ迎へ取るべし」とて、そのまま登城し、近習の士を以て申しけるは、「大野作右衛門が女、終身のことをかねて某に頼み聞こえ候ほどに、組下の足軽にて候へば、見捨つることなりがたく、夫婦の契約いたし置き候へども、いまだそのことを大守へ申し上げず。しかるにこのたび、女を以て齋藤龍興が妻に差し出せとの御諚、臣が面目を失ふところに候。あはれ君恩を以て龍興が恋慕を制し止め給ふものならば、臣ら夫婦、死を以て恩に報い奉らん」と、詞を盡くし訴へければ、朝倉義景大いに怒り、「前波が申し条こそ言語道断、悪きことかな。わが幕下にある大小の士、婚姻をなすにはことごとく我に訴へ、しかうして後に夫婦の縁を究む。前波ひそかに大野が女に通じ、我をして龍興に信義を失せしめんとす。その儀ならば後とも云はず、かの女をただいま引き連れ来るべし。異議に及ばば前波、大野も打ち捨てよ」と、力者三十餘人大野が家に押し寄せ、「上意なり」と呼ばって、女を引き立て歸りければ、作右衛門も君命辞することを待たず、前波もこのことを恨み、元の發りは齋藤龍興が恋慕よりかくなり行けば、「おのれ龍興、一刀に切り捨て、この恨みを晴らさんもの」と、牙を噛んでぞ憤りける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
前波吉継は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏、織田氏の家臣。後に桂田長俊と改名。越前国の戦国大名朝倉氏の家臣・前波景定の次男として誕生。朝倉義景に仕え、奉行衆として活躍した。元亀元年(1570年)に前波氏の当主だった兄・景当が志賀の陣における堅田の戦いにおいて戦死したため家督を相続。ところが、元亀3年(1572年)に織田信長と義景が対陣すると、信長の本陣に駆け込んで降伏した。後世、内応の理由として、「義景の鷹狩りの際に遅参し、下馬せずに前を通ったことで勘当されたことを恨んだため」「吉継の嫡男より織田方への内通の訴えがあり、義景の怒りをかったため」などが挙げられるが、真相は不明。内通した翌年の朝倉攻めでは織田軍の越前案内役を務め、朝倉氏滅亡に一役買った。越前侵攻への功績により、信長から越前の守護代に任命され、名前も信長から一字「長」を貰い受けて桂田長俊と改めた。信長に駿馬「一段ノ早道」を献上している。しかし、改名後まもなく失明。さらに長俊が守護代になったことに反発した富田長繁が対立姿勢を示し、天正2年(1574年)についに長繁は土一揆を蜂起させ長俊が住す一乗谷に進発。1月19日に長俊は富田長繁率いる一揆勢によって衆寡敵せず殺害された。なお、長俊の母・妻・嫡男も逃亡しようと試みたが、翌日に捕縛され殺害されている。当時失明をし、結果的に落命にまで至った理由は、『朝倉記』は「神明ノ御罰也」と評されている。また、『信長公記』も吉継の死を「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、恣に働き、後輩に対しても無礼であった報い」と評した。出典:wikipedia




