2-47 虎御前山へ
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
古い時代の亡霊たちは、自ら流した血の海に深く沈み、歴史の表舞台から永遠に姿を消した。
摂津の平野を凄惨な赤に染め上げた和田伊賀守惟政の最期は、かつての「武士の美学」がいかに新しい時代の冷徹な暴力の前に無力であるかを、あまりにも残酷な形で見せつけていた。
血生臭い風が吹き抜ける陣中で、戦の後、一つの噂がまことしやかに囁かれていた。大将首を挙げた中川瀬兵衛清秀に対し、ある者が畏怖を込めてこう尋ねたという。
「戦の前に、高札へ自らの名を書き、『和田を討つ』と宣言するとは、どんな覚悟だったのですか。もし討ち果たせず敗れていれば、生涯消えぬ恥を背負うことになったでしょう。恐ろしくはなかったのですか?」
名誉を重んじる旧来の武士からすれば、それは極めて当然の疑問だった。大言壮語を吐いて手柄を逃せば、周囲の嘲笑を浴び、切腹すら免れない。でも、その問いに対する中川の答えは、あまりにも身も蓋もなく、そして氷のように冷たかった。
「別に深い思慮などあるもんか。和田を討てなければ、俺は討ち死にするだけだ。彼と俺、死合いの中でどちらか一人しか生きて帰れないのなら、高札の文字が外れることなどあり得ない。俺が死ねば恥など感じる頭もなくなる。勝てば、五百石の領地が手に入る。ただ、それだけのこと」
その答えを聞いた者たちは皆、中川の徹底した合理性と勇壮さに舌を巻き、深く感嘆したという。後方でその報告を受けた僕もまた、陣屋の暗がりの中で、顔を覆いながら薄く笑い声を漏らしていた。
中川瀬兵衛。彼は無謀な猪武者などでは決してない。己の命すらも盤上の駒として冷徹に計算できる、極めて戦国的で、だからこそ底知れなく恐ろしい男だ。「恥」だの「名誉」だのといった、形のない幻想に縛られて泥を舐めた和田伊賀守とは完全な対極にいる。
中川の言葉には、生き残るためならば手段を選ばず、結果のみを追い求めるという、この狂った戦国の世を生き抜くための絶対的な真理が隠されていた。信長が切り開こうとしている新しい時代とは、こうした己の欲望に忠実な獣たちこそが覇を競い合う、真の弱肉強食の世界だ。
和田惟政という最大の障壁を粉砕した荒木摂津守村重の勢いは、もはや誰にも止めることはできなかった。彼はその狂暴な牙を、摂津一国の制圧へと完全に剥き出しにした。まず矛先を向けたのは池田城だ。荒木は圧倒的な兵力で城を包囲し、情け容赦なく攻め立て、かつての主家筋でもあった池田筑後守を無慈悲に城から追放した。
さらにその足で伊丹城へと迫り、抵抗する伊丹兵庫頭を徹底的に攻め殺した。情けも、恩義も、古い秩序も、荒木村重の前ではただの紙屑に等しい。彼はただひたすら暴力を振るい、血の臭いを撒き散らしながら、瞬く間に摂津一国を完全に自らの支配下に置いていった。もはや摂津の地において、荒木の刃に正面から逆らおうとする武士は、文字通り一人として残っていなかった。
だが、その飛ぶ鳥を落とす勢いの荒木でさえも、決して踏み越えられない壁が存在する。石山本願寺である。現世の利益や領土への執着で動く武士たちとは根本的に異なる、狂信的な門徒たちの巨大な要塞。荒木も度々石山勢と合戦に及んだが、彼らの「死して極楽浄土へ至る」という常軌を逸した死生観の前には、いかなる暴力も決定的な打撃とはなり得ず、戦局は常に泥沼の膠着状態に陥っていた。
人間の欲望の極致を行く荒木村重と、人間の欲望を捨て去った石山本願寺。この二つの異質な怪物が睨み合う摂津の地は、天下布武の道に横たわる、底知れぬ巨大な暗い穴のように僕の目に映っていた。
もちろん、そんな局地的な膠着など、魔王・織田信長の放つ圧倒的な光輪の前では、些細な影に過ぎない。足利将軍家を京から放逐し、武田信玄という最大の脅威が病魔によって自然消滅した今、信長の権勢はまさに天を衝く勢いで膨れ上がっていた。その武威は、もはや刀を抜く必要すらないほどの次元に達している。遠国、近国を問わず、諸侯は皆、織田の巨大な軍事力と冷徹な政治力に震え上がった。
信長が使者を送るまでもなく、彼らは自ら進んで貢物を献上し、人質を差し出して降伏を誓ってきた。軍を向ければ、城に辿り着く前に敵将が寝返り、あるいは恐怖のあまり逃亡して、戦わずして落城する。「絶対的な力」というものが、人々の心をどのように根元からへし折っていくのか。僕はその過程を、畏怖とともに最前線で見つめていた。魔王の威光は、日本全土を黒い雲のように覆い尽くそうとしている。もはや、誰もこの流れに逆らうことはできない。
でも、信長の瞳の奥に宿る暗い炎は、まだ決して満たされてはいなかった。魔王の脳裏には、いまだに清算されていない一つの巨大な「恨み」が、マグマのように煮えたぎっていた。
天正元年(1573年)、秋。8月。信長は、全軍に比類なき大動員令を下した。
「――浅井・朝倉。あの雪山の借りを、骨の髄まで返してやる」
標的は、北近江の浅井長政。そして、その背後に控える越前の朝倉義景。かつて、僕らを極寒の比叡山麓に釘付けにし、地獄のような対陣を強いた忌まわしき連合軍。和睦という名目で一時的に矛を収めたものの、それはあくまで信長が生き延びるための「時間稼ぎ」に過ぎなかった。そして時機は、完全に熟した。
武田は死に、将軍は消え、畿内の反乱分子は沈黙した。今こそ、あの裏切り者たちを根絶やしにする時だ。数万に膨れ上がった織田の軍勢は、地鳴りを轟かせながら北近江へと殺到した。信長は浅井の居城・小谷城を指呼の間に望む「虎御前山」に、巨大で堅固な城砦を瞬く間に築き上げた。それは、単なる前線基地などではない。「一気に小谷城を踏み潰す」という、信長の冷酷な意志そのものが具現化したような、圧倒的な暴力の象徴だった。
虎御前山から見下ろす小谷城は、深い森と急峻な崖に守られた難攻不落の山城だ。だが、どれほど城が堅牢であろうと、それを守る人間の心が折れてしまえば、ただの石と泥の塊に過ぎない。城内に立て籠もる浅井長政は、周囲を完全に包囲され、じわじわと締め上げられる絶望の中で、己の破滅が秒読み段階に入ったことを悟っていたはずだ。かつて信長様と義兄弟の契りを結び、その妹であるお市様を妻に迎えながらも、旧来の同盟国である朝倉を選び、織田に牙を剥いた男。
長政の選択は、古い時代の「義」に殉じたという意味では美しかったのかもしれない。だが、その美しさが、彼一族を滅亡の淵へと追いやった。未来の倫理観など微塵も通用しないこの狂った時代において、選択を誤ることは、一族の滅亡を意味する。
「このままでは、浅井は滅びる……ッ!」
長政は、血を吐くような思いで、越前の朝倉義景へと度重なる急使を走らせた。
「どうか、援軍を! 朝倉の御屋形様、どうか小谷をお救いくだされ!」
それは、沈みゆく泥舟から発せられた、悲痛な絶叫だった。長政からの救援要請を受け取った朝倉義景は、すぐさま越前で軍議を開き、出兵の準備に掛かった。朝倉義景とて、ここで浅井を見捨てて織田の北上を許せば、次はいよいよ己の首が魔王の刃に晒されることくらいは理解していたのだろう。彼は「早速領承した」と返書を送り、全軍を挙げて小谷城への救援に向かうべく、領内で慌ただしく陣触れを発し、まちまちの用意を急がせていた。
虎御前山の本陣。冷たい秋風が吹き抜ける中、僕は遠く北の空、越前へと続く街道をじっと見据えていた。朝倉義景が来る。いや、彼らはおびき寄せられるのだ。信長が虎御前山に陣を敷き、あえて小谷城への総攻撃を遅らせているのは、浅井を甘い餌にして朝倉の軍勢を誘い出し、野戦で両軍を一度に殲滅するためだ。巨大な蜘蛛の巣の真ん中で、魔王が静かに獲物を待っている。朝倉の軍勢が近江の地に足を踏み入れた瞬間、この日本史上類を見ない規模の、惨烈な殺戮の幕が切って落とされるだろう。
「来るなら来い、朝倉義景」
僕は、腰の刀の柄を撫でながら、誰にも聞こえない声で呟いた。胸の中の日輪が、狂おしいほどの熱を放って僕の血を煮えたぎらせている。ここで浅井と朝倉を完全に屠れば、天下布武の道は一気にその視界を開く。
もちろん数万の命が泥に沈み、血の雨が大地を濡らすだろう。だが、その屍山血河の果てにしか、僕が目指す究極の世界は存在しない。生き延びるための戦いは、もう終わった。ここからは、古い時代を完全に終わらせ、すべての権力を僕の手の中に強奪するための、本当の修羅道だ。
秋の冷気に混じって、わずかに鉄の匂いが漂ってくる。浅井長政、朝倉義景。地獄の釜の蓋が、今、静かに開こうとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
中川瀬兵衛和田伊賀守を討つ(二)
軍散って後、人々 中川に問ひけるは、「足下高札に名を記し置き、和田を討ちしは、いかなる思慮ありてその言の誤らざるや」と。中川答へて、「これ他の思慮あるにあらず。和田を討たずんば我討死すべし。彼と我との中一人死せば、何ぞ高札の姓名を誤るべき。これわが常の心得なり」と語りければ、聞く人その勇壯を感じあへり。さるほどに荒木攝津守村重は和田伊賀守を討ち、勢ひやうやう近郷に響き、池田の城を攻めて池田筑後守を追ひ、伊丹に迫って伊丹兵庫頭を殺し、今は攝津一國に刃向ふ者さらになく、石山の本願寺と度々 合戰に及びぬれども、はかばかしき戰もなし。織田信長公はこのとき勢盛んにして、遠近の諸侯震ひ恐れ、招かざるに降參し、討たざるに落城す。さればこの勢ひに淺井一家の根を斷つべしとて、同年秋八月、大いに軍を發し、虎御前山に城を築き、淺井長政が小谷の城を一息に踏み潰さんと計りける。長政防戰叶ふまじと思ひれば、またまた越前へ急使を以て加勢のことを頼みけるに、義景早速領承し、助力の兵を出さんと、その用意まちまちなり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
和田惟政は、戦国時代の武将。室町幕府の御供衆。足利義輝・義昭に仕えた。『寛政重修諸家譜』(以下、『寛政譜』)では維政とも記載している。伊賀守。足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めていた。元亀2年(1571年)6月10日、三好三人衆に奪われていた吹田城を取り戻した。同年7月15日、惟政を攻撃するため、松永久秀が摂津に出兵した(『尋憲記』)。同年(元亀2年)8月28日、三人衆側の池田城近くに出陣し、池田知正と郡山(現・茨木市郡山)で戦いとなり、討死した(白井河原の戦い、あるいは郡山合戦とも)。42歳。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死去したとされる(『フロイス日本史』)。法名は宗意。墓は、享保元年頃、高槻城内で発見され、現在は伊勢寺(現・高槻市)に祀られている。『寛政譜』では、浄厳寺(近江国蒲生郡安土)に葬るとしている。惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、『フロイス日本史』に詳細に書かれている。出典:wikipedia




