2-46 病虎、最後の咆哮
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
200年の長きにわたり、この国の頂点に君臨し続けた室町幕府。その巨大な虚像が京の都から消え去った後も、足利の呪縛は澱みのように畿内の大地へこびりついていた。
将軍・足利義昭が槇島城を追われ、流浪の身となったという事実は、多くの武士たちに旧時代の終焉を悟らせた。だが、人が己の信じてきた価値観を捨てることは、己の命を捨てることよりも難しい場合がある。
「将軍家随一の忠臣、和田伊賀守惟政。五六の地に砦を構え、反旗を翻したとのこと」
岐阜城の評定の間でその報告を聞いた時、僕はただ静かに目を伏せた。
和田惟政。幕府の重鎮にして、鬼神の如き勇猛さで知られる男だ。だが、彼にとって何よりの不運は、主君である足利義昭が槇島城で我ら織田の大軍に囲まれ、最も忠義を示すべき決定的な瞬間に、重い病に臥せって高槻城から一歩も動けなかったことだろう。病床で主君の没落と追放を聞かされた時の、彼の胸中はいかばかりであったか。生き残ってしまったという重い罪悪感。何もできなかった己への激しい怒り。それらの暗い感情が、病が癒えた彼の心に、「死に場所」を求める狂気じみた熱を帯びさせていたのは想像に難くない。
その死に損ないの忠臣を討伐する任を帯びたのは、摂津一国の切り取りを信長から約束されていた、荒木摂津守村重だ。あの、信長の突き出した刀の切先から、微動だにせず饅頭を喰らった異常な度胸を持つ男。僕もまた、信長の命により、荒木の目付役としてその後方に陣を敷き、戦の行く末を冷徹に見届けることとなった。
摂津の五六に構えられた和田の砦に対し、荒木村重は3,500という圧倒的な兵力で押し寄せた。だが、決死の覚悟を固めた和田軍の抵抗は凄まじく、荒木軍は度重なる小競り合いで利を失い、一時的に兵を引き下げることとなった。このわずかな「勝利」が、和田惟政の判断を決定的に狂わせた。
和田惟政は、自らの武勇が荒木の大軍を退けたのだという驕りに取り憑かれた。そして、あろうことか天然の要害である砦を捨て、わずか800の兵を率いて「糠塚」という平地へと討って出た。
「――お待ちくだされ、殿ッ! 平場での合戦はなりませぬ!」
和田の陣立てを知り、陣中から悲痛な声を上げたのは、永井隼人という老功の武者だった。
「敵の兵力は、我らの4倍、5倍にも及びます。小勢をもって大軍に当たるには、要害の地形を頼るのが戦の理。切所を離れて平場で正面からぶつかれば、必ずや取り返しのつかぬ大敗を喫しますぞ!」
永井の涙ながらの諫言は、軍事における絶対の真理だった。だが、死に場所を求め、自らの悲劇的な英雄像に酔いしれている和田惟政の耳には、その忠義の声すらも「臆病者の戯言」にしか聞こえなかった。
「案ずるな、隼人。荒木の兵など、所詮は烏合の衆。我らが一当てすれば、容易く打ち崩せるわ!」
和田は自信に満ちた顔でそう言い放ち、永井の制止を振り切って進軍の貝を吹かせた。遠く離れた丘の上からその行軍の砂埃を眺めていた僕は、無意識のうちに深い溜息を漏らしていた。どれほど個人の武勇に優れていようとも、冷静な計算と状況判断を見失った大将は、ただの肉塊に過ぎない。和田惟政は、自らの手で自らの首に縄をかけていた。
対する荒木村重は、馬塚に陣を取ると、冷静に盤面を支配しにかかった。荒木村重は陣の前に、巨大な高札を立てさせた。そこには、墨痕鮮やかにこう記されていた。
『和田伊賀守を討ち取った者には、恩賞として五百石の領地を与える』
忠義も、名誉も、武士の誇りもない。あるのは、人間の浅ましい欲望を直接的に煽る、純然たる「餌」だった。そして、その高札の前に一人の若い武将が進み出た。荒木村重の甥にあたる、中川瀬兵衛清秀。彼は血走った目で高札を見上げると、自ら筆を取り、その板の余白に乱暴な文字を書き殴った。
『中川瀬兵衛清秀、これを討つ』
それは、獲物を絶対に他者へ譲らないという、獣のマーキングそのものだった。主君の無念を晴らすために死の行軍を続ける古い時代の忠臣と、恩賞と野心のために剥き出しの貪欲さを見せる新しい時代の獣。両者の陣形がぶつかり合った瞬間、戦場は凄惨な血の海と化した。
「一歩も退くなッ! 逆賊どもを蹴散らせ!」
先陣を切ったのは、和田の郎党である郡兵太夫という剛の者だった。彼は死兵と化した800の兵を率いて、荒木の分厚い陣形へと狂ったように突っ込んだ。命を惜しまぬ突撃の前に、荒木の兵たちは一時的に怯み、左右へと陣を割って後退を始めた。
「見たか! 敵は脆いぞ、続けェッ!」
その光景に気を良くした和田惟政は、自ら巨大な槍を取り、群がる敵陣の奥深くへと単騎で駆け入っていった。四方八面に槍を突き出し、血飛沫を上げながら猛進するその姿は、たしかに将軍家随一と謳われた猛将の面目躍如だった。だが、それこそが彼自身の破滅への呼び水だった。
「――見つけたぞ、和田伊賀守ッ! その首、俺の五百石だ!」
小高い丘の陰から、一人の武将が猛虎のごとき勢いで飛び出してきた。巨大な指物を背負い、大音声で名乗りを上げたのは、高札に己の名を刻んだ中川瀬兵衛清秀だ。和田は血に濡れた槍を構え直し、中川の猛攻を正面から受け止めた。
激しい金属音が戦場に響き渡る。両者は馬上で幾度も刃を交え、周囲の兵が立ち入ることすらできないほどの死闘を繰り広げた。和田の槍捌きは冴え渡り、中川の荒々しい剣撃を正確に弾き返していく。
しかし。死闘が半刻(約一時間)ほど続いた頃、和田惟政の動きに、わずかな、しかし決定的な狂いが生じ始めた。
「……はぁ、はぁ、はぁッ……!」
和田の口から、血の混じった荒い息が漏れる。槍を握る腕が重く沈み、視界が白く明滅する。無理もなかった。彼の病は、まだ完全に癒えてなどいなかった。激しい運動と極限の緊張が、病み上がりの肉体を内側から急速に削り取っていた。精神力だけで持ち堪えていた糸が、ぷつりと切れた。
(……これ以上は、もたん……!)
死に場所を求めていたはずの忠臣の心に、肉体の限界という絶対的な現実が冷水を浴びせた。和田はついに自ら背を向けて陣へ戻ろうとした。
「瀬兵衛を討たすな! 追え、逃がすなッ!」
荒木の本陣から、無慈悲な追撃の下知が飛ぶ。もはや統制を失った和田の軍勢に、3,500の兵が怒涛のように襲い掛かる。疲労困憊の和田惟政が、中川瀬兵衛の凶刃から逃れる術はどこにもなかった。背後から深々と肉を断たれ、将軍家の忠臣は、恩賞に飢えた若き獣の餌食となって泥の中に斃れた。大将の討死。その絶望的な光景を前にしても、最後まで主君への忠義を貫こうとした者たちがいた。
「殿ォォォッ!!」
諫言を退けられた老将・永井隼人は、自らの死を悟りながらも敵陣へと突撃し、20人の敵を薙ぎ倒した末に、無数の槍に貫かれて乱軍の中に散った。
そして、先陣で鬼神のごとき働きを見せていた郡兵太夫もまた、無数の敵に囲まれて死闘を演じていた。鋭い太刀が兵太夫の兜を割り、その額を深く切り裂いた。大量の血が両目を塞ぎ、視界を奪われた彼は、ついに力尽きてその場に倒れ込んだ。
「兵太夫様! しっかりなされませ!」
主君の危機に、一人の従者が駆け寄り、血まみれの兵太夫を肩に担ぎ上げて戦場から逃げ出そうとした。だが、薄れゆく意識の中で、兵太夫は従者の耳元で凄まじい怒声を上げた。
「――降ろせッ! 降ろせと言うにッ!!」
それは、死にゆく者の声とは思えないほどの、魂の底から絞り出された絶叫だった。
「我が背を敵に見せ、背を向けて見苦しく逃げたと言われるのは、末代までの恥辱! 元の場所へ戻れ! 敵の正面へと私を連れて行けェェッ!!」
三町(約300m)もの間、兵太夫は己の誇りを守るために叫び続けた。しかし、その声は次第にかすれ、やがて空気に溶けるように消え去った。彼の命は、敵に背を向けたまま、無念の内に空しく絶えたのである。
……古い時代の、武士の意地。
その美しくも無惨な最期を報告で聞いた僕は、遠くの空を見つめていた。和田惟政も、永井隼人も、郡兵太夫も。彼らは皆、自らの誇りと大義のために命を懸け、そして死んでいった。その精神は、たしかに高潔だったのかもしれない。
でも、彼らの死は、戦局という巨大な盤面においては何の価値も持たなかった。彼らが守ろうとした古い権威はすでに失われ、彼らの高潔な魂は、中川瀬兵衛のような「五百石の恩賞」のために血眼になる新しい時代の獣たちに、無惨に踏みにじられた。
大将を失った高槻城は、荒木村重の無慈悲な猛攻の前に為す術もなく、降参してあっけなく陥落した。こうして、摂津一国は荒木村重という新たな権力者の手に落ちた。
「……美しく死ぬことなど、何の役にも立たない」
僕は、冷たい風の中で誰に言うともなく呟いた。忠義に殉じて死ぬのは簡単だ。だが、それではこの泥まみれの狂った世界を変えることはできない。生き残るため、そしてこの血の連鎖をすべて断ち切るためならば、僕は自らの誇りすらも泥水に沈め、中川や荒木以上の貪欲な怪物になってみせる。
足利の時代は、完全に終わった。僕の胸の中で燃え盛る日輪は、古い武士たちの血を養分にして、いよいよその熱と光を増している。
ここからは、僕自身が新しい時代の法則を創り出す戦いが始まっていく。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
中川瀬兵衛和田伊賀守を討つ(一)
和田伊賀守惟政は將軍家隨一の功の者にして、しかも勇剛の武士なれば、義昭公も深くたのみ思召しけるに、槇島籠城の節は病に臥して立つこと能はず、高槻の城に籠もり居たり。しかるに將軍一戰に利を失ひ没落し給ひければ、伊賀守口惜しきことに思ひ、病少しく癒えたれば、五六といへる要害の地に砦を構へ、軍勢を集め合戰の用意をなす。荒木攝津守村重は攝津一國を切取の約をなし、國中の敵を切り鎮めんと計りければ、この五六の要害に押寄せ、度々(どたび)合戰に及びけれど、荒木方利を失ひ、退いて計議をなす。和田惟政勇に驕り、荒木勢を討ち崩さんと、迚兵八百餘人を引率し、五六の要害を離れ、糠塚というところへ打出たり。このとき和田が遊客たりし永井隼人という老功の武者、惟政を諫めて申しけるは、「敵の勢を味方に競ぶれば四五倍にもなほ過ぎたり。小を以て大に當たらんには、よろしき要害の地によって戰うべし。切所を離れ平場の合戰こそ、敗れを取る端なり」と、再三とどめけれども、伊賀守さらに聞かず、「荒木が弱兵、何の條事を仕出すべき。一當に打崩さん」と恐るる色さらになし。荒木攝津守村重は三千五百餘騎を引率し、馬塚に陣を取り、「和田伊賀守を斬ったる者には五百石の地を與ふべし」と書きて、高札を立てたりける。ここに荒木が甥に中川瀬兵衛清秀という勇士あり。この高札を見て、自ら筆を取り、「中川瀬兵衛清秀これを討つ」とその高札に書き添へたり。さても兩陣を作り、金鼓を鳴らし攻め寄せて、はや合戰を始めけり。和田の郎等郡兵太夫という剛の者、眞先に進み戰ふに、敢て敵する者なく、荒木が兵左右に分かれて引いたりける。これを見て伊賀守惟政、諸卒を下知して喚いてかかり、自ら槍をおっ取って、群がる敵中人なき所を行くがごとく、四方八面に突いて廻れば、荒木が勢さんざんになって敗走す。惟政勝に乘ってただ一騎、逃ぐるを追うて駈け行くところに、中川瀬兵衛清秀、小高き丘の蔭より駈出で、聲をかけて向かうたり。和田伊賀守尻目に急度見て、「中川瀬兵衛和田伊賀守を討つ」と大文字に記しけるに、大なる指物に、猛虎のごとく突き來るを、中川聞こゆる剛兵なれば、惟政に怒り、半時ばかり人交ぜせず戰ひしが、和田惟政このとき病全く癒えたるにあらず、數刻の戰ひに心神疲れ、中川が勇に敵すること能はず、終に重味方に下知し、「瀬兵衛討たすな、續け續け」と呼ばり捨てて駈け出だせば、荒木が從兵一同にどっと喚いて永井、郡を中に取り詰め、餘さじとこそ揉んだりけり。隼人勇を震う、敵を討つこと二十餘人、終に亂軍の中に討死。郡兵太夫も眞向を切り割られ、眼眩んで倒れける。從者走り寄り、肩に引かけ逃げ行くを、兵太夫大聲あげ、「わが揚卷を敵に見せ、きたなくも逃ぐる法がある。元の所へ連れ行け」と三町ばかり叫びけるが、次第に聲もかすかになり、終に空しくなりにけり。荒木村重軍を引いて高槻に押寄せ、無二無三に攻めたりければ、城を守り從兵ども、主將討たれぬる上はいかでかこれに敵すべき、ことごとく降參し、高槻落城したりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
高槻城は、摂津国島上郡高槻村(大阪府高槻市城内町)にあった日本の城。明治7年(1874年)まで存在した。別名入江城。大阪府指定史跡。室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。明治7年(1874年)に廃城となり、東海道本線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。出典:wikipedia
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