2-44 滅びゆく将軍、覚醒する怪物
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
二条城の焼け跡から立ち上る黒煙が、鉛色の空へと吸い込まれていく。
三淵大和守という一人の武士が示した、狂気にも似た最期の意地。その血の匂いが鼻腔にこびりついて離れないまま、僕たち織田の軍勢は、休む間もなく南へと軍を進めていた。
天正元年(1573年)7月8日。僕たち50,000騎の織田本隊は、山城国宇治の五ヶの庄へと本陣を据えた。空を覆い尽くすほどの旗指物と、雲を突くように林立する槍の穂先。天地を震わせる50,000の軍靴の響きは、それだけで一つの巨大な暴力の塊だった。
対する室町幕府第十五代将軍・足利義昭は、宇治川を挟んだ対岸、槇島城という天然の要害に立て籠もっていた。仁木、大館、吉良、上野といった幕府の重臣たちに加え、近隣からかき集めた甲賀の武士など、都合6,000騎。彼らは宇治川に架かる大橋を無残に切り落とし、急流を巨大な堀として利用する構えを見せていた。川岸には竹束が分厚く積まれ、その陰には1,000挺もの鉄砲が不気味な筒先をこちらへ向けている。川を渡ろうとすれば、容赦のない鉛玉の雨が降り注ぐ。まさに死の防衛線だった。
「……愚かなことだ」
濁音を立てて激しく流れる宇治川の瀬を見つめながら、僕は冷たい吐息を漏らした。たしかに、地の利は敵にある。でも、6,000の兵で50,000の大軍を永遠に防ぎ切れるはずがない。いずれ城は落ちる。問題は「どう落とすか」、そして「落とした後にどうするか」だった。
信長は、一切の容赦を持たない。もしこのまま力攻めで槇島城を落とせば、信長は間違いなく将軍・足利義昭の首を刎ねるだろう。でも、それは絶対に避けなければならない最悪の悪手だった。
どれほど腐敗し、実権を失っていようとも、足利将軍家とは200年以上もこの国の頂点に君臨し続けてきた「絶対の権威」である。その将軍を刃にかけて殺せば、信長は永遠に「主君殺しの逆賊」という烙印を背負うことになる。
それは、全国に潜む反織田勢力にとって、これ以上ない大義名分を与えてしまうことを意味する。泥沼の戦乱はさらに激化し、天下布武の道は果てしない血の海へと沈むだろう。
(信長を、弑逆の徒にしてはならない。将軍は、生かしたまま盤上から追放しなければ)
僕は、冷たい川風に吹かれながら、自らが密かに張り巡らせた「蜘蛛の糸」が、予定通りに機能することを静かに祈っていた。
――開戦の火蓋は、唐突に切って落とされた。
川端まで陣を進めていた稲葉伊予入道一徹斎の先陣から、突如として一騎の武者が、濁流渦巻く宇治川へと猛然と馬を乗り入れたのだ。
「宇治川の先陣、梶川弥三郎宗重なりッ!!」
腹の底から絞り出すような大音声が、川の轟音を切り裂いた。単騎。たった一騎での渡河。対岸で構えていた敵の鉄砲隊も唖然とする中、梶川は水飛沫を高く上げながら、東北の方角へと真一文字に馬を進めていく。
梶川弥三郎宗重。彼は信長の近侍を務める剛の者だが、実は事前に僕が密かに接触し、ある「重大な密命」を帯びさせていた男だった。
「――おのれ、抜け駆けを許すな! 続け、続けェッ!」
梶川の狂気じみた一番乗りを見た稲葉軍の将、伊藤入道が、血走った目で下知を飛ばす。誰がこの手柄を譲るものか。武功に飢えた先陣の兵たちが、先を争うようにどっと川へと雪崩れ込んだ。その瞬間、戦場の空気は完全に沸騰した。
先陣の動きに呼応し、五ヶの庄に陣取っていた柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、そして明智光秀や僕たちも、一斉に軍勢を川へと叩き込んだ。50,000の大軍による、狂乱の渡河だ。人、馬、槍、旗。視界のすべてが織田の軍勢で埋め尽くされ、流石の急流を誇る宇治川の水流すら、人馬の壁によって流れが淀んで見えるほどだった。
「撃て! 撃ち落とせッ!!」
対岸から慌てて鉄砲が放たれるが、遅すぎた。まばらな銃撃など、50,000という圧倒的な質量の前には小石を投げるに等しい。怒涛のごとく川を渡り切ってくる無数の鬼神たちを目の当たりにし、川岸で待ち構えていた将軍家の兵たちは完全に肝を潰した。彼らはもはや槍を合わせることすら放棄し、悲鳴を上げながら槇島城へと逃げ散っていった。
織田の大軍は、ただの一騎も損なうことなく宇治川を押し渡り、そのまま槇島城の惣構へと群がりついた。
「このまま一息に落とせ! 蟻の這い出る隙間も与えるなッ!」
各将の下知が飛び交う中、城の城戸が開き、決死の覚悟を決めた敵将・松井山城守康之がわずか500の兵を率いて打って出た。松井は稲葉の軍勢に火の出るような突撃を仕掛けたが、それも大河に一滴の墨を落とすようなものだった。無数の槍に囲まれ、松井山城守は乱軍の中で瞬く間に全身を貫かれて討ち死にした。
残された槇島城は、もはや絶望のどん底にあった。大手、搦手、四方八方から織田の大軍が隙間なく揉み立て、防柵を引き剥がし、土塀を突き崩していく。その様は、大石をもって鶏卵を押し潰すような、あまりにも一方的で無慈悲な破壊だった。もはや、今この瞬間にでも城は微塵に砕け散る。城内の誰もが、己の死を確信していた。
――その頃、槇島城の本丸では、最後の悲喜劇が幕を開けようとしていた。
(ここからは、僕が密かに放った「仕掛け」が作動する時間だ)
防戦を諦めた武士たちは、将軍・足利義昭の御前に集まり、涙ながらに御生害――つまり切腹を勧めていた。もはや逃げ道はない。敵に無惨に首を刎ねられる前に、将軍としての誇りを保ったまま自害するしかない。義昭もまた、顔面を蒼白にしながら震える手で短刀を引き寄せ、自らの腹に刃を突き立てようとしていた。その、まさに刃が絹の衣服を裂こうとした瞬間。
乱戦の最中、織田軍の先陣を切って川を渡り、混乱に乗じて城内へと密かに潜り込んでいた一人の男が、将軍・足利義昭の御前に進み出た。
「――お待ちくだされ、公方様ッ!!」
一番槍の勇者、梶川弥三郎宗重である。彼は血と泥にまみれた姿で平伏し、義昭の自害を大声で押し留めた。
「公方様が自ら城を明け渡し、退去されるのであれば、信長様も主君である公方様を討つことはなさいません! どうか無駄死になさらないでください。まずは私を使者として信長様のもとへ遣わし、和睦のお気持ちをお伝えください!」
これこそが、僕が梶川に与えた密命だった。誰よりも早く川を渡ることで武功を立て、敵味方の注目を集める。そして、その混乱に紛れて城に潜入し、将軍の自害を物理的に阻止する。その上で、将軍に「降伏と退去」という選択肢を吹き込み、織田と足利の間に「弑逆なき幕引き」を強制的に成立させる。
すべては、信長の手を汚させず、将軍を盤上から安全に取り除くための、僕の描いた盤面操作だった。死の恐怖に直面していた義昭や、周囲で泣き崩れていた兵士たちにとって、梶川の言葉は地獄に垂らされた蜘蛛の糸そのものだった。
「そ、そうか。余が城を明け渡せば、信長も無下にはすまい……」
義昭は震える手で短刀を投げ捨て、縋りつくように梶川を和睦の使者として信長の本陣へと差し向けた。程なくして、織田の本陣に梶川が上使として戻ってきた。床几に腰を下ろす信長は、梶川から伝えられた将軍家の口上――城を開け渡す代わりの助命嘆願――を静かに聞き届けた。
「……よかろう。公方様が城を退去されるというのであれば、我らに毛頭、恨みはない」
信長のその言葉を聞き、僕は深く安堵の息を吐き出した。信長とて、将軍を殺すことの政治的代償を計算できないほど愚かではない。自ら手を汚さずとも、将軍を京から追放し、その権威を完全に失墜させることができるなら、それに越したことはない。信長は直ちに城の包囲を解かせ、攻撃を停止させた。
翌日。命拾いをした安堵からか、すっかり蘇生したような顔つきの足利義昭が、少数の供回りとともに槇島城から姿を現した。信長の命により、僕と明智十兵衛光秀の二人が、将軍の警護と護送の任に就いた。
「公方様。道中、粗相のないよう我らがお守りいたします」
恭しく頭を下げる僕たちを、義昭は怯えたような、それでいてどこか見下すような目で一瞥し、力なく頷いた。僕と光秀は、無言のまま兵を率いて義昭を護送し、河内国にいる三好左京大夫義継のもとへと送り届けた。
その後、義昭は中国地方の毛利輝元のもとへと逃れ、髪を下ろして「昌山居士」と名乗ることになる。二度と、彼が天下の実権を握ることはなかった。
護送の帰り道、僕は馬上から、遠く京の空を見上げた。足利尊氏が暦応の昔に征夷大将軍に任ぜられて以来、十四代、およそ200年にわたって天下の武将たちから仰がれてきた室町幕府。その巨大な権威の館は、今日、この瞬間に完全に崩壊した。天下の主であったはずの男は、今や一介の流浪の身となり、遠国僻地をさまよう哀れな敗残兵へと成り下がった。
「……終わったな」
隣を並走する明智光秀が、感情の読めない冷たい声でポツリと呟いた。僕は何も答えず、ただ手綱を握る手をきつく締め上げた。
いや、終わったんじゃない。幕が開いたんだ。権威という名のお飾りが消え去ったことで、この日本は、純粋な暴力と知略だけがすべてを決定する、本当の修羅道へと。
僕が描いた蜘蛛の糸で、将軍の命は救われた。信長の覇道も守られた。だが、僕自身の手は、もう二度と洗っても落ちないほどの泥と血にまみれている。未来の平和な倫理観など、とうの昔に消え去っていた。
(僕が、戦国を終わらせる。この狂った殺し合いの螺旋を、僕がすべて飲み込んでやる)
胸の中の日輪が、もはや温かい光ではなく、すべてを焼き尽くす野心の業火となって燃え盛っているのを感じる。僕の中にある日輪。いや、いずれ天下人・豊臣秀吉となる怪物が、完全に覚醒しようとしていた。
古い時代は死んだ。ここからは、僕が天下を強奪するための戦いが始まる。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
足利義昭公没落
ころは天正元年七月八日、信長の軍勢五萬餘騎、山城の國宇治の郡五ヶの莊に本陣を居ゑられ、旌旗を覆ひ槍刀雲を凌ぎ、軍威壯に見えにけり。將軍義昭公は、仁木、大館、吉良、上野、飯川、松井が輩をはじめとし、甲賀の武士ら狩り集め、その勢都合六千餘騎、槇島の要害に籠もらせ給ひ、聞こゆる宇治の大河には大橋を切り落とし、川岸には思ひ思ひの旗馬印川風にひるがへり、竹束(たけ束)の蔭には鐵砲の武者千騎ばかり、筒先を並べて敵の渡すを待ち居たり。信長の先陣稻葉伊豫入道一徹齋、同右近、同彦六郎陣を川端までくり出だせば、信長の近侍梶川彌三郎宗重といふ剛の者、かねて先陣を心にかけ、稻葉の手に加はりけるが、ただ一騎川中へさっと馬を駈け入れ、「宇治川の先陣、梶川彌三郎宗重なり」と高聲に呼ばって、東北の方へ眞一文字に渡しける。これを見て伊藤入道、「續け續け」と下知をなせば、誰かしかばしも猶豫すべき、一同にどっと馬を駈け入れ、ゑいゑい聲して渡しける。これと同時に五ヶの莊の方よりも、柴田、佐久間、丹羽、池田、木下、明智、蜂谷、細川、荒木、蒲生らが輩、我も我もと打渡すほどに、さしも早き宇治の川瀨、流れ淀みて見えにける。將軍御味方の武士ら、かねては川中にある敵を打崩さんと、川岸に構へたりしを、雲霞のごとき大軍に膽を散らして、戰はずして槇島の城に逃げ入たり。されば織田の大軍、一騎も損せず押渡り、勢中島を西へ向ひ、足輕を攻めたりけり。これを見て槇島の城中より、松井山城守康之と名乘り、わづかに五百餘人、城戸を開いて切って出で、稻葉勢と火を散らして戰うたり。信長の大軍が軍勢あまた討たれ、山城守も亂軍の中に討死せり。信長の大軍、透間もなく、大手搦手より揉み立て揉み立て、惣構を打破り、鬨を作って攻めたりけるは、大石を以て鶏卵を押すに等しく、ただ今この城微塵にならんと見えたりけり。城中今はこれまでなりとて、武士ども將軍の御前に出で御生害をすゝめ奉る。將軍も詮方なく思召し、御自害と見えたるところに、雜兵一人生害を止まり給ひ、城を開き退去なし給ふならば、信長何ぞ君を弑し奉るべき。試しに上使を以てこの旨信長へ仰せ入れられしかるべし」と云ふ。將軍をはじめ參らせ、泣居る兵士軍卒も、もっともとや思ひけん、かの下郎に使者を指添へ、織田の陣へぞ遣はし給ふ。この下郎は今朝宇治川の先陣なりし梶川彌三郎宗重なり。かねて木下藤吉郎が下知によって一番に川を渡り、先に松井が勢に紛入って城中にしのび、將軍の害を止め奉り、信長に弑逆の罪なからしめんとする藤吉郎が謀計なり。信長、上使を請じ、將軍家の口上つぶさに承り、ただちに城の圍みを解き、御退去においては、毛頭隔心これなき旨を申し給へば、上使よろこんで城に歸り、その趣を言上す。ここにおいて將軍ふたたび蘇生りたる御心地にて、翌日槇島の城を出だされ、普賢寺に入らせ給へば、信長の命を受け、木下秀吉、明智光秀の兩將深く勞ひ奉り、郎等等に警固させ、河内なる三好左京大夫義繼が方まで送り奉らせける。後に毛利輝元が方へ移り給ひ、剃髮して昌山居士と號し、秀吉天下一統し、關白職に任じ給ふとき、常に茶の湯の御相伴にて、五千石を扶持せられける。鳴呼今日はいかなる日ぞや、足利尊氏卿曆應の昔、將軍に任ぜられ給ひし、十四世のひしより以來およそ二百有餘年、天下の武將と仰がれ給ひしを、今に至りてその家たちまち亡び、その主は遠境僻地にさまよひ給ひ、英名ここに斷絶せるは、天なるかな、命なるかな。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
槇島城は、京都府宇治市槇島町にあった日本の城。槙島城とも表記される。かつて南山城宇治近縁には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島氏(槇島氏、槇嶋氏、真木嶋氏、牧島氏など様々な表記あり)という豪族が根を張り、城郭を築いていた。それが槇島城である。元亀4年(1573年)7月3日、時の公方・足利義昭は織田信長に対して兵を挙げ、幕府奉公衆であった真木島昭光を頼り、槇島城へ籠城した。だが、信長は即座に入洛し、城を包囲して義昭を屈服させた(槇島城の戦い)。その後、義昭は河内若江城へ退去させられ、室町幕府は事実上滅んだ。義昭退去後、細川昭元や塙直政、井戸良弘らが城将となったが、伏見城築城後はその戦略的価値を低下させ、廃城となった。現在は完全に失われており、石碑を残すのみである。出典:wikipedia




