2-43 忠義という名の地獄
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
愚か者は、どこまでいっても愚か者でしかない。
天下布武の道、その本当の地獄は、思いもよらぬ「愚者の意地」によって幕を開けた。将軍・足利義昭。つい数ヶ月前に信長の圧倒的な武力の前に震え上がり、無様な命乞いをして和睦を結んだはずの男が、喉元過ぎれば何とやらで、再び僕たちに牙を剥いた。
天正元年(1573年)7月上旬。懲りない足利義昭は、またしても五畿内の兵をかき集め、今度は宇治の槇島城へと動座した。天然の要害に立て籠もり、そこで織田の軍勢を迎え撃とうという腹積もりだった。そして、その時間稼ぎの捨て駒として、京都の二条城にわずかな兵とともに残されたのが、三淵大和守高秀であった。
三淵大和守。つい先日、織田に降伏した細川藤孝の義理の兄であり、将軍家に最後まで忠義を尽くした数少ない良識ある幕臣だ。彼は義昭の無謀な挙兵を涙ながらに深く諫めたという。だが、その声は愚かな主君の耳には決して届かなかった。
「……もはや、これまでか」
主君に見捨てられ、二条城に取り残された三淵の胸中はいかばかりであったか。未来の知識を持つ僕には、彼の結末が痛いほどに分かっていた。足利家という腐りきった巨木は、ここで完全に倒壊する。共に殉じる必要などどこにもない。弟の藤孝のように、織田に降れば確実に助かる命だった。
だが、三淵は逃げなかった。城門を固く閉ざし、わずか300人の兵とともに、死装束を纏って僕ら織田の大軍を待ち受けた。将軍再挙の報せを受けた信長の行動は、まさに神速だった。7月5日。大軍を率いて佐和山から船で琵琶湖を渡ると、瞬く間に京都へと雪崩れ込み、二条城を完全に包囲した。その数、数万。対する城兵は300。戦という言葉すらおこがましい、ただの蹂躙で終わるはずだった。――しかし。
死を覚悟した人間の放つ狂気がどれほど恐ろしいものか、僕は底知れぬ戦国の闇をまざまざと見せつけられることになる。今日を最期と定めた三淵大和守は、目と鼻の先に数万の軍勢が迫っているというのに、城内で士卒を集めて酒宴を開き、悠然と謡い、舞っていたという。そして、織田の軍勢が城を囲み、天を裂くような鬨の声を上げたその瞬間。ギギギギィッ、と。閉ざされていた二条城の城戸が、内側から大きく開け放たれた。
「――死出の旅路だ! 織田の者どもを道連れにせよッ!」
死兵たちによる、絶望の突撃。たった300の兵が、黒雲のように群がる我らが大軍の中へ、一切の躊躇なく突っ込んできた。彼らの目には、もはや生への執着など微塵もなかった。ただひたすらに、自分の命と引き換えに一人でも多くの敵を道連れにするという、純粋な殺意の塊。
「な、なんだこいつらッ!?」
「退け! 槍を合わせるな、狂っているぞッ!」
四方八面に刀を振り回し、槍を突き出す三淵の兵たち。織田の兵は歴戦の勇士ばかりだが、絶対に死なないと決めた狂人たちを前にしては、その刃を真っ向から受け止めることはできなかった。圧倒的な数の優位がありながら、織田の備えは三淵の死戦の前に左右へと無様に割られ、苦戦を強いられていく。その狂乱の陣頭指揮を執っていたのが、三淵大和守その人だ。
三淵大和守は一歩も退くことなく、右の陣に割って入り、左の陣所を打ち崩し、全身に返り血を浴びながら七度、八度と織田の陣深くへと駆け入ってきた。そのたびに城兵の数は減り、300いた兵はあっという間に50人にまで打ち減らされていく。だが、それでも彼らの足は止まらない。誰一人として退こうとせず、臓物を引きずりながらでも織田の将兵に喰らいついていく。
「……何という狂気だ」
僕は、安全な後方からその光景を見つめながら、奥歯が砕けるほどに噛み締めていた。これが、戦国の武士の意地か。未来の僕の価値観からすれば、彼らの行動はただの犬死にだ。愚かな主君のために命を捨てるなど、何の合理性もない。だが、彼らはその意味のない死に自らのすべてを懸け、織田の数万の大軍を戦慄させている。命のやり取りという極限状態において、人間の精神が論理を超越する瞬間を、僕は背筋を凍らせながら見せつけられていた。
「……城中の勇将は、何者ぞ。見て参れ」
本陣の床几に座る信長は、その凄惨な死闘をはるか彼方から眺めながら、静かな声で命じた。その横顔には、怒りも焦りもなかった。ただ、純粋に目の前の武辺者を惜しむような、冷徹な中にも不思議な敬意が混じっていた。命を受けた荒木村重が馬を走らせ、前線へと向かう。そしてすぐさま取って返し、血塗れの勇将が三淵大和守高秀であることを報告した。その名を聞いた瞬間、信長様は傍らに控えていた一人の男を呼び寄せた。細川藤孝である。
「藤孝よ。汝の兄・三淵大和守の今日の勇戦、見事なり。だが、あれは討ち死にを覚悟しておる。惜しい兵を殺すには忍びない。兄の死を止め、落ち延びさせよ」
魔王の口から出たのは、降伏すら飛び越えた「逃亡の許可」であった。細川藤孝は深く平伏すると、弾かれたように馬に乗り、血みどろの戦場へと駆け出していった。実の兄を、その絶望の淵から救い出すために。
「兄上ッ!! 剣をお収めくだされ! 私です、藤孝ですッ!!」
藤孝の悲痛な叫びが、戦場の喧噪を切り裂いた。その声に、槍を振るっていた三淵が、ふっと動きを止めた。
血と泥にまみれた顔を上げ、駆け寄ってくる実の弟の姿を、きっと見据える。助かるかもしれない。弟の口利きがあれば、信長は許してくれる。僕なら、間違いなくそう思う。ここで生き延びて、後の世でいくらでも再起を図ればいい。
しかし、戦国に生き、武士としての死に場所を定めた男の思考は、僕のような転生者の浅はかな計算とは根本から異なっていた。
「藤孝がここに来るということは、我に降参を勧めるためであろう。問答は無益なり」
三淵は、たったそれだけを呟き、弟に向かって言葉を返すことすら手向けとしなかった。彼は静かに背を向けると、残ったわずか16人の兵たちを引き連れて、静かに、本当に静かに、二条城の奥深くへと引き上げていったのである。
「兄上……ッ!」
藤孝がその背中に手を伸ばしたが、もはや城門は重い音を立てて閉ざされた後だった。言葉を交わすことすら拒絶された藤孝は、肩を震わせながら本陣へと戻り、信長様に首を振って報告するしかなかった。
「……突入せよ」
信長の短く、冷酷な下知が下った。再び城門が押し破られ、織田の先手部隊が怒涛のように城内へと乱れ込んだ。僕もまた、自らの部隊を率いてその後に続いた。だが、城内には、もはや戦の喧噪は存在しなかった。我々を迎え撃つ敵兵の姿は、ただの一人もない。本丸の広間。そこに広がっていたのは、息を呑むような、凄惨にして静謐なる光景だった。
大将である三淵大和守をはじめとし、残った16人の従卒や下郎に至るまで。彼らは皆、一つ所に集まり、自らの腹を真一文字に掻き切って自害を遂げていた。臓腑が床にこぼれ、血の海が床を赤黒く染め上げている。だが、誰一人の顔にも、苦悶の表情はなかった。ただ、武士としての本懐を遂げた者だけが持つ、恐ろしいほどの静けさと誇りが、その死顔に張り付いていた。哀れでもあり、同時に、恐ろしいほどに潔く、美しい最期だった。
「……」
僕は、言葉を失い、ただ立ち尽くした。彼らは、生きる機会を与えられた。それでも自らの意志で、この理不尽な死を選び取った。ただ自らが信じた「忠義」という形のない鎖のために、命を投げ出した。
信長は、血塗られた本丸にゆっくりと足を踏み入れた。しばらくの間、無言のまま三淵大和守の遺骸を見下ろしていた。その瞳の奥に何が去来していたのか、僕には分からない。だが、信長は細川藤孝を呼ぶと、ただ一言、短く命じた。
「厚く、葬ってやれ」
それだけだった。魔王は敵将の死に対する感傷など微塵も見せず、すぐに踵を返した。二条城の制圧は完了した。京都にわずかに残っていた将軍家の残滓は、この三淵大和守の死をもって完全に払拭された。
「全軍、陣を整えよ。次は宇治の槇島だ」
信長の号令が、再び冷たく響き渡る。この血塗れの城で足を止める時間など僕たちにはない。真の愚者である足利義昭が待つ槇島へと、休む間もなく軍を向けなければならない。
僕は、自らの刀の柄を強く握り直した。手のひらにじんわりと滲む汗の冷たさが、僕を現実に引き戻す。三淵大和守。立派な武士だった。だが、彼のような男たちがどれほど美しく死んでいこうとも、この狂った戦国の世は終わらない。誰かが、この果てしない血の連鎖を暴力で断ち切るしかないのだ。
僕の胸の奥で蠢く怪物が、その血の匂いを吸い込んで、さらに冷徹に、さらに巨大に膨れ上がっていくのを感じる。
美しく死ぬことなど、僕には到底できない。僕は、泥水を啜り、這いつくばってでも生き延びる。そして、この狂った時代の頂点に立ち、すべての殺し合いに終止符を打ってやる。
「行こう。義昭に、引導を渡してやろう」
僕は部下たちに低く命じると、自らの心に分厚い鉄の鎧を纏い、血生臭い風が吹く宇治への道へと馬を歩ませた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
三淵大和守討死
愚は愚にしてますます愚なりとかや。將軍義昭公、またまた五畿内の軍勢を催促し給ひ、今度は要害によりて敵を待つべしとて、七月上旬、宇治郡槇島へ動座ましまし、三淵大和守に二條の城を守らせらる。大和守このことを深く諫め奉るといへども、將軍さらに用ひ給はず。今は足利家の滅亡、わが討死のときなりと、わづかにその勢三百餘人、城門を固め、敵の寄するを待ちかけたり。このこと早く濃州岐阜に聞こえければ、信長またまた大軍を引率し、七月五日佐和山より船にて湖水を打渡り、すぐに二條へ押寄せらる。三淵大和守は今日を最期と思ひ定めたれば、目にあまる大軍を物の数とも思はず、士卒を集め酒宴をなし、謡ひ舞うてぞありけるが、はや寄手城近く押寄せ、鬨の聲を揚げたりければ、さらば討つて出べしとて、三百餘人城戸を開いて切って出、村雲立ちたる大軍の中へ、會釋もなく突いて入り、當たるを幸ひ四方八面に切って廻れば、織田勢大軍なりといへども、三淵が死戰に當たり苦しく、左右へばっと開きける。大和守は一足も引く心なく、右の備に割って入り、左の陣所を打崩し、七八度まで駈けたりければ、三百餘人の兵五十餘人になりけれど、少しも退く心なく、また敵中へ駈入りたり。信長はるかにこのありさまを御覧じ、「城中の勇將は何者なるぞ。見て參れ」と荒木攝津守に命じ給ふ。村重かしこまり、馳行きてよく見れば、三淵大和守高秀なり。急ぎ立歸ってしかじかと申し上ぐる。信長やがて細川刑部大輔藤孝を召され、「汝が弟三淵大和守今日の勇戰、討死せんと及ぶべし。あたら兵、討死をとどめ、落ちば落とせよ」と下知し給へば、藤孝かしこまって馬に打乘り、三淵を目がけて馳出せば、大和守きっと見て、「細川藤孝がここに来るは我に降參を勸むるものならん。問答も無益なり」と、急ぎ從卒を引上げて、城中にこそ入りたりける。このとき兵士わづかに十六人なり。細川藤孝、三淵が城に引入りたるを見て引返し、本陣に參りしかじかと申すにぞ、先手の軍勢はや城門を押破り亂れ入って見てあれば、支ふる敵一人もなく、大將三淵大和守をはじめとし、從卒下郎に至るまで腹掻切り、一つ所に死したりけるは、哀れにもまたいさぎよかりしありさまなり。信長城に入ってしばらく休息し、細川藤孝に命じて三淵主從が死骸を厚く葬らせ、すぐに軍を整へ宇治郡へ押寄せ給ふ。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
三淵藤英は、戦国時代の武将、室町幕府末期の幕臣(奉公衆)。細川藤孝の異母兄とされる。初名は藤之。「藤」の字は将軍・足利義藤(後の義輝)より偏諱を賜ったものである。元亀4年(1573年)7月3日、義昭が挙兵するとこれに従った。義昭自身は槇島城に籠城すると、藤英は二条御所を任されて、政所執事の伊勢貞興らの他、日野輝資・高倉永相などの公家昵近衆などと共に籠城した。しかし、信長の大軍に囲まれると、7月8日には藤英以外の主要な人物は退去し、藤英一人とその軍勢だけが二条御所に籠ることとなる。柴田勝家の説得を受け入れて、7月12日に降伏した。降伏後、藤英は居城の伏見城に戻ったが、その目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落し(槇島城の戦い)、降伏した義昭は信長によって三好義継の河内国若江城に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。これにより、藤英は信長に仕えることとなり、淀城に立て籠もっている義昭派の岩成友通を攻めるように信長に命じられ、藤孝と共にこれを陥落させ、8月2日友通を討ち取った。天正2年(1574年)、藤英は信長によって突如所領を没収されて明智光秀の元に預けられると、7月6日、嫡男・秋豪と共に坂本城で切腹させられた。出典:wikipedia




