2-42 天下の秩序が死んだ日
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
堅田の空を焦がす炎を睨みつけながら、僕は来るべき武田信玄との決戦に向けて、自らの心を完全に殺し切る覚悟を決めていた。
戦国最強と謳われる甲斐の虎。彼が率いる35,000の精鋭が牙を剥けば、今の織田家に正面から打ち破る術はない。どれほど血の泥を啜ろうとも、数万の骸の山を築く果てしない地獄が待っている。その重圧に、僕は夜な夜な浅い眠りから跳ね起き、冷や汗に塗れる日々を過ごしていた。
――だが。歴史という名の不可視の怪物は、時として人間が血を吐くような思いで固めた覚悟すら、鼻で笑うかのように蹂躙する。
天正元年(1573年)、4月。信濃の雪解けとともに、日本中の勢力図を根本からひっくり返す、信じがたい報せが岐阜城へと飛び込んできた。
「申し上げます! 甲斐の武田信玄……陣中にて、病没いたしましたッ!!」
その報告を聞いた瞬間、評定の間は水を打ったような静寂に包まれた。
武将たちの息を呑む音だけが響く中、上座に座る魔王――織田信長の肩が、微かに震え始めた。それは恐怖ではない。堪えきれない底知れぬ歓喜の震えだった。
「……く、ふっ……はははははッ!!」
城の梁を揺るがすほどの、狂気を孕んだ哄笑。最強の敵が、刃を交えることなく自滅した。どれほど知略を巡らせようとも抗えない大自然の寿命という理不尽が、織田家に絶対的な勝利をもたらした。僕は床に額を擦り付けながら、背筋に冷たい粟立ちを感じていた。天は、本気でこの魔王に天下を取らせようとしている。神仏を焼き尽くしたこの男を、歴史そのものが加護をしているとしか思えなかった。
「出陣ぞ。標的は、室町の御所なり」
笑い収めた信長の瞳には、もはや一片の容赦もなかった。最大の盾であった武田信玄を失った今、背後で糸を引いていた足利義昭など、ただの道化の王に過ぎない。4月25日。信長は35,000という途方もない大軍を率いて、京都の騒乱を物理的にすり潰すべく、怒涛の進軍を開始した。絶対的な暴力の接近。その圧倒的な威容を前に、征夷大将軍の威光など春の雪のごとく脆く崩れ去った。
「もはや足利の命脈は尽きた。我らは織田に降るべきだ」
将軍家の功臣である細川藤孝、そして摂津の有力国衆である荒木村重といった者たちが、足利義昭を見限って次々と織田家への降伏を申し入れてきた。彼らの降伏を仲介した佐久間信盛の案内により、信長は彼らを陣中へと召し出し、対面を果たした。
「神妙なる降参、大儀である」
信長は彼らに杯を下賜しながら、冷ややかな視線を細川藤孝へと向けた。
「藤孝よ。公方様が我に牙を剥いたその野心、いかなる理由あってのことか」
探るような魔王の問いに、当代随一の教養人である藤孝は、深く平伏しながら涙を流して答えた。
「此度の公方様のご謀反、決して公方様お一人の意志ではございませぬ。織田家の繁栄を妬む諸国の大名どもが、公方様を唆し、神輿として担ぎ上げた結果に過ぎませぬ。臣らがどれほど諫言しようとも、もはや聞き入れられる状態にはありませんでした。どうか、天下の万民が納得する仁義の御政道をもって、公方様をお救いくださいませ……」
さすがは当代随一の教養人、見事な弁舌だった。足利義昭を愚かな傀儡に仕立て上げることで、すべての罪を「諸国の大名」に擦り付け、足利義昭の命、そして自分自身の立場を守る理屈、高度な政治的駆け引き。
信長も、その藤孝の意図を正確に見抜いていたはずだ。でも、あえて深く追及することはせず、無言で鷹揚に頷いてみせた。利用価値のある者は使う。それが信長の流儀だ。
続いて、荒木村重が口を開いた。
「俺に、摂津一国の切り取りをお任せくだされ。身命を投げ打ち、必ずや敵徒を平定してご覧に入れまする」
この後に及んで、摂津十三郡の支配権をよこせ、という図々しいまでの要求。だが、その声には一切の迷いも恐怖もない。信長は、荒木村重を値踏みするようにじっと見つめた。そして、無言のまま傍らにあった腰刀を鞘から引き抜いた。――ギラリ、と刃が鈍い光を放つ。
信長は、盆に高く盛られていた饅頭の山に刀の切先を突き立て、3つ、5つと数個の饅頭を一息に串刺しにした。そして、その刃を、荒木村重の顔面――眼球のわずか数 寸の距離まで、無造作に突き出した。
「村重、我からの芳志だ。食らうがよい」
ぞっとするような冷酷な声。一歩間違えれば、切先が眼球を貫き、脳天に達する距離。広間にいた諸将の顔色が一斉に青ざめ、誰もが息を止めた。荒木村重は試されている。ここで少しでも恐怖を見せれば、首が飛ぶ。
だが、村重は微動だにしなかった。
「ありがたき幸せ」
そう言うや否や、荒木村重は刃の先端へと身を乗り出し、野獣のように大きく口を開けた。そして、切先に刺さった饅頭に躊躇なく噛みつき、一口でむしり取るように咀嚼したのだ。刃が彼の鼻先を掠めようとも、瞬き一つしない。
―― 狂っている。
その光景を見て、僕は背筋に冷たい汗が伝うのを自覚した。この乱世を這い上がろうとする男たちは、どいつもこいつも命のやり取りを遊戯のように楽しむ獣たちだ。信長という最強の魔獣の前に立っても、自らの牙を隠そうともしない。
「……ははははッ! 貴様、大胆な奴だな。望み通り、摂津を切り取り、守護となるがよい!」
信長は機嫌良く笑い、村重の度胸を褒め称えた。荒木村重は顔色一つ変えず、恭しく頭を下げて列に加わった。強力な味方を吸収した織田の軍勢は、もはや一切の障害もなく京都へと雪崩れ込んだ。
東山の知恩院に信長が本陣を据えると、35,000の軍勢は白河、粟田口、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田と、京の都を完全に包囲した。武田の後盾を失い、側近たちにも逃げられた将軍家の残党たちにとって、その光景はまさに世界の終わりであったに違いない。
信長の命令一つで、町屋に火が放たれた。黒煙が天を覆い、赤々と燃え上がる炎が、足利義昭の立て籠もる二条室町の城を十重二十重に照らし出す。天地を震わせる35,000の鬨の声。たった一度の号令で、城など跡形もなく踏み潰せる圧倒的な軍事力の差。城内からは、もはや防戦を試みようとする者の声すら聞こえなかった。将軍を護るべき兵士たちは肝を潰し、誰もが武器を放り出して震えている。
足利義昭は、ついに折れた。いくら将軍としての見栄を張ろうとも、自らを焼き尽くそうとする炎の熱と、地鳴りのような殺気の前には、無様な命乞いをするしかなかった。彼は直ちに上使を走らせ、信長への絶対的な和睦を申し入れてきた。
「はッ、呆れたものよ。公方様がそれほどに恐れおののくというのなら、これ以上、何を望むことがあろうか」
信長は、将軍の無様な降伏を冷笑をもって受け入れた。信長は全軍を速やかに後退させると、大隅守信広を使いに出し、足利義昭に対して「今後は政道を正しくし、行いを改めること」という、臣下が主君に言うべきではない屈辱的な条件を突きつけて、これを承諾させた。そして、室町幕府という抜け殻だけを京都に放置したまま、軍勢をまとめて本国へと引き揚げていった。
馬上で揺られながら、僕は遠ざかる京の空を振り返った。200年続いた室町幕府の権威は、今日、この瞬間に完全に死んだ。足利義昭は生き延びたが、もはや誰の目にも、彼が天下の主でないことは明らかだった。暴力こそが絶対の法。魔王がその力で、古い時代の首を完全にねじ切った。
荒木村重が饅頭に噛みついたあの野獣のような瞳が、脳裏にフラッシュバックする。武田信玄が死に、将軍が屈した。だが、これで平和になるわけではない。古い権威が消滅したことで、天下は「力さえあれば誰でも奪い取れる」という、真の修羅場へと突入した。
生き残るためには、食い殺される前に食い殺すしかない。僕は手綱を握る手に力を込めた。僕の胸の奥で眠っていた狂気もまた、この血の匂いに当てられ、完全に目を覚まそうとしていた。
天下布武の道、本当の地獄は、ここから始まる。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長上洛して室町の城を圍む
この年四月、甲斐の武田信玄陣中に病發し、俄に死したりければ、信長大によろこび、急ぎ上洛して京都の騷動を鎮めんとて、四月二十五日、三萬五千餘騎を引率し、都をさして進發ある。ここに將軍家の功臣細川刑部大輔藤孝は、深き思慮ありて、佐久間信盛によつて信長に降を乞ふ。また茨木の城主荒木村重も將軍の柔弱を惡み、これも同じく佐久間について降參す。信長、兩人を召して對面し、「神妙の降參大悦少なからず」とて、御盃を下し給ひ、細川藤孝に向かつて將軍御野心の次第を尋ね給ふ。藤孝謹んで申しけるは、「このたび將軍家軍馬を動かし君と御敵對のこと、あながち將軍ひとりの思召しにもあらず候ふ。國々(くにぐに)の大名小名、織田家の繁榮をそねみ惡み、將軍を勸め參らせ、かかる企に及び候は、なんぼう悲しきことに候はずや。臣らしばしば諫言を用ひられず。君軍威を示して諸國の敵徒を誅伐あるにおいては、將軍一人いかでか野心をさしはさみ、敵對の儀あるべきや。君もまた何ぞ深く將軍を恨ませ給はん。ただ伏し望むらくは、天下の人誹謗なき御計らひ、仁義の御政道こそあらまほしう候ふ」と、涙を流し言上すれば、信長卿、細川が降參は將軍家の助命を希はんためなるべしと深く思召し、點頭いて默し給ふ。ときに荒木村重申しけるは、「攝州十三郡分國にして、敵徒かずかず城を構へ兵士を集む。あはれ某に切取を仰せ附けられ下さらば、身命を拋ち切り鎮め申すべし」と申し上ぐる。信長荒蘭爾として答へをなさず、折節鳥杯に饅頭つ高く盛りてありけるを、腰刀引き抜き、切先に三つ五つ刺し貫き、「荒木村重、わが芳志なり。食せよ」とて、目の上へ差しつけ給ふ。一座の人々(ひとびと)大きに驚き、顔色を失ひ、息をつめて控へ居る。村重少しも驚かず、「ありがたし」と捻り寄り、大の口をくわつと開き、切先に貫きたる饅頭をただ一口に喰はんとす。信長大きに笑ひ給ひ、「汝まことに大丈夫なり。望のごとく切取て、攝津守たるべし」と仰せければ、荒木面目を施し、すぐに上洛の御供にぞ加はる。さても信長卿は東山知恩院に本陣を居ゑられしかば、諸軍(しょ軍)は白河、粟田口、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田の邊に充滿し、雲霞のごとく見えたりければ、將軍家御味方の人々(ひとびと)は、この軍威に恐れをののき、火を放つて町家を燒き立て、二條室町の御城を十重二十重に取圍み、鬨の聲天地を震動し、ただ一息に踏み潰さんずありさまに、城中肝を散らし魂を失ひ、防がんとする者一人もなく、あきれ果ててぞ見えにける。將軍も彌猛には思召せども、ほかに助けの勢もなく、和睦すべきよし上使を以て仰せ遣はさる。信長いとう笑ひ給ひ、「將軍かかる思召しある上は、いか(でか)あへ意を存ずべき」とて、下知を傳へて諸軍(しょ軍)を遠く退けしめ、大隅守信廣を以て和睦の御受け申し奉り、「向後は政道を正しうし、御行跡を改め給ふべし」と言上し、ただちに軍勢を引きて本國へ歸り給ふ。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
武田信玄 / 武田晴信は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。甲斐源氏の第19代当主。武田氏の第16代当主。諱は晴信、通称は太郎。正式な姓名は、源晴信。表記は、「源朝臣武田信濃守太郎晴信」。「信玄」とは(出家後の)法名で、正式には徳栄軒信玄。甲斐の守護を務めた武田氏の第18代当主・武田信虎の嫡男だが、兄に竹松がいるため長男ではなく次男である。先代・信虎期に武田氏は守護大名から戦国大名化して国内統一を達成し、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で、越後国の上杉謙信(長尾景虎)と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ領国化し、甲斐本国に加え、信濃・駿河・西上野および遠江・三河・美濃・飛騨などの一部を領した。次代の勝頼期にかけて領国をさらに拡大する基盤を築いた。西上作戦の途上に三河で病を発し、没した。出典:wikipedia




