2-41 信長包囲網――将軍が牙を剥いた日
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
比叡山の黒焦げた山肌に、冷たい雪が降り積もり、やがて溶けていく。
年が明け、元号は「天正」と改められた。でも、年号が変わったからといって、この泥まみれの狂った世に平和が訪れるわけではない。むしろ、あの比叡山焼き討ちという魔王の暴挙は、戦国という巨大な盤面に潜む最大の「闇」を、ついに決定的に目覚めさせてしまった。
天正元年(1573年)、春。室町幕府第十五代将軍・足利義昭。彼と、僕の主・織田信長との関係は、もはや修復不可能なまでに破綻していた。
そもそもの原因は、義昭自身の暗愚と堕落にある。彼には為政者としての志も、乱世を鎮める器もなかった。日夜、政務を放り出しては美女を侍らせ、酒宴に溺れ、遊楽に耽るばかり。将軍家の功臣である三淵大和守や細川刑部大輔らが血を吐くような思いで諫言を重ねても、一切耳を貸そうとしなかった。
結果として、政のすべては実力者である信長が執り行うこととなり、幕府の実権は完全に織田家の手へと移っていった。自らが招いた結果であるにもかかわらず、義昭はその事実を深く恨んだ。自分の無能を棚に上げ、「信長に権力を奪われた」という屈辱だけを異常なまでに肥大化させていった。そして、彼はもっとも愚かで、もっとも恐ろしい手段に打って出た。
日本全国の有力大名たちへ、密かに「信長討伐」を命じる御内書を乱発したのである。甲斐の武田信玄。越後の上杉謙信。越前の朝倉義景。北近江の浅井長政。さらには西国の毛利、九州の島津に至るまで。
将軍という、この国における最高権威からの「大義名分」。それを手にした諸国の大名たちは、我先にと牙を剥き、織田を食い殺さんと立ち上がった。いわゆる「信長包囲網」の完成である。
「……信玄が、動いたか」
岐阜城の評定の間でその報せを聞いた時、僕は自らの血の気が一瞬にして引き、全身の産毛が総毛立つのを感じた。
甲斐の虎、武田信玄。戦国最強と謳われる無双の勇将が、ついに35,000という絶望的な大軍を率いて、我らが同盟国である徳川の領地・三河へと侵攻を開始した。
東からは武田。北からは浅井・朝倉。そして背後の京都には将軍・義昭。四方八面、文字通りすべてが敵国。絶対的な四面楚歌。織田家の存亡は、まさに風前の灯火となっていた。
だが、この絶対の死地にあって、信長は驚くべき行動に出た。あの神仏すら焼き尽くした魔王が、将軍・義昭に対して、ひたすらに恭順の意を示し、和睦を懇願したのである。村井民部、島田所之助といった重臣に日乗上人を添えて上洛させ、「毛頭、将軍家へ逆らう意志はございませぬ」と、血判を押した誓紙まで差し出した。
なぜか。信長は、決して恐れたわけではない。背後に将軍を敵に回したまま、正面から武田信玄という怪物と激突すれば、織田軍は確実にすり潰され、滅亡する。その冷徹な戦力分析が、魔王に頭を下げさせていた。生き残るためならば、自らの誇りすらも泥に塗れてみせる。その底知れぬ執念に、僕は改めてこの男の恐ろしさを見た。
しかし、義昭はその信長の「譲歩」を、己の威光によるものだと決定的に勘違いした。武田の大軍が迫っている今、信長など恐るるに足らず。そう確信した将軍は、誓紙を冷笑とともに突き返し、ついに公然と反旗を翻した。仁木、大館、上野、吉良といった幕府の譜代衆を集め、同年三月、近江の要衝である「石山」と「堅田」の二カ所に強固な城砦を構え、兵を立て籠もらせたのである。
「……愚か者が」
陣屋の中で、信長は低く、地獄の底から響くような声で吐き捨てた。交渉の余地は完全に絶たれた。背後の憂いを断たねば、武田信玄とは戦えない。柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、蜂谷兵庫頭、明智光秀、そして僕――木下藤吉郎。織田家の主力武将すべてに、征夷大将軍・足利義昭の討伐という前代未聞の出陣命令が下された。
最初の標的は、石山城だった。ここには甲賀の武士など800人が籠城していたが、柴田勝家を筆頭とする織田の大軍が四方から凄まじい怒濤の勢いで攻め立てると、敵将はまともに戦うことすらできず、あっけなく降伏して城を開いた。勝家はそのまま3,000の兵を率いて石山に駐留し、京都への押さえとなった。
問題は、もう一つの拠点「堅田城」だ。丹羽長秀、蜂谷兵庫頭、そして明智光秀の三将が率いる7,000の軍勢が、三手に分かれて堅田へと攻め寄せた。だが、ここには渡辺宮内、伊勢九郎左衛門といった猛将が1,000人の兵とともに立て籠もっており、その抵抗は予想を遥かに超えて激烈を極めた。
「押し返せッ! 大樹の御為ぞ、逆賊どもを一歩も通すなッ!」
城内から決死の覚悟で打って出た渡辺の軍勢が、丹羽長秀の陣へと猛然と突きかかった。槍と槍がぶつかり合い、肉が裂ける生々しい音が戦場に響く。将軍の権威を背負った敵兵の士気は異常に高く、歴戦の丹羽軍でさえその勢いに圧され、五町(約500メートル)あまりも引き退くことを余儀なくされた。
「ええい、崩れるな! 前へ出ろッ!」
敗走する丹羽軍と入れ替わるように、蜂谷兵庫頭の軍勢が側突を仕掛ける。だが、血の匂いと狂乱に酔いしれた城兵たちは、その迎撃すらも強引に食い破り、ついに蜂谷軍までもが陣形を乱して敗走を始めた。
七千の軍勢が、わずか千の敵に押し込まれている。勝に乗った堅田の城兵たちは、雄叫びを上げながら織田軍を追撃し、戦線は完全に膠着、いや、崩壊の危機に瀕していた。
――その時。戦場の喧騒を切り裂くように、堅田城の背後、琵琶湖の湖面から突如として無数の鬨の声が沸き上がった。
「な、なんだッ!? 湖から敵が……!」
敵兵たちが振り返った先。そこには、十余隻の兵船に分乗した1,000の軍勢が、城の搦手へと音もなく漕ぎ寄せ、上陸を果たそうとしている光景があった。水色に桔梗の紋を翻すその部隊を率いていたのは――明智十兵衛光秀だ。
正面の激戦を囮とし、密かに船を手配して湖水から城の背後を突く。地形を完全に読み切った、氷のように冷たく、完璧な奇襲戦術。
「この城の一番乗りは、我なりッ!」
光秀の家臣・明智弥平治が狂暴な雄叫びとともに城壁へ取り付く。「弥平治を討たすな、続け!」という声とともに、明智の勇兵たちが怒涛のごとく壁をよじ登り始めた。背後を突かれた城内は大混乱に陥った。留守を任されていた敵将・曽我兵庫助は、慌てて矢倉へと駆け上がり、五百の兵を怒鳴り散らして必死の防戦を試みる。
「弓を引け! 壁を登る者どもを射落とせッ!」
曽我が身を乗り出し、下知を飛ばした、まさにその瞬間だった。湖面に浮かぶ船の舳先に、静かに立ち上がる人影があった。明智光秀だ。彼は揺れる船上にあって、一切の焦りも力みもなく、ただ冷徹な作業をこなすかのように、一挺の鉄砲を構えていた。
喧騒の中、光秀の細められた眼光が、矢倉の上に立つ敵将の姿を正確に捉える。未来の知識を持つ僕ですら戦慄するほどの、異常なまでの射撃精度。
――ドンッ!!
乾いた破裂音が、一つだけ響いた。放たれた鉛玉は、寸分の狂いもなく曽我兵庫助の分厚い胸板を正確に撃ち抜き、背中へと貫通した。
「……あ、がッ……」
言葉を発する間もなかった。大将である曽我は、目を見開いたまま矢倉から真っ逆さまに転落し、泥の中に叩きつけられて絶命した。大将を瞬殺されたことによる、指揮系統の完全な崩壊。それを確認した明智の兵たちは、いよいよ気勢を上げ、難なく城壁を乗り越えて城内へと雪崩れ込んだ。我先にと刃を振るい、指揮官を失って烏合の衆と化した城兵たちを次々と血祭りに上げていく。背後を完全に制圧された堅田城は、この瞬間、完全にその命脈を絶たれた。
「……引けッ! 城を捨てよ! 都へ逃れよッ!」
正面で戦っていた渡辺や伊勢の軍勢も、背後からの火の手を見て敗北を悟り、大手の城戸を押し開いて蜘蛛の子を散らすように京都方面へと逃げ出した。だが、光秀は逃げる敵を深追いしようとはしなかった。ただ静かに城戸を固め、自らの軍の損耗を最小限に抑えながら、鳴りを潜めて占領を完了させたのである。
地獄を見たのは、逃げ出した城兵たちだった。敗走する彼らを待ち受けていたのは、先ほどまで押し込まれていたふりをし、頃合いを見て軍を反転させた丹羽長秀と蜂谷兵庫頭の軍勢であった。
「時分は良し! 一匹残らず叩き斬れッ!」
大返しの号令とともに、織田の精鋭たちが逃げ惑う敵兵の背中に牙を剥く。陣形も武器も捨て、這う這うの体で逃げ惑う敵を、背後から無慈悲に槍で突き刺し、太刀で首を刎ねていく。討たれる者の数は知れず、街道は瞬く間に血の泥濘へと変わった。
渡辺と伊勢は、もはや武将としての誇りも何もかもを投げ捨てていた。自らの名を記した袖印をかなぐり捨て、雑兵の死体の中に紛れ込み、顔を泥だらけにしながら逃げ延びるしかなかった。その見苦しくも無惨な敗走劇は、将軍の権威というものが、暴力の前ではいかに無力であるかを如実に物語っていた。
堅田城の陥落。僕は後方から、燃え上がる城砦の上に静かに翻る、水色桔梗の旗印をじっと見つめていた。明智十兵衛光秀。この男は、単なる優秀な外交官ではない。戦場においても、感情に流されず、最小の労力で最大の戦果を削り出す、恐るべき軍略家だ。
武田信玄が迫り、将軍が牙を剥くこの最大の死地にあって、光秀はその才能をさらに鋭く研ぎ澄ませている。もし僕が少しでも気を抜けば、織田家における僕の立ち位置など、この冷徹な男にあっという間に奪い取られてしまうだろう。
戦国の盤面は、底なしの暗闇へと突き進んでいる。信長が義昭を討ち果たせば、室町幕府という200年続いた秩序は完全に崩壊する。そしてその先には、武田信玄との血で血を洗う決戦が待っている。
怖いのか?そう自問し、僕は自嘲気味に口の端を歪めた。怖いに決まっている。未来の知識など、もはや気休めにもならない。ここは、命の価値がゴミ屑よりも軽い、本物の修羅道だ。でも、ここで立ち止まれば死ぬ。
光秀の冷徹さを超え、武田の武を凌駕し、信長の狂気についていくためには。僕自身が、誰よりも深く泥を啜り、誰よりも悪辣な怪物へと成り果てるしかない。
生き延びるための戦いなど、とうの昔に終わっている。天下を奪い取るための、魂を削り合う死合いが、今まさに幕を開けたんだ。僕は強く柄を握りしめ、燃える堅田の空を睨みつけた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
義昭公信長と不和
天正元年春のころより、室町の將軍義昭公、信長卿と御仲不和にならせ給ひ、甲州の武田信玄、越後の上杉謙信、越前に朝倉義景、江州に淺井長政らをはじめとし、毛利、島津の輩、そのほか諸國の武士どもにことごとく内書を通じられ、信長誅伐の儀を仰せ含めらる。これによつて國々(くにぐに)の大名小名、將軍の台命なりと申し立て、信長を討つて天下の權を握らんと、我も我もと合戰の用意をなす。なかんづく甲州の武田信玄は雙びなき勇將なりければ、信長、將軍をさし挟み、威を天下にふるひぬるを心惡く思ひけれど、合戰にいとまなく、等閑に打捨て置けるが、將軍の命を承り、このときを失はず信長を討ち亡ぼさんと、三萬五千餘騎、三州まで出張す。將軍のこのことを聞かせ給ひ、信玄かくのごとくなる上は、信長を誅せんこと何のかたきことあらんと、譜代の武士仁木、大館、上野、吉良、和田、尼子、飯川、松原らの諸士を集め、石山と堅田の兩所に城を構へ兵士を籠もらせ、同年三月、すでに敵對の色を顯はし給ふ。ここにおいて信長、四方八面ことごとく敵國となり、織田家の安危このときなりと、柴田、佐久間、木下、明智、池田、瀧川、蒲生が輩、合戰の用意まちまちにて、はた大亂に及びけり。そもそもこの騷動の發りを尋ぬるに、足利家滅亡のとき至りけん、義昭公生得墮弱にましまし、政道に心を用ひ給はず、美女を愛し酒を好み、日夜遊樂にのみ耽り給へば、恨むる者少からず。これによつて信長、折々(おりおり)上洛して政事を執り行ひ、權勢自然に信長にありて、將軍はありてなきがごとく、義昭深くこれを恨み給ひ、さてこそかかる企を計り給ふ。將軍家の功臣三淵大和守、細川刑部大輔ら、しばしばこれを諫め奉るといへども、さらに用ひ給はず、いよいよ我意につのり給ふを、心ある武士は、足利家時運ここに究まれりと、ひそかに歎き悲しみける。ときに織田信長より使者として村井民部、島田所之助に日乘上人を相添へ、上洛して將軍に謁し、信長において毛頭隔心これなき旨、誓紙を以て申し宥め進らすといへども、將軍ひたすら諸がはせ給はず。さらば大軍を以て打破り、軍威を諸國に示さんとて、柴田、丹羽、蜂谷、明智の四將に一萬餘騎を與へて、まづ石山の城を攻めさせしむ。この城には三井寺の淨光院、磯貝新左衞門を大將として、甲賀の武士八百餘人籠城したりけるが、織田の大軍四方を取巻き、短兵急に攻め討てば、城將敢て戰ふ能はず、降參して城を開きければ、柴田勝家三千餘人にて籠城し、京都の押へとなり、丹羽、明智、蜂谷の三將、七千餘騎、三手に分かれて堅田の城へ攻寄せたり。城中より渡邊宮内、伊勢九郎左衞門、一千餘人にて切つて出で、丹羽が備に突き入れば、寄手の勢傷り負けて、五町あまり引退く。城兵逃ぐすまじと追ふところへ、蜂谷兵庫頭入り替りて戰ひが、これも同じく崩れ立ちて敗走す。城兵らいいよ勝に乗り、備を亂して追ひたりけり。このとき明智光秀は、十餘艘の兵船に、一千餘人取り乘りて湖水を渡り、城の搦手へ近々(ちかぢか)と漕ぎ寄せ、にわかに鬨をあげたりければ、城中には曾我兵庫助五百餘人にて殘り留まりしが、士卒を下知して防ぎ戰ふ。光秀が家の子に明智彌平治といふ者、「この城の番乘は我なり」と呼ばつて、塀に取つき登りける。これを見て明智が勇兵一時に、「彌平治討たすな。續け」と云ふほどこそあれ、われ先にと塀に取つき、喚き叫んで乘り入る。城將曾我兵庫助矢倉に登り、きびしく下知して防げるを、光秀を以て打破り、軍威を諸國に示さんとて、柴田、丹羽、蜂谷、明智の船端に立ち出で、鐵砲を以てこれを討つに、手練の狙ひ少しも違はず、兵庫助が胸板を打ち抜けば、眞さかさまに倒れたり。明智が勇兵いよいよ氣を得て、難なく塀を乘り越えて、われ先にと切つて廻れば、城兵は大將を討たれ、さんざんになつて、大手の城戸を押開き、都をさして逃げたりける。光秀、敢てこれを追はず、城戸を固め、鳴りを鎮めて居たりける。
さても丹羽、蜂谷の兩勢は、思ふほど敵をおび出し、時分はよきぞ返せよと、鯨波を作つて大返しに切つてかかれば、城兵討たるる者數を知らず、這ふ這ふにて逃げ來り、城に入らんとするところに、たちまち城中水淺黃に桔梗の紋の旗をさつと立て並べ、鐵砲を雨のごとく打出せば、伊勢、渡邊大きに驚き、後を顧みれば丹羽、蜂谷の兩將、勝に乗つて追討せ、今は遁れがたしと思ひ、袖印をかなぐり捨て、雜兵に打交じり、京都さして逃げたりしは、見苦しかりきありさまなり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
信長包囲網は、戦国時代末期より安土桃山時代初頭にかけて発生した反織田信長連合のことをいう。
①第1次包囲網(1570年〜1573年)足利義昭の御内書をきっかけに、浅井長政、朝倉義景、石山本願寺、比叡山延暦寺、三好三人衆などが挙兵しました。のちに武田信玄も加わり信長を窮地に陥れましたが、信玄の急死により崩壊した。
②第2次包囲網(1576年〜1578年)足利義昭が毛利輝元、上杉謙信、石山本願寺、雑賀衆などを結集させて再び形成された。しかし、上杉謙信の急死や、織田水軍による毛利水軍の撃破(木津川口の戦い)により打破された。
③第3次包囲網(1580年〜1582年)本願寺の降伏(1580年)後も、足利義昭の画策により毛利氏や上杉氏への警戒が続き、本能寺の変(1582年)によって信長が横死するまで断続的に対立構造が続いた。出典:wikipedia




