2-40 比叡山炎上――僕は魔王と神を焼いた
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
元亀2年(1571年)8月。長島の泥沼で味わった凄惨な敗北の記憶は、織田軍の将兵たちの心に暗く重いしこりを残していた。しかし、魔王・織田信長の歩みは決して止まることはなかった。
岐阜城でしばらく兵の傷と疲労を癒した信長は、8月18日、再び騎という途方もない大軍を率いて、浅井長政の息の根を止めるべく近江へと出陣した。
狙うは、浅井の勢力圏にある江州・志村城、小川城、そして金崎城。怒涛の進撃だった。長島での鬱憤を晴らすかのように、織田の軍勢は一切の容赦なく城を攻め落とし、敵兵をすり潰していった。だが、瀬田の地に陣を敷き、戦況の推移を冷徹に見つめていた僕には分かっていた。これらはすべて、巨大な盤面における「布石」に過ぎない。
信長の真の狙いは、浅井の小城などではない。去年の冬、僕たち織田勢を極寒の雪山に釘付けにし、地獄の対陣を強いた元凶。浅井・朝倉を匿い、信長に牙を剥いた「あの場所」に対する、徹底的な報復である。
9月13日。瀬田に滞留していた織田の全軍に、突如として信長から非情の号令が下された。
「全軍、比叡山を包囲せよ! 一息に攻め崩し、比叡山を灰燼に帰せっ!!」
比叡山延暦寺。それは単なる寺でも城でもない。古くは桓武天皇の勅命により伝教大師が開いた、王城鎮護の聖地である。八百年もの長きにわたり、日本の宗教的権威の頂点に君臨し続けてきた絶対的な霊場だ。
いくらなんでも、神仏を焼き討ちにするなどあり得ない。山内に立て籠もっていた3,000人の衆徒たちも、そして織田陣営の多くの将たちでさえ、心のどこかでそう高を括っていたに違いない。
でも、未来の歴史を知る僕は違う。信長という男にとって、神仏の権威など、己の覇道を阻むただの障害物でしかない。
「……火を放て」
比叡山の麓、包囲の陣頭に立った僕は、自らの部下たちに向けて冷たく言い放った。僕の命令を合図に、無数の松明が空を舞い、乾いた木々に次々と投げ込まれていく。
織田軍の兵たちは、金鼓を打ち鳴らし、狂気を孕んだ鬨の声を上げながら、四方から一斉に山へと攻め登った。折しも、比叡の山肌には秋の烈風が吹き荒れていた。風に煽られた炎は、またたく間に赤い壁となって山を駆け上がり、天を焦がすほどの紅蓮の業火へと膨れ上がっていった。
建ち並ぶ山王二十一社、壮麗な大殿、仏閣、経蔵、鐘楼。何百年もの歳月をかけて護られてきた荘厳な建造物や、年久しい霊像の数々が、絶望的な音を立てて崩れ落ち、ただ一片の黒煙となって空へ消えていく。
「逃がすな。一人残らず突き殺せ」
僕の口からこぼれたのは、ひどく平板で、感情の一切こもっていない声だった。逃げ惑う僧兵たち、さらには山に逃げ込んでいた女や子供までもが、織田の兵たちの槍に貫かれ、血を噴き出して倒れていく。岩根に隠れ、谷陰で震える者たちを追い詰め、容赦なく首を刎ねる。
人を斬ることに、かつては吐き気を催していたはずだった。未来の倫理観が、無意識のうちに僕の心を縛っていた。しかし、長島の泥沼で散っていった味方の無惨な骸を見た日から、僕の中で何かが決定的に壊れていた。
狂った時代を終わらせるには、自らが誰よりも冷酷な狂気になるしかない。殺さなければ、殺される。情けをかければ、その隙を突かれて味方が死ぬ。
燃え盛る炎と、夥しい血の匂いの中で、僕は自らの心が完全に戦国の闇へと同化していくのを、ただ静かに受け入れていた。
死人の山が築かれ、凄惨な殺戮が続く中、大将である信長自身もまた、東坂本の大鳥居から中腹へと馬を進めていた。魔王自らが戦場を歩む。その威風堂々たる姿は、織田軍の士気を限界まで高揚させていたが、同時に、死に物狂いの反撃を企む者たちにとって、これ以上ない標的でもあった。
急峻な坂道に差し掛かったその時。谷を隔てた暗い木陰の奥深く。そこに、山門きっての悪僧にして強弓の精兵と名高い、金剛坊という男が潜んでいた。怨敵・織田信長を討ち取る。その一念に憑りつかれた金剛坊は、一尺二寸という規格外の巨大な鏃をすげた大矢を、五人張りの強弓に番えていた。ギリギリと、弓の幹が悲鳴を上げるほどに引き絞られる。
そして、放たれた。ヒュウッ、と風を裂く鋭い音が響いた。距離が遠すぎたためか、大矢は信長様自身の胸をわずかに逸れ、乗っていた馬の太腹を深々と射抜いた。
「ヒヒンッ!」
絶叫を上げて崩れ落ちる巨馬。しかし、信長は超人的な身のこなしでひらりと宙を舞い、落馬の衝撃を完全に殺して傍らの岩に腰を下ろした。
金剛坊が二の矢を放とうと、再び弓に手を掛けたその瞬間だった。
「――金剛坊、しばらく待たれよっ!」
背後の茂みから、突如として場違いな大声が響き渡った。直後、鼓膜を突き破るような轟音が轟いた。鉄砲である。
ドンッ!!
鉛玉が空気を引き裂き、信長の座る岩肌を掠めて火花を散らした。驚いた金剛坊が振り返ると、そこには見知った男の姿があった。杉谷善住坊。かつて信長を狙撃し、暗殺に失敗したあの男だ。積年の恨みを晴らすべく、彼もまたこの比叡山の木陰に潜み、信長の命を狙っていたのである。
弓と鉄砲。二人の刺客による、完璧な挟撃。だが、その絶体絶命の危機において、信長様の身には恐るべき「主人公補正」が働いていた。金剛坊が放った大矢も、杉谷善住坊が放った鉛玉も、ことごとく急所を外れ、信長様の左の太腿を薄く掠めただけで終わったのだ。血は滲んだが、骨肉を砕くには至らない。
「曲者が潜んでおるぞ! あの谷だ、撃ち殺せェッ!」
主君の危機に気付いた織田の近習たちが、怒号とともに300挺もの鉄砲を構えた。狙い澄ました一斉射撃。茂みの中に霰のごとく鉛玉が撃ち込まれる。
「……天運かッ!」
暗殺の失敗を悟った二人の悪僧は、無念の歎息を漏らしながら、這うようにして谷間伝いに逃げ去っていった。僕は遠くからその光景を眺めながら、背筋に冷たい汗が伝うのを感じていた。
矢と銃弾が飛び交う死地にあって、微動だにせず、かすり傷一つで生き延びる男。まるで、運命が「この男を死なせるな」と加護を与えているかのようだ。魔王・信長。この男こそ、僕が自らのすべてを賭して天下へと押し上げるべき、絶対の主だ。
3,000人の衆徒はことごとく討たれ、あるいは離散し、比叡山の堂塔は一つ残らず灰燼に帰した。王城鎮護の誇り高き霊場は、わずか数日のうちに、黒く焼け焦げた無惨な禿山へと成り果てた。
神仏の加護などない。仏罰など下らない。あるのは、力を持った者が勝つという、戦国の冷酷な事実だけだ。焼け落ちた延暦寺の残骸を見下ろしながら、僕は固く唇を噛み締めた。この焼き討ちによって、信長は旧来の権威を完全に破壊した。最早、織田家の歩む覇道を止めることは誰にもできない。
去年からの鬱憤を見事に晴らした信長は、比叡山の麓、琵琶湖の要衝である坂本に新たな城を築くよう命じた。そして、その重要な拠点を任されたのは、志賀郡一帯の領地を与えられた明智十兵衛光秀だ。
明智十兵衛光秀。室町幕府の将軍・足利義昭と信長の間を取り持つ外交官から身を立て、その教養と手腕で異例の出世を遂げている男。彼の出世は、僕にとって無視できない脅威であり、強烈なライバルの台頭を意味していた。
でも、今の僕に焦りはない。天下の盤面は、まだ僕の手が届く範囲にある。光秀がどれほど知略を巡らせようとも、僕はこの泥にまみれた両手で、必ず彼を上回る武功を立ててみせる。
信長はその後、諸将に命じて浅井の領地に幾度となく揺さぶりをかけ、長政を野戦へと引きずり出そうとした。だが、比叡山が消滅したという圧倒的な恐怖の前に、浅井長政は居城である小谷城の奥深くに引き籠もり、ついに一度も討って出ることはなかった。いたずらに日が重なり、織田の軍勢にも戦の疲労と退屈の色が見え始めた。
「今はまだ、浅井を討つべき時機にあらず」
そう判断した信長は、10月21日、ついに軍勢をまとめ、本国である岐阜へと軍を引き揚げた。比叡山は消えた。しかし、北近江には未だ浅井・朝倉の影が黒く立ち込めている。生き延びるための戦いは、終わらない。
僕は馬に揺られながら、暮れゆく近江の空を見つめた。僕の手は、もはや洗っても落ちないほどの血に塗れている。この業を背負ったまま、僕は天下布武という修羅の道を、どこまでも這い上がってやる。覚悟は、とうに決まっていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長比叡山を燒く
さるほどに信長卿は、岐阜の城にありて、しばらく兵士の勞れを休められけるが、元龜二年八月十八日、淺井長政を討つべしとて、五萬餘騎を引率し、江州志村の城、小川の城、金崎の城を攻め落とし、瀨田にしばらく滯留ありて、九月十三日、にはかに惣勢を以て比叡山を取り圍み、ただ一息に攻め崩さんと、四方より攻め登る。これは先つころ比叡山の衆徒、淺井、朝倉に同心し、信長卿に敵對せし恨みを報い給ふなり。山内の衆徒思ひ設けなことなれば、大に驚き、谷々峯々の切所に支へ防ぎ戰ふといへども、わづかに三千人の衆徒なれば、信長が大軍に攻め立てられ、防ぐこと能はず、道を求めて遁れ去る。織田勢勇み進んで金鼓を鳴らし、鬨を作りて攻め登り、山中の寺々に火を放てば、折節魔風烈しく吹き發り、火炎天を焦がし、黒煙一山に充ち、さしも建て連ねたる山王二十一社をはじめとし、大殿、佛閣、經藏、鐘樓、寺々院々に火移り、年久しき靈像作佛、ただ一片の煙となり、山門破滅のありさまこそ、言語に絕えし次第なり。信長の大軍の中より駈け登り、逃げ殘る僧徒らを、ここの岩根かしこの谷蔭に突き殺し、追詰め追詰め討ち付けるほどに、死人の山を築きける。大將信長勇みんで東坂本大鳥居より攻め登り、坂中に至り給ふ。ここに山門第一の惡僧金剛坊といへる強弓の精兵あり。怨敵信長を討ち取らんと、谷を隔てて樹陰に潛び、一尺二寸の鏃すげたる大矢の十五束を五人張りの弓に打つがひ、忘るるばかり引き絞り切って放つに、矢頃はるかに遠かりければ、狙い下がりて信長の馬の太腹射通したり。信長早業の大將なれば、馬よりひらりと飛び下り、そばなる岩に尻かけて二の矢を射んとするところに、後の方より大音にて、「金剛坊しばらく待たれ候」と聲をかけて切って放つ鐵砲、どうと響きて聞こえけり。金剛坊驚いてこれを見れば、杉谷の善住坊去年信長を打ち損じ、重なる恨みを晴らさんと、この木陰に潛び居て、狙い擊ちにぞしたりける。幸運に乘じたる信長卿、さしも名を得し金剛坊、善住坊が矢玉なれども、ことごとく狙い下り、左の股を打ちかすつて、御身はさらにつつがなし。織田の從兵これを見て、「この谷のそのたのにこそ曲者の籠もりたるぞ。打ち殺せ」と云ふほどこそあれ、三百餘人鐵砲の筒を揃へ、繫りたる木の中へ霰のごとく打ち入るれば、兩人の惡僧、天なるかなと歎息し、谷間傳ひに遁れ去りぬ。されば山門三千の衆徒、徒或いは討たれ、または落ち行き、堂塔殘らず灰燼となり、比叡の靈場一時に禿山となりけるこそ、悲しかりける次第なり。そもそも當山は桓武天皇勅を傳教大師に下し給ひ、王城鎭護のためとて草創ありし御山なるに、衆徒僧行を勤めず、我意に募ること年久し。されば佛意にも叶わざりけん、信長がために山門たちまち滅亡しけるを、歎かぬ人はなかりける。信長卿は去年來の鬱憤を散じ、坂本に城を築き、志賀郡を併せて明智十兵衛光秀に賜はり、諸軍を下知して淺井が領地をさまざまに亂暴なしめ給ひしかども、長政敢て出ることなく、いたづらに日を重ねれば、織田の軍勢や退屈して見えける。信長いまだ淺井を討つべきときにあらずとて、十月二十一日軍勢をまとめ、本國へこそ引取り給ふ。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
延暦寺は、滋賀県大津市坂本本町にある天台宗の総本山の寺院。山号は比叡山。本尊は薬師如来。標高848メートルの比叡山全域を境内とし、正式には比叡山延暦寺と号する。平安時代初期の僧・最澄(767年 - 822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受けユネスコ世界文化遺産に登録された。寺紋は天台宗菊輪宝。比叡山、または叡山とも呼ばれる。このほか、興福寺を指す南都に対して北嶺、園城寺を指す寺門に対して山門の異称もある。出典:wikipedia




