2-38 毛受勝助 命懸けの馬印奪還
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
僕は、血塗られた自分の手を強く握り締め、暗くなり始めた近江の空に向かって、低く、獣のように嗤った。
この泥まみれの狂った世を、必ず僕が終わらせてみせる。天下布武という果てしない道のりを、僕がこの手で、必ず押し進めてみせるのだと。
――しかし。僕がどれほど暗い野心を燃やし、血みどろの策略で浅井・朝倉の包囲網を内側から食い破ろうとも、この戦国という名の盤面には、常に僕の予測を嘲笑うかのような「理不尽な暴力」が潜んでいた。
僕が横山城で一向一揆の残党を処理し、次なる調略の糸を引いていたその裏側で、織田家はかつてないほどの凄惨な敗北と、痛切な犠牲を強いられていた。その凶報が岐阜城から僕の元へ届いた時、僕は手元の書状を取り落とし、ただ呆然と虚空を見つめることしかできなかった。
未来知識を持つ僕ならば、歴史の教科書に書かれた数行の事実として、その出来事を知っていたはずだった。だが、文字で読む歴史と、実際に血肉を持った人間たちが無惨にすり潰されていく現実とでは、その絶望の重さが全く違っていた。
元亀2年(1571年)、5月。信長は、20,000騎の大軍を率いて、伊勢国と尾張国の国境に位置する長島へと出陣した。
事の発端は、前年の秋にまで遡る。僕らが近江・比叡山で浅井・朝倉の60,000の大軍と泥沼の対陣を繰り広げていた最中、長島の一向一揆どもが蜂起し、古木江の城を急襲。あろうことか、信長の実の弟である織田彦七郎 信興を自害に追い込み、城を焼き払った。実の弟を、名もなき狂信者の群れに殺された。その事実が、信長の胸の内にどれほど漆黒の怒りを煮えたぎらせていたか、想像に難くない。近江の戦線が「勅命による和睦」という形で一時的に膠着し、軍事にわずかな暇ができたこの5月。信長は、積年の恨みを晴らすべく、ついに長島の地へと刃を向けた。
だが、長島という場所は、通常の軍隊が攻め込むにはあまりにも絶望的な地形であった。木曽川、長良川、揖斐川という三大河川が伊勢湾へと注ぎ込む河口のデルタ地帯。無数の川と中洲が複雑に絡み合い、足元は底なしの泥沼。陸路は存在せず、船を使わなければ近づくことすらできない「水上の要塞」だ。
おまけに、そこに巣食う長島の一向一揆は、単なる農民の寄せ集めではない。本願寺の門徒という強固な信仰心で結ばれ、近国近在はおろか、東国や北国からも歴戦の門徒たちが続々と寄り集まっていた。その数、実に70,000とも80,000とも言われる圧倒的な大軍勢である。
彼らは豊富な資金力で大量の鉄砲を買い込み、無数の小舟を操り、泥沼の地形を知り尽くしたゲリラ戦のプロフェッショナルだ。信長が20,000の軍勢を率いて長島の表へと出張した時、そこにはすでに、織田軍を地の底へ引きずり込もうと口を開けた、7、8万の狂信者たちの罠が幾重にも張り巡らされていた。
信長は、激しい怒りに駆られながらも、戦の現実を見誤るような愚将ではない。長島の泥沼と、そこに蠢く無数の奇兵を目の当たりにした瞬間、魔王の冷徹な戦術眼は即座に一つの残酷な結論を弾き出した。
「……この一揆、容易には誅伐しがたし」
力任せに攻め込めば、確実に底なし沼に足を取られ、四方から鉄砲の的になる。味方の損亡は計り知れない。
「よしんば、万の犠牲を払って勝利を得たとしても……相手は詮なき土民ども。失う将兵の命に見合うだけの『利』が何一つない」
信長は、血を吐くような弟の無念を胸に押し殺し、全軍に命令を下した。
「戦わず退却しろ」
それは、大将としての極めて正しい、そして最も苦渋に満ちた決断であった。天下布武を成し遂げるためならば、己の私怨すらも冷徹に切り捨てる。その凄絶なまでの合理性こそが、織田信長という男の恐ろしさでもある。だが、狂信の徒である一揆勢にとって、織田軍の退却は「魔王が尻尾を巻いて逃げた」という格好の餌食でしかなかった。
「見ろ! 天下に敵なしと嘯く織田の軍勢が、仏罰に恐れをなして逃げていくぞ!」
「逃がすな! 追え、追え! 仏敵の背中に鉛玉を撃ち込んでやれッ!!」
5、600の狂信的な門徒たちが、小舟に乗り、泥を蹴り立てて、退却する織田軍の背後へと狂ったように追いすがってきた。もちろん敵の追撃は、信長も予測していた。
この最高難易度の撤退戦――最後尾で敵の猛攻を食い止めながら味方を逃がす「殿」の部隊に指名されたのは、織田家随一の猛将にして功臣、柴田修理之亮勝家。通称、「鬼柴田」。その名を聞くだけで敵兵が震え上がるほどの闘将だ。勝家は、自らの手勢を率いて一揆の追撃部隊の前に立ちはだかった。
「退くな! 押し返せ! 当てては下がり、崩しては退けッ!」
勝家の下知は的確だった。追撃してくる敵の鼻先を激しく叩き、怯んだ隙に陣形を保ったまま後退する。この死と隣り合わせの高度な戦術を繰り返し、二十余町(約二キロ)という途方もない距離を、じりじりと引き下がることに成功していた。しかし、長島の門徒たちは、狂っているだけではなかった。彼らには、この泥沼の地形を活かしきるだけの狡猾な軍略があった。
ズドンッ!! ズドドドドンッ!!!
突然、柴田軍の側面の川面から、空を劈くような轟音が連続して鳴り響いた。敵は以前から手配していた。50艘の早船を太田川の川上へと気配もなく押し上げ、岸辺を撤退していた柴田軍のど真中を急襲。船上から、数え切れないほどの鉄砲を一斉に放った。それは、まさに鉛玉の雨だった。
遮るもののない川岸で、横っ腹から斉射を受けた柴田軍は、瞬く間に血の海に沈んだ。兜を撃ち抜かれ、鎧ごと肉を砕かれ、悲鳴を上げる間もなく無数の将兵が泥の中に倒れ伏していく。
「ぐわぁッ!?」
陣頭で指揮を執っていた勝家自身も、その凶弾を免れることはできなかった。放たれた鉛玉の一つが、彼の左の太股を深く撃ち抜いた。肉を削ぎ、骨を軋ませる激痛。落馬してもおかしくないほどの致命傷だ。だが、「鬼柴田」は常人ではない。彼は大量の血を流しながらも少しも怯むことなく、歯を食いしばって馬上に堪え、猛然と槍を振るって部下を鼓舞し続けた。
しかし、どれほど鬼神のごとき武勇を誇ろうとも、流血と混乱の極致にある戦場で、すべてを守り切ることは不可能だ。どういった手違いか。それとも、被弾の衝撃で旗持ちが倒れたのか。柴田軍の象徴であり、金の装飾で作られた巨大な「幣」の馬印が、泥まみれの一揆衆の手に奪い取られてしまった。
「おおおおッ! 見たか! 鬼柴田の馬印、我らが奪い取ったぞォォッ!!」
一揆の群れの中から、山口藤太夫という男が、奪い取った黄金の馬印を高々と差し上げ、嘲笑の声を張り上げた。
「『鬼柴田』と呼ばれた勝家も、我ら仏の兵の前ではただの赤子よ! 残兵ども、大将の首を取られる前に早く降参せよかし!」
ワハハハハッ! と、数千の狂信者たちが同音にどっと笑い声を上げた。戦国武将にとって、「馬印」とは自らの命よりも重い、軍の魂そのものである。それを奪われ、あまつさえ下賤な一揆どもに嘲笑いながら掲げられることなど、万死に値する究極の恥辱だ。
「……おのれ、下賤の輩めがッ!!」
左脚を血で真っ赤に染めた勝家の顔面から、一切の理性が吹き飛んだ。全身から立ち上る怒気は、まさに修羅だった。勝家は激痛を忘れ、奪われた馬印を何としても取り返そうと、馬の首をきびすを返し、単騎で数千の一揆の群れへと突っ込もうとした。死を覚悟した、狂気の突撃。彼がそのまま駆け入れば、無数の槍と鉄砲の餌食となり、「鬼柴田」の命は間違いなくあの泥濘に散っていただろう。その時だった。
「――お待ちください、勝家様ッ!!」
猛り狂う勝家の馬の口縄に、一人の若い兵士が必死にすがりつき引き留めた。馬に引きずられ、泥まみれになりながらも、決して手綱を放そうとしないその若者は、勝家の小姓を務める毛受勝助という名の若者だった。
「放せッ! 勝助、俺の行く手を阻む気かッ!!」
「なりません! 勝家様は織田家の柱石、ここで命を落としてはなりません!」
毛受勝助の必死の叫びは、戦場の喧騒を切り裂くほどに澄んでいた。勝家が討たれれば、殿の部隊は崩壊し、信長の本陣すらも危機に晒される。その戦局の致命的な崩壊を、若き小姓は正確に理解していた。
「だが……あの馬印を奪われたまま、生き恥を晒して美濃へ帰れというのか! 俺に、武士を辞めよというのかッ!」
血の涙を流す勢いで吠える勝家に対し、毛受勝助は、泥だらけの顔を上げ、眩いばかりの純粋な笑みを浮かべた。
「武士の誇りは、私がお守りいたします」
毛受勝助の声には、一片の曇りもなかった。
「勝家様は速やかに、この場をお退き下さい。あの馬印は、この毛受勝助が、命に代えても必ずや取り返してご覧に入れまするッ!」
毛受勝助は勝家の制止を振り切り、単身、たった一人で、無数の鉄砲が火を噴き、槍衾が波打つ数千の狂信者の群れへと、脱兎のごとく駆け入っていった。
未来の知識を持つ僕にとって、人間の「命の価値」というものは、ある程度計算できる数字だった。だが、この戦国という時代には、転生者の合理性を粉々に打ち砕く「魂の輝き」が、時折、狂おしいほどに発露することがある。
毛受勝助。未来の日本であれば、友人と笑い合い、恋をし、これからの無限の未来を思い描くはずの年齢の若き少年が、主君の「名誉」という、形のない概念を守るためだけに、数千の敵がひしめく地獄の釜の中へ、一切の躊躇なく飛び込んでいった。
「うおおおおおッ!! そこを退けェェッ!!」
毛受勝助の突撃は、凄絶を極めた。敵の放つ鉛玉が頬をかすめ、無数の槍が彼の鎧を掠める。だが、彼は恐れなかった。ただ真っ直ぐ、山口藤太夫が高々と掲げる黄金の馬印だけを見据え、血路を切り開いていった。
「なんだこの若僧は! 殺せ、殺せ!」
群がる一揆衆を、毛受勝助は狂ったように太刀で斬り伏せた。一人、二人と血飛沫が舞い、泥に沈む。多勢に無勢の極致。当然、毛受勝助の体にも深手となる無数の傷が刻み込まれていく。だが、彼は止まらない。肉が裂け、骨が軋んでも、主君への純粋すぎる忠誠心が、その細い体を鬼神のように突き動かしていた。
「――見つけたぞッ!」
ついに勝助は、馬印を掲げる山口藤太夫の眼前にまで肉薄した。
「な、貴様……ッ!」
藤太夫が驚愕の声を上げた瞬間、毛受勝助の渾身の一撃が、藤太夫の胴を深々と薙ぎ払った。断末魔の叫びとともに倒れ込む敵の体から、勝助は泥まみれになった黄金の「幣」の馬印を、その血濡れた手でしっかりと奪い返した。
「おおおおッ! 我が主君、柴田修理之亮勝家様の馬印、毛受勝助が確かに取り返したァァッ!!」
毛受勝助は織田の陣へと引き返そうとしたが、大将の馬印を奪い返された一揆勢が、それを黙って見送るはずがない。
「逃がすな! その小若衆を包囲してなぶり殺しにせよ!」
5、60人の郷民ばらが、槍や百姓刀を振り回しながら、狂ったように勝助の後を追いかけてくる。迫り来る刃の群れを前に、毛受勝助は怯むどころか、不敵な笑みを浮かべた。
勝助は手にした大太刀を引き抜き、迫り来る敵に向けて片手なぐりに一閃。凄まじい風切り音とともに、鋼の刃が肉を断ち、骨を砕く。先頭を走っていた7、8人の郷民が、算を乱して地面に切り伏せられた。返り血を浴びて、勝助の顔が赤く染まる。その圧倒的な武勇に、追ってきた一揆勢の足が一瞬、恐怖で止まった。
後方からその光景を見ていた柴田勝家は、喉が張り裂けんばかりの大声で周囲の士卒に下知を飛ばす。
「勝助を討ち死にさせるな! 勝助を救え! 者ども、あの大勇に続けェッ!!」
その号令とともに、柴田が率いる精鋭のうち、100騎の騎馬武者が一揆の群れへと切り込んでいった。泥を撥ね上げ、敵を蹴散らしながら進む織田の猛者たちは、包囲されかけていた勝助の周りを取り囲み、ついに勝助を救い出して自陣へと引き取ることに成功した。
泥と血にまみれながらも、金の馬印をしっかりと抱えて戻ってきた勝助の姿を見て、勝家は涙を流して称した。
「勝助、見事なり。お前は我が命だけでなく、柴田の誇りを救ってくれた」
勝家はこの日より、彼に自らの名の一文字を与えて「毛受勝助家照」と名乗らせた。
一人の若者の命懸けの奮闘によって、柴田勢はかろうじて壊滅の危機を脱し、馬印を取り戻して撤退を続けることができた。だが、この長島の退却戦が持つ本当の恐ろしさは、ここからが本番だった。
一揆勢の追撃の手は、少しも緩んでいない。それどころか、織田軍の足元をすくう大自然の猛威と、さらなる闇が、織田の行く手に静かに這い寄ろうとしていた――。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
毛受勝助馬印を取り返す(一)
去年長島の一揆ども、古木江の城を襲うて織田彦七郎信興を討ちしこと、信長深く怒り給ひ、このごろ軍事しばらく暇あれば、長島を討つべしとて、元龜二年五月十日、二萬餘騎を引率し、長島表へ出張し給ひけるが、かの一揆多くは本願寺の門徒にて、近國近在は云ふに及ばず、東國北國の門徒どもことごとく寄り集まり、七八萬の大軍にて、しかもさまざまと奇兵を構へ、信長を計り討たんずありさまなり。信長軍になれたる名將なれば、「この一揆容易に誅伐なしがたし。力を以て攻め討ちなば、味方損亡多かるべし。たとへ戰い勝ちたりとも詮なき土民どもなれば、戰いはずして退くにしかじ」と思慮し給ひ、そのまま軍を還し給ふ。さるほどに長島の一揆ども、信長大軍にて向かい給ふと聞きしより、めいめい必死の戰いをなし、天下に敵なしと思ふ織田勢に汗をかかせんと待ち居たりしに、信長一戰にも及ばず退き給ふ體なれば、何にもあれ、敵の退くを追い討たぬ法やある、あますまじと、門徒の鄕民五六百、跡をしたうて追うたいたりける。信長かねてかくこそ察し給へば、織田家隨一の功臣柴田修理之助を下知し、一當あてては引退き、突き白ましては繰引きし、退きたるに、敵方にかねて手配りしたりけん、早船五十餘艘太田川を押し上り、柴田が勢の正中へ鐵砲を放つこと雨のごとし。勝家も左の太股を打たれけれど、少しもひるまず馬上に堪えて戰いけるが、いかがしたりけん、金にて作りたる弊の馬印を敵に奪われ、一揆の中より山口藤太夫といふ男、かの馬印を高く差し上げ、「鬼柴田と呼ばれたる勝家を我々が手に討ち取ったり」と同音にどっと笑ふ。勝家安からず思ひ、この馬印取り返さんとて馬の頭を立て直せば、勝家小姓に毛受勝助といふ強勇の若者あり、勝家が馬の口を取って引き留め、「君一揆中へ駈け入り給ふものならば、『すはこれこそ織田家の大將柴田殿なるぞ。討ち取って高名せん』と、大勢一度に駈けへだて、御戰い難儀なるべし。不肖に候へども、某にまかせ給へ」と云ひ捨てて、兜ぬぎ袖印かなぐり捨てて、ただ一人一揆の中へ駈け入りけるが、難なく山口藤太夫がそばに馳寄り、一刀に切り倒し、馬印を取り返し、また一參に馳歸れば、一揆ばら五六十人逃げると追い來るを、大太刀を引き拔き、片手なぐりに薙ぎ倒せば、ばらばらと七八人算を亂して切られける。勝家はるかにこれを見て、「毛受討ちたすな。勝助を救へよ」と、しきって士卒を下知すれば、柴田が勢百騎ばかりどっと喚いて切って入り、終に勝助を救ひて退きける。勝家大いによろこび、毛受が功を稱し、これより勝助家照と名乘らせ、寵愛日ごろに十倍せり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
毛受 勝照(めんじゅ/めんじゅうかつてる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣。諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある。通称は初めは庄助、荘介(荘助)で、後に勝介(勝助)となった。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝介はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝介は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝介は「我は柴田修理亮勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25。出典:wikipedia




