2-36 雪陣を破る最後の切り札
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
冷たい初冬の空に、再び織田の勇壮な鬨の声が響いた。
――しかし。その血に濡れた勝利の熱狂すら、大自然の無慈悲な猛威の前には、ほんの一時の幻に過ぎなかった。11月末の夜襲と奇襲によって、浅井・朝倉連合軍に2,000の出血を強いた。戦術的にはまぎれもなく大勝だ。でも、冷酷な現実として、戦局という巨大な盤面が根本からひっくり返ったわけではなかった。
敵は依然として数万の兵力を保持し、比叡山という難攻不落の要害の奥深くに立て籠もっている。痛手を負った獣が巣穴の奥で身を丸めるように、彼らは物理的な絶対的防御陣の中へと引きこもり、沈黙した。
対する織田軍は、彼らを包囲するために、吹き晒しの山麓で野陣を張り続けなければならない。そして、季節は12月へと突入した。
「厳寒、面を裂くが如く」――。
比良山地から吹き下ろす12月の烈風は、文字通り、将兵たちの顔の皮を刃物で削ぎ落とすかのように冷酷だった。未来の防寒具などあろうはずもない。薄い麻の単衣に、申し訳程度の藁を被っただけの足軽たちは、夜になれば互いの身を寄せ合い、ガチガチと歯の根を鳴らして寒さに耐えた。でも、限界だった。毎朝、日が昇るたびに、陣のあちこちで冷たい霜に覆われたまま動かなくなる者が続出した。戦傷ではなく、凍傷と風邪、そして栄養失調。過酷な野陣のストレスが兵士たちの免疫力を根こそぎ奪い、咳き込む音とうめき声が、風の音に混じって絶え間なく響き渡っていた。
「……これ以上は、軍そのものが瓦解する」
灰色の空を見上げながら、僕はひび割れた唇を噛んだ。進んで比叡山を攻め上ろうにも、凍りついた急斜面と要害を前にしては、残存する織田の英兵を無駄にすり潰すだけの自殺行為に等しい。かといって、このまま退いて国へ帰ろうとすれば、どうなるか。それは「包囲を諦めて逃げ帰った」という敗軍の烙印を己の額に押すことと同義である。背中を見せれば、雪山の奥で息を潜めている浅井・朝倉軍が勢いづき、再び我らの背後を襲うだろう。さらには、周囲で日和見を決め込んでいる諸国の大名たちに「織田は力尽きた」という致命的な弱みを見せることになる。
進退、ともに窮まれり。敗軍の兆しは、静かに、だが確実に、織田陣営全体を黒い影のように覆い始めていた。
凍てつく深夜。信長の陣屋を訪れた僕は、人払いをした上で、静かに平伏した。床几に座る信長様の顔色は、揺らめく篝火の下であっても蒼白に見えた。彼自身もまた、極寒の野陣で肉体を削られ、眠れぬ夜を幾日も過ごしていたのだ。
「……猿。軍を動かしたとて、山は落とせぬか」
「はい。率直に申し上げ、今の我らに比叡山を攻め落とすだけの力は残っておりませぬ。のみならず、このまま陣を張り続ければ、半月と経たずに兵の半数が凍え死ぬか、病に倒れましょう」
「ならば、背を見せて美濃へ逃げ帰れと申すか」
信長の声に、冷たい殺気が混じる。退却は敗北である。己の覇道に「逃亡」の二文字を刻むくらいならば、全軍玉砕してでも比叡山を焼き払う。魔王の瞳の奥に宿る、そんな自暴自棄に近い破滅的な光を、僕は正面から見据えた。
「――いいえ。我らは『逃げる』のではありませぬ。誰の目から見ても、極めて大義名分のある『名誉ある撤退』を行うのです」
「……名誉ある撤退だと?」
「はい。武門の意地でも、損得勘定でも動かせぬ硬直状態ならば……それを上回る『絶対の理』をもって、盤面ごと叩き割ればよいのです」
僕は、懐から一枚の密書を取り出し、信長の前へと差し出した。それは、僕がこの数ヶ月の対陣の裏側で、密かに、そして死に物狂いで張り巡らせていた「蜘蛛の糸」の成果だ。
僕――木下藤吉郎という男は、ただ戦場で槍を振り回し、夜襲を仕掛けるだけの武将ではない。かつて信長が足利義昭を奉じて上洛を果たした際、僕は京都の「守護代」として、洛中の政務と治安維持を任されていた。その時に僕が何よりも心血を注いだのが、朝廷――すなわち、堂上の方々と呼ばれる公家衆との関係構築である。未来の知識を持つ僕にとって、「権威」というものがどれほど恐ろしい力を持つかは、歴史が証明している。
当時の公家衆は、格式こそ高いものの、果てしなく続く戦乱によって領地を奪われ、その日の生活にも困窮するほどの極貧状態にあった。そこへ、野上がりで身分の低い僕が、莫大な献金と手厚い保護、そして何より「彼らの格式に対する心からの敬意」をもって接した。プライドだけが高く、武士を野蛮人と見下していた公家たちも、飢えには勝てない。ましてや、低姿勢で気を配り、文化を重んじる振る舞いを見せる藤吉郎に対し、彼らは次第に心を許していった。
なかでも、朝廷の中枢に位置する日野大納言とは、とりわけ心を解け合わせ、懇意な関係を築き上げていた。僕は、この極寒の対陣が泥沼化する数ヶ月前から、密かに日野殿へ使者を送り、膨大な黄金とともに「ある工作」を依頼し続けていたのだ。
「信長様。私は京都の公家衆を通じ、禁廷へと奏聞を行っていました。『王城の近くで戦乱が長引き、民草が苦しんでいる。どうか、畏れ多くも帝の御口より、三家に矛を収めるようご命令いただきたい』……と」
信長の目が、大きく見開かれた。
朝廷を動かす。天皇の命令である「勅命」を引き出す。それは、ただの武将が思いつくような戦術の次元を遥かに超えた、国家の最上位機構を利用した盤面操作だ。
「帝より『和睦せよ』との勅命が下れば、我らが退くのは敗北による逃亡ではなく、朝廷への『恭順』となります。同時に、浅井や朝倉とて、勅命に背いてまで戦を続行することは不可能です。もし背けば、彼らは正式に『朝敵』となり、討伐の対象となり得ます」
陣屋の中に、炭が爆ぜる音だけが響いた。信長は、僕の差し出した密書――日野大納言からの、勅命降下の確約を伝える書状――をじっと見つめたまま、やがて、喉の奥で低く笑い声を漏らした。
「……く、ふっ……はははははッ!!」
それは、怒りでも絶望でもない。己の想像を絶する盤外戦術を平然と仕掛けてきた目の前の男に対する、底知れぬ歓喜の笑いであった。
「猿よ。貴様という奴は……武士の誇りも面子も、神仏すらも飛び越えて、帝の御威光を戦の道具に使うか」
「すべては、信長様の天下布武のため。その御身を、こんな泥まみれの雪山で損なわせるわけにはいきませぬゆえ」
僕は畳に額をすりつけながら、冷や汗を拭った。こうして、織田家は「勅命による三家和睦」という、前代未聞の政治的決着へと舵を切ることになったのである。
12月10日。冷たい風が吹きすさぶ近江・三井寺の境内に、厳粛で雅な香りが漂っていた。禁廷からの勅使として下向された日野大納言。そして、足利将軍家からの上使として遣わされた二階堂駿河守。煌びやかな平安装束に身を包んだ彼らの姿は、泥と血と汗にまみれた僕たち武将たちとは、まるで住む世界が違う生き物のようだった。
三井寺の本堂に、織田信長、そして山を降りてきた浅井長政、朝倉義景の三名が集結した。数ヶ月にわたり、互いの命を奪い合い、憎悪の炎を燃やし尽くしてきた三将が、武器を置き、一定の距離を保って床の上に平伏する。その異様な緊張感の中、日野大納言が静かに、そして厳かに綸旨を開き、読み上げた。
『織田、浅井、朝倉の三家は和睦をなし、軍民の苦しみを救うべし。なかんずく、王城の近くにて対陣をなし、干戈を動かすことは、その畏れなきにあらず。早く軍陣を引き払い、各々領国へ退くべし――』
絶対の威光。誰も逆らうことのできない、日本国の頂点からの言葉。これに加え、足利将軍家からも和睦を促す御書が賜られた。
その瞬間、僕は浅井長政と朝倉義景の横顔を密かに盗み見た。彼らの表情には、屈辱や無念の色よりも、明確な「安堵」が浮かんでいた。無理もない。彼らとて、比叡山の山中で凍えるような寒さと食糧不足に苦しみ、限界を迎えていたのだ。夜襲で兵糧を奪われ、奇襲で味方を散々に打ち破られ、戦意はとうに挫かれていた。
「帝の命令だから、仕方なく兵を引く」。
この大義名分は、織田軍だけでなく、彼ら浅井・朝倉軍にとっても、切死にを回避して名誉を守るための、渡りに船とも言える究極の「言い訳」だった。
「……謹んで、勅命を領掌仕る」
信長が低く答え、続いて長政と義景も深く頭を下げた。互いに裏切らぬよう、神仏に誓う起請文――盟約の神文が取り交わされ、ここに三家の和睦は正式に調った。勅使である日野大納言は、自らの務めが無事に果たされたことに喜悦の表情を浮かべ、将軍家の上使とともに、同13日、無事に京都へと帰還していった。
和睦が成立した翌、14日の暁。凍てつくような白い息を吐きながら、志賀・宇佐山に陣取っていた織田軍は、ついに撤収を開始した。長きにわたる地獄のような野陣からの解放。兵士たちの顔には、疲労の極致の中にも、ようやく故郷へ帰れるという生気が蘇っていた。
信長は、少数の供回りとともに船に乗り換え、静寂を取り戻した琵琶湖の湖水を渡り、瀬田の山岡美作守の館へと入った。15日には、残る戦将たちにも正式に御暇が賜られ、僕たちもそれぞれ自らの持ち城へと軍を退いた。16日、信長は無事に本拠地である岐阜城へと帰還した。
一方の浅井・朝倉軍も、15日には壺笠山をはじめとする五ヶ所の陣を一斉に引き払い、長政は居城である小谷城へ、義景は足早に越前へと帰国していった。誰も死なない。刃を交えることなく、数万の軍勢が雪解けのように消えていく。
元亀元年、9月下旬から12月中旬に至る、約三ヶ月間に及ぶ血みどろの対陣は、こうして「朝廷の権威」という不可視の力によって、あっけなく幕を下ろしたのだった。
自らの居城に戻り、ようやく暖かな火鉢の前に座った僕は、冷え切った手のひらを擦り合わせながら、深い溜息を吐いた。
生き延びた。織田の軍勢を、そして僕自身の命を、凍死と破滅の淵から見事に救い出した。だが、安堵の感情よりも強く僕の胸を占めていたのは、得体の知れない「畏怖」だった。未来の日本人としての記憶を持つ僕は、ただ歴史の知識を使って、この戦国時代を要領よく生き延びようとしていたに過ぎなかった。
でも、今回僕がやったことはどうだ。僕は、日野大納言という人間を利用し、日本の頂点に君臨する天皇の命令すらも、自らの戦局を動かすための「駒」として盤上に叩きつけた。人を斬ることには、まだ罪悪感があった。しかし、権力を操り、何万という人間の運命を一枚の紙切れで左右することに、僕は恐ろしいほどの万能感と、暗い快感を覚え始めている。
「天下を取るのは器でなく、縁と時だ」――。
いつか夢に見た、母の言葉が脳裏に蘇る。今回の和睦は、決して平和への道標などではない。あくまで、織田家が凍え死ぬのを防ぐための「時間稼ぎ」に過ぎない。ひとまず国へ帰り、体勢を立て直し、軍備を整え、そして重ねて計略を練り、必ずや両家を完全に討ち破る。信長の腹の底も、そして僕の腹の底も、その冷酷な殺意で完全に一致していた。
火鉢の赤い炭が、パチリと爆ぜた。胸の中の日輪は、もはや温かい光ではない。すべてを焼き尽くし、飲み込もうとする野心の業火となって、僕の血肉を焦がしている。
木下藤吉郎。いや、豊臣秀吉という怪物が、僕という転生者の殻を突き破り、完全に覚醒しようとしていた。僕は、炎を見つめたまま、口の端を歪めて嗤った。
生き延びるための戦いは、終わった。ここからは、天下を奪い取るための戦いだ。浅井長政、朝倉義景。次に出会う時が、貴様らの本当の地獄の始まりだ。首を洗って、待っているがいい――。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
勅命によって三家和睦
同十二月十日、禁廷より勅使として日野大納言殿ならびに將軍家の上使、二階堂駿河守、三井寺に入らせ給ひ、「織田、淺井、朝倉の三家和睦をなし、軍民の苦しみを救ふべし。なかんづく王城近く對陣をなし、干戈を動かすことその畏れなきにあらず。早く軍陣を引拂ひ、領國へ退くべし」旨綸旨を下され、將軍家よりも御書を賜ふ。ここにおいて信長、長政、義景の三將、早々(そうそう)三井寺に參じ、謹んで命を領掌し、互ひに盟約の神文を取り交はし、三家和睦調ひければ、勅使はなはだ喜悅しましし、足利の上使ともに、同十三日、京都にこそ歸らせ給ふ。翌十四日の曉、織田信長、志賀宇佐山の陣及び味方の諸將ことごとく陣拂し、信長公は船に召され湖水を渡り、瀨田の山岡美作守が館に入らせ給ひ、翌十五日、戰將らに御暇賜はり、めいめい持城へ退きける。十六日に事なく岐埠に入らせ給へば、淺井、朝倉も、十五日壺笠山及び五ヶ所の陣を引拂ひ、長政は小谷に入り、義景はすぐに越前へ歸國しける。さていかにしてこのたびの對陣、禁廷より御扱ひありけるやとその謂れを尋ぬるに、木下藤吉郎が計ひなりけり。元來藤吉郎京都の守護代たりしと記したる略、左のごとし。堂上の方々(かたがた)と親しく交わり、なかんづく日野殿とはとりわけ心解けて、堂上の方々(かたがた)と親しく交わり、なかんづく日野殿とはとりわけ心解けて、睦まじく給ひぬれば、密かにこの日野殿にたよりて和睦の儀を奏聞し、終に勅を下し賜はり、三家勅詭に背くこと能はず、事なく歸國なさしめたり。この對陣九月下旬より十二月中旬に至り、嚴寒面を裂くがごとく、兵士苦しんで病に臥す。淺井、朝倉は比叡山の切所によって陣を張れば、信長進んで戰ふこと叶はず、また退いて國に歸らんとすれば、織田の英兵ここに廢す。まことに進退ともに窮まり、終には敗軍の祥現然と顯れければ、所詮ひとまづ歸國なし、重ねて計略を以て兩家とも討破らん木下が智謀なりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
園城寺は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山の寺院。山号は長等山。本尊は弥勒菩薩。開基(創立者)は大友与多王。日本三不動の一つである黄不動で著名であり、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所で札所本尊は如意輪観世音菩薩である。また、近江八景の一つである「三井の晩鐘」でも知られる。なお一般には三井寺として知られる。平安時代などの日本古典文学で、何も注釈を付けず「寺」と書かれていれば、この園城寺を指す(当時の古典文学では延暦寺もしばしば取り上げられているが、こちらは「山」(比叡山)と呼ばれている)天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、当寺は突如として秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられた。当寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。出典:wikipedia




