1-15 理解されぬ天才と、忠臣の死
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
三百人もの僧侶を恐怖の底へ突き落とし、そして一転して「父の供養のためだ」と頭を下げる。あまりにも極端で、あまりにも合理的なその一手は、僕にとっては「信長という化け物」の本質を決定づける事件だった。
だが――その真意を、本当の意味で理解できた者は、清洲城の中にほとんど存在しなかった。捕らえられていた僧たちは、「命を助けられた」という結果だけを見て涙を流した。下級武士たちは、「結局は丸く収まった」と胸を撫で下ろした。
だが、古くから織田家を支えてきた宿老たちだけは違った。彼らの目には、あの一件は「常軌を逸した危険な狂行」にしか映らなかった。
「結果が良ければ何をしても良いというのか」
「いずれ殿は、取り返しのつかぬ災いを招かれる」
「あの御気性では、織田家そのものが長くは持たぬ……」
家中には、そんな陰鬱な囁きが絶え間なく広がっていた。
そして、その苦悩を最も深く背負い込んでいたのが、信長の傅役にして筆頭家老――平手中務政秀だった。
政秀の苦悩は、下働きの僕の目から見ても痛々しいほどだ。政秀は信長が幼い頃から、昼夜を問わずその傍に付き従い、我が子のように慈しみ育ててきた男だ。
「殿……! どうか、どうかあのような異風はお止めくだされ。政を放り出し、うつけの真似事ばかりを続けていては、人心は離れ、織田の家は内側から崩れ去ってしまいまする!」
城の廊下で、広間で、あるいは庭先で。政秀は機会を見つけては、地に額を擦りつけ、血を吐くような声で諫言を繰り返した。けれど、信長は決してその言葉に耳を貸さなかった。面倒くさそうに顔を背け、時には冷酷な一瞥を投げかけるだけで、相変わらず茶筅髪に短い小袖、腰に火縄銃という異様な出立ちで城を抜け出していく。
(信長、なぜ一言だけでも『これは芝居だ』と明かさないんだ……?)
僕は奥歯を噛み締めた。理由は分かっている。情報というものは、共有する人間が増えれば増えるほど漏洩のリスクが高まるからだ。最も信頼する右腕すら騙し抜いてこそ、敵対勢力に対する完璧な情報統制が成立する。信長は、底知れぬ孤独の中で、たった一人でこの狂気の盤面を回している。だが、その冷徹な合理性は、古い時代の価値観で生きる政秀には届かない。
「……かくなる上は、もはや手段はない」
ある雪の降る夜。政秀が自室で、ぽつりとそう呟いたという話を、僕は小耳に挟んだ。四方すべてが今川、斎藤、北条といった強大な敵国に囲まれ、互いに隙を窺い合っているこの戦国の秋。若き当主の狂態によって国が滅びれば、自分はあの世で亡き大殿・信秀に何と顔を合わせればよいのか。
――所詮、この命を以てお諫め申し上げるしか、道はない。万が一にも、我が死によって殿が目を覚ましてくださるのならば。
それは、忠義という名に縛られた武士の、最も純粋で、最も狂気じみた自己犠牲だった。
数日後。清洲城は、凍りつくような静寂と、爆発的な動揺に包まれた。平手中務政秀が、自室にて見事な十文字に腹を掻き切り、自刃した。
「平手様が……殿を諫めるために、御切腹を……!」
「ああ、なんという痛ましい……これほどまでの忠臣を死に追いやるとは、殿はやはり、真のうつけよ……!」
家中は悲嘆に暮れ、信長に対する絶望と反発の声が、もはや隠しきれないほどに膨れ上がっていた。僕は薄暗い城の廊下で、冷たい雑巾を握りしめたまま立ち尽くしていた。歴史の知識として「平手政秀の諫死」は知っていた。テストの点数を取るための、単なる年号と出来事の羅列として。
けれど、今僕の目の前にあるのは、血と肉を持った一人の老人が、絶望の中で腹に刃を突き立てたという、生々しい「死」の現実だった。情報格差が、最も悲惨なバグを引き起こした。
その日の午後。政秀の嫡男である監物が、血に染まった一紙の「諫書」を抱き抱えるようにして、信長の居室へと向かうのを見た。政秀は死の直前、数箇条にわたって織田家の危機と利害を書き連ねた遺書を遺し、さらに『六韜三略』をはじめとする軍学・陣法の奥義をすべて息子に伝え終えた上で、果てたのだという。
(……見届けなきゃいけない。この悲劇の結末を)
僕は火鉢の炭を替える下働きを装い、信長の居室の隣、襖一枚を隔てた控えの間へと滑り込んだ。胸の奥の太陽が、警鐘のように激しく脈打っている。
室内には、重苦しい沈黙が満ちていた。上座には、相変わらず無造作に足を崩して座る信長。下座には、涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らした監物が、平伏したまま震える手で血塗られた諫書を差し出していた。
「……父・政秀より、殿へ……命を懸けた、最期の御言葉にございまする……!」
絞り出すような監物の声。衣擦れの音がした。信長が、無言のままその遺書を手に取った。襖の隙間から息を殺して覗き込んでいた僕は、そこで信長に起きた「変化」を見て、全身に鳥肌が立つのを感じた。
これまで彼に纏わりついていた、あの捉えどころのない、弛緩した「うつけ」の空気が――完全に、消え失せていた。背筋は刃物のように真っ直ぐに伸び、常に据わっていた瞳には、深い、あまりにも深い悲哀の色が満ちている。彼は広げた遺書の文面に目を落としたまま、微動だにしなかった。
「…………爺め」
ぽつり、と。信長の口からこぼれ落ちたのは、冷酷な狂人のそれではなく、たった一人の理解者を失った、孤独な青年の震える声だった。
「さしも才智に長けた中務の爺も、俺の……俺の真の本心だけは、ついに理解ってくれなかったか……!」
ボタ、ボタボタ、と。信長の目から大粒の涙が溢れ落ち、血に染まった諫書を濡らしていった。あの怪物のように冷徹な織田信長が、声を上げて、子供のように泣いていた。僕は自分の目を疑いながらも、その圧倒的な悲しみの質量に当てられ、息をすることすら忘れていた。
「……監物。よく聞け」
ひとしきり涙を流した後、信長は諫書を自分の顔に押し当てたまま、低く、押し殺した声で語り始めた。
「俺は、新たに大黒柱である父を失った。周囲を見渡せば、今川、斎藤、北条……どいつもこいつも、織田の領地を喰い破ろうと牙を研いでいる獣ばかりだ。こんな戦国の真っ只中で、尋常の、お行儀の良い大将の真似事などしていて、この国が保てると思うか?」
その言葉は、痛いほどの合理性を帯びて、静まり返った部屋に響き渡った。
「傍若無人な振る舞いをして見せ、隣国の強敵を物の数ともしない態度を取り続けたのは、すべて俺の計略だ。わざわざ往来の僧を無闇に捕らえ、俺の異風な姿を見せつけた上で金を与えて追い返したのはなぜか分かるか?」
「そ、それは……」
「諸国へ風聴させるためだ。『尾張の信長は、ただの若造ではない。常識の通用しない、底知れぬ狂気を持った化け物だ』と。そう思わせることで、敵の侵攻を躊躇わせるための盤面操作だ」
監物は、目を見開いたまま声を出せずにいた。無理もない。父親が命を懸けて諫めた「主君の狂気」が、すべては織田家を存続させるために計算し尽くされた、高度な防衛戦略だったと告げられたのだから。
「あるいは、俺を『単なるうつけ』と見下し、油断して攻め込んでくる馬鹿な輩がいれば、微塵に打ち砕いて恐怖を植え付ける。そうやって敵を欺き、時を稼ぎ……終にはこの天下を縦横に切り従えてみせる。それが、俺の本心だ」
信長は顔から諫書を離し、赤く血走った目で監物を、いや、虚空を見つめた。
「それほどの覚悟で泥を被り続けてきた俺の真意を……爺は、ついに知らぬまま死んでしまった。それが、それが俺は……悲しい」
信長の目から再び紅涙がこぼれた。天才ゆえの孤独。あまりにも先を見据えすぎた視座は、時代を生きる凡人たちには決して理解されない。信長は、織田家を守るために、最も愛する育ての親を「騙し殺す」結果になってしまった。その事実に気づいた監物は、畳に頭を擦り付けたまま、わあっと声を上げて泣き崩れた。
「……殿が御若年でありながら、それほどまでに恐ろしい天性の英才をお持ちであり、名将としての深き計略があったとは……!それを知らず、父は幾度も誹謗にも似た諫言を……!申し訳ありませぬ、返す返すも恐れ多きこと!」
監物は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、絞り出すように叫んだ。
「ですが……! 父・政秀も、草葉の陰で殿の真の御心底を承り、どれほど嬉しく、誇らしく思っていることでしょうか……! 我が主君は、天下を束ねる真の器であったと……!」
主従は、もろともに数時間の間、声を上げて泣き続けた。襖の向こうで震えていた僕の目からも、いつの間にか熱い涙が止めどなく溢れていた。
歴史書には一行で記される「平手政秀の死」。その裏側には、これほどまでに痛切で、残酷で、そして純粋な魂の激突があったとは。
やがて、信長は自らの手で乱れた茶筅髪を撫でつけ、涙を拭った。その顔にはもう、過去の悲哀は微塵も残っていなかった。代わりに宿っていたのは、全てを焼き尽くすような、冷たく強烈な覇王の光だ。
「監物。お前は今、初めて俺の本心を知った。だが、この事は固く他言無用とする」
「は、ははっ……!」
「俺も、いつまでもこんな狂人の真似事を続けるつもりはない。――時が来たのだ。俺は行状を改め、国政を執り行う」
信長は立ち上がり、血に染まった遺書を懐に深く仕舞い込んだ。
「そうしなければ、中務の爺の忠死が、空しいものになってしまうからな」
その言葉は、信長が己自身に課した、呪いにも似た絶対の誓約だった。監物はもう何も言葉を発することができず、ただありがたき君命に平伏し、涙に暮れるしかなかった。けれど、その背中には、底知れぬ智仁を持った主君への絶対的な忠誠が刻み込まれていた。
(……終わったんだ)
控えの間の暗がりの中で、僕は震える自分の両手を強く握りしめた。織田信長の「雌伏の時」が終わった。狂気の仮面を脱ぎ捨てた真の怪物が、これからこの尾張を起点として、戦国という地獄の盤面を凄まじい速度で喰らい尽くしていく。
胸の奥の太陽が、これまでで最も激しく、焦げるような熱を放っていた。怖い。けれど、どうしようもなく惹きつけられる。
僕は、この血と涙で舗装された道を往く魔王の背中に、どこまでも喰らいついていく覚悟を決めた。僕の持てる全ての現代の知恵を総動員して、信長をあの天辺へと押し上げるために。
夜が明けようとしていた。冷たい清洲城の空気が、少しだけ、熱を帯びたように感じた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
平手政秀諫死
さても信長卿の行跡正しからざるにより、平手中務政秀しばしば諫言を勧むれども、曾て用ひ給はず。平手退いて思惟するに、「我信長卿の御乳母として、幼くまします時より、晝夜御傍を去らず守立て進らせたりしに、かく異風を好み給ひ、御心揃はせ給はずしては、新に家督に著かせ給ひ、いかがして國家を保んじ持ち給はんや。況んや今四方ことごとく敵國にして、互に透を伺ひ奪はんと計る秋なり。自然當家滅亡に及び、國陥るの時に至らば、何の面目あつて死して先君に謁し奉るべき。所詮死を以て諌め奉らば、萬が一つも御用ひのこともあるべし」と心を定め、一紙の諫書に數條の利害を演べ記し、息男監物に遺言して、死後信長卿へ呈せしめ、軍學陣法、六韜三略の奥旨どもことごとく監物に傳へ、終に腹掻切つて死したりける。監物は涙ながら、かの諫書を持て信長卿に捧げ、泣く泣くことの次第を言上すれば、信長大いに驚き、その遺書を抜き見て、聲を發して悲しみ歎き、「さしも才智賢き中務も、我が本心を知らずして、諫死を遂げたるこそ、返す返すも残念なれ。我新に父を失ひ、今戰國の中に跨がり、尋常にては國を保つこと能はず。さる故に傍若無人の行状をなして、隣國の強敵を物の数とせざるは、我が深き計策なり。往来の僧を捕へ、我が異風を彼らに示し、金銭を與へ去らしめたるは、信長こそ活気の若者、尋常の將にあらずと、諸國へ風聽させんためなり。或ひは我を狂なりと思ひ伺ひ来る者あらば、微塵になして勇みを示し、終には天下に縦横せん我が本心を知らざりけるこそ悲しけれ」と、諫書を面に押当て、さめざめと泣き給へば、監物は低頭平身、「君御若年にましますといへども、天性自然の英才にして、かかる計策ある名將とも知らず、誹謗がましき諫言、返す返すも恐れあり。父政秀も草の陰にて御心底を承り、いかほどか嬉しく思ひ侍るべし」とて、信長卿もろともに、紅涙数刻に及びけり。信長重て仰せけるは、「汝今初めて我が本心を知るといへども、堅く他に語るべからず。我久しくこの行ひをなすべき所存にもあらざれば、やがて行状を改め、堅固に國政を執り行ふべし。然るときは中務が忠死空しからじ」とありがたき君命に、監物とかうの言葉もなく、ただ涙にぞくれけるが、信長卿の智仁、凡慮の及ぶべきところにあらずと密かに欣び、いよいよ忠志を勵みけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
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