2-25 反撃の狼煙は、素手で上がる
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
血風吹き荒れる姉川の戦いは、いよいよ最大の最終局面へと向かおうとしていた。
愛息・久蔵を目の前で失い、半狂乱になりながらも家臣に止められた坂井右近は、血の涙を流しながら再び勢を引き上げた。この織田軍先鋒の完全なる撤退劇は、浅井方の兵士たちに強烈な士気を与えた。
「見ろ! 織田の先陣が逃げていくぞ!」
「勝てる! 俺たちは魔王に勝てるんだ!」
勢いづいた浅井方は完全に戦意を得て、次なる防衛線である佐久間、池田の兵たちを切り破らんと、飢えた狼のように挑みかかっていった。そして、この戦況の好転を、後方で息を潜めて見ていた男がいた。序盤で僕の奇計に引っかかり、一度は戦線から離脱していた浅井の猛将――磯野丹波守である。
「……風向きが変わったな」
後陣に控えてスタミナを回復させていた磯野は、味方の猛攻を見て獰猛な笑みを浮かべた。彼は即座に乱れていた備えを立て直し、総大将・浅井長政の軍勢と合流して、織田本陣への総攻撃をアシストしようと動き出した。
「おいおいおい、嘘だろ。あの磯野、まだ動くのかよ」
僕は姉川の泥水をすすりながら、戦況の急変に舌打ちをした。先ほどの戦いで浅井の軍勢を真っ二つに割った後、僕たち木下勢は左右に分かれて一時休戦し、息を整えていた。だが、遠目に見える磯野の軍勢は、再び闘志を燃やして全軍突撃の構えを見せている。もしここで磯野の軍団が長政の本陣と完全に合流してしまえば、浅井軍の攻撃力は足し算ではなく掛け算になってしまう。
「……休んでいる暇はないみたいだな。小一郎、小六! 全軍に告げよ!」
僕は立ち上がり、泥だらけの刀を天に突き上げた。
「これより我が軍は、敵総大将・長政の『後ろ』と、突撃してくる磯野の『前』の間にクサビを打ち込む! 両面からの挟み撃ちにされる最悪のポジションだが、ここで踏ん張らなきゃ織田家は終わりだ! 死ぬ気でついてこい!!」
「「「おおおおおッ!!」」」
僕の無茶苦茶な下知に対し、木下勢の野郎どもは歓声とも悲鳴ともつかない雄叫びを上げて突撃を開始した。目指すは、長政軍と磯野軍の接合点。僕たちは喚きながら敵のど真ん中へ駆け入り、前後両方からの敵意を一身に受け止めながらの防衛戦を開始した。
この時の姉川の合戦のありさまは、もはや「人間のやること」を逸脱していた。まさに地獄の曼荼羅だ。東の最前線では、信長を直接守護する旗本である氏家、安藤の二将が、浅井の先手・赤尾、中西らと血みどろの死闘を演じている。その次の激戦区では、佐久間、池田の残存兵力が、総大将・浅井長政の直属エリート部隊と激突。そして長政の背面では、僕の軍勢が長政の背中を突こうと挑み戦い、さらに僕の背後からは、復活した磯野丹波守の軍勢が波のように押し寄せてくる。サンドイッチがさらにサンドイッチされているような、滅茶苦茶な多重乱戦。かつて信長が駿河の今川義元を討ち取った『桶狭間の戦い』以来、ここまでの大規模かつ烈しい戦いは存在しなかっただろう。
ヒュンッ! ドガァァンッ!!
空気を切り裂く矢叫びと、間断なく放たれる鉄砲の爆音。それは大空に響き渡り、夏の雷よりもすさまじく耳をつんざく。刀と刀がぶつかり合う鈍い金属音と火花は、まるで稲妻のように土埃の雲間を妖しく照らし出していた。泥を蹴立てて馳せ違う人馬。断末魔の叫び。腹の底から湧き上がる鯨波。その全てが坤軸(大地の底)を震わせるほどの、恐怖と熱狂に支配された戦場だった。
「押し返せェ! 一歩も引くなァ!!」
僕の陣営からは、歴戦のヤンキー・蜂須賀小六をはじめ、堀尾茂助、加藤虎之助(かとうとらのすけ・のちの清正)、福島市松(ふくしまいちまつ・のちの正則)、片桐助作といった、未来の豊臣政権を担う最強の物理アタッカーたちが競い合うように敵陣を切り回っていた。だが、迎え撃つ磯野の従兵たちもタダ者ではない。萩野弥太郎、上村新吾、宮本彦治郎、飯森三太夫、島田権右衛門――浅井家が誇る『一人当千の勇夫』と呼ばれる精鋭たちが立ち塞がる。
右に当たっては弾き返され、左に支えては鎬を削る。完全な膠着状態。お互いに一歩も譲らず、決着は全く見えない泥沼の消耗戦が続いていた。――そんな、限界ギリギリの均衡が保たれていた、その時だ。
「……ん? なんだあれ?」
忽然として、磯野の備えの後衛から、陣形が波打つように乱れ立った。まるでモーゼの十戒のように、浅井の兵士たちが左右にさっと開き、パニックを起こして後方から崩壊を始めたのである。敵も味方も、「伏兵か!?」「何事だ!?」と武器を下ろして驚き見つめる。
土煙が晴れたそこには――信じられない光景があった。
身長、およそ六尺余(約185cm超え)。未来の基準でも大柄だが、平均身長が150cm台のこの戦国時代においては、完全に「見上げるような巨人」だ。黒い木綿の糸で威した無骨な具足を着込み、頭には鍬形を打った兜を、太い猪首に深く被っている。だが、一番異常なのはそこじゃない。その巨漢は――刀も、槍も、いかなる武器も持っていなかった。
「うおおおおオオオォォォッ!!」
巨漢は両腕を大きく広げると、群がる磯野の完全武装した兵士たちを、まるで羽虫でも払うかのように片端から『素手』で掴み上げた。そして。
「ひぎぃッ!?」
「ぐべぇッ!?」
ブンッ! ドゴォォォン!!
なんと、重さ数十キロはあるはずの甲冑を着た武者たちを、まるで子供が川に向かって水切りをするかのように、次々と軽々と投げ飛ばした。宙を舞った兵士たちが他の兵士に激突し、ボウリングのピンのように陣形がなぎ倒されていく。荒れに荒れて、戦場を馳せ巡るその姿は、完全に『バグキャラ』だった。
たった一人の素手の男によって薙ぎ倒され、あれほど鉄壁を誇った磯野の精鋭部隊が、見るも無残にグチャグチャに乱れ、悲鳴を上げて逃げ惑っている。
「……は、ははっ! なんだあのチート野郎は!!」
僕は呆然とした後、頭をフル回転させた。理由はわからないが、あの巨漢はどう見ても敵である浅井軍を攻撃している。ならば味方だ。
「おい、ボーッとするな! あの味方を助ける勇士を討たすな! 続けや、続けやァ!!」
僕が下知を飛ばすと、血の気の多い加藤虎之助が「オラァッ!」と真っ先に馬を駆け出し、土煙が立ち込める敵陣のど真ん中へ喚いて駆け入った。それに負けじと、新参の郎等である井上大九郎が、主君よりも先に走り出て、身の丈ほどの巨大な大薙刀を振り回して切り立てる。さらに片桐、蜂須賀の一統、堀尾、中村といった物理特化のヤンキー軍団が「俺も俺も!」と先を争って切り回り始めた。
巨漢による内部崩壊と、木下勢の総攻撃。これにはたまらず、流石の磯野の従兵たちも戦意を喪失し敗走を始めた。
「す、すげえ……」
僕は遠目からその光景を見ながら、興奮で震える声を上げた。
「あんな素手で重武装の兵士を投げ飛ばす奴、前世のゲームでしか見たことないぞ。味方を助けてあそこまで勇戦するなんて、一体何者なんだ? おい、名を聞いてこい!」
僕が指示を出すと、軍使が馬を馳せて巨漢に駆け寄り、大声で呼びかけた。
「おおーい! 味方を助けて戦ってくださる御仁! 貴殿は誰人なるぞ! 我が主・木下藤吉郎秀吉様が、姓氏を教えて欲しいと仰せだ!!」
その時、かの素手の巨漢勇士は、磯野軍のネームド武将の一人・島田権右衛門と、なんと『素手 vs 太刀』というハンデ戦の真っ最中だった。鋭い白刃を紙一重でかわしながら、巨漢は太い声で答えた。
「俺かァ!? 俺は、加藤虎之助様が郎等――」
グシャッ!!
言い終わるか終わらないかの瞬間、巨漢の丸太のような腕が島田の首をへし折り、文字通り『素手で切り裂いて』しまった。
「――木村又蔵なりィィッ!!」
血しぶきを浴びながら名乗りを上げるその姿に、軍使は戦いを最後まで見届けることもできず、ヒィッと悲鳴を上げて逃げるように引き返してきた。
「と、藤吉郎様! と、虎之助様の家臣で、木村又蔵と申すそうです!」
「虎之助の部下!? あいつ、いつの間にあんな化け物を引き当ててたんだ!?」
難なく島田の首をむしり取って引き返してきた木村又蔵に対し、主である加藤虎之助は喜んで馬を駆け寄せた。
「木村又蔵! あっぱれだ!、褒める言葉もねえぞ! よくやった!」
虎之助に褒められた又蔵は、さっきまでの鬼神のような暴れっぷりが嘘のように、ペコリと小さく(といってもデカいが)頭を下げて謹んで言った。
「へへっ、恐れ入ります。実はですね、俺の母が三日前に死にまして」
「……は?」
「で、葬式の弔いを一通り終わらせてから、今日が初めての御目見だったもんで、なんの挨拶もなしじゃマズイかと思いましてね。合戦の真っ最中でしたが、奉公はじめの『手土産』をようやくこしらえて参りました」
そう言って又蔵は、腰の縄にぶら下げていた生首を3つ、4つ、ゴロンゴロンと虎之助の前に差し出した。
「手土産って……敵の首かよ! お前、マジで狂ってんな! 最高だぜ!」
虎之助はテンションMAXになり、又蔵を伴って後方にいる僕のところへ謁見させに来た。
「藤吉郎様! こいつが俺の自慢の部下、木村又蔵です!」
「ち、初めまして。手土産の首ッス」
「…………」
血をしたたらせる生首を無邪気に差し出す巨漢。3日前に母親の葬式を出したばかりで、初出勤の挨拶代わりに敵の首をもぎ取ってくる男。前世の僕なら逃げ出しているところだが、今は戦国時代。狂気が最高の武勲となる狂った世界だ。僕は引き攣る頬を必死に抑え込み、努めて鷹揚に頷いた。
「よ、よくやった木村又蔵! その武勇、殊に感じ入ったぞ! この戦が終わったら、厚く褒賞を出してやるからな!」
「おおっ! ありがたき幸せ!!」
素手のバーサーカーという予想外の戦力によって、背後を脅かしていた磯野軍は完全に崩壊した。僕は前世の倫理観を泥の中に蹴り飛ばし、再び刀を構えた。
「よし、背後の心配は消えた! 野郎ども、全軍を一箇所にまとめろ! このままの勢いで、長政の本陣を『後ろ』から完全に攻め潰すぞ!!」
地獄の姉川に、反撃の狼煙が上がった。日輪の夢を見た僕の戦いは、ここからが本番だ。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木村又藏勇力
坂井右近ふたたび勢を引上げければ、淺井方これに氣を得、佐久間、池田が兵を切り破らんと挑み戰ふ。前に敗せし磯野丹波守、後陣に控へてありけるが、このありさまを見て備へを立直し、長政が勢と一所になり、戰を助けんとす。木下藤吉郎秀吉、以前戰ひなかばにして、左右へ分かれて休らひ居けるが、磯野が勢惣がかりに攻め討つと見えければ、急ぎ士卒を下知して、長政の後、磯野が前に喚いて駈け入り、前後にあたつて戰ひ、この合戰のありさまこそただならね。東の方は信長公の旗本にして、氏家、安藤の二將、淺井の先手赤尾、中西らと戰ひ、その次は佐久間、池田が輩、長政の旗本と合戰をなし、長政の後に木下藤吉郎ありてこれと挑み戰へば、その後は磯野丹波守、木下が軍と合戰す。信長駿州今川義元と桶狹間に戰ひよりこのかた、かくのごとき烈しき戰なし。矢叫び鐵砲の音は、大空に響きわたりて鳴神よりもすさまじく、打ち合す太刀の輝は、電光に似て雲間を照らし、馳せ違ふ人馬、喚き叫ぶ鯨波の聲、上天に聞こえ坤軸に徹し、恐しかりし戰なり。木下が兵士に蜂須賀小六、堀尾茂助、加藤虎之助、福島市松、片桐助作らの勇士、われ劣らじと切つて廻れば、磯野が從兵にも萩野彌太郎、上村新吾、宮本彦治郎、飯森三太夫、島田權右衛門なんど、みな一人當千の勇夫なれば、右にあたり左に支へ、鎬を削り攻め合ひて勝負の色も見えざるところに、忽然として磯野が備へ後より亂れ立ち、左右にさつと開き、裏崩れて騷ぎければ、敵も味方も何事にやと驚きて見てあれば、六尺餘の大男、黑き木綿の絲にて威したる具足を著し、鍬形打つたる兜を猪首に著し、兵器は持たず大手をひろげて群がる敵を片端より取つては投げ退け、童の礫打をするごとく、荒れに荒れて馳せ巡れば、この者ただ一人に薙ぎ倒され、磯野が勇軍備へ亂れて見えたりける。木下藤吉郎大きに勇み、「味方を助くる勇士を討たすな、續けや續けや」と下知するに、加藤虎之助眞先に馬を駈け出し、村雲立つたる敵の中へ、おつと喚いて駈け入れば、新參の郎等、井上大九郎主より先へ走り出で、大薙刀を打ち振つて、切り立て薙ぎ立て戰へば、片桐、蜂須賀一統、堀尾、中村の輩、我も我もと切り廻れば、磯野が從兵さんざんになつて敗走す。件の勇士、これを見て、「味方を助け勇戰するは何者なるぞ。名を尋ねよ」と下知すれば、秀吉はるかに軍使馬を馳せて駈け來り、大音にて、「味方を助くる戰ひは誰人なるぞ。姓氏を報じ給へ」と呼ばはつたり。このときかの勇士、磯野が從兵島田權右衛門と太刀打ちして戰ひけるが、戰ひながら答へけるは、「加藤虎之助が郎等木村又藏なり」と云ひも終わらず戰ひて島田を切る。軍使この戰ひを事果てずして引返せば、秀吉かくと報ず。又藏難なく島田が首を取りて引返せば、加藤虎之助大いに喜び馬を駈け出し、「木村又藏あつぱれ勇戰感稱するに言葉なし。加藤清正これにあり」と呼ばれば、又藏謹んで申し、「某が老母三日以前に空しくなり。跡の弔ひ形のごとく執り行ひ、御目見のため參りしところ、合戰の眞最中、奉公はじめの手土産やうやうに仕り候」と、腰につけたる首三つ四つ差し出しければ、清正いよいよ悦び、伴うて秀吉に謁せしむ。秀吉木村が武勇を殊に感じ、「軍終つて厚く褒賞あるべし」とて、惣兵を一所になし、長政の旗本を後より攻めつけたり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
ネットをググってると、日本中の城郭を巡ってる方々のブログも沢山あるのですが、あちこちの古戦場を巡ってる方々のブログもけっこうあります。で、そんなブログによると姉川の合戦は、とにかく戦場エリアが広いみたいで、首塚的な石碑も古戦場のあちこちにありました(全部見ようと思ったら泊まりですねw)。もちろん写真も沢山掲載されてるので、いくつかのブロク読んだだけですが行った気分になれます。…っていうか歴史ヲタクの行動力ってスゲッw




