2-24 戦国に散る若き命
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
戦場は、もはや勝ち負けを競う場所ではなかった。槍が折れ、刀が砕け、馬が悲鳴を上げ、人が人を踏み越えて進む。土は血を吸って黒く染まり、硝煙が風に流れるたび、誰かの断末魔が耳を刺した。
そんな地獄のど真ん中を、ひときわ悲壮な覚悟を胸に駆ける一隊があった。第一フェーズで磯野丹波守に叩き潰され、一度は敗走した坂井右近と、その嫡男・久蔵だ。
「一番の合戦で敗れ……今また信長様の本陣まで破られたとあっては、どの面下げて信長様にお会いできようか!」
右近は馬上で刀を抜き放ち、声を張り上げた。
「死ぬべき時は、今しかない! 続けぇッ!!」
従う郎党は、わずか50人余り。普通なら勝負にもならない数だ。それでも彼らは、逃げ惑う味方を追い越し、誰一人として後ろを振り返らず、浅井長政の本陣へ一直線に突撃していった。その先頭を駆ける若武者がいた。坂井久蔵。今年、わずか15歳。まだ少年と言っていい年齢だったが、その闘志だけは誰よりも激しかった。
「道を開けろォォォッ!!」
身の丈ほどもある十文字槍を軽々と担ぎ、味方すら置き去りにして単騎で敵陣へ飛び込む。
「小僧を止めろ!」
「討ち取れ!」
浅井兵が四方から襲いかかる。しかし久蔵は、まるで暴風だった。右へ槍を振るえば敵兵が吹き飛び、左へ突けば鎧ごと貫く。間合いに入った敵は腕一本で掴み上げ、そのまま地面へ叩きつける。15歳とは思えない怪力。まさしく勇力無双だった。ほんのわずかな時間で、彼の周囲には数十人もの敵兵が倒れ伏す。気が付けば、長政の本陣まであと数十メートル。あと一息だった。
「長政ォォォッ!!」
久蔵は雄叫びを上げ、最後の突撃に移る。だが、その前へ一騎の武者が躍り出た。浅井家屈指の猛将――早川右馬之丞。
「そこまでだ、小童!」
ガキィィン!!槍と槍がぶつかり、火花が散る。一合。二合。三合。互いに一歩も譲らない。久蔵の槍は稲妻のように速く、早川の槍は岩のように重い。しかし、経験では早川が一枚も二枚も上だった。
(若い……。勢いはあるが、詰めが甘い)
その一瞬だった。久蔵の渾身の突きが、わずかに狙いを外す。槍先は早川の脇をかすめ、鎧の綿だけを貫いた。
「しまっ――」
体勢が流れた。その刹那。
「撃てぇぇぇぇッ!!」
ドォォン!!ドォン!!ドォン!!ドォン!!
耳を裂くような轟音が四つ、至近距離で炸裂した。早川の背後に控えていた鉄砲足軽たちが、一斉に引き金を引いた。鉛玉四発。そのすべてが久蔵の胸板へ突き刺さった。少年の身体が大きくのけ反る。握っていた十文字槍が、乾いた音を立てて地面へ転がった。
「あ……」
その声はあまりにも幼く、戦場には似つかわしくなかった。久蔵はそのまま馬から崩れ落ち、二度と立ち上がることはなかった。僕は遠くから、その光景を目の当たりにしていた。胸の奥が締め付けられる。
坂井久蔵。13歳で初陣を飾り、建部源八郎を討ち取り、信長から直々に感状を授かった神童。今年、まだ15歳。未来なら、高校一年生だ。授業をさぼって友達とコンビニへ行ったり、恋愛やゲームで盛り上がったりしている年頃。そんな少年が、この時代では「武士だから」という理由だけで戦場へ送り出され、英雄として死ぬことを求められる。あまりにも理不尽だった。信長でさえ、本陣で深くため息をついたという。
「あれほど勇敢な若者でも、味方を離れてただ一人で敵中深く入り込めば、生きて帰れる道理はない……。惜しい者を失った。」
それは武将としてではなく、一人の人間として漏れた言葉だったのかもしれない。一方、その頃。父・坂井右近は浅井掃部、浅井半助らと激しく斬り結んでいた。そこへ、一人の郎党が血相を変えて駆け寄る。
「殿……! 久蔵様が……討ち死ににございます!」
一瞬だった。右近の顔から血の気が引いた。
「……何?」
次の瞬間には、鬼のような形相へ変わる。
「久蔵ォォォォォッ!!」
彼は理性を失い、敵の大軍へ馬を向けた。
「今行く! 父も共に死ぬぞ!」
だが家臣たちが必死に馬へ取り付き、轡を掴んで止める。
「殿、お止めください!」
「放せ!」
「なりませぬ!」
何人もの郎党が泣きながら叫ぶ。
「この戦は、まだ負けたわけではございません! 信長様もご無事です!」
「殿まで討ち死になされば、坂井家は本当に終わってしまいます!」
「御手勢も戦い疲れ、今はこれ以上戦えませぬ! 一度兵を退き、この戦の行く末をご覧ください! その後のことは、その後にお決めくだされ!」
それは理屈だった。だが同時に、命懸けで主君を生かそうとする家臣たちの願いでもあった。右近はしばらく震えながら前を見つめていた。やがて刀をゆっくり下ろす。
「……そうか。」
その一言だけだった。頬を伝う涙は止まらない。武将としてではなく、一人の父親として流す涙だった。右近は何度も何度も戦場を振り返りながら、ようやく兵を退いた。その背中は、先ほどまでより何十年も老け込んで見えた。
「……これが、戦国という時代か。」
心臓の鼓動に呼応するように、胸に刻まれた日輪が、じくりと疼く。未来知識も人一人の命を救えないことがある。英雄譚の裏側には、名前すら残らない無数の死と、親が子を失い、子が親を失う悲劇が積み重なっている。
だからこそ。こんな時代を終わらせるために、僕は駆け上がらなければならない。胸の奥が熱を帯びている。
血と硝煙が渦巻く姉川の戦場は、なおも終わる気配を見せない。そして戦いは、いよいよ最終決着へとなだれ込もうとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
藤吉郎磯野丹波守を破る(二)
右近父子は一番の合戰に敗北し、今またここを破られては、何面目に君に面を合はすべき。死すべきときこそ來つたれと、郎等わづかに五十餘人引具して、逃ぐる味方に目もかけず、長政の旗本へ一參に切り入つたり。中にも嫡子久藏は血氣壯の若武者にて、十文字の槍引提げ、長政目がけ馳せ行くを、續く味方もなかりける。長政の旗本、駈けへだてて支へ戰ふを、久藏もとより勇力無雙の若者なれば、右と左へ突き倒し、近寄る者は取つて投げ退け、暫時がうち手負ひ死人數十人、長政の前三反ばかりになりければ、早川右馬之丞駈け寄つて渡り合ひ、二打三打戰ひが、早川も手だれの勇士なりけるが、いかにもなりたりけん、久藏が突く槍を受け損じて、綿を突き通され、あつと叫んで一度にどつと打ち放せば、無慙なるかな、坂井久藏、胸板に玉四つ打ちてら、そのまま倒れ死したりける。この久藏十三歳のとき初陣なりしが、建部源八郎を討つて信長公の感狀を賜はり、今年わづかに十五歳、末のもしき若者なりしを、この戰場を枕とし、討死を遂げけるを、惜しまぬ者こそなかりけり。「たとひ韋駄天をして久藏に代らしむとも、味方を離れただ一人、かくまで深く切り入りなば、などか活きて歸るべき」と、信長公も惜しみ歎かせ給ひける。父の右近正尚、このとき淺井掃部、同半助と火を散らし戰ひが、久藏が討死のよしの聞けば、共に死せんと群がる敵の中へ駈け入るを、郎等等あまた駈けへだてて、轡にすがつて諫めぬけるは、「この軍味方敗北するにもあらず、大將の御大事とも覺え候ものを、いかに狂ひ給ひて討死を急ぎ給ふぞや。すでに御手勢戰ひ勞れ、今は用に立ちがたし。早く勢を引き上げて、始終の勝負を御覽ぜられ、その後にこそともかうも御計のあるべき」とて、あながちに引返せば、右近その理に屈服し、淚をふるうて退ける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
坂井尚恒 日本の侍、武将 (1555-1570) 坂井尚恒は、戦国時代の武将。織田信長の家臣。通称は久蔵。父は坂井政尚。諱である「尚恒」は確実な史料からは裏付けられていない。弘治元年(1555年)、織田信長の家臣である坂井政尚の嫡男として生まれ、父と同じく信長に仕えた。永禄11年(1568年)に信長が上洛を開始した時にも従軍しており、六角義賢の観音寺城攻めに参加して武功を挙げ、足利義昭から感状を与えられている。その後も信長の主要な合戦の多くに参加して武功を挙げたが、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いで浅井長政の軍と戦い戦死した。享年16。出典:wikipedia
久蔵の以前の大活躍は以下投稿参照。是非もう1度w
1-92 笑う童子と、崩れゆく盤面
1-93 十三歳の窮地と、木陰の大剛




