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新訳 太閤記 ~ 転生 豊臣秀吉、未来を識る僕は史実の道を静かに歩む 〜  作者: 条文小説


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2-20 泥沼の包囲戦と苛立つ魔王

挿絵(By みてみん)


 『太閤記たいこうき』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。

 『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本よみほん。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia

 元亀元年(1570年)夏、6月。六角承禎の不穏な動きを『瓶割り柴田』の伝説的カウンターと僕のアシストによって完全に鎮圧した織田軍は、いよいよ最大の反逆者である浅井久政・長政父子を討ち破るべく、数万の大軍を引率して近江国へと発向した。


 信長は、浅井の居城である小谷城おだにじょうを直接叩くべく、すぐ近くの虎御前山とらごぜやまに本陣を構えた。そして、小谷城の周辺の村々に対して情け容赦ない放火や乱暴を繰り返し、「さあ出てこい、長政!」と焦土作戦で激しい挑発ヘイトを行った。


 だが、浅井長政は小谷城という超堅固グランド要塞フォートレスに引きこもったまま、敢えて打って出ようとはしなかった。「朝倉の援軍が来るまでは絶対に動かない」という、極めてクレバーな籠城戦術である。


「……チッ、面白くない。あの堅城に籠もられては、いくら挑発しても無駄か」


 信長は舌打ちすると、虎御前山から陣を引き払い、ターゲットを小谷城の重要な支城である『横山よこやま城』へと切り替えた。これを見た浅井側の勇将・丁野播磨守ちょうのはりまのかみが600騎で追撃バックアタックを仕掛けてきたが、織田の剛士である佐々内蔵助、中条将監、築田左衛門尉らが殿しんがりとなって防戦。双方に数百人の死傷者を出す激戦の末、浅井勢を退散させることに成功した。


 翌、6月23日。信長の総軍30,000騎は、横山城を十重二十重とえはたえに完全包囲し、息も継がせぬ猛攻フルバーストを開始した。だが、この横山城も一筋縄ではいかない。三田村左衛門尉、大野木佐渡守、野村肥後守といった強勇の将に率いられた1,000人の精鋭が、「死んでも城は渡さん!」と矢石を飛ばして徹底抗戦してきたのだ。


「ええい、もどかしい! 全軍、短兵急ショート・レンジに攻め立てよ! 昼夜の別なく、汗水を分かたず城門を破れッ!」


 信長の苛立ストレスちは頂点に達していた。大軍の利を生かし、三日三晩にわたる攻城戦デスマーチが繰り広げられた。城兵たちも「ここが最期だ」と必死に防いだが、疲労は限界に達し、小谷城の長政へ「早く後詰を!」と悲痛なSOSを送り続けたのである。


 横山城からのSOSを受け、浅井長政もついに重い腰を上げた。浅井長政は急ぎ越前へ使者を走らせ、朝倉義景に加勢を強く要請した。義景は自らは出陣せず、一族の朝倉孫三郎景健あさくらまごさぶろうかげたけを軍代として、10,000騎の援軍を派遣した。


 6月26日。朝倉の援軍は近江に到着し、大寄山に陣を敷いた。浅井・朝倉連合軍、その数およそ18,000。長政はついに「横山城の救援と、信長との雌雄を決する時が来た」と決断した。彼は朝倉の軍代・景健と綿密な軍議を行い、「明朝、浅井・朝倉の両軍で野村・三田村へ出陣し、そこで陣形を整えてから信長の本陣へ向かおう」と合意した。


 ――だが。


 この連合軍の結成と出撃の裏で、浅井家の中で誰よりも深く絶望し、そして最も狂気じみた決断を下した男がいる。浅井の功臣にして、忠勇と智謀を兼ね備えた名士、遠藤喜右衛門えんどうきえもんである。


「……浅井の運命ゲームも、これまでか」


 遠藤は、薄暗い自室で一人、深くため息を吐いた。遠藤は以前から「信長は危険だ、暗殺すべきだ」「信長とは敵対してはならない」と、最善トゥルー・エンド選択肢ルートを再三にわたって提示してきた。だが、長政の父である久政の愚かな判断バッド・チョイスによって、その進言はすべて却下されてきた。結果として、浅井家は信長という魔王の前に、完全に「詰み」の状態に追い込まれてしまった。


「死に遅れて、敬愛する長政様が滅亡する様を眺めているなんて、絶対に御免だ。……この明日の合戦こそ、俺が散るべき時だ」


 遠藤は死の覚悟デス・フラグを究め、その夜、同僚たちを自身の屋敷に集めて、盛大な酒宴ラスト・パーティーを開いた。酒が回り、快く盃を交わし合った後、遠藤は静かに、しかし決然とした口調で同僚に向かって語り始めた。


「皆、よく聞いてくれ。明朝、我々が野村・三田村へ陣を移せば、あの気短な信長のことだ、必ず姉川の辺りまで出迎えてきて、すぐに総力戦フル・バトルになるだろう」


 遠藤の目に、ギラリと暗い炎が宿る。


「……俺は、乱戦に紛れて、いかにも味方のふりをして信長の本陣へ潜り込む。そして、魔王・信長と刺違テロえてキメるぬつもりだ」


 同僚たちが息を呑む中、遠藤はニヤリと笑った。


「もし暗殺ミッションに失敗したとしても、信長の本陣で華々しく討ち死にして、その名を未来永劫に残してやるさ。お前たちも、どうか志を一つにして忠義のために戦い、死後の栄誉ハイスコアを目指してくれ。……この酒宴が、遠藤からの長い別れの形見だと思ってくれ」


 凄まじい暗殺予告アサシン・プラン。だが、寄り集まっていた同僚たちは、「ハハハ! 遠藤殿が俺たちを励ますために、またあんなデカいホラを吹いているぞ!」と笑い合い、誰一人として彼の言葉を本気マジだとは思わなかった。


「勇ましい物語ジョークはいつものことだ」と、誰も怪しまずに酒を飲み交わしたのである。


 しかし、後になって彼らは思い知らされることになる。遠藤喜右衛門のあの言葉が、決して冗談などではなく、戦国の歴史に深く刻まれることになる、壮絶な『特攻アルティメット・アタック』の予告であったということを。




【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】




信長江州發向のぶなががうしうはつかう


元龜げんき元年がんねんなつ六月ろくぐわつ織田おだ彈正だんじやう忠信長公のちただのぶながこう數萬すまん軍兵ぐんぴやう引率いんそつし、江州がうしう發向はつかうし、淺井久政あさゐひさまさ長政ながまさ討破うちやぶらんと、虎御前山とらごぜやまぢんり、長政ながまさ居城きよ小谷おだに近邊きんぺんをさまざま放火はくくわんぱう亂暴らんばうすれども、長政ながまさ父子ふしあへでてたたかはず。かくてはことゆくまじとて、虎御前山とらごぜやま引拂ひきはらひ、橫山よこやましろめんと、惣軍陣そうぐんぢんへしけるところに、淺井方あさゐがた勇將ゆうしやう丁野播磨守ちょうのはりまのかみ六百餘騎よきにて追討おひうち、織田おだ剛士がうし佐々(ささ)内藏助くらのすけ中條將監ちうでうしやうげん築田左衛門尉やなださえもんのじよう後殿しんがりしてふせたたかひ、雙方さうほう死傷ししやうもの數百人すひやくにんつひ淺井勢あさゐぜいたたかくつして退散たいさんしければ、信長のぶなが大軍たいぐんやうやうぢんたつはなうつし、その翌日よくじつ六月ろくぐわつ二十三日にじゆうさんにち惣軍そうぐん三萬餘騎まんよき橫山よこやましろ十重二十重とへはたへ取圍とりかこみ、いきをもつがずめたりける。このしろには淺井あさゐ勇士ゆうしやう三田村みたむら左衛門さえもんのじよう大野木おほのき佐渡守さどのかみ野村のむら肥後守ひごのかみしやうとして、强勇がうゆうしせんよにん千餘人せんにん籠城ろうじやうせしかば、大軍たいぐんすこしもおそれず、持口もちくちかため、矢石しせきばし防戰ぼうせんすれば、信長勢のぶながぜい大軍たいぐんなりといへども、きうとすことあたはず。信長のぶながおほいにいらちたまひ、諸軍しよぐん下知げちして、短兵急たんぺいきふに、三日三夜さんにちさんやあせみづをかたぬ防戰ぼうせんになりてめられける。城中ぢやうちうもここを最期さいごふせぎけれども、晝夜ちうやかたぬ防戰ぼうせんくるしみ、小谷おだにしろ淺井長政あさゐながまさ後詰ごづめふことしきりなり。長政ながまさにはか越前ゑちぜん使者ししやて、朝倉義景あさくらよしかげ加勢かせいふ。義景よしかげ軍代ぐんだいとして、朝倉孫三郎景健あさくらまごさぶろうかげたけ大將たいしやうとして、そのせい都合つごうがふ一萬餘騎まんよき同月どうぐわつ二十六日にじゆうろくにち江州がうしうちやくし、大寄山おほよりやまぢんる。ここにおいて長政ながまさ橫山よこやま後詰ごづめをなし、信長のぶなが雌雄しゆうけつすべしとして、明朝みやうてう越前ゑちぜん江州がうしう兩軍りようぐん野村のむら三田村みたむら出陣しゆつぢんし、ここにてそなへかたたつはなむかふべしと、朝倉勢あさくらぜいともまうせ、その用意よういをぞしたりける。ここに長政ながまさ功臣こうしん遠藤喜右衛門ゑんどうきゑもんは、忠勇ちうゆう智謀ちぼうかねそなへし名士めいしなれども、長政ながまさちち久政ひさまさにしてそのはかりごともちひず、計議けいぎことごとくをはずしぬれば、喜右衛門きゑもんいまはこころさだめ、「淺井あさゐうんもこれまでなり。におくれて主人しゆじん滅亡めつぼうながらんも口惜くちおし。この合戰かつせんこそわが討死うちじにのときなり」と覺悟かくごきわめ、その朋輩ほうばい勇士ゆうしをあまたおのいへあつめ、酒宴しゆえんまうけ、こころよはし、諸士しよしむかまうしけるは、「明朝みやうてう味方みかたせい野村のむら三田村みたむらへんぢんうつさば、氣早きばや信長のぶながたち姉川あねがはかた出迎いでむかへ、ただちに合戰かつせんおよぶべし。それがしはいかにもして信長のぶなが旗本はたもとまぎり、信長のぶながちがせんとおもふなり。もし仕損しそんじなば討死うちじにして、ながのこすべし。方々(かたがた)もこころざし一致いつちにし、忠戰ちうせんはげみ、死後しご榮名えいめいねがたまふべし。この酒宴しゆえんこそ遠藤ゑんどうながきかたみにてさふらへ」とて、こころよ酒宴さかもりもよほしければ、あつまりし諸勇士しよゆうしも、「遠藤ゑんどうがわれわれをはげまさんと、かくいさましき物語ものがたりつねのことなり」とて、あやしむものもなかりけるが、のちにはおもはされけり。

〜参考文献〜

太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource

https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN

絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編

夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700


〜舞台背景〜

 朝倉景健あさくらかげたけは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。越前国安居城主。後に安居景健(あご / あんご / あぐい かげたけ)と改名した。元亀元年(1570年)頃、織田信長が越前に侵攻して来るとこれを防戦し、直後の姉川の戦いに総大将として参陣した。同年9月20日の下坂本の合戦で織田家臣の森可成と信長の弟・織田信治ら750余人を討つという戦果を挙げている。天正元年(1573年)8月13日の刀根坂の戦いでは奮戦して、主君・朝倉義景を越前へ逃がすことに成功した。しかし、朝倉景鏡の手により義景が滅ぶと信長に降伏し、姓を安居と改め、所領を安堵された。ただし翌天正2年(1574年)7月20日の信長の書状では依然として「朝倉孫三郎」である。越前で一向一揆が起きると一揆方に降伏。天正3年(1575年)、織田軍の越前再侵攻の際には一揆方が劣勢となると織田軍へと再び叛意し、一揆の指揮官であった下間頼照・下間頼俊らの首を持参して信長に許しを乞うたが認められず、信長の命を受けた向久家により自害させられた。このすぐ後に景健の家臣である金子新丞父子・山内源右衛門の3名が追腹を切り殉死したという(『信長公記』)。出典:wikipedia


 恒例のマイナー武将のご紹介ですw といってもNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」にも登場してました。知らなかったの私だけなのかな?

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