2-19 絶望と狂気、暁の死神
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
僕が、六角勢の本拠地である鯰江城で『ステルス・ミッション』を成功させ、余裕の休息を取っていた頃。一方の長光寺城の内部では、真の地獄が展開されていた。
「水断ち」から数日が経過し、備蓄していた水瓶の水も底を突きかけていた。天からの雨を祈りながら一日一日を耐え忍んできたが、季節は初夏。残酷にも異常な炎暑が続き、一滴の雨も降らない。極度の脱水症状により、兵士たちの体力は削り取られ、次々と病に倒れていく。城内は、もはや戦う前から全滅の危機に瀕していた。城主である柴田勝家は、残された最後の水を点検した。残っているのは、わずかに水瓶三つ分。それ以外の水は、文字通り一滴も残っていなかった。
「……ここまでか」
勝家は静かに目を閉じ、そしてカッと見開いた。その目には、絶望ではなく、煮えたぎるような狂気が宿っていた。勝家は残された三つの水瓶を本丸の広縁に据えさせると、息も絶え絶えになっている城の兵士たちを全員集め、低く凄みのある声で語りかけた。
「皆の者、よく聞け。俺は信長様の命を受け、この城を守ってきた。大軍に囲まれ、水を絶たれても、一度も敗北の恥辱にまみれることなく防戦できたのは……すべて、お前たちが忠義のために死力を尽くしてくれたからだ」
勝家の声が、カラカラに乾いた兵士たちの胸に染み込んでいく。
「だが、現実は非情だ。このままでは、我々は城の中で惨めに渇死することになる。……俺は決めた。心を一つにして城を打って出て、華々しく討ち死にする!」
ざわっ、と兵士たちの間に衝撃が走る。
「お前たちが日頃の信義を全うし、俺と死を共にしてくれるなら、これほど誉れ高い最期はない。……だが」
勝家はふと声のトーンを落とした。
「年老いた父母や、幼い子供を残している者は、己の心に従って城を出て落ち延びよ。俺は決して恨みはしない」
沈黙が落ちた。
「俺と共に死ぬ覚悟がある者は、この水瓶に立ち寄り、最後の渇きを潤し、勇気を倍増させて戦え!」
勝家は柄杓や陶器の器を山ほど用意させ、床几にどっかりと腰を下ろした。それは、究極の選択だった。逃げて生き延びるか、主君と共に死ぬか。だが、柴田勝家という男の下で戦ってきた兵士たちに、逃亡という選択肢など最初から存在しなかった。
「ふざけんな! こんな城の中で干からびて死ぬくらいなら、打って出て敵の首を一つでも多く道連れにしてやる!」
「そうだ! 最後に思う存分水を飲んで、武士の鑑として死んでやる!」
誰一人として落ち延びる者はなかった。800人の兵士たちは、次々と三つの水瓶に立ち寄り、最後の水をすくって飲み干していく。たちまち、三つの水瓶は完全に空っぽになった。
「……潔い! 頼もしいぞ、お前たち!」
勝家は立ち上がり、大声で吠えた。
「槍も刀も折れるまで、斬り死にせよ! 兵ども!」
そして、勝家は自身の長刀を手に取ると、その石突で――ガシャンッ!! ガシャァァンッ!!空になった三つの水瓶を、粉々に突き砕いた。
「討ち死にすると決めた以上、未練がましい貯えなど無益! 我らに帰る場所などない!」
この瞬間、兵士たちの退路は物理的にも精神的にも完全に断たれた。『甕割り柴田』の伝説が誕生した、歴史的な瞬間である。勝家が愛馬を引き寄せて打ち乗ると同時、東の空が白み始めた。6月3日の夜明けだった。
「開門ッ!!」
ギギギギギ……ッ!長光寺城の城門が大きく開かれ、中から800人の『死神』が解き放たれた。
「ウオォォォォォォォォォッ!!!」
山も崩れるばかりの凄まじい鯨波が轟き、柴田勝家を先頭とする800の決死隊が、六角勢の陣へ向かって真一文字に突撃した。
一方の六角(佐々木)陣営は、完全に油断しきっていた。まだ東雲の夜明け前で薄暗く、敵味方の識別さえおぼつかない時間帯。しかも、「敵は水不足で死にかけのはずだ」という強烈な思込みがあった。そこへ突然、狂戦士と化した800の悪鬼が突っ込んできたのだ。
「な、なんだ!? 敵襲ゥゥッ!?」
「馬鹿な、城内の奴らは干からびて動けないはずじゃ……ぎゃあっ!」
六角勢の陣中は大パニックに陥った。連日の炎暑に耐えかね、鎧を脱いで素肌で寝ていた武者もいれば、たまたま甲冑を着ていても槍や刀を握っていない者もいた。彼らは防戦する余裕すらなく、東へ走り西へなびき、しどろもどろになって敗走を始めた。対する長光寺の城兵たちは、「ここで死ぬ」と覚悟を決めている。日頃の勇気が百倍(ステータスが限界突破)しており、逃げ惑う敵を片っ端から斬り伏せ、突き伏せ、薙ぎ回った。その光景は、さながら木偶人形を薙ぎ倒すかのようであり、瞬く間に屍の山が築き上げられていった。
「ええい! 敵はたかが800の小勢だ! 広い野に出て陣形を立て直して戦え!」
総大将の承禎と、家老の三雲新左衛門、吉田出雲守らは、パニックになる士卒たちを必死に下知し、馬を馳せ回って戦線を立て直そうとしていた。だが、その時。彼らの元へ、さらに絶望的な致命傷が叩きつけられた。
「ほ、ご報告ッ!!」
転がり込んできたのは、なんと鯰江城の留守を任せていたはずの鯰江相模守と高瀬刑部だった。彼らは泥まみれで、息も絶え絶えに叫んだ。
「も、申し訳ございませぬ! 我らの居城である鯰江城が……昨夜、木下藤吉郎の奇襲により、完全に乗り取られましたァッ!!」
「――ッ!?」
その報告を聞いた瞬間、承禎の頭の中で何かがプツンと切れた。前からは死を覚悟した狂戦士の猛攻。後ろの本拠地は、あの小賢しい木下藤吉郎によって完全に制圧されている。完全に詰んでいる。
「……お、おのれぇぇッ!」
承禎はあまりの絶望に足が萎え、身がしびれ、完全に戦意を喪失した。彼は三雲や吉田に抱きかかえられるようにして、石部城の方向へと逃亡を始めた。大将が真っ先に逃げ出したのだ。残された兵士たちが踏みとどまって戦うはずがない。ただでさえ慌て騒いでいた六角の士卒や郷民たちは、風に木の葉が散るように、方々へと逃げ失せてしまった。
「敵の大将が逃げたぞ! 追えェッ!」
勇みに勇みきった柴田の城兵たちは、陣形すら無視して敵を追い討ちし、あっという間に首を300級も討ち取った。800の小勢で500の大軍を完全に打ち破るという、十死零生の状況からの逆転勝利。勝家たちは勝鬨を数度上げ、勇み喜びながら長光寺城へと引き揚げていった。その後。勝家が討ち取った敵の首を持たせ、信長の元へ事の次第を注進すると、信長はエモい顔をした。
「勝家の勇壮さは今に始まったことではないとはいえ……水瓶を打ち砕いて兵の退路を断ち、死地に飛び込んだその狂気。尋常の士に真似できることではない!」
信長は勝家の凄まじい勲功を称え、手ずから感状を与えたという。そしてこの日を境に、世の人々は柴田勝家への畏敬と恐怖を込め、彼を『甕割り柴田』という二つ名で呼ぶようになった。
(ふふっ……さすがは勝家。僕の鯰江城奪取があったとはいえ、あの絶望的な状況からひっくり返すとは、最高の脳筋だぜ)
僕は長浜城からその報告を受け、ニヤリと笑った。これで近江の不穏分子は完全に沈黙した。いよいよ盤面は、僕たち織田軍の快進撃に向けて、さらに加速していくことになる。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
水瓶を碎き勝家承禎と戰ふ
このとき長光寺の城中には、數日水に渇し、今は貯へ置きし水瓶も空しくなり、天水をたのみ一日一日と籠城すれど、ときは六月上旬、草もゆるがぬ炎暑にて、一滴の雨も降らず、士卒ら渇に苦しみ、病に臥す者多し。大將柴田勝家、貯へ置きし水を點見するに、今ははや水瓶三つのみ殘りて、その餘の水とては一滴もなし。勝家この水瓶を廣縁に据ゑさせ、上下の兵士をことごとく集めて申しけるは、「われ信長公の命を受け、當城を守るところ、いま大軍に圍まれぬれど、一度も敗北の恥辱を蒙らず、猶よく防戰すること、みな汝らが命を輕んじ、忠戰を勵むが故なり。いま水の手を斷ち切られ、すでに城中渇死せんとす。所詮心を一致にして討つて出で、討死せんと思ふなり。汝ら日ごろの信義を全うし、われと死をともになさば、生前の面目、死後の本望、何事かこれにしかんや。されども老いたる父母、稚き小兒など持ちたらん者は、心まかせに城を出で落ち行くべし。さらに恨は思はず。われと死を同じくせんと思ふ者は、この水瓶のもとへ立ち寄り、このほどよりの渇をうるほし、勇氣をまして戰ふべし」と、柄杓陶器をあまた出させ、床几に尻かけ控へたり。士卒ども大に勇み、「この城中にて水に渇し死せんよりは、討つて出でて討死せんは我々(われわれ)が望むところ、閻魔の廳にても、水に渇したる餓鬼なりと呼ばれんも口惜し。いでや思ふままに水を飮み、心よく討死し、武士の鑑となれや」と、一人も落ち行く者なく、三つの水瓶に立ち寄りて、汲み出して呑むほどに、暫時に水を飮みほしたり。勝家大によろこび、「いさぎよし、頼もしし。槍も刀も折れるまで切り死せよ、兵ども」と、大音に呼ばつて、つつと立ちてかの水瓶のもとへ立ち寄り、「討死と定むる上は水の貯へも無益なり」と長刀の石突にて三つの瓶を突き碎き、馬引寄せてうち乘れば、六月三日の曉、東の空白みたり。惣勢八百餘人、城門を大に開き、山も崩るるばかり鯨波を作り、寄手の陣へ眞一文字に切つてかかれば、寄手の陣中大きに騒ぎ、まだ東雲の明けやらで、敵味方さへ分かちかねたれば、防ぎ戰ふ者一人もなく、炎暑に堪へかね、素肌にて居る武者もあり、たまたま甲冑帶せしは、槍も刀も持たずして、東へ走り西へなびき、しどろになりて敗走す。城兵は今日を限りと思ひ定めたれば、日ごろの勇氣百倍し、切り伏せ突き伏せ薙ぎ廻れば、さながら木偶を倒すがごとく、屍の山を築きにけり。大將承禎、三雲新左衛門、吉田出雲守ら士卒を下知し、「敵は小勢なるぞ、廣野に駈け出で、備を立てて戰へ」と、馳廻つて制するところへ、鯰江の城に殘し置きたる鯰江相模守、高瀬刑部、木下に城を乘り取られ、士卒もろともさんざんになりて逃げ來り、軍の始終を物語れば、承禎いまは足萎え身もしびれ、三雲、吉田に助けられ、石部をさして逃げ行けば、大將かくのごとくなりしかば、誰か踏み止まつて戰ふ者のあるべきや。いとどさへあわて騒ぎし士卒郷民、風に木の葉の散るごとく、行方なくぞ逃げ失せたり。勇みに勇みし城兵ども、備を亂して追ひ討つほどに、首を取ること三百餘級、十分の勝利を得て、勝鬨を數度あげ、勇みよろこびて城中へ引入りけり。やがてその首どもを持たせ、信長公へ注進し、軍の次第言上しければ、信長卿大に感じ給ひ、「勝家が勇壯今に始めずといひながら、水瓶を打ち碎きたる勇氣、尋常の士の及ぶところにあらず」とて、その勳功を稱し、手づから感状を賜はりける。これより世の人勝家を稱して、瓶破柴田と呼びなせり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
長光寺城は、滋賀県近江八幡市長光寺町の長光寺山山頂にあった日本の城。麓には長光寺がある。甕割山城とも呼ばれる。応仁の乱の最中の応仁2年(1468年)に近江守護六角政堯により、従兄弟で実力者である六角高頼の居城・観音寺城と対峙するために築城されたという。永禄11年(1568年)に織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始すると、観音寺城に立て籠もっていた六角承禎・義弼父子を観音寺城の戦いで破った。その後、長光寺城に柴田勝家を入城させ、周辺の抑えとしている。元亀元年(1570年)に六角承禎が長光寺城を攻めた長光寺城の戦いがあったとされている。その際、長光寺城に籠城している最中での話として、柴田勝家は最後に残されていた水を兵たちに振る舞った後、水甕を突き割って城中にいる兵たちに決死の覚悟を固めさせ、城外に打って出て勝利し、死中に活を得たという「甕割り柴田」の逸話が残されている。出典:wikipedia




