2-17 甕割り柴田、伝説前夜
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
近江国の空に、再び暗雲が立ち込めていた。僕が長浜の城主として内政と人材ガチャを回しまくり、最強の武将団を編成して順風満帆なリスタートを切っていた頃。信長の覇道に立ちはだかる「旧世代」、六角入道承禎が再びアクティブ化し、不穏な動きを見せ始めていた。
六角(佐々木)承禎――かつては近江の国司として君臨していたが、信長の上洛戦で本城を追われた没落大名だ。先日の「金ヶ崎の退き口」で、信長が少数の旗本とともに千種越えの際、六角承禎はその帰路を遮って討ち取ろうと一揆勢を率いて待ち伏せをした。だが、結果は信長の側近たちによる強行突破の前に、ボロ雑巾のように蹴散らされての無様な敗走。
「おのれ、信長め……! 次こそは必ず目にモノ見せてくれるわ!」
一度の敗北で心が折れるなら、戦国の世に未練など残さない。承禎は深い憤りを抱えたまま、再び各地から浪人や農民兵をかき集め、5,000人という決して少なくない軍勢を再編成した。そして彼らが標的に選んだのは、信長本人ではなく――織田家筆頭の武闘派猛将、柴田勝家が守る『長光寺城』だった。
元亀元年(1570年)5月21日。六角勢5,000は、怒涛の勢いで長光寺城へ押し寄せ、四方から完全な包囲網を敷き、息をつく暇も与えない猛攻を開始した。長光寺城は、そもそも要害としてはそれほど堅固な城ではなかった。しかも、籠城している織田の軍兵はわずかに800人。5,000対800。普通に考えれば、半日も保たずに城門を突破されるような、圧倒的な戦力差である。
だが、この城を守る大将は『鬼柴田』こと柴田勝家だった。勝家は「なんだ、たかが5,000のモブか」とばかりに敵の大軍を事ともせず、各所の防衛ラインをガチガチに固めさせた。矢や石の雨を容赦なく降らせ、文字通り鬼神のごとき指揮で敵を次々と薙ぎ払っていく。結果として、佐々木方の兵士たちは近づくことすらできず、無数の死傷者を出して城門の前でバタバタと倒れていった。
「ええい、手こずらせおって……!」
大将の承禎は、正面からの物理攻撃ではこの城が落ちないと悟り、家老の三雲新左衛門と作戦会議を開いた。
「正面突破が無理なら、兵糧攻め……いや、水断ちだ」
「左様でございますな。あの城の弱点を突きましょう」
実は、長光寺城には構造的に致命的な欠陥が存在した。城の中に井戸がなく、城外から『懸樋』というパイプを使って強引に水を引いていた。もちろん、百戦錬磨の柴田勝家もその弱点は把握しており、水の手には特に注意を払い、多くの兵士に警備させていた。さらに、万が一に備えて城内の大瓶に大量の水を貯めていた。だが、承禎は数の暴力にモノを言わせた。大勢の兵を動員して、強引に城外の懸樋をすべて切り落とし、物理的に水路を完全に切断した。
一滴の水も城内に入ってこなくなった。折りしも季節は初夏。数日間、全く雨が降らず、太陽の炎熱が文字通り肌を焼くように容赦なく照りつけていた。生命線である水を絶たれた柴田の軍兵たちは、深刻なダメージを受け始めた。喉の渇きに悶え苦しみ、兵たちは次々と城内のあちこちに倒れ伏していく。もはや、大敵を防ぐための気力も体力も残されていなかった。
「ふん、そろそろ限界だろう」
城内の惨状を暗に察した六角承禎は、ここで平井甚助という者を使者に立て、長光寺城の陣幕へと送り込んだ。甚助は、血走った目で睨みつけてくる柴田勝家の前に進み出ると、これみよがしに尊大な態度で勧告を述べた。
「柴田殿。お味方の苦境はお察しする。今すぐ城を開いて退城するならば、城中の兵士全員の命は保証し、無事に美濃へ帰してやろう。……だが、もしこれに異議を唱えるなら、我が5,000の大軍がただちに一斉攻撃を仕掛け、落城は目前となる。多勢の命を慮り、早く退去の決断を下すがよかろう」
命を助けてやるから、さっさと城を明け渡せ。普通なら、水も尽き、兵も疲弊しきったこの状況下では、ありがたく飛びつくべき提案だ。しかし、相手はあの信長が最も信頼を置く筆頭家老である。
「……貴様」
勝家は大の眼を見開いて、甚助をギロリと睨みつけた。その眼光だけで、使者の甚助は思わず後ずさった。勝家は、腹の底から響くような、声を励ました大音声で吼えた。
「俺は、主よりこの長光寺城の守りを任された男だ! たかが六角家の鼠輩どもに囲まれたくらいで、何を恐れて城を開く必要がある!? 寝言は寝て言え!」
勝家は立ち上がり、軍扇をバンと叩きつけた。
「城中の矢玉はまだ尽きておらん! 軍兵もまだ1,000近く残っておるわ! もとより、籠城する士卒はみな『死ぬ覚悟』を定めている。武士にとって死を見ることは、故郷へ帰るようなものだ! ……あわれだな、承禎! もし貴様に本物の勇気があるなら、我が軍勢と死を争ってみせろ! たちまち粉微塵にしてくれるわッ!」
勝家は激高し、ドカッと席を蹴立てて奥の間へと引っ込んでしまった。交渉は完全決裂。取り残された使者の甚助は、勝家の放つ異常な覇気に完全に呑まれ、逃げるように控え室へと退出していった。
だが、甚助が逃げ出そうと広い庭(広庭)へ出た瞬間。彼の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
「……な、なんだこれは!?」
庭のあちこちで、数多の織田の軍兵たちが、バシャバシャと豪快に水浴びをしているではないか。顔を洗い、足を浸し、仲間同士で笑い合いながら水をかけ合っている。城中の至る所に水が豊富に溢れており、まるで何事もなかったかのように平然と過ごしているのだ。
「馬鹿な……水の手は完全に断ったはずだ! なぜこれほど水が余っているのだ!?」
甚助は目を剥いて驚愕した。
「俺たちの作戦は、完全に的外れだったのか……!」
彼は大急ぎで城を飛び出し、六角の陣所へと逃げ帰ると、承禎に「城内は水祭り状態でした!」と報告した。
これを聞いた承禎も、はなはだ驚き、そして呆然と呟いた。
「……城の中に、秘密の井戸(隠し水源)でも掘ってあったというのか? それとも、天から神仏が一道の水路を通したとでもいうのか……?」
ただただ呆気にとられるばかりの承禎。これぞまさしく、戦の機微を読めない拙い大将の姿であった。
当然ながら、城の中に秘密の井戸などないし、天からの奇跡も起きていない。これこそが、柴田勝家が放った『計略』だったのだ。
勝家は、残された貴重な備蓄水を全て庭に集めさせ、使者が通るタイミングを見計らって、兵士たちに「これ見よがしに」水浴びをさせた。水不足で死にかけているはずの城内が、実は水に溢れていると見せかけ、敵の士気と判断力を鈍らせる高度な情報戦。
(さすがは柴田勝家。物理だけじゃなく、こういう詐術も使えるからこそ、筆頭家老なんだよな)
長浜の城からこの一連の報告を受けた僕は、思わず苦笑いを漏らした。でも、これはあくまで「一時の誤魔化し」に過ぎない。水が尽きかけているという現実は何も変わっていないのだから。
柴田勝家の放ったブラフが敵を足止めしている間に、本当の決着――『瓶割り柴田』という『二つ名』の由来となる伝説のカウンター攻撃が、今まさに放たれようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
佐々木承禎長光寺の城水の手を断つ
さるほどに江州の佐々木入道承禎は、先に信長の歸路を遮り討取らん結構せしに、却つて敗北せしことを憤り、またまた軍勢を集め、郷民を語らひ、五千餘人にて、信長が勇將柴田勝家が籠りたる長光寺の城へ押寄せ、四方を取圍み、息をもつがせず攻めたりける。ときに元龜元年五月二十一日なり。この長光寺の城は要害も堅固ならず、もとより軍兵わづかに八百餘人にて籠城したることなれば、さらに堪へつべうも見えざりけり。されども名を得し勝家なれば、寄手の大軍を事ともせず、持口を堅め、矢石を飛ばし、防ぎ戰ふほどに、左右なく落城すべしとも見えず。結句佐々木方の士卒ども、死傷の者多かりければ、大將承禎、家老三雲新左衛門と計つて、城中の水の手を取り切り、渇水させんとぞ計りける。元來この城中井水なく、城外より樋を以て水を通じければ、勝家も水の手には心をつけ、あまたの兵士を守らせ、なほ大瓶に多く水を貯へけれども、承禎大勢を以てかの懸樋どもを切り落とし、一滴も城中へ水を入れず。ここにおひて柴田の軍兵大きに苦しみ、折節夏月のことなれば、數日雨なく炎暑焼くがごとし。皆々(みなみな)渇に悶え臥し、今は大敵を防ぐべき力もなく、ここやかしこに打伏しける。承禎この體を暗に察し、平井甚助といふ者を使者となし、「勝家城を開き退城せるにおひては、城中の士卒ことごとく命を全うし、事なく本國へ歸らしむべし。異儀あるにおひては、たちまち大軍一度に攻め詰め、落城目前にあるべし。多勢の命を思ひ、早く退去しかるべし」と演べければ、勝家大の眼を見ひらき、聲を勵まして申しけるは、「我いやしくも當城の主に選ばれ、佐々木家の鼠輩に圍まれ、何恐ろしとて城を開くべきや。城中矢玉いまだ盡きず、軍兵すでに千人にあまれり。もとより籠城の士卒かねて必死と定めたれば、死を見ることはその元へ歸るがごとし。あはれ承禎勇氣を出し、わが軍勢と死を爭はば、たちまち粉のごとくなさんものを」と以てのほか氣色を損じ、席を蹴立てて入りければ、使者に立ちたる平井甚助、這ふ這ふ座を立ち、歸らんと次の間へ出でけるに、あまたの軍兵廣庭にて沐浴し、面を洗ひ、足をひたし、城中水の澤なること常のごとし。甚助これを見て大に驚き、味方の案にこそ相違なれと、いそぎ陣所に立ち歸り、承禎にしかじかと物語れば、承禎もはなはだ驚き、「城中に井や設けぬらん。または天より一道の水路を通じけらし」と、ただあきれにあきれて居たりけるは、つたなかりける大將なり。これは勝家が智略にて、わざと水の多きありさまをなし、寄手の軍を欺きし一時の計略なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
三雲賢持は、戦国時代の武将。六角氏の家臣。(通称:新左衛門尉)六角氏の宿老・三雲定持の嫡男として誕生。永禄9年(1566年)、観音寺騒動の影響で六角義治に不信を抱き浅井長政に通じて、謀反を起こした布施公雄が籠城する布施山城を攻める。同年、佐和山城周辺における浅井氏との戦で討ち死を遂げた。家督は、弟・成持が継いだ。子・賢春は、真田十勇士の猿飛佐助だとする俗説がある。出典:wikipedia
せっかくなので、マイナー武将を紹介しますw




