2-14 すれ違う同盟と、新たな城主誕生
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
ことわざに曰く、心合うときは呉越も親しみ、合わざるときは骨肉も寇敵となる。
かつては強固な同盟で結ばれていた信長と浅井長政も、今や完全に敵対する骨肉の争いへと突入していた。当初、浅井備前守長政は、信長が敦賀から退却した後、すぐに美濃の岐阜城へと帰国するだろうと踏んでいた。しかし、信長は予想に反してしばらく京都に留まり、政務や軍事の再建を行っていた。そのため長政はこの信長不在の隙を突き、「今こそ朝倉と浅井で連携し、信長の本拠地である美濃・岐阜城を攻め落とそう! その勢いに乗って一気に上洛だ!」と、何度も朝倉義景に連携要請を送り続けていた。しかし、朝倉義景の心は完全に折れていた。
「……いや、無理だ。あの金ヶ崎の退き口での戦い……木下藤吉郎の夜襲と幻影は、思い出すだけでも吐き気がする……」
金ヶ崎での合戦で、僕の放った奇計によって軍のプライドも戦力もズタズタに打ち破られていた義景は、すっかり進んで戦う気勢を失っていた。長政が何度オファーを出しても、義景は首を縦に振らず、両者の軍事的合体はついに実現しなかった。
「……ええい! 朝倉の腰抜けめ!」
長政は己の腕を撫でて焦燥に駆られたが、浅井単独の勢力では岐阜城を攻め落とすには足りず、結果として浅井長政は天下の覇権から大きく外れることになってしまった。浅井・朝倉の連携不全を尻目に、信長はつつがなく美濃国へと入った。
そして、畿内への抑えのため新たな防衛ラインを構築する。長光寺の城には柴田勝家を、安土の城には中川左馬助と同八郎左衛門を配置した。
そして――。
「猿。お前には、長浜の城をくれてやる。あの地を治め、浅井へ睨みを利かせろ」
「ははっ! ありがたき幸せに存じます!」
ついに僕、木下藤吉郎は、一国一城の主へと昇格した。長浜城の城主としての、新しいゲームの始まりである。
長浜城に入部したその日から、僕は未来知識をフル稼働させた内政ターンを開始した。まずは領内の百姓や町人たちを厚く撫育し、親しみやすい領主としての好感度を稼ぐ。そして、不公平な税を廃し、新たに明確な法令を定めた。邪な者を正し、曲直をはっきりと弁じるクリアな政道を敷いた。結果として、長浜の領民たちの満足度はカンストし、「木下様バンザイ!」と悦ぶこと限りなしの状態を作り上げることに成功した。でも、
でも、内政が上手くいっても、ここは戦国時代。隣接する浅井領からの不穏な輩や、乱暴狼藉を働く野盗は後を絶たない。そこで僕は、治安維持部隊を編成した。その実働隊長に任命したのが、僕の秘蔵のSSR小姓たち――加藤虎之助と、福島市松である。彼らは日ごとに村里を巡見し、悪徒を見つけては片っ端から捕らえて正すという、血気盛んな稼業を喜んで引き受けていた。
そんなある日のこと。浅井領・小谷と長浜の郷境において、とんでもない浪人同士の喧嘩が勃発したのである。
その喧嘩の発端は、あまりにもくだらないものだった。一人の浪人は、身の丈六尺(約180cm)を超える巨漢だった。色白で髭が青々と生え、身には破れた衣をまとっているが、腰にはいかめしい大小の刀を帯びている。彼は真昼間から泥酔しており、街道沿いの木の根を枕にして、前後不覚の状態でグースカと平臥していた。そこへ、もう一人の浪人が通りかかった。こちらは身の丈五尺(約150cm)に満たない小男である。色黒く、目はギョロリと円く、同じように破れた衣を着ていた。彼もまた相当に酩酊しており、千鳥足で歩いていたのだが、運悪く、寝ていた大男の足に引っ掛かり、顔面から思い切り地面に倒してしまった。
「いてっ! 何するんだ!」
「おい! 誰だ、俺を起こしたのは!」
二人は勢いよく飛び起きると、たちまち頭に血が上った。小柄な男が、目をつり上げて怒鳴る。
「この野郎! 道の真ん中で手足を伸ばして寝てるから、俺がつまずいただろ! ふざけるな! 勝負しろ! 俺が勝ったら、そのあと好きなだけ寝かせてやる!」
すると大柄な男も負けじと腕まくりをし、怒鳴り返した。
「何を言ってやがる! 俺が気持ちよく寝てたところを勝手に起こしたのはお前だろ! そのうえ偉そうに文句まで言うとはいい度胸だ。今すぐ謝るなら許してやる。だが謝らないなら、この場で叩き潰してやる!」
大男が両手を広げて威嚇すると、小柄な男の怒りも限界に達した。
「望むところだ!」
小男が刀を抜くと、大男もすぐさま刀を抜いた。こうして、酒に酔った二人の浪人による、命懸けの決闘が始まった。
双方が互いに白刃を振るい、上段、下段と目まぐるしく打ち込み、切り込む。入り違う刃先の光は、まるで秋の夜の稲妻のように鋭く、すれ合う鎬の音は、絹を引き裂くような甲高い悲鳴を上げた。驚くべきことに、この二人はどちらも尋常ではない剛勇の持ち主だった。体格差があるにも関わらず、優劣は全くつかず、なんと半時(約1時間)もの間、凄まじいペースで戦い続けていた。
ちょうどその時、パトロール中だった加藤虎之助の一行が、この現場へと通りかかった。虎之助は、二人の戦う様子を見て、内心で「すげぇ勇壮だ……」と感嘆した。彼らの剣の鋭さ、身のこなしは、そこらの野盗とは次元が違う。だが、感心している場合ではない。今は公務の最中だ。領内でこんな派手な違法闘争を見逃すわけにはいかない。
「おい、お前ら! 二人とも召し捕れ!」
虎之助が部下たちに下知を飛ばすと、30人の士卒たちがワーッと二人を取り囲んだ。しかし、戦いを邪魔された浪人たちは、これに大いにブチ切れた。
「おいチビ、テメェとの勝負は一旦お預けだ! まずはこの邪魔な連中をぶち殺して、鬱陶しい邪魔を払ってから、後でゆっくり決着をつけようぜ!」
「おお、望むところだデカブツ!」
なんと二人の浪人は、互いの試合を一時休戦し、タッグを組んで加藤の部下たちに襲いかかってきたのだ。その強さは圧倒的で、30人の士卒たちはまるで木の葉のように蹴散らされ、右往左往に逃げ散ってしまった。
「……クソ悪党どもが! いいだろう、俺の本当の手並みを見せてやる!」
部下をコケにされてブチ切れた虎之助は、愛用の長光の大太刀を抜き放ち、単身、二人の浪人に向かって突撃していった。浪人たちも「なんだこの生意気な野郎は!」といよいよ怒り、二人同時に切先を並べて虎之助に襲いかかる。ここから始まったのは、まさに戦国無双のようだった。虎之助は、二人の猛攻を右へかわし、左へ外し、あるいは懐へ付け入り、また透かして反撃する。二時(約4時間)もの間、三つ巴の戦いが続いたが、誰も疲弊するどころか、ますます闘志が研ぎ澄まされていく。
飛び違う有様は猛虎が怒るごとく、身をかわして切り込む勢いは飛龍に似ていた。逃げ散った30人の士卒たちも、遠くからこの人間離れした戦いを見物し、ただただ茫然とドン引きするしかなかった。
延々と続いた死闘の末、突如として大男が大きく後ろへ飛び退いた。
「ちょ、待て! しばらく戦いを止めろ! 一言言いたいことがある!」
すると小男も、太刀を斜めに構えながらスッと後ろへ下がった。
「……俺も言いたいことが一事ある。ちょっとの間、休戦だ」
ようやく訪れた静寂。虎之助は荒い息を吐きながらも、油断なく大太刀を正眼に構え、二人を鋭く責め立てた。
「テメェら、どこの大名に仕えている者かは知らねえが、みだりに当領内を騒がせ、闘諍に及ぶとは、見過ごせねえ犯罪だぞ! 俺は当長浜の領主・木下藤吉郎秀吉様の家臣、加藤虎之助だ! 主君の命を受けて領分を見回る役目にある。非常の者を捕らえ、乱暴を鎮めるのが俺の仕事だ! ……テメェらの言い分によっては、裁きもある」
虎之助はそう言い放つと、刀を提げたまま、近くの松の木陰に部下に命じて挟箱を立てさせ、そこに腰を掛けた。
「さあ、言ってみろ。テメェらの言い分を聞いた上で、引っ捕らえて決断を下してやる」
虎之助は、爛々と光る目で二人の浪人を睨みつけた。戦国の世に埋もれた規格外の原石たち。彼らの出会いが、のちの豊臣家を支える最強の武将団結成のプロローグになるとは、この時の虎之助はまだ知る由もなかった。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
加藤虎之助長濱領巡見
心合ふときは吳越親しみ、合わざるときは骨肉寇敵となる。このとき淺井備前守長政は、信長ただちに歸國すべしと思ひけるに、然なくてしばらく京都におはしければ、朝倉と申し合せ、濃州岐阜の城を攻め取り、勢ひに乘りて上洛せんと、たびたび朝倉方へ申し遣はしけれど、義景は敦賀表の合戰、木下藤吉郎に十分に討破られ、進み戰ふ氣勢もなく、長政が計に合體せず。長政腕を撫でてあせれども、勢たらずして終に天下の圖をはづせり。されば信長つとがなく美濃の國に入らせ給ひ、上方押へのためとて、長光寺の城に柴田勝家を籠らせ、安土の城を中川左馬助、同八郎左衞門に守らせ、長濱の城には木下藤吉郎をぞ居られける。木下藤吉郎かの地に入部し日より、領分の百姓町人をなつけ親しみ、新たに法令を定め、邪正を糾し、曲直を辨じ、政道明らかなりければ、長濱の百姓町人、悦ぶこと限りなし。されば敵國の亂暴狼藉を戒めんと、藤吉郎が旗本加藤虎之助、福島市松ら、日ごとに村里を巡見し、惡徒の者を捕らへ正す。あるとき江州小谷と長濱の鄉境に、浪人の喧嘩あり。その發り、一人の浪人身のたけ六尺あまり、色白く髭青く、身に破れたる衣をまとへど、腰にはいかめしき大小を帶び、亂醉して樹の根を枕とし、前後を知らず臥したりける。一人の浪人は身のたけ五尺に滿たず、色黒く、眼圓く、これも同じく破れ衣を著、酩酊して一歩は高く一歩は低く、かの男の臥したる傍に歩み寄りしが、いかがしてつまづきけん、眞うつ向きに倒れたり。さて兩人ともに起き上がり、大に怒り、かの小男づ罵つて申しけるは、「汝往來をはばからず、手足を伸べて平臥をなし、人をしてつまづかしむること奇怪なり。我と勝負をなして、討勝つて後心のままに臥すべし」と云ふ。ま(ま)た大男大に怒りて申しけるは、「汝何者なれば我がうまく寝たるところを曾釋もなく土足にかけ、熟睡の夢をさまし、あまつさへ我をさして、言葉を返し、過言をなすは何事ぞや。我前に頭を下げ、過ちを詫びて通らば宥すべし。さもなくば一つかみに殺してくれん」と、大手をひろげて立ち向へば、件の小男ますます怒り、太刀引き拔きて向ふたり。雙方互に白刃を拔き持ち、上段下段打ち込み切り込み、入り違ふ刃先の光は秋の夜の稻妻のごとく、すれ合ふ鎬の音は帛を裂くに似たり。雙方劣らぬ剛勇な、勝負の色さらに分かたず、半時ばかり戰ふたり。このところへ來りけるが、兩人が戰ふありさま、虎之助心にその勇壯を感じけれど、公用にその銳きこと云ふばかりなし。虎之助、心に、「兩人ともに召捕れ」と巡見のときなれば、見逃して去らんこと能はず、兩人ともに召捕れと士卒に下知して取卷きたり。かの浪人ども大に氣色し、「われわれ兩人に汝と我が勝負を延ばし、まづこの者を打殺し、妨げを拂うて後ゆるゆる戰ふべし」と兩人ともに試合を止め、加藤が手下を相手とし、後ゆるゆるに切り立つれば、三十餘人の士卒ども、右往左往に逃げ散つたり。虎之助これを見て大に怒り、「惡き奴原、い(い)で我が手並を見すべし」とて、長光の大太刀拔き放ち、二人目がけ立ち向へば、二人の浪人いよ怒り、「こは惡さげなる野郎かな」と、兩人一度に切先を並べ討つてかかれば、虎之助右へかはし左にはづし、或は附入りまた(ま)たはすかし、二時ばかり戰ひが、三人ともに精神ますばかり、飛び違ふありさまは猛虎の怒るごとく、身をかはして切り込む勢ひは飛龍に似たり。三十餘人の士卒ども、この戰ひを見物して、茫然と醉へるがごとし。ときに一人の大男、いかが思ひけん飛び退いて詞をかけ、「しばらく戰ひを止め給へ、一言申したきことの候ふ」と云へば、また一人の小男も刀をそばめ引退き、「我も申し上げたき一事あり、暫時戰をゆるし給へ」と云ふ。ここに虎之助、兩人を嘖めて申しけるは、「汝らいづれの守に仕ふる者とも知れず、みだりに當領内を騒がし闘諍に及ぶこと、見とすまじき狼藉にあらずや。我は當長濱の領主木下藤吉郎秀吉が臣、加藤虎之助といふ者なり。主人の仰せを蒙り、領分見廻りの役目なれば、非常の者をことごとく捕らへ、亂暴なすは我が職分なり。申譯の筋により、取り計らふ手段あり」と、刀提げ、松の木蔭に挟箱を立てさせ、悠々(いういう)と腰打掛け、兩人が申し條によりて引っ捕らへて決斷せんと、しばらく時宜を見あはせける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
長浜城は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にあった日本の城。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した。1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時 今浜と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。出典:wikipedia
時系列的に色々ご意見あろうかと思うのですが、『太閤記』は軍記物なのでw




