2-13 突破と凶弾
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
「……ミッション・コンプリート。これで信長の撤退ルートは完全に守り抜いた」
僕の仕掛けた『空城の計』と『夜襲』のコンボによって、朝倉の追撃軍35,000は完全にパニックに陥り、自滅に近い形で崩壊した。
木下の総勢3,000人は、圧倒的な威風であたりを払いながら、しずしずと京へ向けて引き返していった。35,000の追撃軍をたった3,000で無傷のまま粉砕したこの撤退戦。後に人々は口を揃えて「古今に例の少ない、史上最高の後殿である」と僕を讃美し、褒め称えぬ者は誰一人としていなかった。
僕の未来知識と情報戦術によって、戦国最大のピンチ『金ヶ崎の退き口』は、織田家のみならず、僕自身の名を天下に轟かせる『最大の伝説』へとすり替わったのである。
一方、無事に京都へと帰還を果たしていた信長の本陣は、安堵と歓喜に包まれていた。本道を退却していた柴田勝家、池田信輝、森三左衛門、明智光秀らの大軍勢も、浅井の妨害を振り切って追々と京へ到着した。君臣ともに無事を喜び合い、道中での合戦の次第を報告し合う。信長は一人ひとりに褒詞と恩賞を下し、その労をねぎらっていた。
だが、信長の表情には、どこか晴れない影が落ちていた。
「……猿は、どうした」
敦賀表にただ一人残り、しんがりを務めた木下藤吉郎。彼からの音信が、いまだに途絶えたままだ。
「あの猿のことだ、無様に討ち死にするとは思えんが……」
信長は露骨に心配する様子を隠さず、すぐさま坂井右近と前田利家の二人に3,000騎の精鋭をつけ、「猿を迎えに行ってこい!」と本道から逆走させるよう命じた。
坂井と前田が軍勢を率いて猛スピードで北上していくと、近江国の坂本あたりで、前方に土煙を上げて進んでくる一団と出くわした。それこそが、勝軍の勢いのまま、意気揚々と帰国してきた僕、木下藤吉郎の部隊だ。
「おお! 藤吉郎殿! ご無事であったか!」
「坂井殿、前田殿! わざわざお出迎えとは恐縮です!」
僕たちは互いの無事を喜び合い、信長が僕を心配して迎えを寄越してくれたという事実に、胸の奥が熱くなるのを感じた。精神病質者のくせに、たまに見せる情がニクい。僕は感謝して、彼らと連れ立って京都へと帰還した。
京の本陣に到着すると、信長様は僕の顔を見るなり、目に見えてホッとしたように相好を崩した。
「猿! よくぞ戻った。殿はどうなった?」
僕は平伏し、最高のドヤ顔を隠しながら、信長に報告を行った。
「朝倉義景自ら35,000の大軍を率いて追撃してまいりましたが、僕のちょっとした『奇計』を用いて打ち破りました。討ち取った敵の首は8,000。対して味方の死傷者は……完全無傷にございます。これもすべて、信長様の洪福の賜物かと」
陣幕の中が、シンと静まり返った。3,000で35,000を破り、味方の被害はゼロ。そんなデタラメな戦績、普通なら「嘘をつけ!」と一蹴されるところだ。
「……証拠は、あるのか?」
柴田勝家が信じられないという顔で問う。
「もちろんです。手ぶらで帰るほど、僕たちも野暮じゃありません。北国の土産、少々叡覧に入れ奉ります」
僕が合図をすると、陣幕の外に続々と戦利品が運び込まれてきた。立派な駿馬が23匹、最新鋭の鉄砲が370丁、その他、太刀、刀、兜、鎧などが、山のように積み上げられていく。血に塗れた本物の朝倉軍の武具だ。
これを見た大将たちをはじめ、居並ぶ諸将は度肝を抜かれた。
「だ、大事の退き口を……小勢で大敵を打ち破り、味方を一人も損なわず、これほど大量の武具を奪い取るとは……!」
「古今未曾有の戦果だ! 藤吉郎、恐ろしい男よ!」
周囲からの感嘆と称賛の嵐に、僕は「いやぁ、それほどでも」と頭を掻きながら、内心ではガッツポーズをキメまくっていた。これで僕の織田家での発言力は、さらに一段階、確固たるものになったはずだ。
元亀元年5月9日。信長は一旦、美濃へと帰還するため、出発の用意を進めていた。しかし、天下布武の道は決して平坦ではない。浅井の裏切りによって織田の足元が揺らいだと見た反体制派が、あちこちで一斉に蠢動し始めていた。その筆頭が、近江の旧国司であった六角承禎だ。
六角承禎はかつて信長に本城を追われ、石部の城に引籠もっていたのだが、織田と浅井の同盟が破綻したと聞くや否や「今こそ信長を討ち、旧恨を晴らすチャンスだ!」と奮起。譜代の浪人や近郷の農民たちをかき集め、鯰江の城に立て籠もり、信長の帰路を塞ごうと企てた。
さらに厄介だったのが、比叡山延暦寺の僧兵たちだ。彼らは元々信長のことを快く思っていなかった上に、朝倉家の檀越でもあった。朝倉義景から「信長の帰路を一緒に討ってくれ」と要請され、山門内では「信長滅亡の好機!」と沸き立ったものの、「いや、信長はヤバい。失敗したら焼き討ちにされるぞ」という慎重派の意見もあり、衆議は一決していなかった。
そんなグダグダの会議の席に、一人の悪僧が進み出た。杉谷善住坊。彼の鉄砲の腕前は『飛ぶ鳥を落とし、柳の葉を撃ち抜く』と称される超一流スナイパーだった。
「お前ら、ウダウダ悩んでんじゃねえよ」
善住坊は不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「500や700の法師武者でゾロゾロ向かったところで、あの魔王の首が取れるわけがねえ。要は、信長『ただ一人』を殺せばいいんだろ? 俺一人に任せな。山を下りて帰路に待ち伏せし、一発の銃弾で信長の頭を吹き飛ばしてやる。もし俺が失敗して死んでも、俺一人の単独犯ってことにすれば、比叡山に迷惑はかからないだろ? 完璧な予防策じゃねえか」
これを聞いた山門の衆徒たちは、「すげえ! それ採用!」と大喜び。かくして、善住坊は衣の下に防弾用の腹巻を締め、特注の狙撃銃を携え、単独で山を下りていった。信長の帰路に潜み、その命を奪うために。
元亀元年5月19日。信長の一行は京都を出発し、琵琶湖を船で渡り、野洲河原へと差し掛かった。そこで待ち受けていたのは、六角承禎が率いる3,000のゲリラ部隊だ。彼らは道の狭い切所を塞ぎ、「ここから先は通さん!」と息巻いていた。
だが、信長はこんな雑魚モブに構っている暇はない。
「邪魔だ。追っ散らせ」
その冷酷な一言で、坂井、池田、前田、佐々といった織田の武闘派猛将たちが、会釈もなしに佐々木勢のド真ん中へ一文字に突撃した。
「ヒャッハー! 死ねェッ!」
縦横無尽に薙ぎ払われる圧倒的な暴力の前に、急造の農民兵たちが敵うはずもない。「ぎゃあああっ!」と四方八方へ蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。六角承禎が必死に「逃げるな! 戻れ!」と叫んでも誰も言うことを聞かず、六角承禎自身も鯰江城へと逃げ帰るしかなかった。織田勢はそんな敗残兵を追うこともせず、徐々と歩を進めていった。
そこに、日野の城主である蒲生が右兵衛太夫秀賢が道案内として合流した。
「信長様、本道は一向一揆どもが蜂起しており、通行に時間がかかります。ここは私が案内いたしますゆえ、千種越えの山道から抜けましょう」
信長はこの提案を受け入れ、険しい山道へとルートを変更した。しかし、この『ルート変更』こそが、復讐の狙撃手・杉谷善住坊にとって最高のシチュエーションを生み出してしまった。善住坊は、織田勢の動きを完璧にトレースしていた。一行が千種越えの間道を通ると知るや否や、険しい山を先回りして駆け登り、九十九折りになっている絶好の狙撃ポイント――深く生い茂る木陰の中に身を潜めた。
「……来たぜ、魔王め」
スコープ代わりの照門越しに、善住坊の冷たい目が光る。前衛の部隊が次々と通り過ぎていき、やがて、陣羽織を着て黒い馬に跨った大将・織田信長の姿が、九十九折りのカーブに差し掛かった。距離、風向き、ターゲットの動き。すべてが完璧に計算された、必殺のタイミング。
「地獄へ落ちな」
ダァァァァンッ!!!
静寂の山中に、乾いた銃声が木霊した。放たれた凶弾は、空気を切り裂き、一直線に信長の胸元――心臓のど真ん中を穿つ軌道を描いた。
――だが。
物語の主人公が持つ圧倒的な豪運が、この瞬間、物理法則をねじ曲げた。信長が乗っていた馬が、石につまずいたのか、ほんの数ミリだけ首を振った。その振動で信長の身体がわずかに傾き、心臓を貫くはずだった銃弾は、陣羽織の袖をバチィッと派手に掠り、そのまま背後の木に突き刺さった。
「……ちぃッ! 外したか!」
善住坊が舌打ちする。信長は、馬上にて無傷だった。
「な、何事だ!?」
「曲者だ! 狙撃手がいるぞ!」
周囲の旗本が大パニックに陥り、「ひっ捕らえて骨を砕いてやる!」とそれぞれの武器を手に山中へ殺到しようとした。だが、信長は撃たれた直後だというのに、表情一つ変えていなかった。パンパン、と袖の土埃を払うと、騒ぐ家臣たちに向かって低く、しかし絶対的な威圧感を込めた声で言い放った。
「騒ぐな。そのまま打ち捨て置け」
振り返ることすらしない。まるで「羽虫が飛んできた」程度にしか思っていないかのような、底知れない胆力。その恐るべき大物感を木陰から見てしまった善住坊は、恐怖で舌を震わせ、一目散に山奥へと逃げ去っていった。こうして、幾多の死線を主人公補正と魅力値でへし折りながら、信長と僕たち織田軍は、ついに美濃の岐阜城へと生還を果たした。
しかし、戦乱のシステムは、休む間もなく次の試練を準備していた。浅井・朝倉という最大の反逆者たちとの、本当の死闘が、すぐそこまで迫っていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長岐阜に歸城し給ふ
このとき信長卿はつつがなく京都に入らせ給へば、本道の軍勢、柴田、池田、森、明智ら追々(おひおひ)に京著し、君臣ともに無事をよろこび、道々合戰の次第つまびらかに言上しければ、信長卿それぞれに褒詞恩賞を下し賜ひ、その功勞を稱し給ふ。さても木下藤吉郎、敦賀表に殘りとどまり、今において音信も聞こえざれば、信長ことに案じ給ひ、坂井右近、前田又左衛門兩人に三千餘騎の逞兵をさし添へ、木下を迎ひのため、本道より向はせ給ふ。坂井、前田命を領じ、軍勢を引率し馳せ下りけるに、江州坂本にて、木下藤吉郎勝軍を引いて歸國せるに出合ひたり。三將互につつがなき賀を述べ、信長卿の命を蒙り、迎ひのため參りたるよし申しければ、藤吉郎君の厚情を拝謝し、打連れて京都に歸りければ、信長大によろこび給ひ、藤吉郎を召し出され、軍の始終を尋ね給ふ。藤吉郎承り、「朝倉義景自ら三萬五千餘騎を引率し、君の御跡を追ひ奉らんと、金ヶ崎へ向ひ候へども、一戰に打ち破り、討取る首八千餘、味方の士卒一人も死傷の者なく、無事に引取り候こと、これ全く君の洪福によれるところなり。よつて北國の土産、少々叡覧に入れ奉る」と、拾ひ集めし駿馬二十三匹、鐵砲三百七十挺、そのほか太刀、刀、兜、鎧等おびただしく御前に積み置き控ふれば、大將を始め參らせ、一座の諸士ら大に感じ、「大事の退口を手勢にて向ふさへあるに、小勢を以て大敵を打ち破り、味方の士卒一騎も損ぜず、あまつさへ武具、馬具、兵器をかくまで多く奪ひ取るこそ、古今未曾有の高名なり」と、しきりに感稱し給ひける。さて同五月九日、信長卿本國美濃の國へひとまづ歸り給はんとして、その用意を催し給ふ。ここに近江の國司たりし佐々木六角承禎は、先年信長がために本城を追ひ落され、石部の城に隱れ居たりけるが、織田、淺井親族の因たちまちに切れ、合戰に及ぶを聞きければ、いかにもして信長を討ち、舊恨を晴らさんものと、佐々木家譜代の浪人、近郷の郷民らを語らひ、鯰江の城に楯籠り、信長が歸路を支へ討取らんと計りける。また叡山の衆徒らもかねて信長を恨み居ければ、信長滅亡せんことをしきりに思ふところへ、このたび信長越前に亂入して朝倉を攻むること、これまた山門の安からず思ふその一つなり。朝倉は元來延暦寺の檀越にして、一山の衆徒ことごとく義景と親しければ、義景使者を以て山門と牒じ合せ、信長が歸路を討たんとす。山門もかねて信長を惡み思ひぬれば、朝倉が催しに附いて信長を亡さんと企てけれども、「信長尋常の敵にあらず。みだりに事を曳き出し、永く當山の破滅とならんも詮なし」と、衆議さらに一決せず。ここに叡山杉谷の善住坊といへる惡僧あり。鐵砲の妙を得て、翔鳥を落し柳葉を貫く。この席にありて評定を聞きけるが、進み出でて申しけるは、「いま一山の大衆に、淺井、佐々木の與力を以て、信長と戰ふとも、信長を討ち得んことおぼつかなし。自然討ちもらし信長無事に歸國せば、限りなき患を當山に殘し、終には信長がために山門退轉に及ぶべし。我ひそかに思ふに、要とするところは信長ただ一人を殺すにあり。彼一人(かの一にん)を討たんとても、なまじひに五百七百の法師武者が向ひたりとて、信長が首を見んこと心もとなし。さある危ふき計議をなさんより、われ一人鐵砲を提げ山を下り、信長が歸る道に埋伏して、ただ一砲に打殺さんに何の仔細かあるべきぞや。もし仕損じ生捕らるるとも討死すとも、これまた我一人なれば、當山に於て信長が怨をなすことなし。これ兩全の謀にあらずや」と云ふ。一山の衆徒これを聞いて大によろこび、「この謀極めて妙なり。もしかくのごとくなるならば、當山の幸ひ何事かこれにしかん」。ここに於て善住坊、衣の下に腹巻を締め、鐵砲を携へ、不敵にもただ一人山を下り、信長卿の歸路を伺ひ居たりける。ときに同月十九日、信長歸國の用意ことごとく調ひ、京都を立たせ給ひ、船にて湖水を渡り、野洲河原にかかり給ふに、佐々木が勢三千ばかり、切所を塞いで待ちかけたり。信長かくと見給ひ、坂井、池田、前田、佐々(ささ)に命じ、「追つ散らせよ」と下知し給へば、畏まつて我一に會釋もなく、佐々木勢の眞中へ一文字に切つて入り、縦横無盡に薙ぎ立つれば、集まり勢の郷民ら、何かは少しも支ふべき、四方へばつと逃げ散つたり。佐々木承禎あせつて下知すといへども、返し合すものもなく、這ふ這ふ逃れ、鯰江へこそ逃げ入りける。織田勢は敵を追捨にして、徐々(しづしづ)と退きける。ここに日野の城主蒲生右兵衞太夫秀賢、御迎ひとして參上し、「本道は一揆ばら蜂起して、往來隙どり難儀なるべし」とて、自ら案内して、千種越えの山路より進みける。このとき山門の善住坊、姿をやつし織田勢の跡に附きて忍び來りしが、千種越えの間道より退き給ふ由を聞き、嶮岨の山を先へ越え、九折なる切所の深き木蔭に身を忍び、今や今やと待ちたりける。ほどなく前備への諸士軍卒、だんだんに行き過ぎて、大將信長陣羽織を著くし、黒き馬にまたがり、かの九折にさしかかり給ふ。善住坊待ち設けたることなれば、よく狙ひて切つて放つに、信長の運や強かりけん、羽織の袖を打ちかすつて、主は馬上につつがなし。信長卿の旗本これを見て大に驚き、「曲者ござんなれ、搦め捕つて骨を挫がん」と手々(てんで)に得物おつ取つて、そこよここよとひしめきけるを、信長大にこれを制し、「そのままに打捨て置けよ」とて、見返りもせず歩ませ給ふ。善住坊これを聞き、舌を震はせ逃げたりける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅうぼう、生年不詳 - 天正元年9月10日(1573年10月5日))は、安土桃山時代の人物。織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる。その後、善住坊は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の厳命で、徹底した犯人探しが行われた。その結果、近江国高島郡堀川村の阿弥陀寺に隠れていたところを、領主・磯野員昌に捕縛される。織田家へ引き渡された後は、菅屋長頼・祝重正によって尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された。なお『フロイス日本史』にも、名前不明ながら「ある仏僧が立ったまま生き埋めにされ小さなノコギリで首を切断された」事件のことが記されている。それによれば、この仏僧は書状でもってある1つの城を信長に敵対させようとしていたという。出典:wikipedia




