2-10 生存率0%の撤退戦
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
越前の玄関口たる手筒ヶ峯、そして第一の要害である金ヶ崎。この二つの強固な城を、わずか二日のうちに連続で陥落させた織田軍の士気は、まさに天元を突破していた。
「素晴らしいぞ! 我が軍の勢い、もはや何者にも止められん!」
「このまま一気に奥地へ乱入し、朝倉義景の首を獲ってくれるわ!」
本陣に集まった諸将は口々に勝利を叫び、軍全体が「前進あるのみ」という熱狂に包まれていた。信長もまた、底知れぬ喜びに満ちた表情で床几に腰掛け、越前平定の最終ロードマップを脳内で描いているようだった。誰もが、朝倉家の滅亡は秒読みだと確信していた。
でも――。
歴史の歯車は、人間が最も油断し、最も有頂天になっているその瞬間を狙って、最悪のバグを仕掛けてくる。
「も、申し上げますッ!!」
歓喜に沸く陣幕に、転がり込むようにして一人の伝令が飛び込んできた。全身泥まみれで、その顔は尋常ではないほど蒼白に染まっている。彼がもたらした一言が、十万の大軍を奈落の底へと突き落とすことになった。
「江州・小谷城の浅井下野守久政殿、ならびに備前守長政殿……! 我が織田軍に反旗を翻し、背後より進軍を開始した模様ッ!!」
ピタリ、と。陣幕の空気が凍りついた。勝利の美酒に酔っていた諸将の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。
「な、なんだと……!? 浅井が裏切っただと!?」
「馬鹿な! 長政殿は、信長様の義弟ではないか!」
怒号と悲鳴が入り混じる中、僕だけは冷や汗を流しながらも「ついに来やがったか」と奥歯を噛み締めていた。未来知識を持つ僕からすれば、これは『確定イベント』だ。だが、実際に直面するプレッシャーは、歴史の教科書で数行のテキストを読むのとは次元が違う。100,000の大軍が、完全に前後の敵に挟まれる「死のサンドイッチ」状態に陥ったのだ。
浅井の裏切り。一見すると義弟の狂気にも思えるが、彼らなりの理屈は確かに存在した。元々、浅井家と朝倉家は長年にわたる強固な同盟関係を結んでいた。だからこそ、去る永禄11年、信長がお市を長政に嫁がせて同盟を結んだ際、浅井側から一つの絶対条件が出されていた。
『朝倉の領地には決して侵攻しないこと』――信長は、その誓紙にサインをして浅井に渡していた。しかし今回、信長は「将軍家の台命」という大義名分を盾にして、その契約を強引に反故にし、越前へ乱入した。浅井長政からすれば、「信長は表裏を使う危険な男だ。ここで信長を討たねば、朝倉との盟約に背くことになる」という結論に至った。浅井一家の者たちも「信長を討て!」と大合唱になったらしい。
もちろん、浅井家の中にも、この最悪の選択に猛反対した賢臣はいた。浅井の功臣・遠藤喜右衛門である。彼はかつて、佐和山での会談時に「信長は危険だ、今のうちに暗殺すべきだ」と長政に進言し、却下された過去を持つ男だ。
そんな遠藤喜右衛門が、今回は逆に長政を必死に諫めたという。
『殿! かつて私が信長を討てと再三申し上げた時には許容されず、なぜ今になって戦を仕掛けるのです! 今の信長は100,000の大軍を擁し、将軍家の台命を頭に戴いている。これはまさに、龍が雲を得て天に昇るようなもの! 当家のわずか半国の兵力で敵対するなど、自ら滅亡を招く自殺行為に他なりません! 今は信長との絆を深め、朝倉との盟約を破棄してでも、当家の長久を図るべきです!』
完璧な情勢分析だ。だが、悲しいかな、長政父子はその忠言を無視した。義理や古い盟約という『呪い』に縛られた彼らは、信長の帰路を塞ぐべく軍勢を催促し、破滅へのスイッチを押してしまったのである。
「浅井が朝倉と力を合わせ、我らを挟み撃ちにするだと……!?」
「どうする! このままでは全滅だぞ!」
陣中では、諸将がパニックに陥り、とりどりに喧々諤々の評議が始まっていた。そんな中、信長はただ一人、異常なほどの冷静さを保っていた。彼はゆっくりと視線を巡らせると、陣の片隅に控えていた一人の男を近くへ招き寄せた。松永弾正久秀。三好家を裏切り、将軍を弑逆し、大仏を燃やしたとも噂される、戦国一の爆弾魔である。松永弾正久秀は今、信長に臣従して陣中にいるが、信長は彼のことをミリ単位も信用していない。
「弾正よ」
信長は、探るような、それでいて射抜くような鋭い視線を松永に向けた。
「我が軍は前後に敵を受ける難儀な状況となった。お主なら、この進退、どう計る?」
(……怖い怖い怖い!)
僕は心の中で悲鳴を上げた。これは純粋な軍議ではない。信長による松永久秀への『忠誠心テスト』だ。もしここで松永が「浅井を迎え撃ちましょう」などと時間を長引かせる提案をすれば、信長は即座に彼の首を刎ねていただろう。だが、松永久秀という男は、伊達に戦国の闇を生き抜いてきた邪智深き老将ではない。彼は信長の意図を瞬時に悟り、一切の躊躇なく、言下に言い放った。
「信長様の御威光はすでに絶大。手筒・金ヶ崎の両城をたちまち陥落させ、北国はことごとく震え上がっております。この『圧倒的勝利』という実績を持ったまま、一刻も早く撤退なさいませ。前後に敵を受けての合戦など、愚の骨頂。難儀になるだけでございます」
一切の無駄がない満点の模範解答。信長は、その答えを聞いて莞爾と――酷薄で美しい笑みを浮かべた。
「ふっ……老人の軍議、もっともなり。直ちに帰国の用意をせよ!」
撤退戦の決定である。
方針が決まった直後、さらなる絶望が陣幕に叩きつけられた。前線に出していた斥候が、血相を変えて駆け込んできた。
「ご、ご報告ッ! 朝倉勢およそ30,000! 総大将・朝倉義景も出馬した模様で、揉みに揉んで、すでに目と鼻の先である『府中』まで迫っておりますッ!!」
「――ッ!!」
その報告に、ついに織田の軍兵たちの間に爆発的な動揺が走った。
「朝倉軍30,000を迎え撃つしかない!」と叫ぶ者がいる。
「いや、早く退かなければ前も後ろも塞がれて、全滅するぞ!」と怒鳴る者もいる。
陣中は完全に混乱し、誰の指示にも従わない。怒号が飛び交い、収拾のつく気配はまったくなかった。
(……今しかない。ここで僕が動かなければ、織田家は終わる)
僕は拳を強く握り締め、震える足に無理やり力を込める。そして、信長の前へと進み出た。
「皆の者、静まられよッ!」
腹の底から張り上げた僕の声に、諸将たちの視線が一斉に集まる。僕は信長をまっすぐ見つめ、大きく息を吸った。
ここから始めるのは、歴史を変えるためではない。歴史を未来へとつなぐための――命懸けの策を信長に示す、渾身の進言だった。
「信長様! 朝倉が30,000の大軍で追撃に来た以上、もはや一刻たりともこの地に留まるべきではございません! 今すぐ、退いてください!」
「猿、それは分かっている。だが、100,000の大軍が背を向ければ、敵は必ず追撃してくるぞ」
「ええ、普通に退けば、必ず食い破られます。だからこそ――『偽装』します」
僕は言葉を区切り、陣幕内に響き渡る声で宣言した。
「信長様の馬印だけを、この殿の部隊に残してください。信長様は少数の旗本衆だけを引き連れ、密かに間道を使って全力で京都へ帰国ください。……浅井・朝倉の連中は、信長様の黄金の馬印を見れば『まだ信長はここにいる!』と錯覚し、確実に食いついてきます。その隙に、一気に帰国して頂きます!」
「……馬印を残すだと?」
柴田勝家が息を呑んだ。「それはお前、自分が囮になるということか!?」
「その通りです」
僕はニヤリと笑ってみせた。内心は恐怖で吐きそうだったが、ここで僕がビビれば誰もついてこない。
「僕が兵を率いて、この場に残ります。朝倉勢が何万押し寄せようとも、この先へは一歩たりとも通しません。もし殿を務めきれず、信長様のお命を危険にさらすようなことがあれば、その時はこの命をもって償います。必ず敵を食い止めてご覧に入れます!」
諸将が言葉を失う中、僕は脳内にある「戦国武将が喜びそうな故事の知識」をフル回転させ、究極の決め台詞を放った。
「たとえ中国の覇王・項羽や英雄・樊噲ほどの敵が攻めてきても、この藤吉郎が必ず二日、三日は食い止めてご覧に入れます! どうかご安心ください。ここは私にお任せいただき、信長様はお静かにご帰国ください!」
その言葉が響き渡った瞬間、陣幕は静まり返った。誰もが、最も危険で、生還率が限りなくゼロに近い『死の殿』を自ら志願した小柄な男を、驚愕と、圧倒的な畏敬の念をもって見つめていた。
「……猿。貴様、本気で言っているのか」
信長の声が、わずかに震えているように聞こえた。
「本気でございます」
信長をはじめ、並み居る諸将たちは、僕の顔を見て深く頷いた。
「木下殿……見事な覚悟だ」
「貴殿の忠義、生涯忘れんぞ!」
皆んなが僕を賛美し、そして事態が一刻を争う緊急事態であったため、それ以上の議論は行われなかった。諸将はめいめいに自分の手勢をまとめ、足早に撤退の準備へと取り掛かった。
夕闇が迫る金ヶ崎の地。信長の本隊が間道へと消え、大軍が蜘蛛の子を散らすように撤退していく中、僕はわずかな手勢とともに、ただ一人、敵の大軍が押し寄せる方向へと顔を向けていた。僕の背後には、信長様から預かった巨大な馬印が、冷たい風に吹かれてバサバサと音を立てている。
「さて……」
僕は痛む太ももを叩き、自嘲気味に笑った。
「項羽と樊噲が来ても2日は保つ、か。……言ってしまったものは仕方がない。未来の知識と、泥臭い根性を見せてやるさ」
十万の味方が去り、三万の敵が迫る。
日輪の子、木下藤吉郎の、生存率0%の撤退戦が、今、幕を開けた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長勢敦賀表退去
越前第一の要害、手筒ヶ峯、金ヶ崎の兩城、二日の内に落城しければ、信長卿御よろこび限りなく、諸軍勢勇み進んで、「すぐに奥へ亂入し、義景を討ち滅さん」と議せられけるが、たちまち禍後に起り、北征心に任せがたし。その故は、江州小谷の城主淺井下野守久政、同備前守長政父子、信長卿に親族の因をなすといへども、去年將軍の御所造營のときより、互に隔心ありて、やや不快の模様なりしが、今度信長、上洛ありて、不意に越前へ出馬せられければ、朝倉と相挟んで、信長が後を討たんとす。この計議少しくはその謂なきにあらず。もと朝倉と淺井とは、兩家互に相扶くべき盟約あり。故に去ぬる永祿十一年、信長、長政縁者の睦びありしとき、信長、朝倉に對し、地を侵し軍を入るることあるべからざる誓紙を、淺井父子に贈れり。しかるに信長、將軍をさし挟み、台命と稱しみだりに軍を動かし、越前へ亂入せること、限りなき表裏なりと、長政そのほか淺井一家の輩みな「信長を討つて朝倉の盟約に背かじ」と罵りける。このとき淺井の功臣遠藤喜右衛門、これを深く歎き、「この故にこそ先年佐和山の菩提院にて盟會のとき、信長を討取るべしと再三言葉を盡し勸め參らせしに、御父子ともに許容なく、いま信長の威勢強大になり、數十萬の大軍を領し、將軍家の台命を頭に戴き、あまねく天下を征伐するは、龍の雲を得たるがごとし。このときに至つて當家わづかに半國の兵を以て信長に敵對せんこと、自ら滅亡を招き給ふにあらずや。信長に因を深く結び、朝倉の盟約を變じ、當家長久の計こそあらまほし」と、さまざま諫め止むれど、長政父子かつて承引なく、軍勢を催促し、信長が歸路を討つか、早く進んで後に迫るべしと、その用意まちまちなり。さるほどに信長卿の陣中、淺井父子、朝倉に力を合せ、さし挟んで攻むるよし、とりどりに評議し騒がしかりければ、信長卿、松永彈正久秀を近く招き、進退の計を尋ね給ふ。これは松永、信長に隨ひ陣中にありといへども、信長かつて心をゆるし給はず、いま淺井後に發りて信長卿難儀の合戰なれば、わざと松永に進退を尋ね問ひ、久秀が本心を探り見給ふ。松永もとより邪智深き老功の武者なりければ、信長卿の心を悟り、言下に答へけるは、「君御威光強くして、手筒、金ヶ崎の兩城たちまち陥り、北國ことごとく震ひ恐る。これを以てこのたびの勝利に備へ、一刻も早く歸國なし給ふべし。前後に敵を受け候ふては、合戰難儀なるべし」と言上す。信長莞爾として、「老人の軍議もつともなり」とて、歸國の用意し給ひける。ときに斥候馳せ歸り、「朝倉勢三萬ばかり、義景も出馬と見えて、揉みに揉んではや府中まで來れり」と告げければ、信長の軍兵大に騒ぎ、「朝倉が勢を迎へて戰はん」と云ふもあり、「早く退いて敵に前後を塞がれな」と罵るもあり、陣中さらに靜かならず。藤吉郎進み出でて申しけるは、「朝倉大軍にて後詰なさば、しばらくもこの所に止まり給ふべからず。君の御旗ばかりを惣勢の中に押立てて、本道より退くべし。君は旗本の勢を引率し、ひそかに間道より御引きあるべし。淺井勢君の御旗を見るものならば、喰ひ止めて戰ふべし。その隙に早く歸國し給はんかに、何條事の候ふべき。某手勢を以てこの所に止まり、朝倉勢何十萬押寄せ候ふとも、これより先へは一人も通し候まじ。もしこの後殿し仕損じ候ものならば、再び君に謁し奉らじ。一命にかけて戰ひなば、たとへ項羽、樊噲を將として向ひ來るとも、など二日三日は堪へでや候ふべき。御心を安く思召され、靜かに歸國し給ふべし。御側の方々(かたがた)も後に心を用ひずして、君を守護し退くべし」と、さも勇ましく下知をなせば、信長卿を始め参らせ、並居る諸軍一同に、みな木下を讃美して、事いそがしき折なれば、とかうの論に及ばず、めいめい手勢をまとめつつ、思ひ思ひに退きける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、戦国時代の1570年(元亀元年)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、織田信長の撤退戦である。撤退するにあたって、信長は金ヶ崎城に木下藤吉郎を入れておくことにした。通説ではこの時、木下藤吉郎が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、『武家雲箋』などによると、殿軍には藤吉郎より地位が高い摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたため、藤吉郎が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残る。また『寛永諸家系図伝』『徳川実紀』などでは徳川家康もこれらに加わったとしているが、一次史料には家康の名は見られない。出典:wikipedia
後の権力者たちがみんな「俺が信長の危機を救ってやったゼ!」って歴史書を改竄するので、事実が分からなくなるというw




