1-12 日吉丸、魔王のもとへ
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
駿河での仕官生活に区切りをつけ、僕は故郷である尾張国愛智郡中村へと帰ってきていた。
隙間風の吹き抜ける粗末な実家の土間で、囲炉裏の火を囲む父母や親族たちの前に、僕は加兵衛から預かった「鎧の代金」としての黄金を惜しげもなく並べた。
「ひ、日吉……お前、この金はどうしたんだべ……まさか、盗んだんじゃ……」
「違うよ。松下様から正当にいただいたものだ。皆で分けてください」
目を丸くして震える家族たちを尻目に、僕は静かに息を吐いた。
松下加兵衛之綱――僕のような身元の知れない小僧を拾い、目をかけてくれた恩人だ。けれど、未来の感覚……いや、この戦国という異常な生存競争の論理に照らし合わせても僕自身の「安全な未来」は担保されない。
(僕が生き残るためには、もっと爆発的な成長力を持つ「ベンチャー企業」に投資しなければならない)
その投資先は、すでに僕の頭の中で決まっていた。父・筑阿弥の古き主君であり、尾張の虎と恐れられた仁勇の大将。その名を聞くだけで、僕の胸の奥に棲む「太陽」が、じりじりと焦燥を煽るように熱を帯びるのだ。
「……織田家に行く。そこで、僕のすべてを賭けてみるよ」
家族たちの戸惑う声を背に、僕は一人、星一つない夜空を見上げた。
――織田上総介信長。未来の記憶を持つ僕にとって、その名は歴史の到達点と同義だ。だが、この時代のリアルな情報網で彼の家系を調べ直すと、その成り上がりぶりは凄まじいものがあった。
元を辿れば、織田家は桓武天皇の血を引く平相国清盛の嫡孫、平資盛の十九代の末裔だという。だが、そんな血統書などこの乱世では紙切れに等しい。彼らは長年、尾張の国主である斯波武衛家の単なる「臣下」に過ぎなかった。
それが、応仁の乱という未曾有の秩序崩壊を経て斯波家が衰退するや否や、信長の父・信秀の代で主家を完全に飲み込み、事実上の敵対的買収(M&A)を完了させる。今や尾張一国は、実質的に織田の支配下にある。
その猛将・信秀の長男として、天文三年に生を受けたのが幼名「吉法師」、後の織田信長だ。生まれながらにして聡明怜俐。圧倒的なカリスマ性と情報処理能力を持ち、父・信秀の寵愛を一身に受けて育った彼は、天文十五年(1546年)、13歳で元服し「織田三郎信長」と名乗った。
僕が信長を「本物の怪物」だと確信したのは、翌年――彼が14歳で行った初陣の戦績を耳にした時だった。
天文十六年(1547年)。信長は2,000騎を率いて三河へ出馬し、吉良・大浜周辺で今川義元の勢力と激突した。
この時、彼の傅役である老臣・平手中務政秀は、いかにも教科書通りの戦術を展開した。兵に下知してあちこちの村に火を放ち、敵を挑発。敵が怒って飛び出してきたところを叩き潰して、若君の華々しいデビュー戦を飾る。そのために野陣を構え、万全の態勢で待ち構えた。だが、三河勢は一人として動かなかった。
「若君、敵は恐れをなして引きこもっております。我らの武威は十分に示せました。陣を払い、本城へ帰りましょう」
経験豊かな平手はそう進言した。現代の感覚で言えば「利益が確定したから撤退しよう」という、至極真っ当なリスクマネジメントだ。だが、14歳の信長は、この古参の軍配を冷たく退けた。
「……愚か者が。ここで陣を引けば、背中を討たれるぞ」
信長の脳内には、盤面を俯瞰するような冷徹なアルゴリズムが構築されていたのだろう。彼は撤退せず、その場に陣を固め、2,000の兵を七つの部隊に細分化して配置した。信長の予測通りだった。
三河勢は恐れて出てこなかったのではない。「敵が撤退を開始し、隊列が間延びした瞬間(最も無防備な状態)を背後から襲う」という合理的な待伏せを企てていた。だが、織田勢が一向に動かないため、彼らの計画は狂った。
焦った三河勢1,500は、深夜の子の刻(午前零時)過ぎ、ついに業を煮やして信長の陣へ夜討ちを仕掛けてきた。鬨の声を上げ、闇夜を切り裂いて突っ込んでくる敵兵。だが、信長は少しも慌てなかった。まるで、あらかじめ組まれたプログラムを実行するかのように、合図の鉄砲を無機質に鳴らした。
――ダァンッ!
その一発の銃声をトリガーに、伏せていた七手の軍兵2,000が一斉に牙を剥いた。三河勢を中央に誘い込み、四方から完全に包囲・殲滅するカウンター戦術。今川方は完全に計算を狂わされ、パニックに陥った。討たれる者は数知れず、闇の中で蜘蛛の子を散らすように敗走していった。
恐ろしいのはここからだ。大勝に酔いしれ、追撃してさらに首を上げたくなるのが人間の心理だ。だが、信長は追撃を一切許さなかった。
「すわ、今こそ引き取るべし」
まだ夜も明けきらぬうちに、鮮やかに陣を払い、全軍を無傷で名古屋城へと帰還させた。損切りも利確も、一ミクロンの感情も挟まずに最適解を叩き出す。進退の駆け引き、そのすべてが図星。あまりにも完璧な大将軍の器量を見せつけられ、平手中務をはじめとする全軍は、若き主君の恐るべき才能に狂喜したという。
(……化け物だ)
その話を聞いた時、僕は震えが止まらなかった。14歳にして、戦場の心理を完全に排除し、純粋な物理と確率のゲームとして戦を支配している。僕が現代知識を総動員してようやく導き出せる解答を、信長は直感と生得の才だけで弾き出している。
だが――。
現在、僕の耳に入ってくる彼の噂は、その輝かしい初陣の幻影を木っ端微塵に打ち砕くようなものばかりだった。
天文十八年(1549年)3月3日。尾張の虎と呼ばれた偉大なる父・織田備後守信秀が病でこの世を去った。信長は正当な後継者として家督を継いだ。しかし、父が病床に伏し始めた頃から、信長の歯車は狂い始めていた。
何かに取り憑かれたように物狂おしい振る舞い。着物の袖を片方だけ脱ぎ捨て、髪は茶筅のように結い上げ、腰には火打ち袋や瓢箪をジャラジャラとぶら下げる異様なファッション(傾奇者スタイル)。町中を闊歩しながら、馬上で行儀悪く瓜や柿をかじり、通行人を威圧する傍若無人な態度。
「あれが大うつけと呼ばれる男の姿か……」
織田家中の者たちの絶望は想像に難くない。大黒柱を失い、周囲を強敵に囲まれた織田家において、新社長が突然ヤンキーになってしまったようなものだ。皆、「これでは織田の家も滅亡してしまう」と頭を抱え、涙ながらに諫言を繰り返した。
だが、信長は誰の言葉にも耳を貸さず、ますます己の我意を募らせていく。特に、彼を我が子のように慈しみ、初陣での輝きを誰よりも間近で見た老臣・平手中務政秀の苦悩は、どれほど深い闇なのだろうか。
(このままでは織田の家は終わる。我が命を引き換えにしてでも、若君の狂気を止めねばならぬ。……古き忠臣として、命を賭して報謝せよ、というのか)
遠く尾張の空を見つめながら、僕は見えない老臣の悲壮な覚悟が手に取るようにわかった。時代は、彼らに「死」という極端な形での忠義を要求する。
けれど、未来の記憶を持ち、そして「歴史の結末」を知る僕だけは、その狂気の裏にある真実の輪郭をうっすらと捉えていた。
(違う。あれは狂っているんじゃない。あえて『狂ってみせている』んだ)
絶対的なカリスマだった父の死。不安定な基盤。家中に渦巻く野心と裏切りの気配。信長は、自分を「うつけ」と偽装することで、盤面を意図的にかき乱しているのだ。忠臣と逆臣をあぶり出し、腐った組織の膿を出し切るための、命がけのストレステスト。すべてを計算し尽くした上での、孤独で冷酷な演劇。
胸の奥の太陽が、ドクン、と大きく脈打った。血が沸騰するような熱が、手足の末端まで駆け巡る。
(……行くしかないだろう、こんな面白い舞台なら)
僕は自分の小さな両手を見下ろした。まだ何の色にも染まっていない、農民の泥の手。けれど、この脳内には数百年の時を超えた知恵があり、胸の中にはあの怪物の孤独な熱に呼応する「光」がある。
世間が彼を狂人と見捨て、家臣が絶望に暮れる今こそが、最大の買い時だ。底値で株を買い占め、信長の隣で、誰よりも高い場所からの景色を見る。安全な中間管理職の椅子なんていらない。僕が欲しいのは、歴史という名の盤面そのものをひっくり返す、究極の生存権だ。
東の空が、ゆっくりと白んでくる。冷たい朝の空気が肺を満たし、僕の決意を固く冷やしていく。
日吉丸……いや、中村藤吉郎としての本当の戦いは、清洲城のあの「うつけ」の前に平伏したその瞬間から始まる。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
信長の高祖
さるほどに藤吉郎は故郷中村に歸り、父母一族を集め、松下より鎧の料とて預かりし黄金を別ち與へ、「我松下に仕ふるとといへども、小器の之綱、我が出身の便り悪し。父が古主織田信長、仁勇の大將なれば、織田に仕へて驎足を展ぶべし」とて、その時を見合はせけり。そもそも尾州清洲の城主織田上總介信長卿の家系を尋ぬるに、桓武天皇の末葉にして、平相國清盛の嫡孫、三位中將平の資盛十九代の後胤、尾州の太守斯波武衛家の臣下なりしが、去る應仁の亂より斯波家大に衰へ、信長の父信秀のとき至りて斯波の一家滅亡し、終に尾州一國ことごとく織田に屬しぬ。ときに天文三年のころ、織田信秀一男子を生む。童名を吉法師と號し、生得聰明怜俐にして、信秀の寵愛大方ならず。天文十五年、十三歳にて元服し、織田三郎信長と呼ぶ。翌十六年、信長十四歳にて二千餘騎を率し、今川義元を討たんと三州へ出馬し、吉良、大濱の邊を相働く。これ信長卿の初陣なり。御乳母平手中務政秀、士卒に下知して在々所々に放火せしめ、敵出でて戦はば力戰して信長卿の高名に備へんと、野陣を構へて敵を待てども、三河勢一人も出でて戦はず。ここにおいて中務、信長を勧めて陣を拂ひ本城へ歸らんとす。信長このとき十四歳、いまだ幼年なりといへども良將の器備はり給ひければ、平手が軍配を用ゐず、この所に陣を固め、二千餘騎を七手に別ち、備へを立て控へける。三河勢は敵さまざま放火亂坊をなせども敢て出づることなく、却つて敵の退くべき道に埋伏して、その不意を打たんとする。されども信長勢、野陣を取つて滞留しければ、かねての計策相違して、さらば今宵夜討すべしとて、その勢一千五百人、子の刻過ぐるころ信長の陣へ押寄せ、鬨を作つて切入つたり。信長勢かねて期したることなれば、相圖の鐵砲を鳴らすと等しく、七手の軍兵二千餘人、三河勢を中に取込め引包んで戦ふにぞ、今川方案に違ひ、さんざんに亂れて討たるる者數を知らず、四角八方へ逃げ散つたり。信長急に令を傳へ、「すはや今こそ引取るべし」と、まだ夜の明けざるほどに陣拂ひして名古屋の城へ歸り給ふ。この合戰の次第ことごとく圖に當たり、進退驅引、天晴大將軍の器量備はり給ふを見て、平手中務をはじめ、もろもろの軍士土卒に至るまで末たのましく悦びける。然るに天文十八年三月三日、織田備後守信秀卒去ありて、信長家督相續し給ひけるが、信秀病床に臥し給ふ頃ほひより、信長卿何となく物狂はしく、外見にかかはらず、衣服より髪の形まで異相を好み給ひ、馬上にて菓などを喰ひつつ往来し、傍若無人の行跡のみ多かりければ、家中の人々(ひとびと)、安からず思ひ、「かくては織田の家も滅亡し給ひぬべし」とて、さまざま諌言すといへども信長さらに用ゐ給はず、いよいよ我意に募られけるを、歎げかぬ者はなかりき。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜【御礼投稿(4話/8話)】開始1週間で1,000PV達成!〜
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