2-2 異人の予言と、重瞳の主
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
虎之助に続いて、もう一人、僕の陣営に欠かせない『最強の矛』であり、そして豊臣の家を最後まで支え続けることになる『柱石』。その名を片桐助作という。のちに東市正片桐且元と名乗り、その忠義と実直さで天下に名を知られることになる男だ。
助作の生い立ちは、虎之助のような「血気盛んなド田舎の次男坊」とは全く違っていた。助作の先祖を辿れば、誇り高き清和源氏の血脈に行き着く。かつて美濃の国を治めていた守護大名・土岐頼芸の流れを汲む、正真正銘の名門の出だ。ただし、その誇り高き血筋は、戦国の非情な下克上の前に、脆くも砕け散ることになる。
蝮と呼ばれた斎藤道三のクーデターによって、土岐氏の一族はことごとく滅亡へと追いやられた。片桐一族も例外ではなく、斎藤の軍勢によって無惨に狩り立てられ、助作の父親もまた、彼がまだ生後一年未満の時に討ち死にを遂げてしまった。すべてを失った助作の母親は、まだ言葉も喋れない小さな助作を固く胸に抱きしめ、燃え盛る館から辛くも脱出した。そして、斎藤の追手の目を逃れるため、人里離れた深く暗い山林の奥深くへと身を潜め、獣のように息を殺して生き延びていたのである。
「……天下の国主の血を引く者が、泥水をすするような生活を強いられるとはな」
僕が彼ら母子と出会ったのは、それから何年も後。僕が墨俣に城を築き、その城主として美濃攻めの最前線を任されていた時のこと。山狩りの最中に偶然発見したその親子は、ボロボロの衣服を纏い、痩せ細っていたが、母親の目には決して消えない武門の誇りが宿っていた。そして、彼女の腕の中でこちらを見上げる少年――助作の瞳には、飢えや恐怖ではなく、年齢にそぐわない理知的な輝きがあった。
「僕の城へ来い。飯くらいは腹いっぱい食わせてやる」
僕はその母子を墨俣の城へと連れ帰り、養育することにした。単なる同情ではない。僕の知る未来知識が「この少年は化ける」と告げていたからだ。案の定、僕の予想に狂いはなかった。城で暮らし始めた助作は、生まれつき尋常ではない賢さを持っていた。才智において同年代の子供たちを遥かに凌駕し、文字や礼儀作法をスポンジのように吸収していく。「頼もしい」と僕は助作を特別に目をかけ、大切に育て上げることにしたのである。
虎之助の師が天才軍師・竹中半兵衛であったように、助作にもまた、彼を「本物」へと鍛え上げるための特別な師匠を用意した。墨俣川の片ほとりに、一人でひっそりとあばら家に住んでいる奇妙な叟がいた。名を、七太夫という。この七太夫、ただの乞食坊主ではない。なんと元来は、海の向こうの大国・明の頴州という場所で生まれた、本物の中国人なのだ。政治的亡命か何かだろう、何らかの事情があって日本へと来舶し、最初は西国の雄・毛利家に仕官しようとしたらしい。しかし、言葉の壁か、あるいはその異端すぎる思想のせいか、不幸にして用いられることはなかった。
その後、全国を放浪し、流れ流れてこの美濃の国へと辿り着き、墨俣の片隅で世を捨てたように暮らしていた。だが、この七太夫の頭脳には、大陸で培われた「本場の軍学」と「兵法書」の奥義が、余すところなく詰まっていた。日本の武士たちが「気合」と「名誉」で殺し合っている時代に、七太夫は論理と陣形、兵站の重要性を説く、生きた戦術データベースだった。
「助作。あの爺さんの元へ通え。そして、あの男の頭の中にあるものをすべて吸い尽くしてこい」
僕の命を受け、助作は七太夫の門を叩いた。七太夫もまた、助作の異常なまでの理解力を愛し、彼に兵書の極意を読み聞かせ、複雑な陣法を惜しみなく叩き込んでいった。
ある日のこと。七太夫は、兵法書の講義をふっと止め、縁側から僕が建設させた墨俣城の方角をじっと見つめながら、助作に向かって真顔でこう語りかけた。
「……助作よ。お前が仕えているあの主人、木下藤吉郎という男だがな」
「はい。藤吉郎様が何か?」
七太夫は、目を細めて恐ろしいことを口にした。
「あの男の眼球を、よく見たことがあるか? …奴の眼中には『重瞳』がある。その眼光は、鋭く人を射抜く力を持っている」
重瞳。一つの眼球に瞳孔が二つあるという、古来中国において「王者の相」「覇王の証」とされる伝説上の身体的特徴。もちろん実際にはただのハッタリで、僕の目つきが異常にギラついていることの比喩だ。
「今は身分も低く、農民上がりではあるが……あの男は、いつの日か必ずこの『天下』を自らの掌に収めるであろう」
「天下を……藤吉郎様が!?」
「そうだ。だからお前は、決してあの男から離れてはならん。忠義を尽くし、真っ直ぐに仕えよ。そうすれば、必ずお前にも途方もない栄達が待っているはずだ」
当時、14歳だった助作は、この七太夫の予言を聞いて、心の底から嬉しく思った。自分の命を救い、育ててくれた主君が、いずれ天下を取る。それは彼にとって、この上ない希望の光だった。興奮冷めやらぬ助作は、墨俣の城へ帰るなり、同じ小姓として起居を共にしていた加藤虎之助(当時16歳)を捕まえ、この予言の話を興奮気味に語って聞かせた。
「虎之助! 聞いたか! 七太夫の爺様が言うには、藤吉郎様はいずれ天下を取るらしいぞ!」
「……ふーん」
だが、虎之助の反応は、助作の期待に反して驚くほど薄かった。虎之助は素振り用の木刀を肩に担いだまま、「そりゃそうだろうぜ」と鼻で笑い、それ以上詳しく問い詰めようともしなかった。
「なんだよ、お前は嬉しくないのか!?」
助作が不満げに尋ねても、虎之助は「俺は俺の腕で手柄を立てるだけだ」と背を向けてしまった。
――そして、その翌朝のことである。助作は例のごとく、軍学を学ぶために七太夫の住むあばら家へと向かっていた。すると、村の入り口で、こちらに向かって歩いてくる加藤虎之助とバッタリ行き逢ったのである。
「おい、虎之助。こんな朝早くから、どこへ行ってきたんだ?」
助作が不思議そうに声をかけると、虎之助は悪びれる様子もなく、ニヤリと笑って答えた。
「ああ。お前の師匠の七太夫のところへ行ってきたんだよ」
「えっ? 七太夫の爺様のところへ? お前、軍学なんて嫌いじゃないか。何をしに?」
虎之助は、肩の木刀をポンと叩きながら、極めて単純明快な理由を口にした。
「昨日、お前が自慢げに話していた『藤吉郎の叔父貴が天下を取る』って話さ。……あれが本当なのか、それともあの唐人ジジイの嘘なのか、直接問い詰めてやろうと思ってな」
「なっ……お、お前! まさか爺様に無礼な真似をしてないだろうな!」
助作はとんでもないことだと思い、慌てて虎之助の顔を覗き込んだ。だが、虎之助は「さあな」と笑うだけで、それ以上は答えようとしなかった。
(……ここで押し返して問いただしても始まらない。師匠に直接会って聞けば分かることだ)
助作はそう思い直し、呆れたようにため息をつくと、足早に七太夫の家へと急いでいった。虎之助はその後ろ姿を笑いながら見送り、悠然と墨俣の城へと帰っていった。16歳の虎之助と、14歳の助作。武力と直感で生きる虎と、知略と礼節を重んじる若き龍。彼らの性格は正反対でありながら、その根底には『木下藤吉郎』という一人の男に対する、絶対的で無垢な忠誠心が共通して流れていた。
「……面白い奴らだ」
後日、この一連のやり取りを風の噂で耳にした僕は、執務室で一人、静かに笑みをこぼした。天下を取るという予言。それが単なる異邦人の戯言なのか、それとも歴史の必然なのか。それを証明するのは、僕の未来知識と、そして彼らのような若く強力な『手足』たちの働きにかかっている。
墨俣という小さな城で出会った、二人の少年。のちに豊臣の天下を軍事と行政の両面から支え、その栄光の最前線に立ち続けることになる彼らの『若き日のエピソード』は、この先の血に塗れた歴史の中で、いよいよ本格的な輝きを放ち始めようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
加藤虎之助の傳(二)
また片桐助作といへる者あり。その先清和源氏にして、美濃の國主土岐頼藝の流れなりしが、齋藤がために氏族ことごとく滅亡し、助作も當歳にして父におくれ、母に抱かれ深き山林に忍び居たりけるが、年經て後、木下藤吉郎洲俣在城の節、かの母子を見て不便のことに思ひ、城中に伴ひ歸り養育するに、その小兒生れつき尋常ならず、才智衆に越えしかば、末たのもしく努りけるに、果たして藤吉の眼力に違はず、後東市正且元とて、豊臣家柱石の臣となれり。人はその弱冠の行状を見て、後年の忠勇を知るべし。助作が軍學の師は、洲俣川の片邊にひとり住みする七太夫といへる叟なり。この七太夫は元來明の頴州の人なりけるが、事ありて日本に來舶し、毛利家へ仕へたりしが、不幸にして用ひられず、さまざま漂流して美濃の國に來り住む。この人軍學兵書の旨に委しく、助作これが門に入りて兵書を聽き、陣法を習ふ。あるとき七太夫助作に語りけるには、「汝が主人木下藤吉郎、眼中重瞳ありてその光人を射る。今小身卑賤なりといへども、つひには天下を掌にすべし。汝忠を盡して後榮を待つべし」と云ふ。助作このとき十四歳なりけるが、この言を聞いてうれしきことに思ひ、洲俣の城に歸りて、加藤虎之助にこのことを物語す。虎之助これを聞いて、「さることもあんなれ」とて強ひて問はず。その翌る朝、助作例のごとく彼の七太夫が許に行かんとて、その村口に至りけるに、加藤虎之助に行き逢ひたり。助作詞をかけ、「いかに虎之助、何方へ赴きたるや」。虎之助答へて、「汝が師七太夫がもとに行きて、昨日汝が物語せしことの、實なりや僞なりやを尋ねにこそ參りたれ」と云ふ。助作怪しきことに思へども、「押返して問ふべきにもあらず、師に逢ひて聞かば知るべし」と思ひ、助作は七太夫が方へ急ぎ行き、虎之助は洲俣の方へ歸りける。このとき虎之助十六歳なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
片桐且元は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。大和国竜田藩初代藩主。豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降は家老として豊臣秀頼に仕え、秀頼の命で、滅失していた方広寺大仏および大仏殿の再建にあたった。しかし同寺院に納める梵鐘の鐘銘をめぐり方広寺鐘銘事件が生じ、大坂城を退出して徳川方に転じた。出典:wikipedia
関ヶ原の後、徳川家康と「戦えば滅ぶ」と分かっていたからこそ和平を主張した且元の現実論が淀殿ら強硬派には『裏切り』と映り、暗殺までされそうになり大坂城を追われました。「忠義ゆえの悲劇」のなんか切ない史実です。




