2-1 血脈と野心、そして虎の子の合流
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
『君子の身は、時に小さくかがみ、時に大きく広がる。優れた男の志というものは、よく屈し、そしてよく伸びる。』
かつての中国の英雄・韓信が、町のならず者の股をくぐるという屈辱に耐え、張良が老人から靴を拾えと言われて素直にそれに従う謙虚さを持っていたように。あるいは、大将軍となった衛青が元は豚飼いの奴隷であり、勇将の樊噲が犬の肉を売る身分であったように。活躍した英雄にも長所が現れず屈服していた時期があるという意味だ。そして歴史に名を残す覇者には、共通する一つの真理がある。
『人を用いることは、木を用いることと同じである』
少し腐っている部分があるからといって、大木になり得る長所を捨ててはならない。欠点には目をつぶり長所を最大限に引き出して使いこなす。それができる者だけが、天下という巨大な森を支配できる。織田信長は、まさにその『人を用いる』才能を生まれ持ち、そして極限まで実践してきた男だった。
信長は、尾張の中村というド田舎で生まれた、農民の息子――つまり僕、木下藤吉郎を見出した。身分も教養もない僕を重用し、結果として今川義元という強敵を桶狭間の戦いで打ち破る礎とした。その後も、美濃国に乱入して斎藤龍興を滅ぼし、将軍家を助けて近江の六角承禎を追い散らし、畿内の三好の剛敵を粉砕し、勢いに乗って伊勢の安濃津や神戸を降した。そして今、信長は尾張と美濃の二国を完全に鎮め、帝都である京都守護として天下の政務を取り仕切り、その名を日本中に轟かせている。
「…でも、信長のその輝かしい成功の裏側には、常にこの僕の未来知識が組み込まれているんだよなぁ」
僕は京の執務室で、書類に目を通しながら一人ごちた。そうやって武力で更地にするのが信長の役目なら、そこにシステムを構築するのが僕の役目だ。
今のところ未来知識の影響による、僕が最終的に天下を掌握することになるという歴史にズレはない。だから誰が僕の前に立ちはだかろうとも、勝利の女神が微笑むのは常に僕だ。でも、僕一人で天下のすべてをコントロールできるわけではない。僕の興業を支え、血と泥にまみれて最前線で戦ってくれる、有能な家臣たちが必要だ。
僕は筆を置き、頭の中で自慢の『秀吉軍団』の顔ぶれを思い浮かべた。蜂須賀小六、その弟分の又十郎。稲田大炊、青山新七、同小介、河口久助、日比野六太夫、長江半之丞、加治田隼人、松原内匠、堀尾茂助、そして浅野弥兵衛。みんな、名のある武将の家系ではない。野盗上がりであったり、しがない牢人であったり、はたまた農民の次男坊であったりする。だが、いざ戦場に出れば、誰もが一騎当千の勇士たちだ。彼らのような「はみ出し者」をまとめ上げ、能力を極限まで引き出すことこそが、僕の最大の強みである。
中でも、のちにその名を天下に轟かせ、朝鮮にまでその武勇を響かせることになる『最強の矛』たちがいる。福島市松正則、片桐助作且元。――そして、彼らと並び称される絶対的な猛将、加藤虎之助清正である。
「虎之助、か……。あいつがウチに来た日のことは、今でもはっきりと覚えているよ」
僕は、懐かしさと苦笑いが入り混じったような顔で、数年前の記憶を呼び起こした。加藤虎之助清正。虎之助の素性を遡れば、はるか昔、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の血を引く左大臣・魚名公、さらには利仁将軍という超名門の後胤に行き着くらしい。でも、そんな過去の栄光など戦国の世では一文の価値もない。虎之助の一族は数代にわたって民間に零落し、虎之助が生まれた頃には、僕と同じ尾張国の愛智郡・中村というド田舎の、しがない郷士になり下がっていた。
虎之助の父親は五郎助といい、僕の母親の『またいとこ』にあたる男だった。ちなみに僕の母の家系も、元を辿れば持萩中納言という貴族の息女の血を引いているらしいが、母の直接の親は猟師の治太夫という男だ。つまり、僕も虎之助も、ド田舎で泥にまみれて生きてきた、極めて近い親戚同士だった。
――転機が訪れたのは、僕が美濃攻めの最前線である墨俣に、一夜で城を築き上げた時のことだ。一介の足軽から城主へと大出世を果たした僕は、故郷の中村から両親や親族を墨俣城へと招いて、盛大な宴を開いた。その親族の中に、当時まだ13歳だった五郎助の息子、虎之助が混ざっていた。虎之助は13歳にしてすでに大人顔負けの体格をしており、生まれつき剛勇で大胆、細かいことには一切こだわらない、まさに「虎」のような少年だった。
「俺も、藤吉郎の叔父貴みたいに大出世してやる! デカい手柄を立ててやるんだ!」
虎之助は、いつも僕の出世を羨ましがって野心を滾らせていた。だから僕から墨俣城へ招かれた時、彼は「ついにチャンスが来た!」と狂喜乱舞した。宴が終わった後、五郎助夫婦は「わしらは田舎の暮らしが性に合っとる」と言って中村へ帰っていった。だが、虎之助だけは決して帰ろうとしなかった。
「叔父貴! 俺をこの城で雇ってくれ! 絶対に役に立ってみせる!」
彼は僕の前に膝をつき、ギラギラと燃えるような瞳で直訴してきた。
「……いいだろう。お前を俺の家臣として雇ってやる」
もちろん、迷う理由などなかった。僕は知っている。この加藤虎之助という少年は、やがて『加藤清正』と名を改め、賤ヶ岳七本槍の一人として武名を轟かせ、朝鮮では虎をも恐れぬ猛将と謳われる男になることを。
そんな未来の名将を、みすみす他家へ流す理由がどこにある。転生者の未来知識が、「何を差し置いても、この少年だけは手元で育てろ」と僕に告げていた。
こんな逸材を、田舎の泥の中で腐らせるわけにはいかない。僕は虎之助を墨俣の城中に留め置き、直属の小姓として徹底的に鍛え上げることにした。
もっとも、僕が教えられるのは未来知識を生かした実務や発想くらいで、武士として必要な軍学や剣術の基礎までは教えられない。
そこで僕は、客分として陣中に滞在していた美濃の天才軍師・竹中半兵衛重治を、虎之助の師匠にも任命した。
「お師匠さま。この虎も一廉の武将に育て上げてやってもらえませんか」
「……お任せを。骨のある原石を磨くのは、嫌いではありません」
半兵衛は扇子を片手に、静かに頷いた。それからの虎之助の成長速度は、まさに異常だった。虎之助は半兵衛の高度な軍学理論をスポンジのように吸収し、木刀を持たせれば大の大人を次々と打ち据える剣術の冴えを見せた。持って生まれた圧倒的な『武力』に、半兵衛が教え込む『戦術眼』が組み合わさっていく。
数ヶ月が経ったある日のこと。道場での稽古を終えた半兵衛が、信じられないものを見たというような顔で僕の執務室へとやってきた。
「藤吉郎殿。……あの加藤虎之助という少年、末恐ろしい才智を秘めておりますよ」
半兵衛は、わずかに頬を引きつらせながら、感嘆の息を漏らした。
「兵の動かし方、敵の心理を読む勘。……いずれも、もはや私が教えることは何もありません。彼が成長し、真の武将として戦場に出た暁には……私の軍略など、遠く及ばない次元へと到達するでしょう」
僕は背筋にゾクッとした快感が走るのを感じた。天才・竹中半兵衛に「私が及ばざること遠し」と言わしめたのだ。僕は、泥だらけになって道場で素振りを続ける虎之助の姿を窓越しに眺めながら、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
あれから数年。虎之助は今、僕の側近として、この京の都でも僕の背中をしっかりと護ってくれている。僕が政治や交渉という『盤面』を動かす裏側で、虎之助のような圧倒的な武の才を持つ若者たちが、僕の『手足』となって機能するための準備を着々と整えている。
「藤吉郎様! 洛中の見回り、終わりました!」
執務室の戸が勢いよく開き、すっかり逞しい青年へと成長した加藤虎之助が、屈託のない笑顔で飛び込んできた。
「ご苦労だったな、虎之助。都の様子はどうだ?」
「へっ、どこもかしこも平和なもんです! ……でも、正直言って退屈ですね。早く俺も、信長様や藤吉郎様と一緒に、血沸き肉躍る本物の戦場で大暴れしたいです!」
虎之助は、腰の刀の柄を撫でながら、目をギラギラと輝かせた。その姿は、檻の中でエサを与えられながらも、野生の血を滾らせて狩りの時を待つ、本物の虎そのものだった。
「焦るな。お前のその牙が、天下を切り裂く時は必ず来る。……それまで、僕の側でもっともっと強くなれ」
「はいっ!」
僕は虎之助の肩をポンと叩き、再び机の上の書類へと視線を戻した。胸の奥の『日輪』が、心地よい熱を放って脈打っている。優秀な家臣を見出し、育て上げ、彼らの能力を限界まで引き出して、天下という巨大なシステムを構築していく。信長が武力で切り開いた道を、僕が盤外の知識と人の絆で完全に支配する。いずれ天下の頂点へと駆け上がるための、果てしなく泥深く、そして残酷なゲームの準備は、着実に、そして完璧に進められていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
加藤虎之助の傳(一)
君子の身は小にすべく、大にすべし。丈夫の志はよく屈し、よく伸ぶる。韓信股下の辱を受け、張良は履を進むる謙あり、衛青は猪を牧するの奴なり、樊噲は狗を屠る輩なり。人を用ふるは木を用ふるがごとし、寸朽を以て連抱の材を棄つることなかれ。されば織田弾正忠平信長、人を用ふる大度ありて、尾州中村の住人筑阿彌が子木下藤吉郎を用ひて、今川義元が大敵を桶狹間の一戰に破り、美濃の國に亂入して齋藤龍興を討亡し、將軍家を扶けて佐々木承禎を追ひ、三好の剛敵を碎き、そのほか勢北に向ひて安濃津、神戸を降し、その身尾濃の兩國を鎭め、兼ねては帝都の守護として天下の政務を撮り行ひ、英名を海内に振ること、ことごとくみな木下藤吉郎が方寸より出でたり。理なるかな、秀吉公終には四海を併呑し、天下を掌握し給ふ洪福の備はり給へば、誰かよく敵對して衡を爭はんや。向ふ所ことごとく天の助けありて、瓦のごとく解け芥のごとく散じ、草に風を加ふるごとし。その興業を扶くる臣は誰々(たれたれ)ぞや。蜂須賀小六、同又十郎、稻田大炊、青山新七、同小介、河口久助、日比野六太夫、長江半之丞、加次田隼人、松原内匠、堀尾茂助、淺野彌兵衛ら、みな一人當千の勇士なり。就中その名天下に高く響き、遠く異邦に鳴るものは、加藤虎之助、福島市松、片桐助作らに並ぶ者なし。そもそも加藤虎之助清正が素姓を尋ぬるに、大織冠鎌足公の苗裔左大臣魚名公、利仁將軍の後胤民間に零落すること數代にして、これも尾州愛智郡中村に住居しける郷士五郎助が一男にて、秀吉の母方の又從弟なり。秀吉の母は持萩中納言保廉卿の息女なれども、その母は獵師治太夫が娘なり。虎之助が父と母とは、民間にての親しき從弟なり。先に藤吉郎洲俣に城を築き、その城主となりしとき、父母親族を招きけるに、かの五郎助が一子虎之助、そのとき十三歳、生得剛勇大膽にして少細のことに拘はらず。木下藤吉郎が出身を常にうらやみ、いかにもして武家に仕へ、ゆゆしき働きをなさんものと、日ごろ月ごろ願ひ居りしに、このとき洲俣より藤吉郎が招くをうれしきことに思ひ、五郎助夫婦は中村に留まりぬれども、虎之助は藤吉郎が招きに従ひ、洲俣にぞ赴きける。藤吉郎、虎之助が生質勇にして直なるを愛し、城中に留め、美濃の浪人竹中半兵衛重治を師として、軍學、劍術を學ばせけるに、その才智群に秀で、竹中もこれを讃し、「我が及ばざること遠し」とて、感歎すること度々(たびたび)なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
加藤清正は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。肥後国熊本藩初代藩主。通称は虎之助。熊本では、清正公さん(せいしょこさん)と呼ばれて親しまれている(清正公信仰)。これは、ひとえに新田開発や治水工事で実績を上げたことによるところが大きい。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍の一人。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国の大名となる。秀吉没後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担して活躍し、肥後国一国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主になった。明治42年(1909年)に従三位を追贈されている。出典:wikipedia
私、こういう領民に慕われる系の武将、大好きですw




