1-113 生き仏と石山御坊
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
紅屋や能登屋といった堺の豪商たちが、ついに信長によって獄へぶち込まれた。彼ら5人の「助命の筋は一切なし」という絶望的な死刑確定ニュースは、あっという間に堺の町全体へと知れ渡った。
堺の町は大パニックである。特に、捕らえられた5人の妻子や一族郎党の嘆きは筆舌に尽くしがたいものがあった。「全財産を投げ打ってでも、なんとか命乞いをしよう」と、彼らは泣きながらさまざまな作戦会議を重ねた。
だが、相手は「あの」魔王・信長である。生半可な権力者や仲介人がいくら泣きついても、そう簡単に恩赦が出るはずがない。
「……所詮、我らの力ではどうにもならない。こうなれば、頼みの綱は『石山御坊』の御門主様しかおられぬ!」
彼らが最後にすがりついたのは、現世の権力ではなく、宗教的権威―― 一向宗(本願寺)のトップである『顕如上人』だった。
「顕如上人様は、まさに活き如来だ。あの方のお力でも助けられない命だというなら、それはもう前世からの因縁だと諦め、あの世での幸福を祈るしかない!」
衆議一決した商人たちの家族は、摂津国の東成郡にある巨大な宗教要塞・石山御坊へと駆け込んだ。
彼らは顕如上人に謁見し、事の顛末を涙ながらに訴え、「どうか、御慈悲をもって彼らの命をお救いください」と土下座して嘆願した。
これを聞いた上人も「それは不便なことだ」と心を痛められ、すぐさま使者を立ててきた。その使者の向かった先こそが、京都の守護代であり、今回の「堺の交渉」の全権を任されている僕――木下藤吉郎の元だったのである。
「……顕如上人様からの、直々の命乞い、ですか」
僕は上人の使者から書状を受け取ると、わざと困ったような、重々しい表情を作って見せた。
「上人様の御慈悲、誠に殊勝なことに存じます。……ですが、今回の堺の罪科は、朝廷や将軍家の御怒りも強く、そう急には落ち着きません。でも、この僕がなんとか上手く取り計らってみましょう」
僕がそう「含み」を持たせて答えると、使者はもちろん、結果を聞いた商人たちの家族も涙を流して喜んだという。
――でも、内心の僕は、陣幕の裏でこっそりと小躍りしていた。
(よしッ! これだ、この展開を待っていたんだ!)
堺の商人から直接お金を絞り取るだけでは、実は「足りない」。 二条の新御所や禁裏の修復にかかる莫大な予算。それを堺だけの力で賄うには限界がある。だからこそ、僕は彼らを極限まで追い詰め、彼らが「石山本願寺」という巨大な資金源に泣きつくよう、裏から誘導したのである。
僕はすぐさま、この「僕の計略が完璧に成功した」という事実を信長に報告し、次なる一手を実行に移した。数日後。僕は石山御坊へ向けて、一通の使者を送った。
「――京都守護代・木下藤吉郎、将軍家の名代として住吉大社へ参詣するついでに、上人様に謁見し、密かにご相談したい内緒話がございます。帰り道に立ち寄りますので、非公式にお会いいただきたい」
こうして、僕は数人の護衛だけを連れて、一向宗の総本山・石山御坊へと足を踏み入れた。石山側も抜かりなく準備をしており、本願寺の軍事と政治を取り仕切る坊官・下間頼廉が自ら出迎えてくれ、客殿へと案内された。
やがて、現世の仏と崇められる顕如上人本人が姿を現した。互いに儀礼的な言葉を交わし終えた後、僕は姿勢を正し、いよいよ本題を切り出した。
「上人様。本日は、お願い申し上げたいことがあり、お邪魔いたしました」
僕は真剣な眼差しで、上人の顔を見据えた。
「我が主君・織田信長は、将軍様を擁して上洛し、逆臣どもを追い払い、足利家再興のために尽力しております。……しかし、応仁の乱以来、天下は長く乱れ、諸国は困窮を極めております。朝廷の修理はおろか、将軍の御所を造営する資金すら十分にありません」
僕はわざとらしく、深いため息をついた。
「この隙を突き、逆徒どもはまた反乱を起こそうとする。信長様はこれを深く嘆いておられます。……今、朝廷と将軍の御所を造営しようとしておりますが、その資金が全く足りていないのです」
僕はそこで言葉を区切り、上人の目を真っ直ぐに見返した。
「僕は京都守護代として、上人様にお願いがございます。……一向宗の門徒には、富裕な者が数多くおります。これは天下国家の平和のため。上人様の『御加判』をもって、諸国の門徒たちに寄付を命じてはいただけないでしょうか」
「……何と」
上人の表情が、わずかにピクリと動いた。
「そうすれば、たちまち両御所の造営は整い、世は安定するでしょう。これは私腹を肥やすためではありません。上は帝を安んじ、下は万民の苦しみを救うための基礎となる事業なのです。」
僕は流水のごとく弁舌を振るい、完全に退路を断った「大義名分」を突きつけた。
顕如上人は、内心では「とんでもない要求を突きつけられた」と舌打ちしたことだろう。だが、僕の持ってきた理由は「帝と将軍のため」という、絶対に否定できない最高の大義名分だ。ここで断れば、本願寺が朝廷や幕府に敵対していると見なされかねない。
「……相分かった。木下殿の申す通り、これも天下安寧のため。門徒衆へは、私から申し含めよう」
上人は、苦渋の決断で僕の寄付の要請を承諾した。
そして、上人はすかさず「条件」を口にした。
「……ところで、先にもお願いした堺の町人たちの命乞いの件。どうか、よろしくお頼み申す」
僕が莫大な資金提供を引き出したのだ。当然、その見返りとして、堺の商人たちを無罪放免にしろ、という釘刺しである。
僕は内心で「ビンゴ!」と叫びながら、極めて重々しく、しかし確かな保証を与えるように深く頷いた。
「上人様の御願いとあらば、決して反故にはいたしません」
互いに言葉の裏を探り合いながら、表面上はにこやかに「約束」を交わす。
堺の豪商たちが隠し持つ財産と、本願寺の門徒たちが集める莫大な寄付金。この二つの巨大な『黄金の鉱脈』を、一滴の血も流すことなく、僕は見事に織田家の金庫へと直結させたのである。
「それでは、僕はこれで」
僕は上人に深く一礼し、石山御坊を後にした。京への帰路。馬に揺られながら、僕はこれからの新しい時代の景色を思い描いていた。
二条にそびえ立つ、堅牢で巨大な将軍の城。そして、修復され、かつての輝きを取り戻す朝廷の姿。それらはすべて、僕がこの口八丁と謀略で引き出した黄金によって築き上げられる。
「……武力で更地にするのは魔王の仕事。そこに金と知恵で新しいシステムを構築するのは、僕の仕事だ」
胸の奥で、日輪が心地よく脈打っている。戦国の世は、ただ敵を殺すだけのゲームではない。経済と大義を支配する者こそが、最終的な勝者となる。
僕、木下藤吉郎の戦いは、泥臭い刃の交え合いから、天下の富を動かす壮大なスケールの国造りへと、その舞台を大きく広げようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
石山上人町人らの罪科を救ふ
さても信長卿の御怒り甚だしく、紅屋、能登屋が輩、五人ことごとく禁獄せられ、助命の筋これなきよし、堺の津へも聞こえければ、またまた騒動大方ならず。とりわけ五人の妻子従類、その歎き云はん方なく、身上を抛つても命乞いをなさんものと、さまざま計議をなしけれども、信長は聞こゆる強氣の大將なれば、いかに願ふとも容易く赦免あるべしとも覺えず、「所詮我々が宗旨石山御堂の御門主(顯如上人)に謁し、助命の筋もあらば御救ひに預かるべし。活如來の御力にも及ばせ給はぬ命なりせば、前世の因縁と思ひ諦め、後世の佛果を祈るべし」と、衆議一決して、攝州東成郡石山御堂に至り、上人に謁し奉り、委しく仔細を申し上げ、「御慈悲を以て救ひ給ヘ」と歎きければ、上人も不便のことに思召され、使者を以て守護代木下藤吉がもとへ助命のことくれぐれ頼み給ひければ、藤吉も上人の命乞い殊勝のことに思ひ、「今度の罪科、禁中及び將軍家の御憤り強く、急には落なし、某よろしく計らふべき」よし答へければ、上人を始め參らせ、町人の妻子家族、涙を流して欣びける。さても木下藤吉は、石山の上人より取扱ひありければ、心中密に悅び、我が計策成就せりと、信長卿へつぶさに言上し、上人に對面し計策を行はんとす。まづ使者を以て石山へ申し入れけるは、「京都守護代木下藤吉郎、將軍家御代參として住吉七社參りについで、上人に謁見し、密に談じ申したき心事の候間、下向のみぎり御坊へ推參仕るべきほどに、慇懃を省き對面給はるべし」と案内し、しかうして石山に至りけるに、かねて用意したりければ、下間頼廉出迎へ、客殿に伴ひ饗應す。ほどなく上人、藤吉に對面し給ひ、互に丁寧の禮儀を演ベ終つて、藤吉郎申しけるは、「某今日當院(今日たうゐん)に推參致すこと、別して御頼み申し入れたき仔細これあり。主人織田信長、將軍義昭公を守り立て上洛し、逆臣三好を追ひ退け、足利家再興の志しきりなりといヘども、應仁已來、天下暫くも静かならず、國々困窮して、禁中の修理、將軍の御所をさえ造營するに遑あらず。然るによつて逆徒透を伺ひ、ややもすれば兵亂を起す。これ信長が深く歎き思ふところなり。このたび禁裏を修復し、將軍の御所を造營せんとすれども、その賄ひ全からず。某京都の守護代として門徒には福祐の者甚だ多し。天下國家の御ためなれば、上人の御加判を以て、諸國の門徒へ金子才覺の儀御下知下さらば、たちまち兩御所御造營全く調ひ、上下安堵の思ひをなすべし。これ私の事にあらず、上は帝の玉體を安んじ、下は萬民の歎きを救ふ基なれば、御辭退の儀あるべからず」と、辯舌を振うて演べければ、上人も否みがたく領承あり。さて「先より頼み聞こえし堺の町人ども助命のこと、よろしく頼み給ふ」よし申させ給ひければ、その詞を番ひつつ、心中に含みあれば、「上人の御願ひ反古にはなし申さず」と互に詞を番ひつつ、藤吉郎は京都さして歸りけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
根拠はありませんがなんとなく、キャッシュを含む総資産は石山本願寺の方が堺より持っていたんじゃないかと思います。堺は信長との戦争が出来ませんでしたが、石山本願寺は10年以上の戦い続けたわけですし。




