1-108 狐川の死闘と、裏切り者への執念
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
本圀寺の門前で、竹中半兵衛の遅延策と蜂須賀小六らの奇襲が見事に噛み合い、三好軍の一部が崩壊を始めていた頃。
そこから少し離れた狐川の陣においては、血で血を洗うような凄惨な激戦がいまだ繰り広げられていた。
狐川に陣を構えていたのは、今回の将軍襲撃における三好軍の総大将――岩成主税助。
彼が率いる5,000の精鋭の前に立ち塞がっていたのは、他でもない、三好家の若き当主・三好左京大夫義継の軍勢だった。
三好義継は、かつて岩成主税助たちが主君として担ぎ上げていた男だ。だが、将軍・足利義昭を擁して上洛を果たした信長の圧倒的な武力を前に、三好義継は早々に三好三人衆を見限り、織田方に恭順を誓っていた。三好義継からすれば、「お前たち急進派が前将軍を暗殺するから、こんなことになったのだ」という正当な言い分があった。
しかし、現場で命を張っている岩成主税助たちからすれば、三好義継は一族を売り飛ばし、尻尾を振って敵に寝返った『裏切り者』でしかない。
「――おのれ義継! よくも我らを見捨て、尾張の猿どもに寝返りおったな!」
岩成主税助は、馬上で采配を振り下ろしながら怒号を響かせた。彼はもとより、三好三人衆の中でも抜群の勇武を誇る男だ。個人的な恨みと、将軍の首を獲らねば後がないという焦燥感が、彼とその配下の兵たちに狂気じみた力を与えていた。
「怯むな! 裏切り者の首を刎ね、そのまま本圀寺へ雪崩れ込めェッ!」
士卒を激しく励まし、無二無三に――ただ前だけを見て命がけで――突撃を繰り返す岩成主税助軍。
対する三好義継の軍勢も、自らの新しい立場(織田・幕府軍としての面目)を守るために必死で防戦を試みた。両勢は狐川の浅瀬を挟んで激しく渡り合い、互いの槍と太刀が火花を散らして激突する。だが、決死の覚悟を決めた岩成主税助の猛攻は凄まじかった。
「防ぎきれぬ! 陣形が保てん!」
三好義継の陣営からは悲鳴が上がり、討たれる者の数は次第に知れなくなっていく。三好義継自身も前線で指揮を執っていたが、怒濤のように押し寄せる敵兵の前に、その旗色は誰の目にも明らかに悪くなっていた。
陣列は後退を余儀なくされ、三好義継の軍はすでに完全な敗北の体をなしつつあったのである。
「もはやこれまでか……!」
三好義継が奥歯を噛み締め、死を覚悟したまさにその時だった。
時計の針を少しだけ戻し、視点を僕――木下藤吉郎へと移そう。近江国から猛スピードで駆け戻り、本圀寺の包囲網を背後から突き崩した僕は、燃え上がる京の夕空の下で、静かに次の一手を計算していた。
本圀寺を直接包囲していた三好山城守らの部隊は、小六たちの強襲によって散り散りになりつつある。だが、それだけではこの戦は終わらない。
「藤吉郎様。狐川に陣取っている岩成主税助の主力がいまだ健在です。三好義継殿の軍が必死に食い止めておりますが、長くは持ちますまい」
竹中半兵衛が、血の匂いが漂う境内で淡々と戦況を報告してきた。
「ええ、分かっています。岩成主税助をこのまま放置すれば、三好義継殿の軍をすり潰した勢いで、再びこの本圀寺へ死に物狂いで突っ込んでくるでしょう」
僕は顎を撫でながら、思考を高速で回転させた。最も単純な解決策は、今まさに本圀寺を解放した僕の本隊と、城内の守備隊を合わせた全軍で狐川へと向かい、岩成の軍勢と正面から激突することだ。
だが、僕はその選択肢を即座に脳内から捨て去った。岩成の軍は5,000。しかも、決死の覚悟を決めた強兵だ。そんな連中と真正面から殺し合いの泥試合を演じれば、確実にこちらにも数百、数千単位の死傷者が出る。
未来人の感覚を持ち、何よりも『費用対効果』を重んじる僕にとって、無駄な血を流すことは最悪の愚行だ。兵士は使い捨ての駒ではない。生きて飯を食い、家族を養い、これからの織田の天下を支えていく大切な労働力なのだ。
「真正面からぶつかる必要はありません。人間の心なんて、少しの視覚的な錯覚と恐怖を与えてやれば、勝手に自壊するものです」
僕は半兵衛に向かってニヤリと笑い、懐から一枚の書状を取り出した。それは、僕が近江国から京へと急行する道中、密かに腹心の部下を走らせて手配しておいた『仕掛け』の報告書であった。
「お師匠様。戦において、敵の戦意を最も確実にへし折るものは何だと思います?」
「……圧倒的な『数の暴力』、でしょうか」
「さすがお師匠様。そのとおりですが、実際に10,000の兵を動員するには莫大な金と兵糧がかかります。なら、どうするか。――安上がりな『偽物』で、10,000の大軍を演出してやればいいんです」
僕はあらかじめ、京の南に位置する木幡や伏見の村々を治める庄屋たちに、金銀を握らせて密命を下していた。
『――村中の紙をかき集め、大至急、五色の吹貫を数百本作れ。そしてそれを長い竹竿に結びつけ、狐川の川上にある山々や峰々に、間隔を空けて一斉に押し立てよ』と。
吹貫とは、風を受けて筒状に膨らむ色鮮やかな陣飾りのことだ。本来は武将の居場所を示すためのものだが、それが数百本も山に立ち並べば、遠目からはどう見えるか。紙と竹竿、そして農民たちのアルバイト代。たったそれだけの安い投資で、数万の軍勢の存在を『偽装』する。血を流さず、金と知恵で盤面を制圧する。これこそが、僕の最も得意とする泥臭い盤外戦術であった。
再び、狐川の戦場。三好義継の軍を完全に押し込み、「あと一息で大将首に手が届く」と岩成主税助が確信したその時だった。
「――ご、御注進! 岩成様、川上の山路をご覧ください!」
物見の兵が、裏返った悲鳴のような声を上げた。岩成がいぶかしげに視線を巡らせた先。夕闇が迫る狐川の川上、木幡や伏見へと連なる山々の稜線に――異様な光景が広がっていた。
赤、青、黄、白、黒。鮮やかな五色の吹貫が、数百流という恐ろしい数で立ち並び、川風を受けてバタバタと不気味な音を立てて翻っていたのである。
「な、なんだあれは……!?」
岩成は馬上で息を呑んだ。旗指物や吹貫の数から推測するに、山を越えて押し寄せてこようとしている軍勢の規模は、優に数万は下らない。
「織田の本隊か!? いや、あれほどの大軍が、いつの間に我らの背後に回り込んだのだ!」
岩成の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼らは知る由もなかった。その吹貫の下で竿を支えているのが、武装した兵士などではなく、僕から日当をもらって震えながら立っているだけの素朴な農民たちだということを。
でも、極限の緊張状態にある戦場において、人間の認識能力はいとも簡単に歪む。前方の三好義継軍に気を取られていた岩成主税助にとって、背後の山肌を埋め尽くす数百の吹貫は、「退路を完全に断たれた」という絶望的な死の宣告に他ならなかった。
「……敵の別働隊に、味方の後ろを取り切られてしまえば、この合戦はすこぶる難儀なことになる。挟み撃ちにされる前に、陣形を立て直さねば!」
歴戦の勇将である岩成は、パニックに陥りそうな心を必死に押さえ込み、苦渋の決断を下した。
「構わん、軍勢をさっと引き分けろ! 二手に備えを立てて、後方の山から来る敵を迎え撃つ手はずを整えるのだ!」
三好義継軍への追撃を諦め、軍を二つに分割して防衛陣形を敷き直す。戦術論としては、決して間違った判断ではない。背後からの奇襲に対応するための、教科書通りの正解だ。
――しかし。岩成主税助が軍を動かし、陣形が最も無防備に「割れた」その瞬間こそが、僕の描いた最悪のシナリオが発動するタイミングだった。
「――ひぃぃッ! 逃げろォォ!」
「木下藤吉郎の軍勢が来るぞォッ!!」
岩成が二手に備えを立てようとした、まさにその時である。本圀寺の方向から、武器や兜を投げ捨て、全身を泥と血にまみれさせた数千の敗残兵が、狂ったような悲鳴を上げながら雪崩れ込んで来たのだ。
本圀寺の攻城戦に失敗し、僕の放った小六たちの追撃から命からがら逃げてきた、三好山城守と三好下野守の軍勢であった。
「な、なんだ貴様ら! 陣を乱すな! 落ち着けェッ!」
岩成主税助が必死に怒鳴りつけるが、極度の恐怖に駆られた敗残兵の耳には届かない。彼らは、陣形を立て直そうとしていた岩成の軍勢のど真ん中へ、文字通り「なだれ」のように突っ込んだ。
恐怖は感染する。本圀寺で何があったのかも分からないまま、味方が血相を変えて逃げてくる光景を見て、岩成の兵たちの心の中にも「どうやら取り返しのつかない大敗北を喫したらしい」という致命的な絶望が広がった。
さらに、その後方からは、追い打ちをかけるようにして恐るべき追撃部隊が姿を現した。
「逃がすな! 賊軍を一人残らず叩き斬れェッ!」
僕の本隊に加え、竹中半兵衛の指示で本圀寺から討って出た野村、二階堂らの守備隊が、完全に勝に乗って怒涛のように押し寄せてきたのである。
前からは三好義継の軍が息を吹き返して迫り、横からは本圀寺の追撃部隊が殺到し、背後の山には(偽物とはいえ)数万の伏兵が控えている。ここに於いて、岩成主税助の精強な軍勢は、内側と外側からの圧力に耐えきれず、完全に共に崩れ去った。
「……ここまでか。無念だ……!」
岩成主税助は血の涙を流さんばかりの形相で撤退を命じた。はじめは10,000騎と聞こえた三好の大軍は、もはや指揮系統の欠片も残しておらず、四角八方へと蜘蛛の子を散らすように散乱していった。
命を惜しむ者は川へ飛び込み、ある者は山へ逃げ込み、岩成主税助は漸く自らの直属の者たち1,000人をまとめ上げると、血路を開いて遥か南の青龍寺城へと逃げ込んでいった。
「藤吉郎様! 敵の大将が青龍寺方面へ逃げます! このまま追撃をかけ、息の根を止めましょう!」
血の気に逸った味方の武将たちが、僕の馬の周囲に集まって口々に叫ぶ。でも、僕は静かに右手を上げ、全軍に停止の合図を出した。
「――いえ、もはや軍はこれまでです。深追いはする必要はありません」
「なぜですか! 今なら確実に仕留められますぞ!」
「穷鼠猫を噛む、ですよ」
僕は不満げな諸将を諭すように、冷静な声で言った。
「あれほどの猛将が率いる1,000の決死隊です。逃げ道を完全に塞げば、死に物狂いで反撃してくる。そうなれば、味方にも少なからぬ犠牲が出るでしょう。私たちの真の目的は、敵の首を一つ残らず狩ることではなく、『将軍様の御命を守り抜くこと』です。敵の軍という組織が完全に瓦解した今、これ以上の出血は無意味です」
戦とは、勝つこと以上に『どこで利益を確定させるか』が重要なのだ。僕は逃げゆく岩成主税助の背中を静かに見送り、その場にいる全軍に向けて大声で宣言した。
「――我らの大勝利である! 勝鬨を上げよ!」
「エイ、エイ、オーッ!!」
狐川の夕空に、織田と幕府軍の万雷の勝鬨が響き渡った。
勝鬨を上げた後、僕たちは兵をまとめ、守り抜いた本圀寺へと悠然と凱旋した。将軍・足利義昭は涙を流して喜び、僕や半兵衛、そして助勢に入った美濃の浪人衆に厚い労いの言葉をかけた。
「藤吉郎様。……あの山々に翻っていた五色の吹貫、見事な虚仮威しでしたな」
陣幕で一息ついていると、竹中半兵衛がくすくすと笑いながらお茶を差し出してきた。
「気付いていましたか、お師匠様」
「ええ。木幡や伏見の百姓たちに紙で吹貫を作らせ、山々に打ち散らして敵の心を奪うとは。……血を流さずに一万の大軍を瓦解させる、藤吉郎殿らしい痛快な謀略でした」
「買い被りですよ。たまたま、敵が焦って周りが見えなくなっていただけです」
僕は茶をすすりながら、謙遜して肩をすくめた。だが、胸の奥では確かな手応えを感じていた。戦国の世は、ただ剣を振り回すだけの腕自慢が生き残れるほど甘い場所ではない。
相手の心理を読み、盤面を俯瞰し、金と知恵を使って虚を実に変える。この『未来の合理性』こそが、僕がこの狂った時代で天下を掴み取るための最大の武器なのだ。
夜が明け、京の都に再び平和な朝の光が差し込んでくる。胸の奥で、あの日見た『日輪』が、暖かく、そして力強く脈打っているのを感じる。
三好の残党による逆襲という最大の危機は去った。だが、僕たちの天下布武の歩みはまだ始まったばかりだ。血と泥にまみれ、虚実に踊るこの戦国という巨大な盤上で、僕、木下藤吉郎の戦いは、これからも休むことなく続いていく。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
凶徒ら狐川に敗走す
さるほどに岩成主税は、狐川にて三好義繼と渡り合ひ、兩勢互に火花を散らして戦ひけるが、もとより岩成抜群の勇者なれば、士卒を勵まし、無二無三に戦ふほどに、義繼が勢討たるる者數を知らず、すでに敗北の體に見えたるところに、川上の山路傳ひに、五色の吹貫數百流川風に飜り、數萬の軍兵押し寄せ來れば、岩成大に驚き、「敵の軍勢味方の後を取り切りなば、合戰すこぶる難儀なるべし。備を分ち戦ふべし」と、軍勢をさつと引き分け、「二手に備を立つべし」下知するところへ、三好山城守、同下野守が兵士散々(さんざん)になつて逃げ來り、岩成が勢の中へなだれに連れて敗走すれば、木下、竹中、野村、二階堂が勢、勝に乗つて追ひ來る。ここに於て岩成が勢共に崩れて、思ひ思ひに落行くほどに、はじめ一萬餘騎と聞こえしも、四角八方へ散亂し、漸く宗徒の者一千餘人、青龍寺の城へ引き入りたり。藤吉郎「もはや軍はこれまでぞ」と、逃ぐる敵を追捨てにし、勝閧を揚げ本國寺へと歸りける。この五色の吹貫を押立て奇兵なせしは、木下が下知を受け、木幡伏見の百姓ども、紙を以て旗吹貫を作り、山々(やま)峰々(みね)に打散つて、敵の心を奪ひける藤吉が謀略なり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
週末のNHK大河ドラマ豊臣兄弟!(24)軍師官兵衛!今週も面白かったです。その上で昔から思ってるんですが、せっかくの国営放送なんだから狭い箱庭じゃなくてAIか何かで何万人vs何万人のような大軍勢を挿入したらいいのに…って思います。




