1-102 連鎖する精神崩壊
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
古の兵法書に、こんな言葉がある。
『羹に懲りて膾を吹く』
熱いスープで火傷をした者は、冷たい和え物を食べる時でさえ、熱いのではないかと恐れて息を吹きかけて冷まそうとする、という例えだ。
あるいは、かつて晋の謝玄が敵を追い詰めた際、敗走する賊兵たちが八公山の木々が風で揺れるのを見ただけで「敵の伏兵だ!」と恐慌をきたした話。
平安の昔、平家の数万の大軍が、富士川の陣で水鳥の羽音を「源氏の夜討ちだ」と勘違いして、戦わずに都まで逃げ帰ったという話。
――人間という生き物は、一度「絶対的な恐怖」を植え付けられると、ただの風の音や木の葉の揺らぎにすら死の幻影を見るようになる。
三好の一党は、まさにその状態にあった。摂津、河内の両国に点在する城々に立て籠もり、形ばかりは織田に対する敵対のポーズをとっていたものの、彼らの精神はすでに限界を迎えていた。
「信長の軍勢が、野に満ち山に蔓延っているらしいぞ」
「明日は我が城に、あの天魔鬼神の軍団が攻めてくるのだ……!」
そんな根も葉もない風聞が飛び交うたびに、三好の将士たちは生きた心地がせず、戦の準備どころか、いつでも逃げ出せるように荷造りばかりをしている様子だった。
そこへ追い打ちをかけるように、盤面を決定的に傾かせる「寝返り」が発生した。
尼崎に籠城していた荒木摂津守村重。伊丹城の伊丹大和守親興。摂津の要衝を任されていたこの二人の有力武将が、早々に三好を見限り、将軍・足利義昭と信長の御方へと寝返った。
「……見事な手際だ。これで摂津の防衛ラインは完全に崩壊した」
僕は陣幕で地図を見下ろしながら、魔王・信長のえげつないまでの包囲網構築に戦慄していた。
信長の容赦のない一手は、それだけにとどまらなかった。寝返った荒木や伊丹を先導役とし、信長は休む間もなく、次なる『秘密兵器』を盤面に投入したのである。
それは、どこかの天才発明家が作ったような奇想天外なカラクリ機械などではない。兵庫から須磨、明石の海上を埋め尽くすように展開させた、無数の兵船――すなわち、水軍という名の圧倒的な『軍事力』だった。海を封鎖し、陸からは武庫川周辺の村々に容赦なく放火して回る。
「中国、西国の諸侯もすでに将軍の召しに応じ、三好誅伐のために上洛してくるぞ!」
そんな流言飛語を意図的にバラ撒きながら、海と陸の両面から完全に退路を塞ぎにかかる、冷徹な殲滅戦術。
「ひぃッ! 海も陸も、織田の軍勢で埋め尽くされている!」
「もう駄目だ! 四国へ逃げるしか生き残る道はない!」
この圧倒的な暴力のプレゼンテーションを前に、三好陣営の首脳陣は完全に心を折られた。
布引の城に籠もっていた細川掃部助と三好彦次郎は、彼らが担ぎ上げていた将軍・足利義栄を連れて、海路で本拠地の阿波国(四国)へと逃亡。
これを聞いた諸方の城兵たちも、織田の水軍によって完全に海路を封鎖される前にと、我先にと城を開き、蜘蛛の子を散らすように船に乗って四国へと落ち延びていった。
摂津・河内の広大なマップから、次々と敵の拠点が消滅していく。そんな中、ただ一つだけ、織田の大軍を前にしても決して白旗を揚げず、不気味なまでの沈黙を保っている城がある。
――池田城。
城主は、池田筑後守勝正。
「……三好の連中がこぞって逃げ出したというのに、たった一人で籠城を続けるとはな。完全に死に場所を求めている『狂化状態』の武将か」
僕は遠眼鏡で池田城の堅牢な構えを観察しながら、小さく呟いた。周囲の味方がすべて消え去った絶望的な状況下で、ただ一人織田方に随わず、籠城の構えを崩さない。未来のゲームで言えば、周りの雑魚がすべて掃討された後に、マップの中央でドカッと座っている「隠れボス」のような異様なオーラを放っていた。
この厄介な相手に対し、信長が討伐の命を下した武将がいた。明智十兵衛光秀である。
彼は先日の芥川城の一件――僕が放った小六たちによる「盤外の奇襲」によって、自らが綺麗に逃がしたはずの岩成主税助の部隊を半壊させられ、武士としての面目を丸潰れにされていた。
信長が明智光秀を指名したのは、「汚名返上機会を与えてやる」という、魔王なりの優しさ、いや⋯テストだったのだろう。
「――全軍、抜刀。ただの一息に攻め潰せ」
光秀の号令は、氷のように冷たく、そして静かな怒りに満ちていた。数千の明智勢が、耳をつんざくような鬨の声を上げて池田城へと殺到する。彼らは先日の鬱憤を晴らすかのように猛烈な勢いで攻めかかり、またたく間に城の惣構――一番外側の防衛柵――の一重を打ち破り、城内へと乱れ入った。
「落ちたな。……さすがは明智殿の手際だ」
本陣から見守っていた味方の武将たちが、安堵の声を漏らす。
――だが、その油断は、数秒後に最悪の形で裏切られることになる。
「――尾張の烏合の衆が、調子に乗るなァッ!!」
柵を破ってなだれ込んだ明智勢の眼前に、突如として地獄の蓋が開いた。城主・池田筑後守勝正。彼が自ら500人の逞兵――文字通りの死兵――を引き連れ、破られた柵の内側から、真一文字に斬って出た。その突撃の凄まじさは、常軌を逸していた。
勝正を先頭とする500の楔は、圧倒的な数で勝るはずの明智の軍勢を正面から力ずくで押し返し、ついには柵の外まで完全に弾き出してしまった。
「ええい、怯むな! 鉄砲隊、前へ! 一斉射撃だ!」
光秀が血相を変えて下知を飛ばす。明智の鉄砲隊が雨のごとくに鉛玉を放ち、凄まじい弾幕を展開した。さすがの勝正もこの弾幕の中を左右なく突き進むことはできず、馬を立てて一時的に突撃を控えざるを得なかった。
戦場に、一瞬の不気味な空白が生まれる。硝煙が立ち込める中、その空白を破って飛び出した一騎の武者がいた。
「我こそは織田が軍将、梶川平左衛門! 池田筑後守、討ち取って高名の誉れとせん! いざ尋常に勝負ゥッ!」
功名心に駆られた梶川は、手柄を独占しようと、愛用の長槍を捻って単騎で勝正へと馳せ向かった。それは、後世の軍記物のワンシーンを切り取ったかのような、極限まで張り詰めた一騎討ちの始まりだった。
「……身の程知らずの小蠅めが」
対する池田筑後守勝正は、馬上から冷酷な一瞥を投げると、腰に帯びていた三尺五寸(約105センチ)の長大な太刀を、金属音を響かせて抜き放った。
両軍の兵士が息を呑んで見守る中、人交ぜもせず、ただ二人の武者だけが火花を散らして激突する。
――ガキィィィンッ!!
梶川が渾身の力で繰り出した槍の突き。鎧の胸板を貫く必殺の一撃。だが、勝正の超人的な手練が、それを凌駕した。
彼は上体をわずかに逸らし、梶川の槍の穂先を『脇の下』へと滑らせて受け流した。
「なっ……!?」
梶川が驚愕に目を見開いた瞬間、勝正の三尺五寸の太刀が、銀色の弧を描いて翻った。
――ズバァンッ!
太刀は、梶川が突き出した槍の柄の中程を、見事に両断して叩き落とした。武器を失い、完全に無防備となった梶川。彼は慌てて馬を退け、腰の太刀を抜こうと手を伸ばす。だが、遅い。圧倒的に遅すぎる。
「死ねェッ!!」
勝正は馬を駆け寄らせると、振りかぶった長太刀を、梶川の兜の頭頂部へ向けて、微塵に砕けよとばかりに叩き下ろした。頭蓋骨が砕ける生々しい音。
梶川は勇猛な武士であったが、この一撃を避ける術はなく、声を上げる間もなく、仰向けになって「どうっ」と馬から転げ落ちた。
すかさず勝正の郎党が駆け寄り、無残に倒れた梶川の首を掻き切って高く掲げた。
「――梶川平左衛門殿がやられたぞォッ!!」
「おのれ池田ァ!筑後守を討ち取れェッ!」
味方の将を目の前で惨殺された明智の軍勢は、完全に頭に血が上った。光秀の統制すら振り切り、彼らは喚き叫びながら勝正の首を目指して四方八方から斬り結びにかかる。だが、池田城の守備隊も黙ってはいない。
「殿を死なせるな! 我らも続くぞ!」
城内から、池田丹波守が新たに300人の決死隊を引き連れて、鬨の声を上げて討って出た。ここに至り、戦場は完全に理性を失った「殺戮坩堝」へと変貌した。
両軍互いに入り乱れ、陣形も戦術も存在しない、水と火がぶつかり合うような壮絶な乱戦。夕闇が迫る中、幾千もの武者たちが命を削り合う地獄絵図。
激しくぶつかり、弾き返される鋼の刃は、まるで秋の夜空を引き裂く稲妻のように無数に閃き続ける。至る所で火を噴く鉄砲の一斉射撃は、百千の雷鳴が同時に落ちたかのような轟音を戦場に響かせている。
そして、己の命を燃やして喚き叫ぶ数千人の鯨波。その凄まじい絶叫は、山川を物理的に揺るがし、上天にまで響き渡り、地下の底にまで徹するかのようだった。
「……これが、真の戦国の姿か」
僕は安全な本陣の丘の上から、その凄まじい殺し合いを見下ろし、思わず身震いをした。
合理主義や情報戦で盤面を有利に進めることはできる。だが、最後の最後に人間同士がぶつかり合う時、そこには理屈を超えた「命のやり取り」という暴力の極致が存在する。
凄まじい、という言葉すら生ぬるい――到底、言葉で表現できるような光景ではなかった。
明智光秀の洗練された軍略すらも飲み込み、個の武勇と集団の狂気が支配する池田城の攻防戦。
日が沈み、暗闇の中で松明の炎と鉄砲の閃光だけが妖しく戦場を照らし出している。圧倒的な兵力差を覆し、鬼神の如き奮戦を見せる池田勝正。
だが、この狂宴がいつまでも続くわけがないことを、僕は知っている。なぜなら、この戦場の背後には、いまだ全くの無傷で控えている数万の軍団――魔王・信長の本隊が、静かにその出番を待っているからだ。
「……どんなに個人の武勇が高くても、いずれは圧倒的なリソースの差にすり潰される。それが、この世界の絶対的なルールだ」
僕は夜風に吹かれながら、胸の奥でチリチリと燃える『日輪』の熱を抱きしめた。
戦乱の世を終わらせるための、巨大な暴力のパレード。血飛沫と硝煙の匂いの中で僕は、いよいよ引き返せない修羅の領域へと足を踏み入れていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
明智光秀池田の城を攻む
沸羹に懲るるものは冷虀を吹き、弓に傷らるる鳥は曲木に驚くとや。晉の謝玄賊を討つてこれを追ふ。賊兵ども、八公山の樹木風に動くを、謝玄が軍兵ぞと恐れて走り、平家の大軍、水鳥の羽音に驚き、都まで逃げ上りしも、皆同日の談なり。三好の一黨、攝河兩國の城々に楯籠り、敵對の色をなせども、信長の大軍、野に滿ち山に浸り、諸方の城々へ軍勢を差し向くるよし、とりどりの風聞ありければ、三好の將士さらに安き心もなく、落支度のみしたりける。それのみならず、尼崎に籠城したる荒木攝津守村重、伊丹の伊丹大和守親興、兩人もともに將軍家の御方に參り、信長の下知に隨ひ、兵庫より須磨、明石の邊に兵船をあまた浮かめ、中國、西國の諸侯將軍の召に應じ、三好誅伐のために上洛するよし流言せしめ、或は武庫川の邊在々々を放火し、海陸ともに攻上る勢をなしければ、三好大に恐怖し、布引に籠りたる細川掃部助、三好彦次郎は將軍義榮公を守護し、阿波國へ逃げ下り、諸方の城々これを聞いて、俄に周章て敗亡し、海路を敵の塞がぬ内にと、我先に城を開き、思ひ思ひに船に取り乗り、四國の地ヘぞ落行きけり。その中に池田の城主池田筑後守勝正ただ一人、足利家に隨はず籠城してありければ、信長卿、明智光秀に命じて池田が城を攻め討たしむ。光秀押寄せ、閧を作つて攻懸り忽ち惣構の柵一重乗り入りけるを、池田筑後守五百餘人の逞兵を引いて、眞一文字に切つて出、勇を振うて戦ひければ、光秀が軍勢柵外へ追出され、鐵砲を以て打煉めんと、雨のごとくに放ちければ、池田も左右なく進み得ず、馬を立てて控えける。ここに織田の軍將梶川平左衛門、池田筑後守を討取り、高名を備へんと、槍を捻つて馳向ふ。池田筑後守、三尺五寸の太刀抜きかざし、人交ぜもせずただ二人、火花を散らして戦ひけるが、勝正手練や勝りけん、梶川が突く槍を脇の下ヘ受け流し、柄の中程を切つて落す。梶川退つて太刀を抜かんとするところを、駈寄つて兜の眞向微塵になれと打ちけるほどに、梶川勇なりといヘども、いかんぞこれを堪るべき、仰向けにどうと倒るるを、勝正が郎等走り寄つて首を取る。これを見て、光秀が勢の中より、「筑後守を討取れ」と喚き叫んで切結べば、城中より池田丹波守三百餘人、勝正を討たせじと、閧を作つて討つて出、兩軍互に入り亂れ、火水になつて戰ふ形勢、入れ違ふ太刀は秋の夜の稲妻のごとく、打ち合す鐵砲の音は百千の雷動に等し。喚き叫ぶ鯨波山川を動かし、上天に響き地下に徹す。凄まじともなかなかいはん方こそなかりけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
池田勝正 戦国時代から安土桃山時代の武将。摂津池田氏当主、池田城主。父はあるいは池田正久。筑後守、民部少輔 出典:wikipedia
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で、6/20現在ですが、(=「第23話 さらば半兵衛」時点)池田筑後守勝正は結構主要人物だと思うのですが、登場していません。コメント欄で「不自然」「意図的に排除されてる」「もしかして今後の伏線?」と盛り上がってましたw




