1-10 黄金六両、そして尾張へ
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
環境が変われば、人間はここまで変わるものなのかもしれない。松下加兵衛の屋敷に入ってからの僕は、もはや矢作川の橋で眠っていた浮浪児ではなかった。「日吉丸」ではなく「中村藤吉郎」。その名で呼ばれ、門弟たちと共に武芸や兵法を学ぶ日々を送っている。
もっとも、見た目だけは相変わらずだ。同年代の武士たちより小柄で、転生者らしい風格とは程遠かった。
そんな未熟な僕だったがこの松下家において、他の奉公人たちとは明確に異なる独自の立ち位置を確立していた。武芸の腕前で屈強な武士たちに勝てるわけではない。僕が駆使したのは、現代日本で培われた「業務の最適化」と「情報管理」の概念だった。
屋敷の修繕が必要になれば、職人の手配から資材の調達ルートを見直し、中間手数料を削って予算を浮かせた。兵糧や武具の備蓄状況を一覧化し、不足が出そうになれば、市場の相場が上がる前に先んじて買い付ける。
この時代の者たちからすれば「気が利きすぎる」と不気味に思われるほどの僕の働きぶりを、主である松下加兵衛は高く評価してくれていた。彼は武芸のみならず、そうした兵站や実務の重要性を理解できる、数少ない理知的な教養人だった。
そんなある日のこと。僕は加兵衛の私室に呼ばれた。刀の手入れをしていた加兵衛は、僕が平伏するのを見ると、ふと手を止めて真剣な眼差しを向けてきた。
「藤吉郎。お前は尾張の生まれであったな。最近、あの織田信長の領内で、兵たちの武具に変化が起きているという噂を耳にした。……尾張では今、いかような具足や兜が流行っているのか、知っているか?」
加兵衛の問いに、僕の頭の中にある未来知識と、商人たちから集めていた最新の噂が瞬時にリンクした。僕は頭を下げたまま、はっきりとした声で答えた。
「はい、承知しております。現在、尾張の織田家中では、旧来の『桶側筒』と呼ばれる硬いだけの板金鎧から、実戦的な『胴丸』への移行が急速に進んでおります」
「胴丸、だと?」
「左様でございます。右の脇で引き合わせて紐で締める構造のため、着る者の体格を選ばず、何より伸縮自在で身体の動きを阻害しません。足軽を大量に動員した『集団戦』においては、機動力と疲労の軽減が命運を分けます。織田家では今、兵の身分を問わず、こぞってこの胴丸を用いているとのことにございます」
僕の淀みない、そして戦術的合理性に裏打ちされた説明を聞き、加兵衛は腕を組み思案し始める。
――当世具足の革新。戦国時代の合戦が「騎馬の一騎打ち」から「足軽の集団戦」へとシフトする中で、織田家はいち早く、動きやすく量産に向いた実用的な防具の開発を進めていた。それを今川家の兵学者である加兵衛が見逃すはずがない。
「なるほど……。単なる流行りではなく、理にかなった武具の刷新か。織田三郎信長、うつけと侮れんな。……藤吉郎」
加兵衛は懐から、ずっしりと重い袋を取り出し、僕の目の前の畳に置いた。中から鈍い音を立てて顔を出したのは、黄金。およそ五、六両はあろうかという、下僕の身分では一生かかっても拝めないような大金だった。現代の価値に換算すれば、数百万円は下らない。
「その尾張の胴丸と兜を、一領、我が家のために買って参れ。これはその代金と、お前の旅費だ。頼んだぞ」
「……御意。必ずや、加兵衛様の御期待に沿う品を持ち帰ります」
黄金の袋を押し頂き、僕は静かに部屋を退出した。ずしりと重い黄金を懐に抱きながら、僕の胸の奥の「太陽」が、これまでになく激しく、狂おしいほどの熱を持って拍動を始めていた。
(……時が、来た)
自室に戻り、僕は冷たい黄金の粒を手のひらに転がしながら、冷徹な思考の海に沈んでいった。松下加兵衛は恩人だ。この数年間、僕に屋根と食事を与え、何よりこの時代を生き抜くための兵学や知識を(盗み聞きとはいえ)学ばせてくれた。加兵衛への恩義は確かにある。
加兵衛の下で学んだ兵学、武術、そして世界を見る目は、僕にとっての最強の武器だ。けれど、歴史の秒針は、すでにあの運命の「桶狭間」に向かって進み始めている。
未来の歴史を知る僕の目から見れば、加兵衛が仕える「今川家」という巨大な船は、遠からず『桶狭間』という暗礁に乗り上げて致命的な沈没を遂げる運命にある。このまま義理立てして松下家に留まれば、いずれ僕は、織田信長という名の、時代そのものを焼き尽くす狂気の烈風に巻き込まれて圧死するだろう。生存確率を最大化するためには、ここで僕自身の立ち位置を、劇的に「最適化」しなければならない。
僕は手のひらの黄金を、強く握りしめた。この五、六両という大金は、僕にとって単なる「お使い」の資金ではない。これは、僕が歴史の表舞台に躍り出るための「初期投資」だ。
この金を使って世に出るための最低限の身支度を整えよう。もちろん、故郷で僕を想って泣いていた父母や、親族たちの生活もこれで引き上げることができる。その上で、余った金で最高の『胴丸』を調達し、加兵衛へ必ず送り届ける。……そうすれば、義理は果たせる。すべてを両立させる。この常軌を逸した綱渡りこそが、僕という人間が歴史の歯車を狂わせる最初の証明になるはずだ。
決意を固めた僕は、すぐさま旅支度を整え、遠江を後にした。目指すは生まれ故郷、織田三郎信長のいる尾張国である。
なぜ信長なのか。世間では、相変わらず彼のことを「大うつけ」と呼び、その傍若無人な振る舞いや、奇抜な身なりを嘲笑する者が後を絶たない。身内の織田家中でさえ、信長を疎んじて暗殺や反逆を企てる者が燻っている状態だ。
だが、松下家での情報収集と、僕自身の未来知識を通した分析によれば、信長という男の真の姿は、世間の評価とはまるで正反対のものだった。
信長は、一見すると愚か(うつけ)に見えて、決して愚かではない。表面上はひたすらに強引で、常識外れの振る舞いばかりが目立つ。古い慣習にしがみつく連中からは憎まれ、そしる声も多い。だが、その本質は……極めて賢く、そして合理的で寛大な革新者だ。
信長の政策を見れば、それがよくわかる。信長は関所を撤廃し、商人の税を免除する「楽市楽座」の構想など、徹底して経済成長を促す政策を推し進めようとしている。そして何より、特権階級にふんぞり返り、力のない百姓たちから不当に搾取するような腐敗した役人を、信長は容赦なく処断しているのだ。
古い権威をぶち壊し、実力と合理性だけで新しい秩序を構築しようとする冷徹な覇王。既得権益を破壊し、能力のある者ならば身分を問わず引き上げる究極の実力主義。
……現代の知識を持つ僕にとって、これほど相性の良い、巨大な『投資先』が他にあるだろうか?
まずは、この金で身なりを整えよう。まともな服を買い、刀を研ぎ、親父やお袋たちに美味いものを食わせてやるんだ。それから……加兵衛のために、最高の『胴丸』をあつらえよう。僕は懐の黄金を握りしめたまま、道を急いだ。歩む先の向こうから尾張の乾いた風の音が聞こえてくる。
蜂須賀小六という裏社会の暴力に触れ、松下加兵衛という表社会の最高峰の知性に触れた。泥水をすすり、知識を貪り、僕という「秀吉」はもう十分に仕上がっている。あとは、この器を、あの清洲城で孤独な戦いを続けている魔王の足元へ投げ出すだけだ。
僕が現代から持ち越した「未来の記憶」と、この戦国で磨き上げた「生存の牙」。それが、織田信長という時代最大の劇薬と交わった時、一体どれほどの爆発が起きるのか。自分でも空恐ろしくなるほどの興奮が、足の先から頭のてっぺんまでを駆け巡っていた。
…ふと、見上げると尾張の空に、東雲の光が差し込み始めていた。
【太閤記 小瀬甫菴道喜輯録 近藤出版部 大正8年】
秀吉公素生 五
累年爰かしこ事る身として、冬凍春温を経て二十歳の比、遠江国の住人、松下加兵衛尉と云し人につかへしか、他に異て用所をかなへ侍るに、或時尾州信長公御家中には、いかやうなる具足甲やはやるそと、松下尋しに、秀吉奉ウケタマハり、尾張国には、桶皮筒には事かはり、胴丸とて、右の脇にて合せ、伸縮自由なるを以、をしなへて是を用ひ侍る由被㆑申けれは、さらは其具足冑かふて参れよとて、黄金五六両渡しつかはしけり、秀吉道すから思ひ給ふやう、雖㆘忘㆓礼節㆒塵ケカスト㆗忠義㆖矣、謀路を以振㆓威名㆒持㆓国家㆒は勇士の本意とする所也、所詮此金にて、丈夫の身と成へき支度の賄とし、天下の大器とならん人を頼奉り、立身を励み、父母并親族等をも撫育し、彼筒丸をも調へつゝ、松下殿に渡し可㆑申と思ひ、先其あらまし叔父に尋けるに、尤宜しからん、其故を按するに、貧夫は狥イトナム㆑財と云共、爾は是非㆓貧夫、とかく励㆑武立㆑名と欲する者は、非㆔于附㆓青雲之士㆒焉能為㆑名乎、熟思ふに、信長公は武勇の道、昼夜を分す嗜み、権謀を事とし、信を守、其気象愚にして非㆑愚、大きにつよき振舞のみ有、又そしる方も有けれと、実は賢く寛広なる人なり、其上利をすゝめ、百姓を虐なとする小人をは、事ノ外にくみ給へり、此人必天下の主たるへし、
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
https://share.google/AxQqE2xRgf0LcmxAN
絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜【御礼投稿(2話/8話)】開始1週間で1,000PV達成!〜
いつもご覧いただきありがとうございます。投稿開始からわずか数日で1,000PVを超えることができました。予想以上の反響をいただき嬉しい気持ちでいっぱいです。ささやかではありますが心からの感謝の気持ちを込めて、これまで書き溜めていた話をまとめて投稿いたします。お時間のあるときにお楽しみいただけましたら幸いです。また評価・ブックマークも頂けたらもっと、もっと嬉しいですw




