巴という土地
宴を辞した頃には、夜も深くなっていた。
昼の熱はとうに地を離れ、江より上がる風には、春とはいえまだ冷たさが残っていた。酒に火照った頬を撫で、汗ばんだ襟元を抜けてゆく。
軒を連ねた家々は戸を閉ざし、ところどころに残る灯だけが細い路地を仄白く照らしている。その先は、山から下りてきた闇へ溶けていた。
郡府へ戻ると、黒玄は自分の房へ引き上げた。令佐も明朝の刻だけ確かめて退き、ほどなく人の気配が絶えた。
鄭仁は一人、灯の下で上衣を解いた。
風が通った。
涼しい。
そこで初めて、背にまで薄く汗をかいていたことに気づいた。酒のせいだろう。襟を緩め、しばらく夜気に身を任せる。
江の音がした。
宴の最中にも聞こえていたはずなのに、人声がなくなると妙に近い。水が岩を洗い、砕け、流れ、また闇へ呑まれてゆく。その繰り返しだけが、眠りについた家々の向こうから絶え間なく届いていた。
庭で、かすかな物音がした。
闇の中に犬がいる。
姿はほとんど見えない。二つの眼だけが灯を拾い、青とも緑ともつかぬ光を宿していた。
鄭仁も見返した。
しばらく、どちらも動かなかった。
やがて犬はふいと顔を背け、そのまま庭の闇へ消えた。
「……なんだよ」
誰にともなく呟き、荷へ目をやった。
昼に見送った竹筒がある。結局、宴まで持ち越してしまった。
鄭仁はそれを取り出して卓へ置き、腰を下ろした。
巴へ着いて二日。まだ何も分かったとは言えない。だが、何も見ぬまま、これを開くわけでもない。
「……さて」
李斯の印が残る封泥を割った。
文書は短かった。
郡府の報告のみに依ることなく、異あらば自ら察せよ。必要と認めれば、官吏を留め、文書、倉、財貨を封ずることを許す。
官吏を留め、文書を封じ、倉と財貨を押さえる。
そこまでは読めた。
末尾に、もう一行あった。
鄭仁の手が止まった。
灯芯が小さく爆ぜた。
しばらく文字を見つめ、それから荷へ手を伸ばす。黒漆の木匣を取り出し、卓へ置いた。
咸陽の丞相府で、李斯から直に渡されたものだった。
蓋を開けば、青銅の符節が灯を鈍く返した。
郎として常に携えるものとは違う。咸陽からここまで、一度も使わなかった。
掌に載せる。
重さは知っている。
知っていたはずだった。
別命の末尾には、その符節に与えられた権限が記されていた。
必要とあらば、この符をもって――
兵。
その一字だけが、頭の中に残った。
兵を徴することを許す。
「…………」
青銅の角が掌へ食い込んでいる。
冷たい。
(……そこまでかよ)
鄭仁は符節を卓へ置いた。
ごとり、と鈍い音がした。
静かな房には、その音だけが不自然なほど大きく響いた。
江は変わらず流れている。風も入ってくる。灯火も先ほどと同じように揺れていた。
何一つ変わっていない。
それなのに、もう同じ夜には見えなかった。
先ほどまでの宴が戻ってくる。
杜衡の笑った顔。酒器の向こうから、こちらを窺う商人たち。朱成の声。
そして――清。
鄭仁は眉を寄せた。
(違う)
すぐに思考を切った。
兵を動かせると知った途端、今夜見聞きしたものを疑いの形へ並べ替えている。それでは駄目だ。
清など顔すら知らない。朱成が利を求めるのは商人なら当然のことだ。杜衡に何か思惑があったとしても、それだけで疑う理由にはならない。
昼に見たものまで疑い始めれば、きりがない。
荷が動いた理由には筋が通っていた。記録も、まだ破れてはいない。
何も起きていない。
少なくとも、自分はまだ何も見つけていない。
鄭仁は息を吐いた。
江から上がる風が、汗ばんだ首筋を抜ける。先ほどは心地よかった冷たさが、今度は妙に肌へ残った。
襟元へ指を入れて少し緩める。風が胸元まで入り、宴から残っていた酒の熱を奪ってゆく。
身体は冷えていく。
だが、胸の奥に生じたものまでは冷えなかった。
李斯は何を知っていた。
いや。
問いが違う。
確かな証があるなら、李斯は自分など遣らない。すでに人が捕らえられ、門が閉ざされている。
ならば――
李斯は、何を知らない。
庭の外で犬が鳴いた。
今度は遠かった。
風に煽られ、竹筒の傍らに置いた文書がかすかに鳴る。
何を疑えとも書かれていない。誰を捕らえろとも書かれていない。
ただ――
異あらば自ら察せよ。
李斯は答えを寄越さなかった。
代わりに、答えへ辿り着いたとき、それを逃さぬだけの力を寄越した。
その方が、よほど気味が悪い。
鄭仁は文書を巻き、竹筒へ収めた。
卓上には青銅の符節だけが残った。
掌に収まるほどの小さなものだった。
再び手にすると、青銅は冷えていた。
咸陽は遠い。
幾重もの山河を隔て、ここは巴である。
それでも今、その遠い咸陽が掌の上にあった。
鄭仁はしばらく眺めてから、符節を黒漆の匣へ戻した。
蓋を閉じる。
小さな音だった。
「……寝るか」
灯を落とすと、闇が房を満たした。卓も、竹筒も、黒漆の匣も見えなくなる。
それでも江だけは流れていた。
人の思惑など知らぬように、岩を洗い、闇を抜け、低い音を残して流れてゆく。
鄭仁はその音を聞きながら目を閉じた。
巴の夜は、何一つ変わっていない。
ただ、その静けさを、もう昨日までと同じようには見られなかった。
* *
朝の光が、房の奥まで差し込んでいた。
開けた戸から入る風には江の水気がまだ残っている。庭では人の行き交う音がし、郡府はすでにいつもの朝を始めていた。
鄭仁は衣を整えながら、卓へ目をやった。
竹筒と、黒漆の匣。
昨夜、自分で置いた場所にある。
何一つ変わっていない。
黒漆の匣へ一度だけ目をやり、帯を締めた。
ほどなく令佐と書記二人が房へ集まった。昨日までに見た簡牘が案上へ運ばれ、その傍らには新しい木牘が置かれている。
鄭仁は席へ着いた。
「手分けを変えよう。昨日見た倉は、今のところ問題ない。現地で聞いた話とも合ってる」
「人夫一名の差が残っております」
「それは今日、ついでに確かめてくれ。それとは別に、三年前を見たい。前後の年も一緒に。倉、人夫、牛車、江運――大きく動いたものからでいい。いつ、何が、どこからどこへ動いたか、分かるようにしておいてくれ」
二人の書記が頷いた。
「唯」
「令佐は郡府へ上がった記録を。普段と違うものがあったら残しておいて」
「承知しました」
令佐が木牘へ記すのを見届け、鄭仁も席を立った。
戸口では黒玄が待っていた。
「どこへ行く」
「今日は歩かない。杜衡に会う」
「ほう」
二人は房を出た。
朝の郡府には吏員が行き交い、束ねた簡牘が廊を渡っていく。正堂へ入ると、杜衡はすでに仕事を始めていた。
「鄭郎。昨夜はよくお休みになれましたか」
「酒がもう少し弱ければ完璧だった」
杜衡が笑った。
「旨いと仰っていたではありませんか。黒玄殿は随分お強かったようですが」
「旨いのと強いのは別だよ。あと、こいつと比べるな」
黒玄が鼻を鳴らした。
鄭仁は近くの席へ腰を下ろした。
「昨日、いくつか倉を見たけど、概ね問題なさそうだな。記録ともだいたい合ってた。人夫が一人ずれてたくらいだ」
「一人?」
「今日確かめるよ。ただ、三年前だけ少し変だね。前後と比べると数字の動きがちょっと違う。あの頃、何かあった?」
杜衡は少し考えた。
「三年前……その頃でしたら、私が巴へ赴任した前後ですな。あの年は長雨が続きまして、山道が何度か崩れ、江も増水しました。着任した頃はひどいものでしたよ。里からの報告は遅れ、荷は止まる。道を直そうにも人が要る。前任から引き継いだものを確かめるだけでも随分かかりました」
「赴任早々、災難だったな」
「まったくです。咸陽へ戻してくれと何度思ったことか」
「戻らなかったんだ」
「戻してもらえなかった、と申す方が正しいでしょうな」
鄭仁も笑った。
「じゃあ、三年前の数字が荒れてるのも、その辺りか」
「おそらくは。ただ、私もあの年のすべてを見ていたわけではありません。実務でしたら范平の方が詳しいでしょう。私が来る以前から郡府におりますので」
「郡丞か。じゃあ頼む」
杜衡が吏員を走らせた。
ほどなく范平が正堂へ現れた。
「お呼びでしょうか」
「鄭郎が三年前のことを聞きたいそうだ」
范平は席へ着くと、鄭仁の話を聞いて頷いた。
「それでしたら、確かにひどい年でした。山道は幾度か崩れましたし、江も荒れました。道が塞がれば荷は止まり、別の道へ回せば人も牛も余計に要る。記録だけをご覧になれば、妙に見えるものもございましょう」
「なるほど」
「そのうえ、丹砂の件もございましたな」
鄭仁の目が上がった。
「ほう」
「三年前、官へ納める丹砂が八百斤ほど足りなくなりました。清という女の商家から納められる分です。もとは夫が商いを取り仕切っておりましたが、その夫は四年前に亡くなっております。夫を亡くした翌年のことでしたから、清が商いを継いで、まだ日も浅かった」
八百斤。
鄭仁は口を挟まず、続きを待った。
「帳簿を調べれば不足は不足です。本来なら、それ相応に処するところですが、事情が事情です。八百斤を補えば、それでよしとすることにしました」
杜衡も頷いた。
「商家一つを潰すのは簡単ですが、そこで働く者まで職を失います。丹砂を掘る者、運ぶ者、倉を預かる者。取引のある家にも響きますので」
「なるほど。大目に見て補填だけ命じたわけか」
「ええ。ところが清が納得しなかった」
「ほう」
范平は僅かに困ったような笑みを浮かべた。
「八百斤も足りなくなるはずがない。自分の帳簿がおかしい。もう一度調べてくれ、と。補填もせず、それから三年間ずっと同じことを申しております」
「三年も?」
「何度申し渡しても同じです。八百斤は消えていない。帳簿を調べ直してくれ、と」
杜衡が苦笑した。
「こちらも困っておりましてな。罪人を作りたいわけでもありません。八百斤を補ってもらえれば、それで済む話なのですが」
鄭仁はしばらく黙っていた。
「随分、頑固だな」
「まったくです」
范平も苦笑した。
怒りも敵意もない。三年間、同じ訴えを聞かされ続けた役人の疲れがあるだけだった。
「それで今も商いを?」
「以前ほどではありませんが、続けております。ただ、夫がいた頃に比べれば随分と小さくなりました。八百斤の件もありますから、以前と同じように任せるわけにもいかず、扱っていた分はいくつかの家へ振り分けております」
「朱氏にも?」
「ええ。その中では朱氏が最も多いですな」
昨夜、同じ席で酒を飲んだ男の顔が浮かんだ。
朱成。
「なるほど」
鄭仁はそれ以上聞かなかった。
「ありがとう。だいたい分かった」
「当時の記録をお出ししましょうか」
「いや。今、こっちでも三年前を見てもらってる。それが終わってからでいい」
「承知しました」
范平も立つ。
杜衡が笑った。
「清に会われますか」
鄭仁は少し考えた。
「まだいいよ。あっちの言い分を聞いたら、今度はそっちを探し始めそうだからな」
杜衡は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「慎重ですな」
「臆病なんだよ」
黒玄が横から口を挟んだ。
「それは嘘だ」
「うるさい」
鄭仁は正堂を出た。
廊へ出れば、朝より高くなった陽が庭へ差している。瓦から落ちる光が眩しく、鄭仁はわずかに目を細めた。
黒玄が隣を歩く。
「八百斤か。女は三年も払っていない。それで、どうする」
「まず、うちの連中が何を拾ったか見る」
その先から、書記の一人が簡牘の束を抱えてやってきた。
「鄭郎。三年前のものを見ていたのですが、少し妙なものがございます」
「見せて」
差し出された木牘に、元の簡牘から拾った数字が並んでいた。
長雨が始まった月を境に、荷の動きが乱れている。倉への入りが減り、里から上がる租は遅れ、牛車の徴発にもばらつきがあった。
杜衡と范平が話したことと、大きくは違わない。
「雨は本当っぽいな」
「はい。ただ、江運は完全には止まっておりません。雨の頃にも舟は出ております。それと、同じ頃にいくつかの里へ人夫を出すよう命が下っているのですが、この一群だけ用途が記されておりません」
鄭仁の足が緩んだ。
「人夫だけ?」
「はい。他は道の修復、堤の補修、倉への荷運びと残っております。こちらだけ人数しかございません」
鄭仁は簡を受け取り、その数を頭の中で転がした。
八百斤。
運ぶだけなら――
そこで止めた。
「牛車は?」
「もう一人が調べております」
「鄭郎」
房の方から、ちょうど声が飛んだ。
もう一人の書記が木牘を手にしている。
「牛車もございました。人夫が徴されたのとほぼ同じ時期です。複数の里から牛と車が出され、用途は荷運び。ただ、何を運んだかは記されておりません」
黒玄が腕を組んだ。
「人を集め、牛と車も出した。だが荷は分からん、と」
「そうなるね」
鄭仁は二枚の木牘を並べた。
雨が降った。道が崩れた。江が増した。
その最中に、人が集められ、牛と車が動き、舟も出ている。
だが、それ自体はおかしくない。
災害の後なら、普段より多くの人も車も要る。
「令佐は?」
「奥で記録を見ております」
「呼ばなくていい。行こう」
房へ入ると、乾いた竹の匂いが鼻を掠めた。
床には簡牘が幾筋にも広げられ、令佐はその中央に座っていた。指先には細かな墨の跡がついている。
「何かあった?」
「ございます。三年前、巴から外へ出た荷を関の記録から追っておりました。雨の頃には平年より数が落ちておりますが、その中にまとまった丹砂が一つございます」
令佐から渡された簡へ目を落とす。
量は八百斤ではない。
もっと少ない。
「荷主は?」
「清の家ではありません」
令佐が別の木牘を差し出した。
「朱氏です」
鄭仁の指が止まった。
正堂で聞いた名が、墨で書かれている。
朱氏。
昨夜の酒と香草の匂いが、一瞬だけ鼻の奥に蘇った。
黒玄も顔を上げた。
三年前、清の家では官へ納める丹砂が八百斤不足した。
同じ頃、朱氏の丹砂が関を抜けている。
それだけだった。
量も違う。朱氏が丹砂を扱っていたなら、外へ運んでいても何の不思議もない。
「朱氏だけじゃなく、丹砂は全部見て。前後の年も」
「承知しました」
令佐が簡牘へ戻った。
鄭仁はその場にしゃがみ込んだ。
床には、三年前の巴が散らばっていた。
雨。崩れた道。徴された人夫。牛車。舟。関を抜けた丹砂。
そして、八百斤。
指先で簡牘を動かすたび、乾いた竹同士がかすかな音を立てる。
どれも、それだけなら珍しくない。
なら――。
「清の八百斤って、どこで足りないと分かったんだ?」
「そこまでは、まだ見ておりません」
「探そう」
黒玄が壁へ背を預けた。
「女には会わんのか」
「まだ。今なら清に会っても、八百斤は消えてないって言われるだけだろ」
「三年間そう言っているらしいからな」
「だったら先に、どこで八百になったのか見たい」
再び、房に簡牘を繰る音が満ちた。
八百という数字そのものは、すぐに見つかった。
「これです。丹砂八百斤不足。清の家に補填を命ず、と」
書記から受け取り、鄭仁は目を走らせた。
「これは処置だな。その前は?」
今度は令佐が一本を抜いた。
「こちらかと。清の家から郡府へ納められた丹砂の受領記録です。ここで八百斤の不足が記されております」
「倉で数えたのか。じゃあ、清のところを出た時の記録もあるな」
別の束から出荷の簡が出された。
鄭仁は二枚を並べた。
清の家を出た数量。
郡府の倉へ入った数量。
その差が、八百斤。
竹の表面を指でなぞる。墨はとうに乾いている。それでも二つの数字の間だけが、妙に生々しく見えた。
「なるほど」
黒玄が肩越しに覗き込む。
「途中で減ったのか」
「記録の上ではね」
鄭仁は出荷側の簡を持ち上げた。
「官へ納める物なら、出す時にも役人が立ち会うだろ。その記録は?」
「通常ならございます」
令佐と書記が同時に簡牘へ手を伸ばした。
一束。また一束。
乾いた音だけが続く。
庭から吏員の声が聞こえ、遠くで車輪が石を踏んだ。
やがて令佐の手が止まった。
「……ございません」
「別に綴じてある可能性は?」
「あります」
さらに探した。
だが、出てこなかった。
清の家から丹砂が出た記録はある。郡府の倉で受け取った記録もある。
その間にあるはずの、官吏の確認だけがない。
黒玄が壁から声を投げた。
「それが無いなら、清の言う通りじゃないのか」
「まだ。三年前だぞ。失くしただけかもしれない。それに、出た量が正しいとも限らない」
清の家で多く記したのか。
郡府の倉で少なく記したのか。
運ぶ途中で失われたのか。
ただの記載違いなのか。
まだ、どこにも寄れない。
「運んだ人間は?」
令佐が記録を追った。
「清の家が手配した者と、郡府から出した人夫が混じっております。ただ、一人一人の名は残っておりません。里ごとの人数だけです」
「里を見せて」
示された名を見て、鄭仁は先ほどの木牘を引き寄せた。
用途の記されていなかった人夫。
さらに牛車を出した里。
一つが重なっている。
「……ほう」
黒玄が鄭仁を見る。
「今度は何だ」
「いや。まだ何でもない」
二枚を床へ戻した。
だが、指はすぐには離れなかった。
「この荷はどの道を通った?」
「倉までなら、北から回す道か江沿いです。ただ、三年前となると――」
書記の声が途切れた。
令佐が顔を上げる。
「道の記録を」
三人がほぼ同時に別の束へ手を伸ばした。
崩落。通行止め。修復。開通。
日付を一つずつ拾っていく。
いつしか誰も喋らなくなっていた。
開け放した戸から差す陽が少しずつ動き、床の簡牘を照らしてゆく。竹の匂いに混じって、庭から湿った土の匂いが入ってきた。
鄭仁は一枚の日付を指で押さえたまま、令佐が次の簡を開くのを待った。
ぱち、と竹が鳴った。
令佐の指が止まる。
「鄭郎」
声が先ほどまでと違った。
鄭仁は顔を上げた。
「清の荷が出た日、北路は閉じられております。崩落による通行止めです」
「江沿いは?」
「通れたようです」
「じゃあ、そっちを使ったんだろ」
「ですが――」
令佐がもう一枚の簡を開き、鄭仁の前へ置いた。
「清の荷は、北路を通ったことになっております」
房が静かになった。
外では誰かが歩いている。廊板を踏む足音が近づき、通り過ぎ、遠ざかっていった。
黒玄がゆっくり腕を解いた。
「閉じた道を?」
「ああ」
鄭仁は二枚を並べた。
一方には、崩落により北路を閉じた記録。
もう一方には、その同じ日、北路を通って丹砂を運んだという記録。
どちらも郡府に残されたものだった。
指先に触れる竹は、陽を受けてわずかに温かい。
鄭仁はしばらく二枚を眺め、それから、ふっと息を吐いた。
「やっと一個出たな」
「異、ですか」
令佐が問う。
鄭仁は答えなかった。
昨夜の青銅の冷たさが、不意に掌へ蘇った。
――異あらば自ら察せよ。
「この道が本当に閉じてたか、確かめよう。記録だけじゃ足りない。三年前にあそこを直した人間がいるはずだ」
鄭仁は二枚の簡を手に立ち上がった。
黒玄も壁から離れる。
「今から行くのか」
「ああ。三年前の道を見に行こう」
黒玄が笑った。
「今日は歩かないんじゃなかったのか」
鄭仁の足が止まった。
「……予定が変わった」
「朝から随分早い変更だな」
「うるさい。行くぞ」
黒玄はまだ笑っていた。




