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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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9/10

巴という土地

 宴を辞した頃には、夜も深くなっていた。


 昼の熱はとうに地を離れ、江より上がる風には、春とはいえまだ冷たさが残っていた。酒に火照った頬を撫で、汗ばんだ襟元を抜けてゆく。


 軒を連ねた家々は戸を閉ざし、ところどころに残る灯だけが細い路地を仄白く照らしている。その先は、山から下りてきた闇へ溶けていた。


 郡府へ戻ると、黒玄は自分の房へ引き上げた。令佐も明朝の刻だけ確かめて退き、ほどなく人の気配が絶えた。


 鄭仁は一人、灯の下で上衣を解いた。


 風が通った。


 涼しい。


 そこで初めて、背にまで薄く汗をかいていたことに気づいた。酒のせいだろう。襟を緩め、しばらく夜気に身を任せる。


 江の音がした。


 宴の最中にも聞こえていたはずなのに、人声がなくなると妙に近い。水が岩を洗い、砕け、流れ、また闇へ呑まれてゆく。その繰り返しだけが、眠りについた家々の向こうから絶え間なく届いていた。


 庭で、かすかな物音がした。


 闇の中に犬がいる。


 姿はほとんど見えない。二つの眼だけが灯を拾い、青とも緑ともつかぬ光を宿していた。


 鄭仁も見返した。


 しばらく、どちらも動かなかった。


 やがて犬はふいと顔を背け、そのまま庭の闇へ消えた。


「……なんだよ」


 誰にともなく呟き、荷へ目をやった。


 昼に見送った竹筒がある。結局、宴まで持ち越してしまった。


 鄭仁はそれを取り出して卓へ置き、腰を下ろした。


 巴へ着いて二日。まだ何も分かったとは言えない。だが、何も見ぬまま、これを開くわけでもない。


「……さて」


 李斯の印が残る封泥を割った。


 文書は短かった。


 郡府の報告のみに依ることなく、異あらば自ら察せよ。必要と認めれば、官吏を留め、文書、倉、財貨を封ずることを許す。


 官吏を留め、文書を封じ、倉と財貨を押さえる。


 そこまでは読めた。


 末尾に、もう一行あった。


 鄭仁の手が止まった。


 灯芯が小さく爆ぜた。


 しばらく文字を見つめ、それから荷へ手を伸ばす。黒漆の木匣を取り出し、卓へ置いた。


 咸陽の丞相府で、李斯から直に渡されたものだった。


 蓋を開けば、青銅の符節が灯を鈍く返した。


 郎として常に携えるものとは違う。咸陽からここまで、一度も使わなかった。


 掌に載せる。


 重さは知っている。


 知っていたはずだった。


 別命の末尾には、その符節に与えられた権限が記されていた。


 必要とあらば、この符をもって――


 兵。


 その一字だけが、頭の中に残った。


 兵を徴することを許す。


「…………」


 青銅の角が掌へ食い込んでいる。


 冷たい。


(……そこまでかよ)


 鄭仁は符節を卓へ置いた。


 ごとり、と鈍い音がした。


 静かな房には、その音だけが不自然なほど大きく響いた。


 江は変わらず流れている。風も入ってくる。灯火も先ほどと同じように揺れていた。


 何一つ変わっていない。


 それなのに、もう同じ夜には見えなかった。


 先ほどまでの宴が戻ってくる。


 杜衡の笑った顔。酒器の向こうから、こちらを窺う商人たち。朱成の声。


 そして――清。


 鄭仁は眉を寄せた。


(違う)


 すぐに思考を切った。


 兵を動かせると知った途端、今夜見聞きしたものを疑いの形へ並べ替えている。それでは駄目だ。


 清など顔すら知らない。朱成が利を求めるのは商人なら当然のことだ。杜衡に何か思惑があったとしても、それだけで疑う理由にはならない。


 昼に見たものまで疑い始めれば、きりがない。


 荷が動いた理由には筋が通っていた。記録も、まだ破れてはいない。


 何も起きていない。


 少なくとも、自分はまだ何も見つけていない。


 鄭仁は息を吐いた。


 江から上がる風が、汗ばんだ首筋を抜ける。先ほどは心地よかった冷たさが、今度は妙に肌へ残った。


 襟元へ指を入れて少し緩める。風が胸元まで入り、宴から残っていた酒の熱を奪ってゆく。


 身体は冷えていく。


 だが、胸の奥に生じたものまでは冷えなかった。


 李斯は何を知っていた。


 いや。


 問いが違う。


 確かな証があるなら、李斯は自分など遣らない。すでに人が捕らえられ、門が閉ざされている。


 ならば――


 李斯は、何を知らない。


 庭の外で犬が鳴いた。


 今度は遠かった。


 風に煽られ、竹筒の傍らに置いた文書がかすかに鳴る。


 何を疑えとも書かれていない。誰を捕らえろとも書かれていない。


 ただ――


 異あらば自ら察せよ。


 李斯は答えを寄越さなかった。


 代わりに、答えへ辿り着いたとき、それを逃さぬだけの力を寄越した。


 その方が、よほど気味が悪い。


 鄭仁は文書を巻き、竹筒へ収めた。


 卓上には青銅の符節だけが残った。


 掌に収まるほどの小さなものだった。


 再び手にすると、青銅は冷えていた。


 咸陽は遠い。


 幾重もの山河を隔て、ここは巴である。


 それでも今、その遠い咸陽が掌の上にあった。


 鄭仁はしばらく眺めてから、符節を黒漆の匣へ戻した。


 蓋を閉じる。


 小さな音だった。


「……寝るか」


 灯を落とすと、闇が房を満たした。卓も、竹筒も、黒漆の匣も見えなくなる。


 それでも江だけは流れていた。


 人の思惑など知らぬように、岩を洗い、闇を抜け、低い音を残して流れてゆく。


 鄭仁はその音を聞きながら目を閉じた。


 巴の夜は、何一つ変わっていない。


 ただ、その静けさを、もう昨日までと同じようには見られなかった。


     *      *


 朝の光が、房の奥まで差し込んでいた。


 開けた戸から入る風には江の水気がまだ残っている。庭では人の行き交う音がし、郡府はすでにいつもの朝を始めていた。


 鄭仁は衣を整えながら、卓へ目をやった。


 竹筒と、黒漆の匣。


 昨夜、自分で置いた場所にある。


 何一つ変わっていない。


 黒漆の匣へ一度だけ目をやり、帯を締めた。


 ほどなく令佐と書記二人が房へ集まった。昨日までに見た簡牘が案上へ運ばれ、その傍らには新しい木牘が置かれている。


 鄭仁は席へ着いた。


「手分けを変えよう。昨日見た倉は、今のところ問題ない。現地で聞いた話とも合ってる」


「人夫一名の差が残っております」


「それは今日、ついでに確かめてくれ。それとは別に、三年前を見たい。前後の年も一緒に。倉、人夫、牛車、江運――大きく動いたものからでいい。いつ、何が、どこからどこへ動いたか、分かるようにしておいてくれ」


 二人の書記が頷いた。


「唯」


「令佐は郡府へ上がった記録を。普段と違うものがあったら残しておいて」


「承知しました」


 令佐が木牘へ記すのを見届け、鄭仁も席を立った。


 戸口では黒玄が待っていた。


「どこへ行く」


「今日は歩かない。杜衡に会う」


「ほう」


 二人は房を出た。


 朝の郡府には吏員が行き交い、束ねた簡牘が廊を渡っていく。正堂へ入ると、杜衡はすでに仕事を始めていた。


「鄭郎。昨夜はよくお休みになれましたか」


「酒がもう少し弱ければ完璧だった」


 杜衡が笑った。


「旨いと仰っていたではありませんか。黒玄殿は随分お強かったようですが」


「旨いのと強いのは別だよ。あと、こいつと比べるな」


 黒玄が鼻を鳴らした。


 鄭仁は近くの席へ腰を下ろした。


「昨日、いくつか倉を見たけど、概ね問題なさそうだな。記録ともだいたい合ってた。人夫が一人ずれてたくらいだ」


「一人?」


「今日確かめるよ。ただ、三年前だけ少し変だね。前後と比べると数字の動きがちょっと違う。あの頃、何かあった?」


 杜衡は少し考えた。


「三年前……その頃でしたら、私が巴へ赴任した前後ですな。あの年は長雨が続きまして、山道が何度か崩れ、江も増水しました。着任した頃はひどいものでしたよ。里からの報告は遅れ、荷は止まる。道を直そうにも人が要る。前任から引き継いだものを確かめるだけでも随分かかりました」


「赴任早々、災難だったな」


「まったくです。咸陽へ戻してくれと何度思ったことか」


「戻らなかったんだ」


「戻してもらえなかった、と申す方が正しいでしょうな」


 鄭仁も笑った。


「じゃあ、三年前の数字が荒れてるのも、その辺りか」


「おそらくは。ただ、私もあの年のすべてを見ていたわけではありません。実務でしたら范平の方が詳しいでしょう。私が来る以前から郡府におりますので」


「郡丞か。じゃあ頼む」


 杜衡が吏員を走らせた。


 ほどなく范平が正堂へ現れた。


「お呼びでしょうか」


「鄭郎が三年前のことを聞きたいそうだ」


 范平は席へ着くと、鄭仁の話を聞いて頷いた。


「それでしたら、確かにひどい年でした。山道は幾度か崩れましたし、江も荒れました。道が塞がれば荷は止まり、別の道へ回せば人も牛も余計に要る。記録だけをご覧になれば、妙に見えるものもございましょう」


「なるほど」


「そのうえ、丹砂の件もございましたな」


 鄭仁の目が上がった。


「ほう」


「三年前、官へ納める丹砂が八百斤ほど足りなくなりました。清という女の商家から納められる分です。もとは夫が商いを取り仕切っておりましたが、その夫は四年前に亡くなっております。夫を亡くした翌年のことでしたから、清が商いを継いで、まだ日も浅かった」


 八百斤。


 鄭仁は口を挟まず、続きを待った。


「帳簿を調べれば不足は不足です。本来なら、それ相応に処するところですが、事情が事情です。八百斤を補えば、それでよしとすることにしました」


 杜衡も頷いた。


「商家一つを潰すのは簡単ですが、そこで働く者まで職を失います。丹砂を掘る者、運ぶ者、倉を預かる者。取引のある家にも響きますので」


「なるほど。大目に見て補填だけ命じたわけか」


「ええ。ところが清が納得しなかった」


「ほう」


 范平は僅かに困ったような笑みを浮かべた。


「八百斤も足りなくなるはずがない。自分の帳簿がおかしい。もう一度調べてくれ、と。補填もせず、それから三年間ずっと同じことを申しております」


「三年も?」


「何度申し渡しても同じです。八百斤は消えていない。帳簿を調べ直してくれ、と」


 杜衡が苦笑した。


「こちらも困っておりましてな。罪人を作りたいわけでもありません。八百斤を補ってもらえれば、それで済む話なのですが」


 鄭仁はしばらく黙っていた。


「随分、頑固だな」


「まったくです」


 范平も苦笑した。


 怒りも敵意もない。三年間、同じ訴えを聞かされ続けた役人の疲れがあるだけだった。


「それで今も商いを?」


「以前ほどではありませんが、続けております。ただ、夫がいた頃に比べれば随分と小さくなりました。八百斤の件もありますから、以前と同じように任せるわけにもいかず、扱っていた分はいくつかの家へ振り分けております」


「朱氏にも?」


「ええ。その中では朱氏が最も多いですな」


 昨夜、同じ席で酒を飲んだ男の顔が浮かんだ。


 朱成。


「なるほど」


 鄭仁はそれ以上聞かなかった。


「ありがとう。だいたい分かった」


「当時の記録をお出ししましょうか」


「いや。今、こっちでも三年前を見てもらってる。それが終わってからでいい」


「承知しました」


 范平も立つ。


 杜衡が笑った。


「清に会われますか」


 鄭仁は少し考えた。


「まだいいよ。あっちの言い分を聞いたら、今度はそっちを探し始めそうだからな」


 杜衡は一瞬きょとんとし、それから笑った。


「慎重ですな」


「臆病なんだよ」


 黒玄が横から口を挟んだ。


「それは嘘だ」


「うるさい」


 鄭仁は正堂を出た。


 廊へ出れば、朝より高くなった陽が庭へ差している。瓦から落ちる光が眩しく、鄭仁はわずかに目を細めた。


 黒玄が隣を歩く。


「八百斤か。女は三年も払っていない。それで、どうする」


「まず、うちの連中が何を拾ったか見る」


 その先から、書記の一人が簡牘の束を抱えてやってきた。


「鄭郎。三年前のものを見ていたのですが、少し妙なものがございます」


「見せて」


 差し出された木牘に、元の簡牘から拾った数字が並んでいた。


 長雨が始まった月を境に、荷の動きが乱れている。倉への入りが減り、里から上がる租は遅れ、牛車の徴発にもばらつきがあった。


 杜衡と范平が話したことと、大きくは違わない。


「雨は本当っぽいな」


「はい。ただ、江運は完全には止まっておりません。雨の頃にも舟は出ております。それと、同じ頃にいくつかの里へ人夫を出すよう命が下っているのですが、この一群だけ用途が記されておりません」


 鄭仁の足が緩んだ。


「人夫だけ?」


「はい。他は道の修復、堤の補修、倉への荷運びと残っております。こちらだけ人数しかございません」


 鄭仁は簡を受け取り、その数を頭の中で転がした。


 八百斤。


 運ぶだけなら――


 そこで止めた。


「牛車は?」


「もう一人が調べております」


「鄭郎」


 房の方から、ちょうど声が飛んだ。


 もう一人の書記が木牘を手にしている。


「牛車もございました。人夫が徴されたのとほぼ同じ時期です。複数の里から牛と車が出され、用途は荷運び。ただ、何を運んだかは記されておりません」


 黒玄が腕を組んだ。


「人を集め、牛と車も出した。だが荷は分からん、と」


「そうなるね」


 鄭仁は二枚の木牘を並べた。


 雨が降った。道が崩れた。江が増した。


 その最中に、人が集められ、牛と車が動き、舟も出ている。


 だが、それ自体はおかしくない。


 災害の後なら、普段より多くの人も車も要る。


「令佐は?」


「奥で記録を見ております」


「呼ばなくていい。行こう」


 房へ入ると、乾いた竹の匂いが鼻を掠めた。


 床には簡牘が幾筋にも広げられ、令佐はその中央に座っていた。指先には細かな墨の跡がついている。


「何かあった?」


「ございます。三年前、巴から外へ出た荷を関の記録から追っておりました。雨の頃には平年より数が落ちておりますが、その中にまとまった丹砂が一つございます」


 令佐から渡された簡へ目を落とす。


 量は八百斤ではない。


 もっと少ない。


「荷主は?」


「清の家ではありません」


 令佐が別の木牘を差し出した。


「朱氏です」


 鄭仁の指が止まった。


 正堂で聞いた名が、墨で書かれている。


 朱氏。


 昨夜の酒と香草の匂いが、一瞬だけ鼻の奥に蘇った。


 黒玄も顔を上げた。


 三年前、清の家では官へ納める丹砂が八百斤不足した。


 同じ頃、朱氏の丹砂が関を抜けている。


 それだけだった。


 量も違う。朱氏が丹砂を扱っていたなら、外へ運んでいても何の不思議もない。


「朱氏だけじゃなく、丹砂は全部見て。前後の年も」


「承知しました」


 令佐が簡牘へ戻った。


 鄭仁はその場にしゃがみ込んだ。


 床には、三年前の巴が散らばっていた。


 雨。崩れた道。徴された人夫。牛車。舟。関を抜けた丹砂。


 そして、八百斤。


 指先で簡牘を動かすたび、乾いた竹同士がかすかな音を立てる。


 どれも、それだけなら珍しくない。


 なら――。


「清の八百斤って、どこで足りないと分かったんだ?」


「そこまでは、まだ見ておりません」


「探そう」


 黒玄が壁へ背を預けた。


「女には会わんのか」


「まだ。今なら清に会っても、八百斤は消えてないって言われるだけだろ」


「三年間そう言っているらしいからな」


「だったら先に、どこで八百になったのか見たい」


 再び、房に簡牘を繰る音が満ちた。


 八百という数字そのものは、すぐに見つかった。


「これです。丹砂八百斤不足。清の家に補填を命ず、と」


 書記から受け取り、鄭仁は目を走らせた。


「これは処置だな。その前は?」


 今度は令佐が一本を抜いた。


「こちらかと。清の家から郡府へ納められた丹砂の受領記録です。ここで八百斤の不足が記されております」


「倉で数えたのか。じゃあ、清のところを出た時の記録もあるな」


 別の束から出荷の簡が出された。


 鄭仁は二枚を並べた。


 清の家を出た数量。


 郡府の倉へ入った数量。


 その差が、八百斤。


 竹の表面を指でなぞる。墨はとうに乾いている。それでも二つの数字の間だけが、妙に生々しく見えた。


「なるほど」


 黒玄が肩越しに覗き込む。


「途中で減ったのか」


「記録の上ではね」


 鄭仁は出荷側の簡を持ち上げた。


「官へ納める物なら、出す時にも役人が立ち会うだろ。その記録は?」


「通常ならございます」


 令佐と書記が同時に簡牘へ手を伸ばした。


 一束。また一束。


 乾いた音だけが続く。


 庭から吏員の声が聞こえ、遠くで車輪が石を踏んだ。


 やがて令佐の手が止まった。


「……ございません」


「別に綴じてある可能性は?」


「あります」


 さらに探した。


 だが、出てこなかった。


 清の家から丹砂が出た記録はある。郡府の倉で受け取った記録もある。


 その間にあるはずの、官吏の確認だけがない。


 黒玄が壁から声を投げた。


「それが無いなら、清の言う通りじゃないのか」


「まだ。三年前だぞ。失くしただけかもしれない。それに、出た量が正しいとも限らない」


 清の家で多く記したのか。


 郡府の倉で少なく記したのか。


 運ぶ途中で失われたのか。


 ただの記載違いなのか。


 まだ、どこにも寄れない。


「運んだ人間は?」


 令佐が記録を追った。


「清の家が手配した者と、郡府から出した人夫が混じっております。ただ、一人一人の名は残っておりません。里ごとの人数だけです」


「里を見せて」


 示された名を見て、鄭仁は先ほどの木牘を引き寄せた。


 用途の記されていなかった人夫。


 さらに牛車を出した里。


 一つが重なっている。


「……ほう」


 黒玄が鄭仁を見る。


「今度は何だ」


「いや。まだ何でもない」


 二枚を床へ戻した。


 だが、指はすぐには離れなかった。


「この荷はどの道を通った?」


「倉までなら、北から回す道か江沿いです。ただ、三年前となると――」


 書記の声が途切れた。


 令佐が顔を上げる。


「道の記録を」


 三人がほぼ同時に別の束へ手を伸ばした。


 崩落。通行止め。修復。開通。


 日付を一つずつ拾っていく。


 いつしか誰も喋らなくなっていた。


 開け放した戸から差す陽が少しずつ動き、床の簡牘を照らしてゆく。竹の匂いに混じって、庭から湿った土の匂いが入ってきた。


 鄭仁は一枚の日付を指で押さえたまま、令佐が次の簡を開くのを待った。


 ぱち、と竹が鳴った。


 令佐の指が止まる。


「鄭郎」


 声が先ほどまでと違った。


 鄭仁は顔を上げた。


「清の荷が出た日、北路は閉じられております。崩落による通行止めです」


「江沿いは?」


「通れたようです」


「じゃあ、そっちを使ったんだろ」


「ですが――」


 令佐がもう一枚の簡を開き、鄭仁の前へ置いた。


「清の荷は、北路を通ったことになっております」


 房が静かになった。


 外では誰かが歩いている。廊板を踏む足音が近づき、通り過ぎ、遠ざかっていった。


 黒玄がゆっくり腕を解いた。


「閉じた道を?」


「ああ」


 鄭仁は二枚を並べた。


 一方には、崩落により北路を閉じた記録。


 もう一方には、その同じ日、北路を通って丹砂を運んだという記録。


 どちらも郡府に残されたものだった。


 指先に触れる竹は、陽を受けてわずかに温かい。


 鄭仁はしばらく二枚を眺め、それから、ふっと息を吐いた。


「やっと一個出たな」


「異、ですか」


 令佐が問う。


 鄭仁は答えなかった。


 昨夜の青銅の冷たさが、不意に掌へ蘇った。


 ――異あらば自ら察せよ。


「この道が本当に閉じてたか、確かめよう。記録だけじゃ足りない。三年前にあそこを直した人間がいるはずだ」


 鄭仁は二枚の簡を手に立ち上がった。


 黒玄も壁から離れる。


「今から行くのか」


「ああ。三年前の道を見に行こう」


 黒玄が笑った。


「今日は歩かないんじゃなかったのか」


 鄭仁の足が止まった。


「……予定が変わった」


「朝から随分早い変更だな」


「うるさい。行くぞ」


 黒玄はまだ笑っていた。

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