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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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8/10

巴を聞く

酒が二巡する頃には、宴席を包んでいた堅さも、ようやく酒気の中へ溶け始めていた。


 庭へ開かれた戸から夜風が入り、卓上の灯を揺らしている。料理も初めに並んでいたものから幾つか替わり、川魚の蒸し物に続いて、香草とともに炙った肉が運ばれてきた。脂の香ばしさに青い草の匂いが混じり、江の音が人声の底を絶えず流れている。


 黒玄は鄭仁の隣で静かに杯を傾けていた。勧められれば飲み、料理にも箸を伸ばすが、自分から話へ割って入ることはない。


「しかし鄭郎も、大したものです」


 年嵩の塩商が言った。


「咸陽より遥々巴までお越しになり、昨日は郡府の簡牘を、今日は山中の倉までご覧になったとか。李丞相が直々にお任せになったお役目とも伺いました」


 鄭仁は魚の身を箸で外しながら聞いていた。


 山中の倉から始まった話が、十三人の一行へ移り、最後には李斯へ辿り着く。


「李丞相ほどのお方が鄭郎を遣わされたとなれば、さぞ厚く――」


「この魚、旨いな」


 塩商の言葉が止まった。


 鄭仁は白身を口へ運び、楊季を見る。


「江で獲れるのか?」


「はい。もう少し下流にございます。朝に獲れたものを舟で運ばせまして」


「道だけじゃなく、魚まで江頼みか」


「魚は人より気が短うございますからな」


 笑いが起こった。


 塩商も笑い、杯を取った。


 李斯の名は、それきり卓へ戻らなかった。


(危ねえ危ねえ)


 鄭仁は何食わぬ顔で酒を飲んだ。


 李斯が自分をどこまで信用しているかなど、こちらだって知りたいくらいである。まして、その距離を自分の口で測ってやる義理はない。


 ただ、聞きたいことは分かった。


 郎という官そのものではない。李斯の命で巴へ来て、やがて咸陽へ戻り、ここで見聞きしたことを報告する人間。その口が中央のどこまで届くのかを、彼らは知りたがっている。


 ほどなく杜衡が杯を置いた。


「咸陽も、さぞ変わったでしょうな」


「数月で別の都にはならないよ」


「それはそうでしょう」


 杜衡は笑った。


「天下が定まってからは、朝議も以前とは違うのでしょうな」


「仕事は増えたよ。天下が広くなったからね」


「李丞相もお忙しい?」


「暇そうにしてるところは見たことないな」


 それだけ答えて、鄭仁は酒を飲んだ。


 杜衡も追わなかった。


 やがて話は巴の道へ移り、江運へ移り、山へ入る荷の苦労へ移った。楊季が江の水位を語れば、木材商が山道の方が厄介だと笑い、薬材商がどちらも雨には勝てぬと口を挟む。鄭仁も昼間に歩いた道を思い出しながら聞いていた。


「もっとも、昔よりは随分よくなりました」


 塩商が言った。


「杜郡守がお越しになってから、東へ抜ける道も手が入りました。江辺の倉も整えられ、人夫の差配も以前ほど滞らぬ。我ら商人にはありがたいことでございます」


「よせ」


 杜衡が苦笑した。


「せっかく旨い酒を飲んでいるのに、役所の話へ戻すな」


「功を挙げた方を褒めて何が悪いのです」


 楊季も頷いた。


「江辺の荷役は確かによくなりました。以前は荷が重なるたび、人夫の取り合いで半日潰れることもございましたから」


「お前まで始めるのか」


「我らは恩を忘れぬという話です」


「なら今夜の酒代を払ってくれ」


「それとこれとは別でございます」


 笑いが広がった。


 令佐も杯を手に笑っていたが、やがて何気なく口を開いた。


「それは何よりです。では、人夫の徴発も以前より減りましたかな」


 笑いの余韻が、わずかに残った。


 木材商が杯を置いた。


「いや、それが……荷そのものが増えておりますので」


「ほう」


「道が良くなれば、以前より多く運べます。江辺へ集まる荷も増えました。人夫の差配は早くなりましたが、要る人数まで減ったわけではございません」


「なるほど」


 令佐は頷いた。


 それだけだった。


 追及もせず、杜衡を見ることもなく、再び料理へ箸を伸ばした。


 杜衡が苦笑する。


「道を直せば、今度は荷が増える。なかなかこちらの思うようには参りません」


「商いが盛んになった証でもございましょう」


 塩商がすぐに続けた。


「以前より荷が動くようになったからこそ、人手も要る。郡守の御政あってのことでございます」


「もうよいと言っているだろう」


 杜衡が笑い、席もまた笑った。


 鄭仁は黙って魚の骨を外していた。


(いや、そこは減ってねえのかよ)


 危うく笑いそうになり、酒で誤魔化す。


 道も倉も良くなった。荷も以前より動く。


 だが人夫として呼び出される側からすれば、背負うものは相変わらず同じらしい。


(うまいこと言うなあ)


 鄭仁は令佐を横目で見た。


 当の本人は何事もなかったように肉を食べている。


(こいつ、しれっと刺すな)


 鄭仁は口元だけで笑った。


 酒席はそのまま流れ、話題は再び中央へ向かった。


「統一されてから、東の商人を以前より見かけるようになりました」


 楊季が言った。


「舟で下る荷も増えております。東へ通じる道も、さらに整えられるのでしょうか」


 木材商が続ける。


「こちらでは、そのような噂もございます。道一つで材木の値も変わりますゆえ、どうしても気になります」


「度量衡の改めも、今後さらに厳しくなるのでしょうな」


 塩商も加わった。


 三人とも聞いていることは違う。


 だが視線の先は同じだった。


 鄭仁は杯を置いた。


「俺が知ってるのも、咸陽を発った日までだよ」


 それだけ言った。


「それより面白いな。道一本で、そんなに変わるのか」


「変わりますとも」


 木材商が身を乗り出した。


「では仮に、東へもう一本通ったら?」


 鄭仁は何気なく尋ねた。


「巴で一番儲かるのは誰だろうな」


 すぐには返事がなかった。


 楊季が杯を置き、木材商は隣の塩商を見た。


「さて。一番となりますと」


「扱う荷にもよりましょうな」


 塩商が引き取った。


「塩、木、薬、丹砂。それぞれ道の使い方が違います。新しい道ができたからと申して、皆が同じだけ利を得るものでもございません」


「なるほど」


 鄭仁は頷いた。


 誰が、と聞いた。


 返ってきたのは、何を運ぶかだった。


 それで十分だった。


「じゃあ道の噂に敏いわけだ」


「商人でございますから」


 塩商が笑う。


「違いない」


 鄭仁も笑って杯を取った。


 教えるつもりで聞いてきた相手が、いつの間にか自分たちの事情を話している。


 もちろん、向こうも気づいているだろう。


 だから名前は出さない。


 こちらも出させようとはしない。


 酒を飲み、笑いながら、互いに相手がどこまで踏み込むかだけを見ている。


 ようやく宴らしくなってきた。


 鄭仁は酒を含み、何事もなかったように次の料理へ箸を伸ばした。


 酒がもう一巡した頃、話は山の人手へ移っていた。


「今年は、どうにも人が集まりませぬ」


 薬材商が杯を置いた。


「山へ入る者が減りましてな。若い者は江辺の荷役へ流れる。あちらの方が銭になるのでしょう」


「こちらも同じだ」


 木材商が応じる。


「伐った木は勝手に歩いてくれん。山から下ろすだけで人が要る」


「朱氏はどうなんだ?」


 楊季が朱成を見る。


「丹砂なら、なおさら人が要るのだろう」


「苦労しております」


 朱成は苦笑した。


「もっとも、我らより集めておられる家もございますが」


「巴氏か」


 木材商が何気なく言った。


 鄭仁は杯を傾けた。


 知らない名だった。


「巴氏?」


「丹砂を扱う家にございます」


 朱成が答えた。


「朱氏と同じか」


「扱うものは」


 短い返事だった。


 木材商が笑う。


「そこまで遠慮せずともよかろう。巴氏の坑は大きい。人も抱えておる。こちらが材木を出したい日に向こうの荷が重なると、車を探すところから始めねばならん」


「江でも同じだ」


 楊季が杯を置いた。


「舟を押さえられれば、こちらも他の荷を断らねばならぬ」


「それでお前は儲かるだろう」


「舟が増えるわけではない」


 楊季は塩商へ返した。


「お前の塩を置いて丹砂を積んでもよいなら、いくらでも引き受けるぞ」


「それは困る」


 小さな笑いが起こった。


 人夫。車。舟。


 話す者が変わるたび、巴氏の名だけが残った。


 鄭仁は黙って聞いていた。


 大きな商家なら珍しい話ではない。多くの荷を動かせば、それだけ人も車も使う。周囲と競合するのも当然だった。


「随分大きい家なんだな」


「丹砂だけではございません」


 木材商が言った。


「倉を持ち、人を抱え、運ぶ者とも古くから繋がっております。先代がよく築かれました」


「先代?」


 そこで僅かに間が空いた。


「清殿の夫君にございます」


 答えたのは杜衡だった。


「清?」


「今、巴氏を差配している方です」


 鄭仁はようやく事情を飲み込んだ。


「女なのか」


「はい」


 杜衡が頷く。


「夫君が亡くなられてから、清殿が家を預かっております」


「預かる、ねえ」


 木材商が呟いた。


 声は小さかったが、鄭仁には聞こえた。


「違うのか?」


「いえ」


 男は笑った。


「ただ、あれほどの家を女一人で差配するとなれば、並の苦労ではございますまい」


「一人ではあるまい」


 塩商が杯を弄びながら言う。


「先代から仕える家令もおれば、一族もいる。坑も倉も人も、昨日今日揃えたものではない」


「それでも、もう四年でしょう」


 薬材商が言った。


 塩商がそちらを見る。


「何がだ?」


「夫君が亡くなられてからです。残されたものだけで四年も商いが回るなら、我らも苦労はしません」


「だからこそ、先代の仕込みが良かったのでしょう」


 塩商は穏やかに返した。


「人も仕組みも、財で買えるものばかりではない」


「それは確かに」


 薬材商も笑って杯を取った。


 鄭仁は肉を一切れ取り、ゆっくり噛んだ。


 夫が築いた。人が支えた。女の身では苦労も多い。


 聞いているうちに、妙なことに気づいた。


 清本人の話だけが、一向に出てこない。


「でも、夫が死んでからも残ってるんだろ?」


 塩商が鄭仁を見る。


「何がでございましょう」


「家も、人も、商いも」


「ああ……はい」


「じゃあ、今は清が回してるんじゃないの?」


 誰かが答えるまで、ほんの少し時間があった。


 杜衡が先に杯を置いた。


「左様です」


 簡潔だった。


「最終的に差配しているのは清殿です」


 鄭仁は頷いた。


「なら大したもんだ」


「鄭郎は、お優しい」


 塩商が笑った。


 鄭仁はそちらを見た。


「そう?」


「女の身で家を守るとなれば、そう仰りたくもなりましょう」


「いや」


 鄭仁は杯を取った。


「男でも四年潰さなきゃ大したもんだろ」


 一瞬、塩商が黙った。


 杜衡が口元を隠すように酒を飲む。


 朱成は俯いたまま杯へ指を添えていた。


 鄭仁は酒を含んだ。


「清殿は慎重なお方ですからな」


 木材商が話を戻した。


「人を入れるにも、商いを結ぶにも時間を掛けられる」


「悪いこと?」


「いえ。決して」


 男はすぐに首を振った。


「ただ、先代は話の早い方でございました」


(ずいぶん丁寧に削るな)


「前の方がやりやすかった?」


「それは……」


 木材商が笑った。


「商いには相性がございますので」


「なるほど」


 鄭仁も笑った。


 清が無能だから困っている、という話ではないらしい。


 ただ、この男にとっては今の方がやりにくい。


 それだけは聞こえた。


 鄭仁はそこで、ほとんど口を挟まずにいた朱成へ目を向けた。


「朱成は静かだな」


「同じ丹砂を扱っておりますので」


 朱成は苦笑した。


「私が何を申しましても、我が身へ返って参りましょう」


「賢いな」


「商人でございますから」


 鄭仁は笑った。


「でも、巴氏の商いが空けば拾うだろ?」


 席の笑いが、そこで止まった。


 杜衡も口を挟まない。


 朱成はしばらく鄭仁を見ていたが、やがて杯を卓へ置いた。


「空いた商いがあれば、拾います」


「正直だな」


「先ほど鄭郎がおっしゃったではございませんか。欲のない商人の方が怪しい、と」


「覚えてたか」


「都合のよいお言葉でしたので」


 今度は鄭仁が笑った。


「一本取られたな」


 席にも笑いが戻った。


 だが朱成は、そこで終わらせなかった。


「もっとも、巴氏が持つものをすべて朱氏へ、などとは申しません。あれほど人も坑も抱えれば、我らだけでは扱いきれませぬ」


「全部はいらない?」


「商いになる分だけで結構です」


 朱成は穏やかに笑った。


 欲は認める。


 競合が弱れば得をすることも隠さない。


 それ以上を疑えば、今度はこちらの邪推になる。


(こいつも上手いな)


 鄭仁は酒を飲んだ。


 まだ何もない。


 清に不満を持つ商人がいる。朱氏は清と競合している。朱成は咸陽との商いを望んでいる。


 それだけなら、どこにでもある商売の話だった。


「それにしても」


 塩商が杯を満たしながら言った。


「巴氏も昔ほどではございますまい。夫君がおられた頃は、それこそ――」


「その辺りにしておけ」


 杜衡だった。


 声を荒らげたわけではない。


 酒器を置く音さえしなかった。


「今夜は鄭郎を迎える席だ。他家の内情まで肴にするものではない」


 塩商は一瞬黙り、すぐに笑った。


「これは失礼を。酒が過ぎましたな」


「なら次は薄めてもらえ」


「それだけはご勘弁を」


 笑いが戻った。


 話も別の方へ流れていく。


 鄭仁も笑いながら杯を取った。


 だが今度は、杜衡の言葉だけを頭へ残した。


 中央の話を探られても止めなかった。自分の功績を商人たちが並べても、苦笑するだけだった。朱成が宮中との商いを望んでも止めなかった。


 清の話は止めた。


(……なんでだ?)


 庇った。


 そう決めるのは簡単だった。


 だが、中央から来た使者の前で一商家の噂話が過ぎるのを嫌っただけかもしれない。郡守なら、それも当然の振る舞いである。


 まだ選べない。


 鄭仁は杯を傾けた。


 ただ、宴が始まったときには存在さえ知らなかった名が、一つだけ残った。


 清。


 そしてその名を囲む人間たちは、どういうわけか本人よりよく喋った。

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