巴を読む
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朝の巴には、夜の水気がまだ残っていた。
郡府の甍は薄く濡れ、軒から落ちる雫が庭石を黒く染めている。塀の向こうでは靄をまとった山の稜線が近く、姿の見えない江の音が低いところから絶えず届いていた。咸陽の朝が門の開閉や車馬の響きとともに始まるなら、巴では水と山が先に目を覚ますらしい。
鄭仁が昨日使った房へ入ると、令佐と書記二人はすでに案を埋めていた。昨日開いた簡牘を片端から積んでいるのではない。今日見る倉を起点に、物資の出入りから転運、人夫や牛車の徴発まで辿れるものだけを抜き出し、年次を崩さぬよう木札を挟んでまとめている。昨夜まで雑然としていた案上には、仕事の道筋ができていた。
令佐が顔を上げた。
「お早いですな」
「そっちが早すぎるんだよ」
鄭仁は案へ近づいたものの、簡牘には触れなかった。今日見る倉の数字も、いつ何が動いたかも、そこを開けば先に答えが分かる。
それでは意味がない。
百と知ってから現地へ行けば、百を探す。牛二頭と知っていれば、二頭いたことに安心する。人間の目は便利だが、答えを渡してやると驚くほど従順になる。長く生きて知識が増えたところで、その癖まで消えるわけではなかった。
(先入観ってやつは、時代が変わっても厄介だな)
「昨日の続きは任せる。今日見る場所に関係するものだけ出しておいてくれ」
「すでに始めております」
「見れば分かる」
令佐の手元には次の簡がある。書記の一人は紐を解き、もう一人は木札へ何かを書き込んでいた。
「戻ったら合わせよう」
「承知しました」
房を出ると、黒玄と護衛二人が待っていた。今日は十三人全員を連れ歩く必要はない。残る者には郡府で書記たちの手伝いと連絡を任せ、外へ出るのは四人だけだった。
「行くぞ」
「唯」
黒玄が応じ、護衛二人も続く。
そのまま門へ向かいかけたところで、東廊から声が飛んだ。
「鄭郎」
杜衡だった。
衣冠は昨日と変わらず郡守として整っている。それでも、正堂で初めて対面したときに目元へ張りついていた硬さは薄れていた。中央から丞相府の使者が十三人もやって来れば、地方官が身構えるのは当然である。ところが初日は簡牘を調べ、分からぬことを尋ねただけで終わった。誰かを縛るでも、机を叩いて罪を吐けと迫るでもない。
(昨日より、だいぶ楽そうだな)
「もうお出かけですか」
「ああ。今日は外を見る」
「左様ですか」
杜衡は行き先を聞かなかった。昨日、鄭仁が倉の所在だけを求め、先触れを出さぬよう告げたことを覚えているのだろう。
「夕刻にはお戻りで?」
「そのつもりだ」
「でしたら、ちょうどよかった」
そこで杜衡の声が、官吏同士のものから僅かに柔らいだ。
「今宵、席を設けたいと思っております。せっかく巴までお越しいただいたのです。土地のもの一つ召し上がらずお帰ししては、郡守として面目が立ちません」
「昨日は簡牘なら随分いただいたぞ」
杜衡の口元がほころんだ。
「あれは巴の名物には数えたくありませんな」
「五年物もあった」
「なおさらでございます」
短い笑いが廊に落ちた。
昨日なら、こんなやり取りにはならなかっただろう。杜衡がこちらを測っているのと同じように、鄭仁もまたこの男を見ている。だが二日目ともなれば、互いに相手がいきなり剣を抜く人間ではない程度のことは分かる。
「郡府の者だけでは味気ありませんので、土地で商いを営む者にも何人か声を掛けております。塩、木材、薬材、それに丹砂を扱う家も参るかと」
鄭仁の意識がわずかに動いた。
昨日まで相手にしていたのは、簡牘に刻まれた数字だった。今夜会うのは、その数字になる前の物を掘り、集め、運び、売る側の人間になる。
取り調べをするつもりはない。
むしろ、しない方がいい。
「ありがたく伺う」
「では、日が暮れる頃に」
「楽しみにしてる」
杜衡は一礼し、来た廊を戻っていった。
その背を見送ってから、鄭仁も郡府の門を出た。
朝の市には、すでに山と江を行き来する物が流れ込んでいた。軒の深い家々の前には竹束や木材が積まれ、背負籠には山菜や薬草が覗き、縄を掛けた荷が人の肩から車へ、車から江辺へと渡されていく。働く男たちは衣の丈を短く取り、袖や裾を邪魔にならぬよう括っていた。湿気を吸った粗布が肌へ張りつき、足元には赤土が跳ねている。官署の衣冠とは違い、この土地で動くために形を変えた装いだった。
家並みを抜けると、巴はすぐに山へ戻った。道は斜面を避けながら折れ、片側には雨を含んだ赤土と岩肌が迫り、反対側は木々の隙間から江へ落ちている。細い水が岩を伝い、竹の葉から滴が散る。遠く見えた場所へ真っ直ぐ行けない土地では、荷の距離は地図の長さだけでは決まらない。
昨夜の雨を含んだ道には、古い轍を踏み潰すように新しい車輪の跡が走っていた。そこへ牛の蹄と人の履が重なり、泥の深さまで場所ごとに違う。
鄭仁は歩きながら、それらを拾っていった。
咸陽へ届く簡牘の上では、荷は一行で移動する。どこから何を何石、どこへ送った。それで終わる。だが実際の巴では、山を下ろし、道を曲がり、水際へ出し、必要なら別の倉へ積み替える。そのたびに人が要り、牛が要り、車が要る。
(こりゃ、帳尻だけ合わせる方も楽じゃないな)
中央の使者が来たから、別の倉から物を移して数字だけ整える。発想だけなら簡単だった。
だが荷物は文字ではない。
重い。
そして重いものを動かせば、必ず誰かが見る。
やがて山裾の開けたところに、倉の屋根が現れた。数棟が少し間を空けて並び、その前だけ広く土が踏み締められている。門へ続く轍は幾筋も交差し、軒際には荷車が寄せられ、その向こうで牛が尾を振っていた。
鄭仁は牛と車へ一度だけ目をやり、護衛二人を呼んだ。
「牛と車を頼む。いつ使ったかも聞いてくれ。近くの者にもな」
「唯」
二人が左右へ散った。
黒玄は倉を見た。
「ここか」
「ああ」
昨日渡された所在の中から、今朝になって選んだ倉だった。郡府から先触れは出ていない。
門前にいた男がようやくこちらへ気づいた。鄭仁の衣冠を見て、次に黒玄の剣を見る。何者なのか理解するまでに僅かな間があり、慌てて背を正した。
驚いている。
それだけだった。
男が奥へ声を掛けようとした。
「待て」
足が止まる。
「責任者は後でいい。そのままにしてくれ」
男は戸惑いながらも頷いた。
鄭仁は門をくぐった。
倉の中は朝の光を入口で失い、奥へ進むほど柱と荷の影が重なっていた。乾いた穀の匂いに縄、土、人の汗が混じり、壁際には袋が幾段にも積まれている。働いていた者たちは手を止めかけたが、鄭仁が何も言わず進むのを見て、互いに顔を見合わせながら作業へ戻った。
まず、何も聞かずに見る。
荷の置き方、人の通り道、床に残った擦れ、積み上げ方の違い。倉なら物が動いて当然である。だから動いた痕跡を見つけること自体には意味がない。
鄭仁の視線が、壁際で止まった。
一角だけ、土の色が違う。
古い荷の下には細かな埃が溜まっている。そこだけ床が露出し、袋を引いた筋がまだ崩れきっていなかった。
鄭仁はしゃがみ、指先で土を撫でた。
(新しい)
背後から年嵩の男が近づいてきた。
「この倉を預かっております季成にございます」
鄭仁は立ち上がった。
「ここに何があった?」
「粟にございます」
「いつ動かした?」
「三日前です」
そこで初めて、鄭仁は季成を正面から見た。
三日前。
自分たちが巴へ入った日である。
「どこへ?」
「南の倉へ」
「理由は?」
「東の里より租穀が入る予定でございました。こちらでは置き場が足りませぬゆえ、先に一部を移しました」
答えに淀みはなかった。
鄭仁は空いた場所を見る。すでに新しい袋が入り始めており、季成の説明だけなら筋は通っている。
「いつ決めた?」
「前日にございます」
「郡府へは?」
「届けております」
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
三日前に荷が動いた。
だが計画は前日。
それが本当なら、自分たちの到着を見て慌てて動かしたわけではない。
もちろん、今ここで季成の言葉を信じる必要も、疑う必要もなかった。
外へ出ると、護衛の一人が戻ってきた。
「鄭郎。三日前、牛二頭と車二両を使っております。南の倉まで二往復したと」
「誰に聞いた?」
「牛を扱った者と、車を曳いた者に別々に」
「もう一人は?」
「近くで聞いております」
「よし」
少し遅れて、もう一人の護衛も戻った。
「五日前にも車を使っております。東から租穀を入れたとのことです」
鄭仁は倉を振り返った。
季成の説明。
牛を扱った者。
車を曳いた者。
今のところ、線は切れていない。
「南へ行こう」
四人で道へ戻った。
山裾を回り込む道の先では、僅かな平地を惜しむように田畑が段をなし、竹を割って作った樋から山水が畦へ落ちていた。鍬を担いだ農夫が一人、役人姿の一行を珍しそうに見ている。
鄭仁は足を止めた。
「少し聞いていいか」
男は鍬を下ろした。
「へい」
「郡府へ人を出したのは最近いつだ?」
「三日前です」
「何をした?」
「倉の荷運びを」
「いつ言われた?」
「前の日には里へ話が来ておりました」
鄭仁の目が僅かに細くなる。
「牛も出したか?」
「うちは人だけです。牛は向こうの里だったかと」
「そうか。ありがとう」
農夫を残して歩き出すと、黒玄が隣へ並んだ。
「前日か」
「ああ」
「普通だな」
鄭仁は少しだけ笑った。
「うん。普通だね」
それでいい。
何かを暴きに巴まで来たわけではない。李斯から命じられたのは、疑わしいものを罪に仕立てることではなく、見て確かめることだ。調べた結果、帳簿どおりに人が働き、荷が動き、郡府がまともに回っているなら、それに越したことはない。
(全部白なら、巴まで旅行に来たと思えばいい)
山気を吸い込み、鄭仁は前を見た。
南の倉の屋根が、竹林の向こうに見えていた。
南の倉は、先ほどの倉よりひと回り小さかった。
山裾を削って得た狭い平地に建ち、背後には竹と常緑の木々が迫っている。軒下には編んだ筵が立て掛けられ、雨水を逃がす浅い溝が建物を囲んでいた。山から落ちてきた水がそこを絶えず走り、湿った土と青竹の匂いを運んでいる。
鄭仁は倉へ入る前に、門前を見渡した。
荷を受けたなら、痕跡は中だけに残るものではない。踏み固められた赤土には新旧の轍が重なり、軒柱の低いところには車を寄せたらしい擦り傷が走っている。削れた木肌はまだ白く、雨にもさほど晒されていなかった。
だが、それだけだ。
車が来た。
荷が入った。
倉なのだから当たり前だった。
「中を見よう」
倉を預かる吏が戸を開けた。
湿気は先ほどより強く、穀袋は床へ直に置かず、渡した木の上へ積まれている。奥には古くから置かれた荷が整然と並び、その手前だけ積み方の違う一群があった。縄はまだ強く締まり、袋の表には埃もほとんどない。
「これは?」
「三日前に北の倉より移された粟にございます」
「量は?」
吏が答える。
鄭仁は聞いた数字を頭へ置いた。
「ここは前から空いていた?」
「はい」
「なら、東から来る租穀を最初からこっちへ入れればよかったんじゃないか?」
吏は一瞬きょとんとして、それから答えた。
「東からでしたら、北の倉の方が近うございます。こちらへ回せば、車を余計に走らせることになりますので」
「ああ、なるほど」
鄭仁はそれ以上追わなかった。
咸陽の案上で二つの倉だけを見れば、空いている方へ最初から運べばいいと思う。だが荷を運ぶのは線でも数字でもない。牛が曳き、人が押し、曲がった道を実際に進む。東から近い倉へまず入れ、入りきらない分を後から移す。その方がこの土地では安いのだろう。
(現場を見ないと分からんことばっかりだな)
先ほどの倉吏の話とも繋がった。
鄭仁は積まれた粟をもう一度見てから外へ出た。
黒玄が軒下で待っていた。
「どうだ」
「ちゃんと三日前に来たらしい」
「次は?」
「もう二つ見る」
「唯」
そこから先は、倉だけでなく倉を結ぶ道も見た。
山と江に挟まれた巴では、僅かな距離でも車を通せる道が限られている。斜面が崩れれば迂回し、水が増せば渡れない場所も出る。竹林の間を抜けたかと思えば、道は人家の軒先近くまで寄り、また山際へ戻った。途中では背負籠に薬草を詰めた男たちが列をなし、別の場所では木材を括った縄を何人もがかりで引いている。
目につくものは多い。
だが今日は倉を見る日だった。
全部に手を伸ばせば、何一つ終わらない。
次の倉では三日前に大きな出入りはなく、その次でも同じだった。鄭仁は中を見て預かる者から話を聞き、護衛二人には周囲の人間へ別々に当たらせた。答えには多少のずれがあり、何日前だったか首を捻る者もいれば、人夫の人数を一人違えて覚えている者もいた。
その程度なら、むしろ安心できた。
全員が同じ言葉で、同じ数字を、同じ順番で答え始めたら、そのときこそ面倒なことになる。
日が中天を過ぎた頃、鄭仁は足を止めた。
「戻ろう」
黒玄が振り返る。
「もういいのか」
「今日の分はな」
朝から拾ったものを頭の中で繋ぐ。北の倉から南へ粟が動いたのは事実らしい。牛も車も使われ、人夫への知らせは鄭仁たちが巴へ入る前日に出ている。移動先には実際に新しい荷があり、東から租穀が入るという説明も土地の道筋に照らせば不自然ではなかった。
あとは、郡府に残る記録が同じことを語るかどうか。
「ここからは簡牘の仕事だ」
*
郡府へ戻ると、朝に残した令佐と書記二人は、まだ同じ房で仕事を続けていた。
ただし案上の景色は変わっている。今日の倉に関係する簡牘はすでに年次と用途ごとに分けられ、必要な束へすぐ手が届くよう並べ直されていた。鄭仁たちが山道を歩いている間、こちらはこちらで一日分の仕事を進めていたらしい。
鄭仁は席へ着いた。
「三日前、北から南へ粟が動いてる」
令佐の手が簡へ伸びる。
「ございます」
「まだ中は言うな」
手が止まった。
鄭仁は先に、現地で拾った事実を書記へ渡した。倉を移した日と場所、使われた牛車、人夫への知らせが前日に出ていたこと、東から租穀が入るため場所を空けたという説明。書記がそれを木牘へ落とし終えるまで待ってから、ようやく令佐へ頷いた。
「合わせよう」
簡が開かれた。
北の倉から出た日付は合った。
南の倉へ入った記録もある。
量も、現地で聞いたものと違わない。
車と牛の記録を追えば、それぞれ二つ。これも合う。
人夫のところで、初めて小さな差が出た。
「一人多いな」
「こちらでは五名となっております」
鄭仁は簡を受け取り、刻まれた名を追った。一人だけ所属する里が違う。
「この里は?」
「牛を出した里にございます」
朝、農夫から聞いた話が戻ってきた。
――うちは人だけです。牛は向こうの里から出したはずで。
「牛について来た人間かもしれないな」
「確かめますか」
「明日でいい。差だけ残しておこう」
令佐が頷き、書記がその一行を書き足した。
鄭仁は改めて簡を並べた。
出した倉。
受けた倉。
牛車。
人夫。
徴発された里。
そして現地に残る荷と轍。
別々の場所に残った痕跡が、ほぼ同じ出来事を指している。
簡牘の中だけで作った話ではなさそうだった。
「この移動は問題なし。人夫一名だけ未確認で残す」
「承知しました」
鄭仁は背を伸ばした。
朝から山道を歩いた脚が、座った途端に重くなる。窓の外では西へ傾いた光が山に遮られ始め、まだ夕刻には早いというのに、庭の半分がもう影へ沈んでいた。
黒玄が壁際で腕を組んでいる。
「なんもなさそうだな」
「今のところはね」
鄭仁は案上の簡を眺めた。
「普通に荷が来て、普通に倉が詰まって、普通に別の倉へ移した。それだけなら最高だ」
「何も出なければ?」
「巴まで旅行に来たと思えばいい」
黒玄の口元が僅かに動いた。
「仕事だぞ」
「分かってるよ」
鄭仁も笑った。
調べれば必ず悪事が出てくるなどという方が困る。白なら白でいい。帝国の端まで来て、地方官が帳簿どおり働いていることを確かめて帰れるなら、李斯への報告だって短く済む。
もっとも――。
鄭仁の視線が、荷の中に収めてある一つの筒へ向いた。
李斯から預かった別命がある。
巴へ着くまで開く必要はないと言われ、そのまま手をつけていない。
(今夜にでも見るか)
昼の調査がこのまま平穏に終わるなら、ちょうどいい。
そのとき、廊から足音が近づいた。
戸口に現れたのは杜衡ではなく、その使いだった。
「鄭郎。郡守より、今宵の席についてお伝えに参りました」
「聞こう」
「日暮れの後、市に近い館にて。郡守、郡丞、令佐も同席いたします。ほかの皆様につきましては、別に膳と酒を用意するとのことでございます」
鄭仁は令佐を見た。
「お前もか」
令佐が苦笑した。
「そのようですな」
「じゃあ逃げられないな」
「鄭郎こそ」
「俺は最初から行く気だよ」
使いが去ると、鄭仁は残りの簡牘を片づけさせた。十三人で来た以上、宴へ出ない者にも食事は要る。杜衡がそこまで手配しているなら、こちらで余計な支度をする必要もなかった。
仕事を切り上げ、いったん宿舎へ戻る。
昼間の衣には赤土が跳ね、裾には山道の泥が乾いていた。それを宴へ持ち込むのも無粋である。湯で顔と手を拭い、衣を改めた。朝の巡察に使った動きやすいものではなく、咸陽を発つ際に持たされた上等な深衣へ替え、帯を締め直す。中央から来た郎として威を張るためではない。招かれた席へ、それなりの姿で出る。それも礼のうちだった。
黒玄もさすがに昼の姿のままではなかった。埃を払った濃色の衣へ替え、いつもの剣を帯へ収めている。武官の正装というほど堅くはないが、昼間に山道を歩いていた男とは随分と印象が違った。
鄭仁は帯を締めながら、鏡代わりの磨かれた銅板越しに黒玄を見た。
「似合うじゃないか」
「うるさい」
「褒めたのに」
「お前もな」
思わぬ返事に、鄭仁の手が止まった。
「……熱でもある?」
「行くぞ」
黒玄はそれ以上付き合わず、剣帯を直して戸口へ向かった。
「言い逃げかよ」
その背を追いかけようとして、鄭仁はふと荷の方へ目を向けた。
昼間にも気になった筒が、他の荷に紛れて置かれている。
李斯から預かった別命。
咸陽を発つ前、巴へ着いてから開けと言われたものだった。到着した日は郡府との顔合わせと簡牘の確認で終わり、昨夜も結局そのままにしている。
鄭仁はしばらく筒を見ていたが、手は伸ばさなかった。
(まあ、今夜でいいか)
今日見た限り、巴は驚くほど普通だった。
倉の荷は動いていたが理由があり、人夫も牛車も実際に動いている。現地で聞いた話と郡府の記録にも、大きな食い違いはなかった。これで夜まで何もなければ、酒を飲んで帰ってから別命を見るくらいの余裕はある。
「置いてくぞ」
外から黒玄の声がした。
「はいはい」
鄭仁は筒から目を離した。
昼の仕事は終わった。
今夜は宴だ。
*
日が山の向こうへ沈む頃、巴の街には昼とは別の顔が現れていた。軒下には灯が入り、江から上がる湿った風が、焼いた川魚や炙った肉、香草を煮る匂いを路地へ運んでいる。昼間に荷を担いでいた者たちは店先へ腰を下ろし、酒器を傾けながら一日の埃を落としていた。山から最後の荷を運び込む掛け声もまだ残っていたが、それも次第に水音と人声の中へ溶けていく。
宴の館は郡府の正堂ではなく、市にほど近い一角にあった。通りから門をくぐると小さな庭があり、その奥の建物は庭へ向けて戸を大きく開いている。灯火の向こうには夜へ沈みかけた山の稜線が黒く重なり、風が入るたび、卓上の灯が細く揺れた。
室内にはすでに膳が整えられていた。川魚、炙った獣肉、山菜、豆を使った料理に、見慣れぬ香草を添えた一皿もある。酒壺はいくつも並び、昼間の倉で嗅ぎ続けた穀と土の匂いを追い払うように、焼けた脂と香辛料の香りが満ちていた。
鄭仁が黒玄、令佐とともに入ると、杜衡が席を立った。
「お待ちしておりました」
郡守としての冠はそのままだが、昼間より装いを改めている。衣は落ち着いた色ながら布地がよく、帯には小さな玉飾りがあった。官署で中央の使者を迎える郡守ではなく、今夜は客を迎える土地の主人らしい。
鄭仁は上から下まで眺めた。
「随分と洒落たな」
「鄭郎に言われては困ります」
杜衡も負けじと鄭仁の衣へ目をやる。
「昼とは別人ではありませんか」
「泥だらけで来た方がよかった?」
「料理人が泣きます」
周囲から笑いが起こった。
昨日の正堂にはなかった笑いだった。
鄭仁も笑いながら室内へ目を巡らせる。杜衡の傍らには郡丞の范平が座り、その向こうには見慣れない顔が並んでいた。
塩、江運、木材、薬材。そして丹砂。
巴で大きな商いを動かしている家々の者らしい。昼の市で声を張り上げていた商人たちとは、衣の仕立てから違った。細布を重ねた者もいれば、帯へ玉を下げた者もいる。一方で、日に焼けた顔や節の太い指を持つ者もおり、帳場に座って銭だけを数えてきた人間ばかりではなさそうだった。
そして、それぞれの席の傍らには、膳とは別の包みが置かれている。
鄭仁の視線に気づいた杜衡が笑った。
「土地の者からの、心ばかりの品だそうです」
「俺に?」
最も年嵩の塩商が頭を下げた。
「遠く咸陽よりお越しになった鄭郎に、手ぶらでお帰りいただくわけにも参りませぬ。塩に干した魚、山の薬材など、巴で手に入るものばかりにございます」
「随分あるな」
「咸陽への土産話だけでは、荷車が寂しゅうございましょう」
うまいことを言う。
鄭仁は包みを眺めた。
受け取らないという選択もある。
中央から来た使者が地方商人の贈り物を受け取らない。清廉潔白で、実に分かりやすい。だが今夜の目的が相手の腹を割ることなら、その立派な壁はこちら側にも邪魔になる。
贈り物一つで判断を売るつもりはない。
ならば、礼まで拒む必要もない。
「ありがたく頂こう。帰ったら皆で分けるよ」
商人たちの肩から、ほんの少し力が抜けた。
それを見て、鄭仁は何も言わず席へ着いた。
黒玄が隣へ腰を下ろし、令佐は郡府側へ回る。杜衡が一人ずつ客を紹介していった。
塩を扱う家。
江を使った運送を担う家。
山から木材を集める家。
薬材を各地へ流す家。
最後に紹介された男だけは、他の者より衣が控えめだった。四十前後に見え、痩せても太ってもいない。男は鄭仁へ丁寧に頭を下げた。
「丹砂を商っております、朱氏の家令朱成にございます」
「朱氏?」
「はい。今宵は主に代わりまして参りました」
「そうか。よろしく」
鄭仁はその名を頭に置いた。
それ以上は聞かなかった。
丹砂を扱う商家。
今のところ、それだけでいい。
杜衡が酒器を掲げる。
「では改めまして、鄭郎一行の巴へのご到着を祝いましょう」
酒が注がれた。
鄭仁も器を取る。
黒玄はすでに飲む気満々の顔をしている。
「黒玄殿には多めに用意させましょう」
「やめろ。こいつ本当に飲むぞ」
「望むところだ」
「お前が言うな」
杜衡が笑う。
鄭仁も笑った。
ただし、まだ酒器へ口はつけない。
笑いが収まる僅かな間に、室内を見渡した。
郡守は中央の使者がどこまで見たのかを知りたい。
商人は、咸陽から来た人間が何を求めているのか知りたい。
こちらは、この土地で官と商人がどのように繋がり、何を当然として暮らしているのか知りたい。
誰も嘘をつく必要はない。
全部を話す必要もない。
笑って酒を飲みながら、相手が差し出したものだけ拾えばいい。
杜衡がこちらを見る。
「鄭郎?」
「いや」
鄭仁は酒器を上げた。
「巴の酒が五年物の簡牘より旨いことを祈ってた」
「それは保証いたします」
「なら安心だ」
器を傾ける。
酒は思ったより強く、喉を抜けたあとに香りが戻ってきた。
「……旨いな」
「でしょう?」
杜衡が得意そうに笑った。
鄭仁は酒器を置いた。
向こうも笑っている。
こちらも笑っている。
まだ誰も、何も仕掛けてはいない。
(さて)
鄭仁は料理へ箸を伸ばした。
(化かし合いといこうか)




