2つの巴
巴郡府の門をくぐると、市の喧騒が一段遠くなった。
荷車の軋みも、商人の呼び声も消えたわけではない。ただ、高い塀と幾重かの房に遮られ、代わりに簡牘を扱う乾いた音や、廊を行き交う吏の足音が近くなる。
咸陽の官署ほど大きくはない。
それでも、人の動きは絶えなかった。
開け放たれた房では書吏が簡牘を仕分け、別の一室では算木を挟んで二人の吏が低い声で数を確かめている。庭を隔てた向こうでは、裾に赤土を付けた男が何事かを訴え、若い吏がその話を木牘へ書き留めていた。
戸籍、租税、倉、道路、訴訟。
咸陽から見れば、巴は天下に置かれた一郡にすぎない。だが山中の里で起きた揉め事も、江を下る舟の遅れも、いずれは何らかの形でこの建物へ届く。
(……普通に忙しいな)
鄭仁は歩調を緩めず、周囲を見た。
荒れてはいない。妙に静まり返っているわけでもない。
少なくとも、中央の使者を迎えるためだけに人を並べたようには見えなかった。
門脇で待っていた年嵩の吏が、一行を認めて進み出る。
「咸陽よりお越しの使者でございますね」
「鄭仁だ」
差し出した符を、吏は両手で受け取った。刻字と印を確かめ、鄭仁の顔と見比べる。それから斜め後ろの令佐、書記二名、最後に旅装のまま立つ黒玄へ視線を移した。
「確かに。郡守がお待ちです。こちらへ」
符が戻される。
先導する吏に従い、鄭仁が廊へ入った。令佐と書記二名が続き、黒玄は自然に最後尾へ回る。護衛四名は郡府の吏に別途案内され、正堂の外へ残った。
黒玄は何も言わない。
ただ曲がり角へ差しかかるたびに視線を先へ送り、すれ違う吏や開いた戸の奥へ目を配っている。
鄭仁はそれを横目で見てから、前へ戻した。
ここへ来た目的は、罪人を捕らえることではない。
そもそも、罪があると決まったわけでもなかった。
李斯が見ていたのは、あまりに整った数字だけだ。
巴郡へ着くまでの三日間、何度も五年分の副本へ目を通した。戸籍も倉廩も転運も、互いによく符合している。
合っている。
だから正しい。
そう決めるには、あまりに綺麗だった。
だから確かめに来た。
数字ではなく、その数字が作られた土地を。
廊の角で、先導していた吏が足を止めた。
「こちらでございます」
戸が開く。
正堂には二人の男が待っていた。
上座から立ち上がった男は、三十をいくらか越えたほどに見える。郡守の冠を戴き、衣にも乱れはない。若さは残っていたが、目元には薄く疲れが滲んでいた。
「巴郡守、杜衡。遠路、ようこそお越しくださいました」
礼は丁寧だった。
声にも不自然なところはない。ただ中央から来た使者を前にしているだけの緊張が、僅かに肩へ残っている。
「郎官、鄭仁。しばらく世話になる」
「必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください」
杜衡が傍らへ手を向けた。
「こちらは郡丞の范平。郡の実務については、長くこの者に助けられております」
四十をいくらか越えた男が一礼する。
「范平にございます。土地の事情でしたら、多少はお役に立てるかと」
「それはありがたい」
鄭仁も礼を返した。
范平には派手なところがなかった。衣も冠も役目相応で、声音も落ち着いている。ただ紹介を受けるまでの短い間に、令佐と書記の人数まで一度に見ていた。
実務を預かる者なら、それも当然か。
勧められた席へ腰を下ろす。
令佐は鄭仁の斜め後ろへ座し、書記二名は壁際に控えた。筆と木牘を取り出す音に、杜衡がそちらを見る。
「記録を取られるので?」
「取る。私も後で言ったことを忘れるからな」
杜衡が一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「では私も、余計なことは申さぬよう気をつけましょう」
「それは困る。余計な話ほど後で役に立つことがある」
「これは難しい」
先ほどまでの硬さが、少しだけ薄れた。
湯が運ばれてくる。
鄭仁はすぐには口をつけず、杜衡へ向き直った。
「まず確認しておきたい。私が来る理由について、どこまで聞いている?」
「郡内の転運と諸記録を改めるため、中央より使者が来るとだけ。特に何を調べるかまでは聞いておりません」
「それでいい」
鄭仁は器を手に取った。
杜衡の答えは、咸陽から出した表向きの命と一致している。
李斯は重点を知らせていない。
「五年ほど遡って、郡の記録を見たい。戸籍、倉廩、転運、それから主要な産物だ。塩、木材、丹砂。最初から細部へ入るつもりはない。まず全体を見て、必要なところをこちらで選ぶ」
杜衡は少し考えた。
「五年となりますと、かなりの量になります」
「分かっている。今日中に読むわけじゃない」
「でしたら、別室を一つ空けさせましょう。正堂へ運び込めば、こちらの政務まで止まりかねません」
「その方が助かる」
杜衡が范平を見る。
「用意できるか」
「部屋はすぐに。簿書はそれぞれ保管が分かれておりますので、必要なものから運ばせます」
范平は迷わず答えた。
鄭仁は湯を一口含む。
特に引っかかるところはない。
むしろ、そうでなくては困る。
「原簿も見たい」
そこで范平が確認するように顔を上げた。
「中央へ送った報告の副本ではなく?」
「両方だ。副本と原簿を並べたい。まとめ直す必要はない。そのまま持ってきてくれればいい」
「承知いたしました。保管場所の異なるものもございますので、少々お時間を頂きます」
「急がなくていい。誰が、どこから出したものか分かるようにしてくれ」
今度は杜衡が鄭仁を見た。
「随分と厳密に扱われるのですね」
「後で数が合わなかったとき、記録そのものの問題なのか、こちらが取り違えたのか分からなくなるのが一番困る」
鄭仁は器を置いた。
「違いがなければ、それで終わる話だ」
杜衡はゆっくり頷いた。
「ごもっともです」
范平も一礼し、戸口の吏へ短く指示を出した。吏は必要な項目を木牘へ書き留めると、足早に廊へ消えていく。
鄭仁はその間に話題を変えた。
「記録が来るまで、巴の現況を聞かせてくれ。記録の上の巴なら、咸陽で散々見た」
「どこからお話ししましょう」
「困っていることからでいい」
杜衡は苦笑した。
「それでしたら、日が暮れます」
「五年分の簿書よりは短いだろう」
「では、まず道からですな」
杜衡はそう言って、卓上へ指を置いた。
「統一後、咸陽や蜀との往来は増えました。道を整えれば商人が増え、商人が増えれば税も入る。そこまではよろしいのですが、荷車が増えれば道は傷みますし、人夫も要ります。昨年は雨で南の道が二度崩れました」
「江運は?」
「以前より使っております。山道より速いところもございますが、水が増えれば今度は舟が止まる。巴では、陸だけ見ていても政はできません」
杜衡が話し始めると、先ほどまでより言葉が滑らかになった。
自分の仕事だからだろう。
戸籍の増減、山へ移る民、商人の往来、倉の修繕。
范平は必要なところだけ補った。
「昨年では?」
杜衡が話を止める。
「一昨年にございます。昨年は東の道でした」
「ああ、そうだった」
杜衡は額を押さえた。
「この者は私より巴を覚えております」
「長くいるだけにございます」
范平は相変わらず淡々としている。
鄭仁は器を傾けながら二人を見た。
杜衡が范平を頼る理由は分かる。
若い郡守と、土地の事情に通じた郡丞。
今のところ、それ以上でも以下でもない。
やがて廊の向こうから、複数の足音が近づいてきた。
范平が戸口へ目を向ける。
「簿書の用意が始まったようです」
「なら、そちらへ行こう」
鄭仁が立ち上がると、令佐と書記二名も筆を収めた。
黒玄は戸口から身を離し、先に廊へ視線を送る。
杜衡も席を立ったが、正堂の外へ出たところで足を止めた。
「私はここで失礼いたします。まだ決裁が残っておりますので」
「こちらこそ邪魔をした」
「とんでもございません。范平、部屋まで案内を」
「承知しました」
范平に従い、鄭仁たちは庭を挟んだ東廊へ向かった。
途中、二人の吏が簿書を収めた箱を運んですれ違う。
さらに奥から、簡牘の束を胸に抱えた若い書吏が現れた。
調査のためだけに郡府が止まっているわけではない。
彼らが古い記録を運んでいる間にも、別の場所では今日の戸籍が書かれ、今日の荷が記され、今日の訴えが裁かれている。
それが当たり前なのだ。
范平が一つの戸の前で止まった。
「こちらをお使いください」
戸が開く。
中央には大きな案が三つあり、壁際には空いた架が並んでいた。床には先に運ばれた箱がいくつか置かれている。
「残りも順次運ばせます。保管を預かる吏には、原簿をまとめ直さず、そのまま出すよう申し付けております」
「助かる」
「何か不足がございましたら、近くの吏へお命じください」
范平は一礼した。
鄭仁は戸口まで見送る。
「范平」
男が振り返った。
「はい」
「ありがとう。もう仕事へ戻ってくれ」
「では、失礼いたします」
范平の足音が廊を遠ざかっていく。
鄭仁はその音が消えるまで待たなかった。
床に置かれた箱へ視線を落とす。
咸陽で見たのは、巴郡から送られてきた答えだった。
ここにあるのは、その答えになる前の記録だ。
「さて」
鄭仁は袖を軽くまくった。
「始めよう」
鄭仁は最も近い箱の前へしゃがみ、結ばれた木札を裏返した。
「封は?」
令佐が箱の縁へ手を掛け、結び目と封の跡を順に確かめた。
「残っているものと、すでに改められたものがございます」
「なら、出所を控えてくれ。封が残っているものは、それも。中を改めたら簡の数を取る。順番は崩さないように」
書記二人が応じた。
一人が木箱の札を読み上げ、もう一人が木牘へ記す。箱が開けば役目を替え、取り出された簡牘を受け取って、束ごとに案の上へ置いていく。
黒玄は壁際に立ったまま、何も言わない。
ただ、書記が箱を動かすたびに一度だけ視線を送り、また戸口へ戻す。廊を誰かが通れば、その足音が遠ざかるまで目だけが動いた。
鄭仁は一つ目の箱を開けた。
乾いた竹と、古い墨の匂いが立つ。
中には年ごとに束ねられた簡牘が隙間なく収められていた。令佐が一本を抜き、付された札を確かめてから鄭仁へ渡す。
「倉の記録です」
「まず、それから見よう」
二人は案を挟んで腰を下ろした。
それからしばらく、室内から会話が消えた。
紐が解かれる。
竹が触れ合う。
筆先が木牘を擦る。
鄭仁が読み終えた簡を置けば、令佐が別の束から対応する記録を探す。見つかれば書記へ渡し、書記は出所を控えてから案へ並べる。
巴郡の倉へ入った穀物。
そこから出された穀物。
残った量。
徴発された人夫。
使われた車。
江へ回された荷。
鄭仁は一つの数字だけを追わなかった。
倉から物が出れば、どこかへ着く。
車を使えば、それを動かした人間がいる。舟へ積めば津を通る。荷を移せば、受け取った者がいる。
記録の上では別々の簡に分かれていても、現実には同じ一つの荷が通った跡だ。
数字そのものより、その前後を見る。
咸陽で副本を読んでいたときには、それができなかった。
令佐が二本の簡を案の中央へ滑らせた。
「こちらを」
鄭仁は一方を取り上げた。
倉から出された日と量。
もう一方には、その荷を受けた日と量。
同じだった。
「問題ないな」
「こちらもです」
今度は四本。
鄭仁は順に追った。
合っている。
次も。
その次も、大きな食い違いはない。
並んだ簡を見ているうちに、咸陽で感じたものが頭をもたげた。
――整いすぎている。
だが鄭仁は、そこで一本を元の束へ戻した。
「合っているなら、それでいい」
令佐の手が止まった。
「咸陽では、合いすぎることを気にしておられましたが」
「ああ」
鄭仁は次の束へ手を伸ばした。
「だから来た」
紐を解く。
「だが、ここでも『合っているから怪しい』で始めたら、何を見ても怪しくなる」
令佐は鄭仁を見た。
「疑いを捨てると?」
「逆だよ」
鄭仁は一本を抜いた。
「疑うために、決めつけない」
一瞬、令佐の目が細くなる。
それから何も言わず、自分の束へ戻った。
読み進めるうちに、今度は別のものが見え始めた。
書き損じ。
日付を削って改めた跡。
後から添えられた数量。
墨の滲み。
同じ人名に、異なる字を当てた簡まである。
書記の一人が一本を持ち上げた。
「こちら、日が改められております」
「前後は?」
すぐに令佐が同じ束を繰った。
「前日の記録と重なっておりますな。こちらを書き損じたのでしょう」
「残しておいてくれ」
鄭仁は訂正された字を指先で追った。
雑だ。
だが、隠した跡には見えない。
むしろ訂正したことまで、そのまま残っている。
(……ちゃんと間違えるんだな)
少し可笑しかった。
当たり前なのだ。
人が書いている。
人が数えている。
昨日と今日を取り違える者もいれば、足し算を誤る者もいる。墨を落とすことだってある。
咸陽へ届いた副本には、こういう傷がなかった。
鄭仁は手元の簡と、持参した副本を見比べた。
違う。
数字が、ではない。
顔が違う。
こちらには人間が触った跡がある。
ならば、その間に何かがある。
原簿が集められ、照らし合わされ、誤りが除かれ、中央へ送る形へ整えられる。
そこまでは当然だ。
問題は、その過程で何が消え、何が残るのか。
鄭仁は副本を閉じた。
まだ疑うところではない。
「次は転運を見よう」
書記二人が別の箱へ移った。
紐が解かれ、札が読み上げられる。
今度は物の流れだった。
巴では陸路だけを見ても足りない。
江を下る舟がある。支流から荷が集まる。津で陸へ上げられ、車へ積み替えられるものもあれば、そのまま水路を下るものもある。
咸陽の副本なら、一行で済む。
巴では違った。
荷が一度動くたびに、別の場所へ痕跡が残る。
「……地図で見るより面倒だな」
思わず漏れた。
令佐は簡から目を離さない。
「巴まで来て、ようやくお気づきで?」
鄭仁は顔を上げた。
令佐は平然と次の簡を読んでいる。
「知ってたなら咸陽で言えよ」
「申し上げても、お越しになったでしょう」
「まあな」
そこで話は終わった。
黒玄が戸口から一度だけこちらを見たが、すぐ廊へ視線を戻した。
書記二人が次の束を解く。
そのうち一人の手が止まった。
「鄭郎」
「ん?」
「丹砂に関わる記録がございます。産出、人夫、搬出で分けられております」
鄭仁は手元の転運記録を読み終えてから顔を上げた。
「そこへ置いてくれ。先にこっちを終わらせる」
「承知しました」
丹砂の束が案の端へ積まれる。
鄭仁はすぐには触らなかった。
一つを見始めて途中で別へ飛べば、どこまで確かめたのか分からなくなる。
最後の転運記録を令佐と照らし終え、それを元の位置へ戻してから、ようやく丹砂の束を引き寄せた。
産出。
人夫。
搬入。
搬出。
今度は一つの場所を年ごとに追った。
ある丹穴では産出が増えている。
翌年には落ちた。
人夫も減っている。
その一方で、別の場所では人夫が増え、産出も伸びていた。
鄭仁の指が止まる。
「令佐。これ」
一本を渡し、自分は翌年の束を探した。
令佐が数字を追う。
「前年より落ちていますな」
「次」
鄭仁が見つけた一本を横へ置く。
「戻っております」
「人夫は?」
令佐が別の簡へ手を伸ばした。
「増えている」
鄭仁は三本を並べた。
別の丹穴も追う。
こちらは逆だった。
前年まで採れていたものが落ち、その頃から別の場所が増えている。
「不自然ですか?」
令佐が尋ねた。
「いや」
鄭仁は首を振った。
「逆だ」
一本を指で押した。
「こっちの方が自然だろう。山を掘ってるんだ。毎年、同じ場所から同じ量が出る方がおかしい」
水が出ることもある。
掘り進めなくなることもある。
人も替わる。
採れる場所そのものが変わることだってある。
土地は止まっていない。
少なくとも、目の前の記録では。
鄭仁は咸陽から持参した副本を開いた。
原簿の横へ置く。
一つ一つを見れば、かなり動いている。
増え、減り、消え、別の場所が埋める。
ところが最後に郡全体を合わせると、中央へ届いた数字との差は小さい。
鄭仁は副本を見つめた。
咸陽では、巴が動いていないように見えた。
違った。
動いていないのではない。
動いたものを全部足した最後だけを見ていた。
「咸陽から見ると、巴はほとんど動いてなかった」
鄭仁は原簿を指先で押さえた。
「でも、中ではこれだけ動いてる」
令佐が副本へ目を移す。
「最後に均されている、と?」
「いや」
答えてから、鄭仁はもう一度数字を見た。
「……均したとは限らない」
ここは間違えてはいけない。
結果が揃っている。
だから誰かが揃えた。
そう考えた瞬間、調査ではなく物語になる。
「足したら、そうなっただけかもしれない」
令佐は何も言わなかった。
鄭仁も続きを言わない。
まだ意味を与える段階ではない。
そのとき、戸を叩く音がした。
黒玄の視線が先に戸へ向いた。
「どうぞ」
戸が開き、范平が入ってきた。
正堂にいたときと変わらぬ足取りだった。室内へ入ると一礼し、案の上へ広げられた簡牘を見る。
何が開かれているかを確かめたようだった。
「不足しているものはございませんか」
「今のところはない」
鄭仁は答えてから、丹砂の原簿を二本抜いた。
「ちょうどいい。聞きたいことがある」
范平の前へ置く。
「これと、これ」
范平が腰を屈めた。
すぐには答えず、二本を順に読む。
鄭仁はその間、男の顔ではなく手を見ていた。
慌てている様子はない。
数字を追い、年を確かめ、対応する丹穴の名を見る。
見慣れている。
少なくとも、初めて見る種類の記録ではない。
「個々の産出はこれだけ動いている」
鄭仁は副本も横へ置いた。
「だが郡全体では大きく変わらない。こうなるのは珍しくないのか?」
范平は原簿から目を上げた。
「珍しくはございません」
二本を並べ直す。
「一つの丹穴で産出が落ちても、別の場所で増えることがございます。新たに掘られる場所もあれば、採るのをやめる場所もある。すべてが同じように動く年の方が少ないでしょう」
即答ではなかった。
記録を見てから答えた。
鄭仁はそこを覚えておく。
「人夫もかなり動いている」
「はい」
范平の指が人夫の記録へ移った。
「官が使役する者もおります。民の営む丹穴であれば、持ち主が人を集めることもございます。郡府がすべてを動かしているわけではございません」
「民のものも、産出は届けさせる?」
「税に関わりますので」
范平は短く答えた。
筋は通っている。
少なくとも今の説明だけなら、原簿の動きとも矛盾しない。
鄭仁は別の簡を取った。
「じゃあ、こっちだ」
中央へ送った副本を軽く叩く。
「これを作るまでに、誰が見る?」
「各々を扱うところで数を集めます。その後、郡府で改めます」
「お前も?」
「見ます」
范平は頷いた。
「産出は倉へ入った量と照らし、郡外へ出したものは転運の記録とも合わせます」
鄭仁は原簿を一枚ずつずらした。
産出。
搬入。
転運。
なるほど。
今、自分たちがやっていることと似ている。
違うのは目的だけだ。
こちらは食い違いを探している。
范平たちは、食い違いを消すために調べる。
「合わなければ?」
「各々へ戻します」
范平は二本の簡を重ね、ずれた端を指で揃えた。
「数字を直す?」
その指が止まった。
范平が顔を上げる。
「いいえ」
先ほどまでより、声が僅かに硬い。
「合わぬ理由を調べさせます。産出が十、倉へ入ったものが九なら、残る一がどこへ行ったのか。それを明らかにせぬまま、どちらかの数だけを改めることはできません」
鄭仁は黙った。
正しい。
少なくとも、言っていることは。
いや――それだけではない。
五年分の副本が妙に整っていた理由としても、十分に成立する。
各所から上がった数字を照合し、食い違えば戻す。
理由を調べる。
誤りなら直す。
それを繰り返してから中央へ出す。
整って当然ではないか。
(……なら、李斯は何を見た?)
疑いが消えたわけではない。
ただ一つ、「数字が整っている」という事実だけでは、この男を疑う理由にならなくなった。
鄭仁はさらに聞いた。
「見つからなければ?」
今度は范平は迷わなかった。
「そのままでは上げません」
「中央へ?」
「はい」
范平は重ねた簡を案へ戻した。
「誤った数を上げ、後になって郡守に責を負わせるくらいなら、郡内で止めて調べます。それも郡丞の役目にございます」
筆が走った。
書記二人は顔を上げず、今のやり取りを木牘へ残している。
令佐も黙っていた。
鄭仁は范平から目を外し、案の上へ戻した。
整った副本。
乱れの残る原簿。
その間に、この男がいる。
だから怪しい。
――違う。
その間にいるのが、この男の仕事なのだ。
ここを混同すれば、最初から調査を誤る。
「分かった」
鄭仁は簡を元へ戻した。
「明日は倉を見たい」
范平が頷く。
「では、先に各倉へ――」
「知らせなくていい」
范平の口が閉じた。
鄭仁は何でもない顔で、別の束を整えた。
「場所だけ教えてくれ。どこを見るかはこちらで決める」
短い沈黙。
范平は鄭仁を見た。
その視線が一度、令佐へ動く。
すぐに戻った。
「承知いたしました」
理由は聞かなかった。
「所在の分かるものを用意させます」
「頼む」
范平は一礼した。
戸口へ向かう。
黒玄が半歩だけ身をずらし、道を空けた。二人の視線が一瞬だけ合う。
どちらも何も言わない。
戸が閉じた。
范平の足音が廊を遠ざかる。
角を曲がったらしく、それも聞こえなくなった。
それまで令佐は口を開かなかった。
最後の一字を書き終える。
筆を置く。
「どう見ます?」
「今のところ?」
「はい」
鄭仁はすぐには答えなかった。
案の上を見る。
書き損じ。
訂正。
揺れる産出。
増減する人夫。
道と水路に分かれる荷。
そのすべてを拾い、最後に中央へ送る数字へまとめる郡府。
咸陽で副本だけを見ていたときには、見えなかった。
巴は整っていたのではない。
整えてから送っていた。
それは不正の証拠ではない。
行政だ。
「仕事のできる郡丞がいる」
鄭仁は言った。
令佐が待つ。
「今のところ、それだけだ」
「疑いは?」
「あるよ」
鄭仁は一本の簡を持ち上げた。
「でも、疑ってることと、証拠があることは別だ」
簡を元へ戻す。
「今日分かったのは、こいつらがどうやって数字を作ってるか。それだけで十分だ」
令佐は少し考えてから頷いた。
「明日は倉ですか」
「ああ」
「帳簿にある順で?」
「いや」
鄭仁は首を振った。
「先に現物を見る」
令佐の目がわずかに動いた。
「その後で記録と合わせる?」
「そう」
「先に数字を覚えれば、その数字に合うものを探してしまう」
鄭仁は令佐を見た。
「分かってるじゃないか」
「長くお供しておりますので」
「范平みたいなこと言うなよ」
令佐の口元が僅かに緩んだ。
それだけだった。
書記二人が簡牘を元の順へ戻し始める。
一本ずつ確かめ、束ね、紐を掛ける。
鄭仁も手を貸した。
窓から差していた光は、いつの間にか案の端まで退いていた。
今日一日で、事件らしいものは何一つ見つからなかった。
それでいい。
むしろ、見つからなかったことにも意味がある。
咸陽で見たのは、中央へ届いた巴郡だった。
今日見たのは、その数字になる前の巴郡だ。
書き損じる者がいる。
数え直す者がいる。
荷を運ぶ者がいる。
それを照らし合わせ、間違いを戻し、最後に一つの数字へする者がいる。
同じ巴郡でも、見える顔が違う。
鄭仁は最後の簡が箱へ戻るのを待ち、蓋へ手を掛けた。
疑うべきものがあるとすれば。
数字そのものではない。
その数字が、どこを通って中央まで来たのか。
まずは、そこからだった。




