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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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6/10

2つの巴

 巴郡府の門をくぐると、市の喧騒が一段遠くなった。


 荷車の軋みも、商人の呼び声も消えたわけではない。ただ、高い塀と幾重かの房に遮られ、代わりに簡牘を扱う乾いた音や、廊を行き交う吏の足音が近くなる。


 咸陽の官署ほど大きくはない。


 それでも、人の動きは絶えなかった。


 開け放たれた房では書吏が簡牘を仕分け、別の一室では算木を挟んで二人の吏が低い声で数を確かめている。庭を隔てた向こうでは、裾に赤土を付けた男が何事かを訴え、若い吏がその話を木牘へ書き留めていた。


 戸籍、租税、倉、道路、訴訟。


 咸陽から見れば、巴は天下に置かれた一郡にすぎない。だが山中の里で起きた揉め事も、江を下る舟の遅れも、いずれは何らかの形でこの建物へ届く。


(……普通に忙しいな)


 鄭仁は歩調を緩めず、周囲を見た。


 荒れてはいない。妙に静まり返っているわけでもない。


 少なくとも、中央の使者を迎えるためだけに人を並べたようには見えなかった。


 門脇で待っていた年嵩の吏が、一行を認めて進み出る。


「咸陽よりお越しの使者でございますね」


「鄭仁(ていじん)だ」


 差し出した符を、吏は両手で受け取った。刻字と印を確かめ、鄭仁の顔と見比べる。それから斜め後ろの令佐、書記二名、最後に旅装のまま立つ黒玄(こくげん)へ視線を移した。


「確かに。郡守がお待ちです。こちらへ」


 符が戻される。


 先導する吏に従い、鄭仁が廊へ入った。令佐と書記二名が続き、黒玄は自然に最後尾へ回る。護衛四名は郡府の吏に別途案内され、正堂の外へ残った。


 黒玄は何も言わない。


 ただ曲がり角へ差しかかるたびに視線を先へ送り、すれ違う吏や開いた戸の奥へ目を配っている。


 鄭仁はそれを横目で見てから、前へ戻した。


 ここへ来た目的は、罪人を捕らえることではない。


 そもそも、罪があると決まったわけでもなかった。


 李斯が見ていたのは、あまりに整った数字だけだ。


 巴郡へ着くまでの三日間、何度も五年分の副本へ目を通した。戸籍も倉廩も転運も、互いによく符合している。


 合っている。


 だから正しい。


 そう決めるには、あまりに綺麗だった。


 だから確かめに来た。


 数字ではなく、その数字が作られた土地を。


 廊の角で、先導していた吏が足を止めた。


「こちらでございます」


 戸が開く。


 正堂には二人の男が待っていた。


 上座から立ち上がった男は、三十をいくらか越えたほどに見える。郡守の冠を戴き、衣にも乱れはない。若さは残っていたが、目元には薄く疲れが滲んでいた。


「巴郡守、杜衡(とこう)。遠路、ようこそお越しくださいました」


 礼は丁寧だった。


 声にも不自然なところはない。ただ中央から来た使者を前にしているだけの緊張が、僅かに肩へ残っている。


「郎官、鄭仁。しばらく世話になる」


「必要なものがございましたら、何なりとお申し付けください」


 杜衡が傍らへ手を向けた。


「こちらは郡丞の范平(はんぺい)。郡の実務については、長くこの者に助けられております」


 四十をいくらか越えた男が一礼する。


「范平にございます。土地の事情でしたら、多少はお役に立てるかと」


「それはありがたい」


 鄭仁も礼を返した。


 范平には派手なところがなかった。衣も冠も役目相応で、声音も落ち着いている。ただ紹介を受けるまでの短い間に、令佐と書記の人数まで一度に見ていた。


 実務を預かる者なら、それも当然か。


 勧められた席へ腰を下ろす。


 令佐は鄭仁の斜め後ろへ座し、書記二名は壁際に控えた。筆と木牘を取り出す音に、杜衡がそちらを見る。


「記録を取られるので?」


「取る。私も後で言ったことを忘れるからな」


 杜衡が一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。


「では私も、余計なことは申さぬよう気をつけましょう」


「それは困る。余計な話ほど後で役に立つことがある」


「これは難しい」


 先ほどまでの硬さが、少しだけ薄れた。


 湯が運ばれてくる。


 鄭仁はすぐには口をつけず、杜衡へ向き直った。


「まず確認しておきたい。私が来る理由について、どこまで聞いている?」


「郡内の転運と諸記録を改めるため、中央より使者が来るとだけ。特に何を調べるかまでは聞いておりません」


「それでいい」


 鄭仁は器を手に取った。


 杜衡の答えは、咸陽から出した表向きの命と一致している。


 李斯は重点を知らせていない。


「五年ほど遡って、郡の記録を見たい。戸籍、倉廩、転運、それから主要な産物だ。塩、木材、丹砂。最初から細部へ入るつもりはない。まず全体を見て、必要なところをこちらで選ぶ」


 杜衡は少し考えた。


「五年となりますと、かなりの量になります」


「分かっている。今日中に読むわけじゃない」


「でしたら、別室を一つ空けさせましょう。正堂へ運び込めば、こちらの政務まで止まりかねません」


「その方が助かる」


 杜衡が范平を見る。


「用意できるか」


「部屋はすぐに。簿書はそれぞれ保管が分かれておりますので、必要なものから運ばせます」


 范平は迷わず答えた。


 鄭仁は湯を一口含む。


 特に引っかかるところはない。


 むしろ、そうでなくては困る。


「原簿も見たい」


 そこで范平が確認するように顔を上げた。


「中央へ送った報告の副本ではなく?」


「両方だ。副本と原簿を並べたい。まとめ直す必要はない。そのまま持ってきてくれればいい」


「承知いたしました。保管場所の異なるものもございますので、少々お時間を頂きます」


「急がなくていい。誰が、どこから出したものか分かるようにしてくれ」


 今度は杜衡が鄭仁を見た。


「随分と厳密に扱われるのですね」


「後で数が合わなかったとき、記録そのものの問題なのか、こちらが取り違えたのか分からなくなるのが一番困る」


 鄭仁は器を置いた。


「違いがなければ、それで終わる話だ」


 杜衡はゆっくり頷いた。


「ごもっともです」


 范平も一礼し、戸口の吏へ短く指示を出した。吏は必要な項目を木牘へ書き留めると、足早に廊へ消えていく。


 鄭仁はその間に話題を変えた。


「記録が来るまで、巴の現況を聞かせてくれ。記録の上の巴なら、咸陽で散々見た」


「どこからお話ししましょう」


「困っていることからでいい」


 杜衡は苦笑した。


「それでしたら、日が暮れます」


「五年分の簿書よりは短いだろう」


「では、まず道からですな」


 杜衡はそう言って、卓上へ指を置いた。


「統一後、咸陽や蜀との往来は増えました。道を整えれば商人が増え、商人が増えれば税も入る。そこまではよろしいのですが、荷車が増えれば道は傷みますし、人夫も要ります。昨年は雨で南の道が二度崩れました」


「江運は?」


「以前より使っております。山道より速いところもございますが、水が増えれば今度は舟が止まる。巴では、陸だけ見ていても政はできません」


 杜衡が話し始めると、先ほどまでより言葉が滑らかになった。


 自分の仕事だからだろう。


 戸籍の増減、山へ移る民、商人の往来、倉の修繕。


 范平は必要なところだけ補った。


「昨年では?」


 杜衡が話を止める。


「一昨年にございます。昨年は東の道でした」


「ああ、そうだった」


 杜衡は額を押さえた。


「この者は私より巴を覚えております」


「長くいるだけにございます」


 范平は相変わらず淡々としている。


 鄭仁は器を傾けながら二人を見た。


 杜衡が范平を頼る理由は分かる。


 若い郡守と、土地の事情に通じた郡丞。


 今のところ、それ以上でも以下でもない。


 やがて廊の向こうから、複数の足音が近づいてきた。


 范平が戸口へ目を向ける。


「簿書の用意が始まったようです」


「なら、そちらへ行こう」


 鄭仁が立ち上がると、令佐と書記二名も筆を収めた。


 黒玄は戸口から身を離し、先に廊へ視線を送る。


 杜衡も席を立ったが、正堂の外へ出たところで足を止めた。


「私はここで失礼いたします。まだ決裁が残っておりますので」


「こちらこそ邪魔をした」


「とんでもございません。范平、部屋まで案内を」


「承知しました」


 范平に従い、鄭仁たちは庭を挟んだ東廊へ向かった。


 途中、二人の吏が簿書を収めた箱を運んですれ違う。


 さらに奥から、簡牘の束を胸に抱えた若い書吏が現れた。


 調査のためだけに郡府が止まっているわけではない。


 彼らが古い記録を運んでいる間にも、別の場所では今日の戸籍が書かれ、今日の荷が記され、今日の訴えが裁かれている。


 それが当たり前なのだ。


 范平が一つの戸の前で止まった。


「こちらをお使いください」


 戸が開く。


 中央には大きな案が三つあり、壁際には空いた架が並んでいた。床には先に運ばれた箱がいくつか置かれている。


「残りも順次運ばせます。保管を預かる吏には、原簿をまとめ直さず、そのまま出すよう申し付けております」


「助かる」


「何か不足がございましたら、近くの吏へお命じください」


 范平は一礼した。


 鄭仁は戸口まで見送る。


「范平」


 男が振り返った。


「はい」


「ありがとう。もう仕事へ戻ってくれ」


「では、失礼いたします」


 范平の足音が廊を遠ざかっていく。


 鄭仁はその音が消えるまで待たなかった。


 床に置かれた箱へ視線を落とす。


 咸陽で見たのは、巴郡から送られてきた答えだった。


 ここにあるのは、その答えになる前の記録だ。


「さて」


 鄭仁は袖を軽くまくった。


「始めよう」


 鄭仁は最も近い箱の前へしゃがみ、結ばれた木札を裏返した。


「封は?」


 令佐が箱の縁へ手を掛け、結び目と封の跡を順に確かめた。


「残っているものと、すでに改められたものがございます」


「なら、出所を控えてくれ。封が残っているものは、それも。中を改めたら簡の数を取る。順番は崩さないように」


 書記二人が応じた。


 一人が木箱の札を読み上げ、もう一人が木牘へ記す。箱が開けば役目を替え、取り出された簡牘を受け取って、束ごとに案の上へ置いていく。


 黒玄は壁際に立ったまま、何も言わない。


 ただ、書記が箱を動かすたびに一度だけ視線を送り、また戸口へ戻す。廊を誰かが通れば、その足音が遠ざかるまで目だけが動いた。


 鄭仁は一つ目の箱を開けた。


 乾いた竹と、古い墨の匂いが立つ。


 中には年ごとに束ねられた簡牘が隙間なく収められていた。令佐が一本を抜き、付された札を確かめてから鄭仁へ渡す。


「倉の記録です」


「まず、それから見よう」


 二人は案を挟んで腰を下ろした。


 それからしばらく、室内から会話が消えた。


 紐が解かれる。


 竹が触れ合う。


 筆先が木牘を擦る。


 鄭仁が読み終えた簡を置けば、令佐が別の束から対応する記録を探す。見つかれば書記へ渡し、書記は出所を控えてから案へ並べる。


 巴郡の倉へ入った穀物。


 そこから出された穀物。


 残った量。


 徴発された人夫。


 使われた車。


 江へ回された荷。


 鄭仁は一つの数字だけを追わなかった。


 倉から物が出れば、どこかへ着く。


 車を使えば、それを動かした人間がいる。舟へ積めば津を通る。荷を移せば、受け取った者がいる。


 記録の上では別々の簡に分かれていても、現実には同じ一つの荷が通った跡だ。


 数字そのものより、その前後を見る。


 咸陽で副本を読んでいたときには、それができなかった。


 令佐が二本の簡を案の中央へ滑らせた。


「こちらを」


 鄭仁は一方を取り上げた。


 倉から出された日と量。


 もう一方には、その荷を受けた日と量。


 同じだった。


「問題ないな」


「こちらもです」


 今度は四本。


 鄭仁は順に追った。


 合っている。


 次も。


 その次も、大きな食い違いはない。


 並んだ簡を見ているうちに、咸陽で感じたものが頭をもたげた。


 ――整いすぎている。


 だが鄭仁は、そこで一本を元の束へ戻した。


「合っているなら、それでいい」


 令佐の手が止まった。


「咸陽では、合いすぎることを気にしておられましたが」


「ああ」


 鄭仁は次の束へ手を伸ばした。


「だから来た」


 紐を解く。


「だが、ここでも『合っているから怪しい』で始めたら、何を見ても怪しくなる」


 令佐は鄭仁を見た。


「疑いを捨てると?」


「逆だよ」


 鄭仁は一本を抜いた。


「疑うために、決めつけない」


 一瞬、令佐の目が細くなる。


 それから何も言わず、自分の束へ戻った。


 読み進めるうちに、今度は別のものが見え始めた。


 書き損じ。


 日付を削って改めた跡。


 後から添えられた数量。


 墨の滲み。


 同じ人名に、異なる字を当てた簡まである。


 書記の一人が一本を持ち上げた。


「こちら、日が改められております」


「前後は?」


 すぐに令佐が同じ束を繰った。


「前日の記録と重なっておりますな。こちらを書き損じたのでしょう」


「残しておいてくれ」


 鄭仁は訂正された字を指先で追った。


 雑だ。


 だが、隠した跡には見えない。


 むしろ訂正したことまで、そのまま残っている。


(……ちゃんと間違えるんだな)


 少し可笑しかった。


 当たり前なのだ。


 人が書いている。


 人が数えている。


 昨日と今日を取り違える者もいれば、足し算を誤る者もいる。墨を落とすことだってある。


 咸陽へ届いた副本には、こういう傷がなかった。


 鄭仁は手元の簡と、持参した副本を見比べた。


 違う。


 数字が、ではない。


 顔が違う。


 こちらには人間が触った跡がある。


 ならば、その間に何かがある。


 原簿が集められ、照らし合わされ、誤りが除かれ、中央へ送る形へ整えられる。


 そこまでは当然だ。


 問題は、その過程で何が消え、何が残るのか。


 鄭仁は副本を閉じた。


 まだ疑うところではない。


「次は転運を見よう」


 書記二人が別の箱へ移った。


 紐が解かれ、札が読み上げられる。


 今度は物の流れだった。


 巴では陸路だけを見ても足りない。


 江を下る舟がある。支流から荷が集まる。津で陸へ上げられ、車へ積み替えられるものもあれば、そのまま水路を下るものもある。


 咸陽の副本なら、一行で済む。


 巴では違った。


 荷が一度動くたびに、別の場所へ痕跡が残る。


「……地図で見るより面倒だな」


 思わず漏れた。


 令佐は簡から目を離さない。


「巴まで来て、ようやくお気づきで?」


 鄭仁は顔を上げた。


 令佐は平然と次の簡を読んでいる。


「知ってたなら咸陽で言えよ」


「申し上げても、お越しになったでしょう」


「まあな」


 そこで話は終わった。


 黒玄が戸口から一度だけこちらを見たが、すぐ廊へ視線を戻した。


 書記二人が次の束を解く。


 そのうち一人の手が止まった。


「鄭郎」


「ん?」


「丹砂に関わる記録がございます。産出、人夫、搬出で分けられております」


 鄭仁は手元の転運記録を読み終えてから顔を上げた。


「そこへ置いてくれ。先にこっちを終わらせる」


「承知しました」


 丹砂の束が案の端へ積まれる。


 鄭仁はすぐには触らなかった。


 一つを見始めて途中で別へ飛べば、どこまで確かめたのか分からなくなる。


 最後の転運記録を令佐と照らし終え、それを元の位置へ戻してから、ようやく丹砂の束を引き寄せた。


 産出。


 人夫。


 搬入。


 搬出。


 今度は一つの場所を年ごとに追った。


 ある丹穴では産出が増えている。


 翌年には落ちた。


 人夫も減っている。


 その一方で、別の場所では人夫が増え、産出も伸びていた。


 鄭仁の指が止まる。


「令佐。これ」


 一本を渡し、自分は翌年の束を探した。


 令佐が数字を追う。


「前年より落ちていますな」


「次」


 鄭仁が見つけた一本を横へ置く。


「戻っております」


「人夫は?」


 令佐が別の簡へ手を伸ばした。


「増えている」


 鄭仁は三本を並べた。


 別の丹穴も追う。


 こちらは逆だった。


 前年まで採れていたものが落ち、その頃から別の場所が増えている。


「不自然ですか?」


 令佐が尋ねた。


「いや」


 鄭仁は首を振った。


「逆だ」


 一本を指で押した。


「こっちの方が自然だろう。山を掘ってるんだ。毎年、同じ場所から同じ量が出る方がおかしい」


 水が出ることもある。


 掘り進めなくなることもある。


 人も替わる。


 採れる場所そのものが変わることだってある。


 土地は止まっていない。


 少なくとも、目の前の記録では。


 鄭仁は咸陽から持参した副本を開いた。


 原簿の横へ置く。


 一つ一つを見れば、かなり動いている。


 増え、減り、消え、別の場所が埋める。


 ところが最後に郡全体を合わせると、中央へ届いた数字との差は小さい。


 鄭仁は副本を見つめた。


 咸陽では、巴が動いていないように見えた。


 違った。


 動いていないのではない。


 動いたものを全部足した最後だけを見ていた。


「咸陽から見ると、巴はほとんど動いてなかった」


 鄭仁は原簿を指先で押さえた。


「でも、中ではこれだけ動いてる」


 令佐が副本へ目を移す。


「最後に均されている、と?」


「いや」


 答えてから、鄭仁はもう一度数字を見た。


「……均したとは限らない」


 ここは間違えてはいけない。


 結果が揃っている。


 だから誰かが揃えた。


 そう考えた瞬間、調査ではなく物語になる。


「足したら、そうなっただけかもしれない」


 令佐は何も言わなかった。


 鄭仁も続きを言わない。


 まだ意味を与える段階ではない。


 そのとき、戸を叩く音がした。


 黒玄の視線が先に戸へ向いた。


「どうぞ」


 戸が開き、范平が入ってきた。


 正堂にいたときと変わらぬ足取りだった。室内へ入ると一礼し、案の上へ広げられた簡牘を見る。


 何が開かれているかを確かめたようだった。


「不足しているものはございませんか」


「今のところはない」


 鄭仁は答えてから、丹砂の原簿を二本抜いた。


「ちょうどいい。聞きたいことがある」


 范平の前へ置く。


「これと、これ」


 范平が腰を屈めた。


 すぐには答えず、二本を順に読む。


 鄭仁はその間、男の顔ではなく手を見ていた。


 慌てている様子はない。


 数字を追い、年を確かめ、対応する丹穴の名を見る。


 見慣れている。


 少なくとも、初めて見る種類の記録ではない。


「個々の産出はこれだけ動いている」


 鄭仁は副本も横へ置いた。


「だが郡全体では大きく変わらない。こうなるのは珍しくないのか?」


 范平は原簿から目を上げた。


「珍しくはございません」


 二本を並べ直す。


「一つの丹穴で産出が落ちても、別の場所で増えることがございます。新たに掘られる場所もあれば、採るのをやめる場所もある。すべてが同じように動く年の方が少ないでしょう」


 即答ではなかった。


 記録を見てから答えた。


 鄭仁はそこを覚えておく。


「人夫もかなり動いている」


「はい」


 范平の指が人夫の記録へ移った。


「官が使役する者もおります。民の営む丹穴であれば、持ち主が人を集めることもございます。郡府がすべてを動かしているわけではございません」


「民のものも、産出は届けさせる?」


「税に関わりますので」


 范平は短く答えた。


 筋は通っている。


 少なくとも今の説明だけなら、原簿の動きとも矛盾しない。


 鄭仁は別の簡を取った。


「じゃあ、こっちだ」


 中央へ送った副本を軽く叩く。


「これを作るまでに、誰が見る?」


「各々を扱うところで数を集めます。その後、郡府で改めます」


「お前も?」


「見ます」


 范平は頷いた。


「産出は倉へ入った量と照らし、郡外へ出したものは転運の記録とも合わせます」


 鄭仁は原簿を一枚ずつずらした。


 産出。


 搬入。


 転運。


 なるほど。


 今、自分たちがやっていることと似ている。


 違うのは目的だけだ。


 こちらは食い違いを探している。


 范平たちは、食い違いを消すために調べる。


「合わなければ?」


「各々へ戻します」


 范平は二本の簡を重ね、ずれた端を指で揃えた。


「数字を直す?」


 その指が止まった。


 范平が顔を上げる。


「いいえ」


 先ほどまでより、声が僅かに硬い。


「合わぬ理由を調べさせます。産出が十、倉へ入ったものが九なら、残る一がどこへ行ったのか。それを明らかにせぬまま、どちらかの数だけを改めることはできません」


 鄭仁は黙った。


 正しい。


 少なくとも、言っていることは。


 いや――それだけではない。


 五年分の副本が妙に整っていた理由としても、十分に成立する。


 各所から上がった数字を照合し、食い違えば戻す。


 理由を調べる。


 誤りなら直す。


 それを繰り返してから中央へ出す。


 整って当然ではないか。


(……なら、李斯は何を見た?)


 疑いが消えたわけではない。


 ただ一つ、「数字が整っている」という事実だけでは、この男を疑う理由にならなくなった。


 鄭仁はさらに聞いた。


「見つからなければ?」


 今度は范平は迷わなかった。


「そのままでは上げません」


「中央へ?」


「はい」


 范平は重ねた簡を案へ戻した。


「誤った数を上げ、後になって郡守に責を負わせるくらいなら、郡内で止めて調べます。それも郡丞の役目にございます」


 筆が走った。


 書記二人は顔を上げず、今のやり取りを木牘へ残している。


 令佐も黙っていた。


 鄭仁は范平から目を外し、案の上へ戻した。


 整った副本。


 乱れの残る原簿。


 その間に、この男がいる。


 だから怪しい。


 ――違う。


 その間にいるのが、この男の仕事なのだ。


 ここを混同すれば、最初から調査を誤る。


「分かった」


 鄭仁は簡を元へ戻した。


「明日は倉を見たい」


 范平が頷く。


「では、先に各倉へ――」


「知らせなくていい」


 范平の口が閉じた。


 鄭仁は何でもない顔で、別の束を整えた。


「場所だけ教えてくれ。どこを見るかはこちらで決める」


 短い沈黙。


 范平は鄭仁を見た。


 その視線が一度、令佐へ動く。


 すぐに戻った。


「承知いたしました」


 理由は聞かなかった。


「所在の分かるものを用意させます」


「頼む」


 范平は一礼した。


 戸口へ向かう。


 黒玄が半歩だけ身をずらし、道を空けた。二人の視線が一瞬だけ合う。


 どちらも何も言わない。


 戸が閉じた。


 范平の足音が廊を遠ざかる。


 角を曲がったらしく、それも聞こえなくなった。


 それまで令佐は口を開かなかった。


 最後の一字を書き終える。


 筆を置く。


「どう見ます?」


「今のところ?」


「はい」


 鄭仁はすぐには答えなかった。


 案の上を見る。


 書き損じ。


 訂正。


 揺れる産出。


 増減する人夫。


 道と水路に分かれる荷。


 そのすべてを拾い、最後に中央へ送る数字へまとめる郡府。


 咸陽で副本だけを見ていたときには、見えなかった。


 巴は整っていたのではない。


 整えてから送っていた。


 それは不正の証拠ではない。


 行政だ。


「仕事のできる郡丞がいる」


 鄭仁は言った。


 令佐が待つ。


「今のところ、それだけだ」


「疑いは?」


「あるよ」


 鄭仁は一本の簡を持ち上げた。


「でも、疑ってることと、証拠があることは別だ」


 簡を元へ戻す。


「今日分かったのは、こいつらがどうやって数字を作ってるか。それだけで十分だ」


 令佐は少し考えてから頷いた。


「明日は倉ですか」


「ああ」


「帳簿にある順で?」


「いや」


 鄭仁は首を振った。


「先に現物を見る」


 令佐の目がわずかに動いた。


「その後で記録と合わせる?」


「そう」


「先に数字を覚えれば、その数字に合うものを探してしまう」


 鄭仁は令佐を見た。


「分かってるじゃないか」


「長くお供しておりますので」


「范平みたいなこと言うなよ」


 令佐の口元が僅かに緩んだ。


 それだけだった。


 書記二人が簡牘を元の順へ戻し始める。


 一本ずつ確かめ、束ね、紐を掛ける。


 鄭仁も手を貸した。


 窓から差していた光は、いつの間にか案の端まで退いていた。


 今日一日で、事件らしいものは何一つ見つからなかった。


 それでいい。


 むしろ、見つからなかったことにも意味がある。


 咸陽で見たのは、中央へ届いた巴郡だった。


 今日見たのは、その数字になる前の巴郡だ。


 書き損じる者がいる。


 数え直す者がいる。


 荷を運ぶ者がいる。


 それを照らし合わせ、間違いを戻し、最後に一つの数字へする者がいる。


 同じ巴郡でも、見える顔が違う。


 鄭仁は最後の簡が箱へ戻るのを待ち、蓋へ手を掛けた。


 疑うべきものがあるとすれば。


 数字そのものではない。


 その数字が、どこを通って中央まで来たのか。


 まずは、そこからだった。

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