春風、還らず
咸陽を発った朝、空は高く晴れていた。
南へ向かう十三名が、まだ朝靄の残る城門を抜けていく。 先頭には令佐が一騎。 門を出るなり馬を止め、懐から木牘を取り出した。
「本日は杜県まで参ります。日暮れ前には着けましょう」 木牘へ目を落とし、続ける。
「そこから南へ折れます。秦嶺へ入れば、この人数では歩みが落ちますので、宿は先に押さえてあります」 黒玄が馬上からその背を見る。
「随分と先まで決めているな」
「道中で十三人の寝床を探す方がお好みなら、取り消しますが」
「いや。任せる」 令佐は何事もなかったように木牘を懐へ戻した。 その後ろに鄭仁と黒玄。 さらに二人の書吏が文箱を載せた馬を進め、黒玄を除く四人の護衛が前後へ散る。最後尾では四人の従者が荷車と替え馬を見ながら城門を抜けていった。
丞相府の命を帯びた一行は、帝都から南へ延びる道を取った。 関中の平野を進み、やがて秦嶺へ入る。 広かった空は峰々に狭められ、道は山腹へ沿って折れながら高度を上げていった。峠を越えれば漢中へ下り、そこからさらに南へ。山と山の間を縫う道をたどり、一行は幾日もかけて巴を目指した。
旅の間に、季節は少しずつ深まっていった。
咸陽を出たころにはまだ朝夕に残っていた冷気も、南へ進むほどに和らいでゆく。山の緑は濃くなり、谷を流れる水には陽光が長く留まるようになった。
そしてある日。
道が、峰の肩へ出た。
それまで視界を塞いでいた木々が途切れた。
一行の前に、天地が開いた。
山々が連なっている。
一つではない。
近くの峰は深い緑をまとい、その向こうには青みを帯びた山稜が重なり、さらに遠くでは霞の中へ輪郭を失っていた。幾重にも折り重なる峰々は果てを見せず、天と地との境さえ曖昧にしている。
その懐を、大河が流れていた。
遥かな谷底。
銀の光が山間を縫い、姿を隠しては、また遠くに現れる。
大地に横たわる蛇のようだった。
陽を受けた水面が一瞬だけ白く輝く。
すぐに山影へ呑まれる。
また別の谷で光る。
風が吹き上げた。
長い道の土をまとった衣が鳴り、馬の鬣がなびいた。谷から昇った湿り気が頬を撫で、どこか遠くから水の轟きが届く。
誰も、すぐには口を開かなかった。
人も馬も荷車も、その景色の前ではひどく小さい。
黒玄が馬上で目を細めた。
「……でかいな」
「ああ」
鄭仁も、それだけ答えた。
言葉を足せば、かえって小さくなるような気がした。
視線を巡らせる。
峰。
谷。
水。
霧。
そのすべてが、互いを押し退けることなく一つの天地を形作っている。
だが、よく見れば自然だけではなかった。
遥かな斜面に、細い煙が一本昇っている。
さらに目を凝らせば、山肌を横切る細道があった。
あれも人の道なのだろう。
この巨大な山河の中にも、人は入り込み、住み、耕し、道を繋いでいる。
鄭仁はしばらくその煙を見ていた。
咸陽では、人が天地の形を変えていた。
城壁を築き、道を通し、宮殿を並べ、法によって天下を一つに束ねようとしている。
ここでは逆だった。
人の方が、山河の形に沿って生きている。
どちらが正しいということではない。
ただ、同じ秦の版図にありながら、これほど違う。
あの山の向こうに村があり、この川の先に人が住み、その暮らしの上に一行一行の数字が置かれている。
紙――ではない。
竹簡の数字の向こうにあるものが、ようやく形を持ち始めていた。
鄭仁は手綱を握り直した。
「参りましょう」
馬首が南へ向いた。
一頭が進み、また一頭が続く。
荷車の車輪もゆっくりと回り始めた。
一行の姿は山道へ入り、ほどなく深い緑の中へ呑まれていった。
背後ではなお、幾重もの峰が空を支え、大河が谷の底を蛇のように巡っている。
その山河を越えた先に、人の声があった。
一行が巴へ入った。
山あいを縫ってきた道は、いつしか人家の間へ入り込んでいた。
「この先から街になります」
令佐が馬上で振り返った。
谷を渡っていた風はまだ背にあった。だが、長く旅の供をしてきた水音や葉擦れに、いつからか別の音が混じっている。
人の声だった。
遠くで誰かが名を呼び、それに応える声がある。木を打つ乾いた音が続き、軒下からは器の触れ合う音がした。開け放たれた戸口から煮炊きの湯気が流れ、魚と香草、湿った木の匂いが馬上まで届く。
山河の静けさは、いつの間にか人の営みに置き換わっていた。
鄭仁は手綱を緩め、道の先へ目をやった。
咸陽とは違う。
都では城門が人を呑み、官道がその流れを分ける。車も荷も人も、巨大な秩序の中を絶えず行き交っていた。
ここには、その整然さがない。
家は道へ寄り、店は軒を開き、暮らしと商いが互いの境を気にすることなく続いている。
狭い。
騒がしい。
だが、不思議と息苦しくはなかった。
そのとき、頭上を淡い色が掠めた。
鄭仁が顔を上げる。
藤だった。
古びた軒から伸びた蔓が木組みに絡み、幾筋もの花房を道へ垂らしている。風が渡るたび、淡紫の房が一斉に揺れ、木漏れ日を細かく砕いた。
「見事だな」
令佐も見上げた。
「ちょうど季節ですからね。この辺りでは――」
「鄭仁」
後ろから黒玄の声が飛んだ。
「上ばかり見ていると落ちるぞ」
鄭仁は藤を見たまま答えた。
「見ているだけだ」
「落ちる奴は皆そう言う」
従者の一人が堪えきれず吹き出した。
「黒玄殿、それでは落ちたことがある者の言い方です」
黒玄の目だけが、ゆっくりとそちらへ動く。
従者はすぐに前を向いた。
一拍遅れて、周囲から笑いが漏れた。
鄭仁も口元を緩める。
藤の花房が、その頭上を静かに流れていった。
一行は、そのまま街の奥へ進んだ。
藤の下を抜けると、街はいよいよその懐を開いた。
杖をついた老人が道端で足を止め、一行を眺める。籠いっぱいの青菜を抱えた女は馬を避けながらも、隣の女との話をやめない。店先では日に焼けた男が客と値を争い、その足元を子供が笑いながら駆け抜けていった。
「こら、走るな!」
どこからか女の声が飛ぶ。
子供は振り返りもしない。
そのまま鄭仁の馬の前へ飛び出した。
馬が鼻を鳴らす。
鄭仁は手綱を軽く引いた。
「おっと」
子供はようやく足を止め、馬を見上げた。
鄭仁を見る。
もう一度、馬を見る。
そして何事もなかったように走り去った。
「謝りもしないのか」
黒玄が呆れたように言う。
「元気でいいじゃないか」
「轢いたら、お前がそう説明するんだぞ」
「それは困るな」
また小さく笑いが起こった。
馬が歩き出す。
その脇では商人が客から銭を受け取り、舟着き場から上がった荷が次々と軒先へ運び込まれていた。魚を満載した籠がすれ違えば水の匂いが立ち、別の店先では束ねた薬草が青臭い香りを放つ。
山の向こうにあった巴は、ここでは人の手で動いていた。
鄭仁はその中を進む。
見慣れぬ品がある。
聞き慣れぬ訛りがある。
それでも、値を問う声があり、負けろと笑う声があり、売れた品を包む手がある。
咸陽とは違う。
だが、人の暮らしというものは、案外どこへ行っても似た顔をするらしい。
「鄭仁殿」
先を行く令佐が振り返った。
人波の向こうへ片手を上げる。
「もうすぐ郡府です」
そして、前方を指した。
鄭仁はその指先を追った。
家々の屋根が重なる、その向こう。
周囲よりひときわ大きな甍が見えた。
「あれが――」
その時だった。
令佐の指先、その向こうを――淡い紫が横切った。
鄭仁の目が止まる。
藤ではない。
人だった。
土埃に褪せた麻衣。日に灼けた木壁。轍に残る泥。人と荷と声の入り乱れる街のただ中を、その紫だけが静かに流れてゆく。
塵中に落ちた一朶の紫雲。
それは花とも、霞ともつかなかった。
風を受ければ淡くほどけ、陽を浴びれば紫の底に微かな光を宿す。歩みにつれて衣の襞は寄せては返し、まるで暮れゆく山の端を、雲が静かに渡ってゆくようだった。
人波がその前を過ぎるたび、姿は隠れる。
けれど次の瞬間には、また紫が現れる。
消えては浮かび、浮かんでは遠ざかる。
掴もうとすれば形を失う雲のように。
されど、目を離せば二度とは巡り逢えぬもののように。
風がひとたび街を渡った。
紫の袖が翻る。
その一瞬――
天にあるべき紫雲が、人の世を歩いているように見えた。
やがて雲より、人の貌が現れた。
山霞を眉に宿し、眸には秋水の澄明があった。
黒髪は夜を束ねたように艶やかで、風に解けた一筋が白い頬を掠める。女はそれを指先で払い、何事もなかったように歩みを続けた。
唇には、咲く前の桃花がひそかに紅を置いている。
珠玉に頼る華やかさではない。
立てば静かに景色へ馴染み、歩けばその景色の方が後を追う。
鄭仁は、先ほど見上げた藤を思い出した。
あれほど見事だと思った淡紫が、今はひどく遠い。
商人の声は絶えず、櫂は水を打ち、藤は風に揺れている。
何ひとつ止まってはいない。
それなのに、その一瞬だけ――
山も、川も、花も、人の営みさえも。
巴の天地から借りてきたあらゆる美が、一人の女へ集まっていた。
女が足を緩めた。
こちらを見た――ように思えた。
だが、その眼差しは令佐の伸ばした手へ向いている。
自分を指されたと思ったのかもしれない。
やがて視線が指先を辿り、
鄭仁と重なった。
一瞬。
秋水が、こちらを見る。
言葉はない。
女はわずかに目を細めると、再び歩き始めた。
鄭仁は、その背を追った。
何かを見落としたような気がした。
顔ではない。
衣でもない。
では何を見たのかと問われても、答えられない。
ただ、もう一度だけ振り返れば分かるような気がして――
女は振り返らなかった。
人影がその姿を隠す。
やがて肩が消え、袖が消え――
最後に一朶の紫だけが、雑踏の彼方にほどけていっ
た。
鄭仁の視線は、しばらくそこに残っていた。
人波が行き交う。
紫の消えた場所を、荷を担いだ男が横切った。
「鄭仁」
黒玄の声がした。
返事はない。
馬が一頭、隣へ並ぶ。
「鄭仁」
「……聞こえている」
「そうか」
黒玄はそれ以上言わなかった。
ただ一度、鄭仁の視線の先を見る。
そこにはもう、人波しかない。
しばらくして、鄭仁が手綱を握り直した。
「郡府だったな」
「ああ」
鄭仁の馬が歩き出した。
黒玄も並ぶ。
数歩進んだところで、黒玄が何気なく口を開いた。
「藤より見事だったか」
鄭仁の手が、わずかに止まった。
黒玄は前を見ている。
「……何の話だ」
「さあな」
その口元だけが、わずかに緩んだ。
鄭仁は何も返さなかった。
やがて後ろの馬蹄と荷車の音が追いつき、二騎の前後へ人が戻ってくる。
一行は再び隊列を整え、そのまま郡府へ向かった。
山開巴國水連天
市入春聲藤帶煙
紫袖偶從花外過
春風不肯逐花還
山々が開け、巴の地が現れた。
大河は遥か、天へと続いている。
街には春の声が満ち、藤は霞をまとって咲く。
その花の向こうを、紫の袖がふと通り過ぎた。
――春風はもう、花のもとへ帰ろうとはしなかった。




