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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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10/10

道は嘘をつかない

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 北路は、巴城を離れるほど山へ食い込んでいった。


 初めのうちは荷車二台が並べるほどあった道も、谷へ入る頃には狭まり、片側には岩壁が迫り、もう片側は木々の向こうへ深く落ちている。昨夜までの雨を含んだ土は柔らかく、踏むたびに草と泥の匂いが立ち、岩肌から染み出した水が道の端を細く流れていた。


 鄭仁は足元を確かめながら、その道を奥へ進んでいた。


 三年前、清の家を出た丹砂は北路を通って倉へ運ばれたことになっているが、郡府に残る別の記録によれば、その同じ日にこの道は崩落によって閉じられている。二つの記録はどうやっても同時には成り立たない。


 もっとも、それだけで輸送記録そのものが偽りだとは思っていなかった。


 三年前は、まだ楚との戦が続いていた。人夫も牛車も軍の都合で動き、長雨が道を崩せば輸送路も変わる。郎として郡県を巡っていれば、記録と現実が綺麗に重ならないことくらい珍しくなく、まして戦と災害が重なった年なら、書き漏らしや後日の訂正があっても不思議ではない。


 ただし、記録に誤りがあるなら、その誤り方には理由がある。


 単なる書き違いなのか。別路へ回した荷を後から北路へ付け替えたのか。それとも、実際の輸送を隠すために存在しない経路を書いたのか。


 今のところ、どれもあり得る。


 だから簡牘の上で答えを選ぶのではなく、鄭仁は山まで来た。


 前を歩いていた黒玄は、ぬかるみを避けて岩へ足を置くと、道の先へ目を凝らした。


「本当に崩れていたなら、見れば分かる」


「三年経ってるから、どこまで残ってるか分からないけどな。ただ、荷車が通れる崩れ方だったかどうかくらいは分かるだろ」


「山は人間ほど器用に嘘をつかん」


「それはありがたい。今日は山を信用するよ」


 黒玄は鼻を鳴らし、そのまま先へ進んだ。


 山腹を回り込んだところで、道の先に一人の老人が待っていた。


 令佐が郡府の記録を調べ、当時の道普請に加わった里を探しており、そこから案内役として来てもらった男だった。日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、杖代わりの木枝を握っている。


 老人は二人を見るなり道端へ寄って深く頭を下げたが、鄭仁は近づきながら手を上げ、それを制した。


「そんなに畏まらなくていい。咸陽から巡察に来た郎の鄭仁だ。三年前、この北路で起きた崩落と、その頃にここを通った荷について調べている」


 懐から木牘を取り出したものの、すぐに日付を見せることはせず、まず老人へ事情を伝えた。


「郡府に残ってる記録だけじゃ、当時の様子が分からない。俺が知りたいのは、実際にこの山で何が起きていたかだ。三年前のことだから、覚えている範囲で構わない。あの年は、ひどい雨だったそうだな」


 老人は鄭仁の顔を見てから山の奥へ視線を移し、木枝の先を湿った土へ沈めた。


「ひどいものでございました。何日降ったかまでは覚えておりませぬが、畑へ出られぬ日が続きましてな。谷の水も増え、夜になりますと、里まで流れの音が聞こえておりました」


 話し始めた老人は、そのまま二人を連れて山道を進んでいく。


 鄭仁は隣を歩きながら、雨がいつ頃から強くなったのか、崩落の前に異変はなかったか、里の者たちはどうしていたのかと順に尋ねた。老人の記憶では、山肌ではそれ以前から小さな崩れが何度か起きており、里の者も山を気にしていたらしい。


 そして、雨の止まなかったある夜、大きな音がした。


「明け方、里の者と見に参りました。道も何もありませんでした。土と岩が、そのまま谷まで落ちておりましてな」


 そこまで話した老人が足を止め、木枝の先を斜面へ向けた。


「ここでございます」


 鄭仁は老人の示した場所を見上げた。


 一見しただけでは、何の変哲もない山道に見える。だが周囲には古い木が根を張っているのに、その斜面だけは若い灌木と草が密集し、ところどころ岩肌が剥き出しになっていた。道の下には斜面を支えるように石が積まれ、その隙間へ苔と黒い土が入り込んでいる。


 鄭仁は道端へしゃがみ、その一つへ手を置いた。


 石は湿って冷たく、指先で苔をなぞれば、その下には人の手で積み直した形がまだ残っている。三年という時間は傷を消してはいなかったが、山はもう、その傷を自分の一部へ戻し始めていた。


「崩れた後、道はどうした?」


「里から人を出しました。まず土と岩を除き、人が歩けるだけの道を作りまして、その後、牛や車が通れるよう広げました」


「人が通れるようになるまで、どれくらいかかった?」


 老人は斜面を見上げ、当時の順序を辿るように目を細めた。


「二日……いや、三日はかかったと思います。牛や荷車となれば、さらに後でございました。五日ほどは、とても通せる状態ではありませなんだ」


 鄭仁はそこで初めて木牘の日付へ目を落とした。


 清の丹砂が北路を通ったとされる日は、その五日の中にある。


 ならば、この輸送記録は間違っている。


 少なくとも「清の丹砂を積んだ荷車が、その日に北路を通った」という部分については、疑う段階をもう越えていた。


 問題は、なぜそんな記録が残ったのかだ。


 鄭仁は老人に答えを教えるような聞き方だけは避け、木牘を伏せたまま話を続けた。


「復旧してる間、ここへ来た荷はどうした? 全部止めたのか」


「止めました。兵へ送る穀もございましたし、武具を積んだ車も来ましたが、道そのものがありませんので、どうにもなりませぬ」


「急ぐ荷もあっただろ」


「そういうものは江へ回したと聞いております」


 江。


 その言葉を聞いた瞬間、郡府で見た記録が頭の中で動いた。


 長雨の最中にも江運は完全には止まっていない。それどころか、一時期だけ舟の動きが増えている。同じ頃には用途のはっきりしない人夫と牛車も動いていた。


 北路が閉じた。


 急ぐ荷は江へ回された。


 ならば清の丹砂も、北路ではなく江へ回された可能性がある。


 鄭仁はそこまで考え、さらに一歩先へ進めた。


 もしそうなら、探すべきものは北路の先にはない。北路から江へ荷を下ろす経路、その途中で使われた人夫と牛車、そして荷を受けた舟があるはずだった。


 八百斤もの丹砂なら、誰にも見られず動かすことは難しい。


「玄」


 斜面を見ていた黒玄が顔を向けた。


「北路が潰れて、荷を江へ落とすとしたら、牛車はどこまで使える?」


 黒玄は少し考え、谷の方角を見た。


「道による。舟着きまで車が入れるならそのまま運ぶ。無理なら途中で人に担がせる。どちらにせよ積み替えは要る」


「人手も増えるな」


「増える」


「なら、跡は残る」


 黒玄はそれだけ聞いて、鄭仁が何を考えているのか分かったらしい。それ以上は口を挟まず、再び崩落跡へ目を戻した。


 鄭仁も今はそれでよかった。


 江へ回ったと決まったわけではないが、現時点では最も筋がいい。ならば次は、その仮説が正しければ存在するはずのものを探せばいい。


 鄭仁は老人から当時の状況を一通り聞き終えてから、改めて木牘を開いた。


「最後に日を確かめたい。この頃なら、まだ牛や荷車は通せなかった時期で間違いないか?」


 老人は示された時期を確かめるように斜面を眺め、それからゆっくり頷いた。


「はい。その頃でしたら、まだ無理でございます」


「官の荷でも?」


「官の荷であろうと同じでございます。道がございませんでしたから」


 これで北路については十分だった。


 鄭仁が木牘を閉じると、ほとんど口を挟まず崩落跡を見ていた黒玄が戻ってきた。岩の位置を確かめ、道幅を歩き、谷側から斜面を見上げていた男は、鄭仁の隣で立ち止まると、もう一度だけ斜面へ目をやった。


「荷車は無理だ」


「人だけなら?」


「抜ける手はある。だが牛を連れて丹砂を運ぶ道じゃない。まして八百斤なら、こんな場所を無理に越えるより江へ回した方が早い」


 鄭仁は頷いた。


 自分の読みと黒玄の判断が重なった。


 北路の輸送記録は崩れた。次は江を見る。


 そう考えたところで、もう一つだけ確かめておきたいことを思い出した。


「道が直った後、この件を調べに来た者はいなかった? 郡府の役人でも荷主でもいい。崩れた日や、通れなかった期間を聞きに来た者だ」


 老人はすぐには答えず、杖を握ったまま山道を眺めていた。


 やがて記憶の中から一人を見つけたらしく、顔を上げる。


「……おりましたな。巴氏の女主人でございます」


 鄭仁の手が止まった。


 清自身がここまで来ていた。


 夫を亡くした翌年、商いを継いで間もない頃に八百斤もの不足を突きつけられ、郡府で訴えるだけではなく、この山まで足を運んでいる。


 帳簿を疑うだけなら巴城でできる。ここへ来たということは、清もまた輸送記録そのものを疑ったのだ。


 そして、もし彼女が江まで考えていたのなら――。


「清が来たのは、道が直ってからどれくらい後だった?」


「しばらくしてから、としか申せませぬ。正確な日は覚えておりません。ただ、あの方のことはよく覚えております。商家の主が自らこんな山中まで来ることなど、そうございませんから」


「ここで何を聞いていった?」


 老人はその問いに、少し不思議そうな顔をした。


「今、鄭郎がお尋ねになったことと、ほとんど同じでございます。雨はいつから降っていたか、道が崩れたのはいつか、何日通れなかったか、人は通れたか、荷車はどうだったかと」


 老人はそこで記憶を確かめるように間を置き、それから続けた。


「最後には、急ぐ荷が江へ回ったかとも聞いておりましたな」


 鄭仁は思わず笑いそうになった。


 同じだ。


 三年前の清も、北路の記録を疑い、現場へ来て、崩落の時期を確かめ、荷車が通れないと知ったところで江を見ている。


 この女は、三年前にすでに自分と同じ仮説へ辿り着いていた。


「……なるほどな」


 鄭仁は木牘を閉じながら、ようやく清という女の輪郭を掴み始めていた。


 三年間、八百斤を払わずに騒ぎ続けている頑固な商人ではない。少なくとも自分の主張が正しいと思うだけの理由を持ち、その理由を他人任せにせず、自分の足で確かめている。


 ならば、清は江についても何か掴んでいる可能性が高い。


「その話を、清は郡府へ持っていったか分かる?」


「そこまでは存じませぬ。ただ、役人にも話すと申しておりました」


 ここで鄭仁は少し考えた。


 清のところへ行けば、おそらく江についても答えを持っている。


 聞けば早い。


 だが今欲しいのは、三年後の清が整理した話ではなかった。清が当時どこまで掴み、その時点で郡府へ何を渡したのか。その形を先に見ておけば、清本人と会った時にも、彼女の記憶と当時の記録を分けて聞ける。


「ありがとう。かなり助かったよ」


 老人へ礼を告げ、鄭仁は来た道へ身体を向けた。


 黒玄が後ろからついてきたが、少し歩いたところで声をかけてきた。


「清のところへ行かんのか」


「後で行く。たぶん、あの人は江まで追ってる。でも今聞いたら三年前の清じゃなく、三年間この件を考え続けた清の答えを聞くことになる。先に郡府へ戻って、当時どこまで話が届いてたか見たい」


 張り出した枝を払い、その下を潜りながら鄭仁は続けた。


「それに、清が三年前に俺と同じところまで来てたなら、問題はもう『清の言い分が正しいか』だけじゃない。証拠を持って訴えて、それでも八百斤が残った理由の方が大きい」


 黒玄はしばらく何も言わずについてきたが、やがて口元をわずかに上げた。


「役人らしくなったな」


「一応、郎だからな。調べに来た以上、最後まで調べるよ」


「飯まで忘れるなよ」


「それは別の問題だ」


 二人はそのまま山道を下った。


 少し離れたところで鄭仁は一度だけ振り返り、若い草木に覆われ始めた斜面を見た。


 三年前、清もあそこに立った。


 同じ記録を疑い、同じ山へ入り、同じように江を見た。それでも八百斤は今なお清の借りとして残っている。


 ならば三年前、清の調査はどこかで止められたか、あるいは届いた先で別の理由に押し戻されたことになる。


 郡府へ戻れば、その痕跡が残っているかもしれない。


    ※        ※


 郡府へ戻る頃には、陽はすでに中天を越えていた。


 山道でまとわりついた湿気が衣の内側に残り、歩くたび背へ布が張りつく。門を潜ったところで黒玄が凝った肩を大きく回した。


「今日は歩かないと言っていた男にしては、随分歩いたな」


「予定が変わったんだよ。まだ言うなら、明日はお前だけ馬なしにするぞ」


「それだけはやめろ」


「なら忘れろ」


 朝とは違い、郡府には昼の熱が籠もっていた。廊を行き交う吏員の足音に、竹を束ねる乾いた音が重なり、その向こうから牛の低く鳴く声まで聞こえてくる。


 房へ戻ると、令佐と二人の書記はまだ簡牘に囲まれていた。


 令佐は鄭仁の草履についた泥へ一度目をやってから、手元の簡を置いた。


「北路はいかがでしたか」


 鄭仁は水を一口飲み、乾いた喉を潤してから木牘を卓へ置いた。


「北路の輸送記録は間違ってると見ていい。崩落から少なくとも五日ほど荷車は通れず、清の丹砂が通ったとされる日はその中だ。里人にも確かめたし、玄にも現場を見てもらった」


 令佐の眉間に浅い皺が寄った。


「では、丹砂は別路を通ったと?」


「可能性が高い。急ぐ荷は江へ回されていたらしいし、前に見た記録でも同じ頃に舟が増えてる。用途の分からない人夫と牛車もあった。俺ならまず江を疑う」


 令佐は頷きかけたが、鄭仁はその先を続けた。


「それと、清自身も三年前に北路まで来てる。崩落の日、復旧までの日数、荷車が通れなかったこと、江への迂回まで全部聞いてた。たぶん清も、丹砂が江へ回った可能性を考えてる」


 二人の書記まで手を止めた。


「だから清本人へ聞く前に、三年前の郡府がどこまで知っていたか見たい。最初の半年でいい。清から出された訴えと郡府の返答、それからこの件で出した照会や調査の記録をまとめてくれ」


「承知しました」


 令佐が二人の書記を連れて奥へ消えると、鄭仁はようやく腰を下ろした。


 草履を脱いでみれば、踵には山道の泥が薄く残っている。


 三年前、清も同じように泥をつけて郡府へ戻ったのだろうか。


 八百斤を補填すれば、少なくとも三年間も争う必要はなかった。それでも自分で山へ入り、道を見て、人に聞き、江へ回った荷まで追おうとしている。


 金額だけの問題ではないのだろう。


 自分の家から確かに出したものを「足りなかった」とされ、その責任まで負わされることを、この女は受け入れられなかったのかもしれない。


 まだ会ってもいない清だったが、今朝まで聞かされていた「三年間、同じことを訴え続ける頑固な女」という像は、もうかなり形を変えていた。


 やがて奥から竹の擦れる音が近づき、令佐と書記たちがいくつかの束を抱えて戻ってきた。


「まず半年分です」


「ありがとう」


 鄭仁は日付の古いものから順に記録を追った。


 清の訴えと郡府の返答、その後に出された照会や処置まで一通り見たが、概ねおかしなところはない。清は出荷時の数量と倉で確認された数量が一致しないとして再検を求め、郡府は倉で八百斤の不足が確認されている以上、出荷側の記録だけでは覆せないとしている。


 さらに日を追っていくうち、一筆で鄭仁の指が止まった。


 北路の崩落と通行不能について、清から郡府へすでに報告が上がっていた。


 しかも、今日自分が確かめた内容とほとんど変わらない。


「やっぱり届いてるな」


 鄭仁はその一筆を令佐へ向けた。


「清は北路が通れなかったことまで郡府へ出してる」


「はい。郡府側も、その後の返答で輸送記録の錯誤を認めております」


 続く記録を読むと、確かに郡府も、戦時輸送と長雨による経路変更が重なったため、北路を通ったとする記録に誤りが生じた可能性を認めていた。ただし、それだけでは倉で確認された八百斤の不足そのものを否定できないとしている。


 鄭仁は二つの記録を並べた。


「ここまでは郡府もおかしくない。北路の記録が間違ってたからって、倉で八百斤足りなかった事実まで消えるわけじゃない。でも、輸送経路の一つが崩れた時点で、次は実際の経路を探すはずだ」


 清の家を出た時にはあった。


 倉では足りなかった。


 その間の輸送記録に誤りがある。


「なら、八百斤が消えた場所は清の家じゃなく、輸送の途中にある可能性が一気に上がる。俺ならここで人夫、牛車、積み替え、舟を洗う」


 令佐は記録を追い、やがて別の簡を抜いた。


「郡府も調べております。清の訴えを受けた数日後、二つの里へ照会を出しています」


 一つの里からは返答が残っていた。当日、人夫を出したことは認めているものの、北路ではなく別の場所で荷役に従事したという。


 もう一つには、照会を出した記録しかない。


 返答がなかったのか、失われたのかは分からない。


 鄭仁はその里名を見た瞬間、床へ置かれていた別の木牘を引き寄せた。


「この里だ」


 用途の分からなかった人夫。


 同じ頃に出された牛車。


 里名が重なる。


 令佐が位置を確かめると、その里は北路より江へ近く、小さいながら舟を着けられる津まで持っていた。


 鄭仁はしばらく三つの記録を並べて見ていた。


 北路が閉じた時期に、江へ近い里から用途不明の人夫と牛車が出ている。同じ頃には舟の動きも増え、後に清が北路の矛盾を訴えると、郡府はその里へ当日の輸送について照会を出している。


 偶然で説明できないわけではない。


 だが、ここまで重なれば優先して調べる理由としては十分だった。


「丹砂は江へ回った可能性が高いな」


 鄭仁は里名を指で押さえた。


「問題は、その迂回が正規のものだったのか、それとも途中で荷を抜くために使われたのかだ。正規なら、どこかに命令か受け渡しの記録が残る。記録がなくても、人夫か牛車の取りまとめ役、船頭の誰かは覚えてるかもしれない」


「三年前ですぞ」


「八百斤だ。少量の荷じゃない。牛車を動かして舟へ積み替えたなら、何人も関わってる。一人くらい残ってるだろ」


 鄭仁は里名の木牘を抜き出し、令佐へ渡した。


「明日、この里と津を見る。三年前に人夫と牛車を取りまとめた者を探してくれ。郡府の吏員が関わっていたなら、その名も。それと、同じ時期にこの津から出た舟の記録が残ってるなら見たい」


「承知しました」


 令佐は木牘を受け取ったものの、すぐには立ち上がらなかった。


「鄭郎。一つ気になります」


「何?」


「この照会の決裁者です」


 末尾にあった名は、范平だった。


 鄭仁は清への処置が記された簡も引き寄せ、そこにある同じ名を見比べた。


 范平は最終的に清へ八百斤の補填を命じている。


 しかし、その前には清の訴えを受け、北路の矛盾を認め、実際に里へ照会まで出していた。


 鄭仁は二つの日付を確かめ、それから椅子へ深く座り直した。


「范平は、最初から清を潰そうとしてたわけじゃないな」


 黒玄が壁際から顔を上げた。


「言い切るか」


「今ある記録なら、そう見る。握り潰すつもりなら、北路の錯誤を認めて里へ照会まで出す必要がない。少なくともこの時点では、范平は本当に調べようとしてる」


 だとすれば、問いは一つ先へ進む。


「途中で何かあった」


 令佐が范平の名へ目を落とした。


「考えを変えた、と?」


「それもある。新しい証拠が出て、清の主張を退けたのかもしれない。でも、それならその証拠がどこかにあるはずだ。もう一つは、調査を続けられなくなった。軍の命令でも災害でも、上から止められたでもいい」


 鄭仁は指先で范平の名を軽く叩いた。


「どっちにせよ、ここに何かある。范平が照会を出した日から、清への処置を確定するまでの間を洗おう」


「八百斤に関する記録を?」


「いや、それだけじゃ足りない」


 鄭仁は床一面の簡牘へ目をやった。


「軍からの命令、人事、災害、徴発、郡守からの指示。この時期に郡府で起きたことを全部見たい。范平が調査を止めたんじゃなく、別の仕事に押し流された可能性もあるし、逆に誰かが意図して優先順位を変えた可能性もある」


 令佐はそこで鄭仁の意図を理解したらしく、ゆっくり頷いた。


「当時の郡府そのものを見るのですな」


「そう。何もなければ、それも答えになる。周りに調査を止める理由が何もないのに范平だけが止まってるなら、その時は本人を呼んで聞く」


 黒玄が腕を組み直した。


「呼べば今すぐ聞けるぞ」


「今は聞かない。三年前に何をしたかがもう少し見えてから聞いた方がいい。こっちが何も知らずに聞けば、范平の説明を聞いて終わる。記録を持って聞けば、どこからが記憶で、どこからが後付けかも見える」


「嫌な役人になったな」


「今のは褒め言葉だろ」


「好きに取れ」


 鄭仁は笑って、もう一度范平の名へ目を落とした。


 今のところ、清も范平も単純な嘘をついているようには見えない。


 それでも八百斤は消えた。


 ならば二人の間ではなく、二人がそれぞれ追っていた先に何かがある。


 そして今、最も濃いのは江だった。


 いつしか陽は西へ傾き、戸口から差し込む光が床の簡牘を斜めに照らしていた。竹の影が三年前の日付や人名の上を横切り、風が入るたび僅かに揺れている。


 鄭仁は長く座っていた脚を伸ばして立ち上がり、廊へ出た。


 昼の熱はすでに薄れ、山から下りてきた風が汗の乾いた首筋を撫でていく。庭の向こうには郡府の門があり、それを眺めているうちに、三年前の清も北路で拾った証を携えてあの門を潜ったのだろうと思った。


 そして范平は、その訴えを読んだ。


 疑い、調べ、里へ照会まで出した。


 それでも最後には、清へ八百斤が戻ってきた。


 清の声が届かなかったのではない。


 届いた後に、何かが変わった。


 遅れて廊へ出てきた黒玄が隣へ並び、同じ門を眺めながら尋ねた。


「誰が止めたと思う」


 鄭仁は門から目を離さず、今度は自分の考えを隠さなかった。


「今のところ、范平が最初から止めたとは思ってない。あの男は途中まで本気で調べてる。なら、その後に考えを変えるだけの何かを見たか、調べ続けられなくなる何かが起きた」


「誰かに止められた可能性は?」


「ある。むしろ、それもかなり疑ってるよ」


 鄭仁はそこでようやく黒玄を見た。


「ただ、もし人が止めたなら、その人間にも范平を止められるだけの理由か力が要る。そこまで見つけてから疑えばいい」


 黒玄は少し考え、それ以上は聞かなかった。


 鄭仁は山の向こうへ目をやった。


 北路を通れなかった荷が別路へ流れたのなら、江には人が動き、牛車が動き、舟が動いたはずだった。八百斤という重さは、簡牘の一行ほど簡単には消えない。


 どこかに必ず跡がある。


「明日は里と津だな」


「ああ」


 姿こそ見えないが、山の向こうには巴を貫いて流れる江がある。


 鄭仁はその方角を見ながら、次に探すものをすでに頭の中で並べていた。


「今度は、江に聞く」

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