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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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2/10

燈下三友




夕暮れは西の山々から静かに降りてきた。


 峰はすでに影に沈み、それでも平野には春の淡い光がなお残っている。


 鄭仁は馬上で手綱を緩め、咸陽への街道を東へ進んでいた。後方には従者が連なり、戸籍や田籍、倉籍を収めた荷車が軋みながら続く。蹄の音は乾いた道に小さく響き、ときおり吹き抜ける春風が土の香を運んでくる。


 街道の両側には耕されたばかりの畑が広がっていた。冬を越えた土はまだ黒く湿り、畝には若い菜がようやく顔を覗かせている。畑仕事を終えた農夫たちは鍬を肩に帰路を急ぎ、一行の姿を認めると静かに道を譲った。


 鄭仁は黙したまま馬を進める。


 二か月に及ぶ巡察で見たものは少なくない。訪れた県では県令が口を揃えて政は安らかだと語り、役人は豊作を誇った。倉を開けば穀は整然と積まれ、斗斛に狂いはなく、封泥も破られた形跡はない。戸籍も田籍も帳簿の数字は寸分違わず揃っていた。


 ――揃いすぎている。


 どこへ行っても同じ答え。


 どこへ行っても同じ数字。


 統一からまだ日も浅い天下で、これほどまでに報告が似通うものだろうか。


 鄭仁は小さく息を吐いた。


(綺麗すぎる報告書ほど、信用できない。)


 思わず口元が緩む。


 隣を進む従者がその様子に気づき、馬を寄せた。


「何かございましたか。」


「いや。」


 鄭仁は短く答え、前方へ目を向けた。


 対岸には咸陽があった。


 渭水を隔てた北の高台に城郭が横たわり、そのさらに奥には宮殿が幾重にも屋根を重ねている。落日に照らされた瓦は淡い金色を宿し、城壁に掲げられた黒旗は春風を受けて静かにはためいていた。


 鄭仁は馬を止め、しばらくその城を眺めた。


 十年前まで、天下には七つの国が並び立っていた。

 

秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓。

 

そして一年前、最後に残った斉が降った。


 国ごとに法は異なり、文字は異なり、度量衡さえ違っていた。関を越えるたびに制度は変わり、人もまた、自らの国だけを故郷として生きていた。


 それが今では、車は同じ轍を走り、文字は一つとなり、法は天下を覆っている。


 始皇帝は、誰も成し得なかったことを成し遂げた。


 その偉業を疑う者はいない。


 だが、天下を統べることと、人の心を治めることは同じではない。


 人は法によって従うことはできても、昨日まで敵国であった者を今日から同胞と思えるほど、心は簡単ではなかった。


 鄭仁は静かに息を吐いた。


 歴史は、いつも完成した姿だけを語る。


 だが本当は、最も危ういのは完成したその日なのだ。


 喝采の裏で生まれた小さな綻びは、誰にも気づかれぬまま時を重ね、やがて国を揺るがす裂け目へと育っていく。


 その最初の一筋は、いつも人の目には映らない。


「鄭仁様。」


 声に振り向くと、従者が馬を寄せ、深く一礼した。


「符伝のご用意を。」


 鄭仁は懐から木牘を取り出し、従者へ渡す。


 従者は馬を降りると、そのまま渡し場へ歩み寄った。


 渡しを預かる役人は木牘を受け取り、官署の名と封印を一つひとつ確かめる。その表情は次第に引き締まり、やがて恭しく木牘を返した。


「失礼いたしました。」


 役人は深く頭を下げ、道を開ける。


「鄭仁様、一行の皆様は先にお渡りください。」


 鄭仁は軽くうなずき、再び手綱を取った。


 船着場では渡し舟が岸へ寄せられている。


 従者たちが荷車を慎重に載せ、馬を一頭ずつ舟へ導いていく。板は重みにわずかに軋み、水面に細かな波紋が広がった。


 やがて綱が解かれる。


 船頭たちが長い竿を一斉に突き、水を押すと、舟は岸を離れた。


 夕暮れの渭水は静かだった。


 船腹を打つ水音だけが規則正しく響き、川面を渡る風が袖口から忍び込み、巡察で疲れた身体を冷やしていく。


 鄭仁は黙って水面へ目を落とした。


 流れは絶えることなく東へ向かう。


 王朝は滅び、国は生まれ、地図は幾度となく塗り替えられる。


 それでも水だけは、何千年もの時を変わることなく流れ続けてきた。


(逝水依然,人間幾度興亡。)

――流れる水は昔のまま。 人の世だけが、幾度も栄えては滅ぶ。


 その一言が胸に浮かぶ。


 舟は静かに北岸へ寄っていった。


 船頭の掛け声が響くと、舟は岸へ横付けされる。太い綱が岸へ渡され、舟子たちは慣れた手つきで舟を繋ぎ止めた。積まれていた荷は次々と降ろされ、旅人たちも思い思いに岸へ足を踏み出していく。


 鄭仁も馬の手綱を取り、静かに舟を降りた。馬は長旅を終えたことを知るように、小さく鼻を鳴らす。


 夕暮れは、いつしか宵へ移ろうとしていた。


 咸陽の城門はなお開かれていたが、その前には入城を急ぐ人馬が幾重にも列をなし、荷を積んだ牛車、旅人、近郊の農民、官の車馬が入り混じっている。暮鼓が鳴れば城門は閉ざされる。誰もがその前に城へ入ろうと、自然と足を速めていた。


 鄭仁は馬を進め、人の流れに加わる。


 城門では門卒が一人ひとりの符伝を改め、荷を検めていた。官の印が刻まれた木牘を差し出すと、門卒はそれを確かめ、静かに一礼する。


「お通りください。」


 鄭仁は軽く頷き、そのまま城門をくぐった。


 厚い城壁の影を抜けた瞬間、咸陽の夕暮れが目の前に広がる。


 大路にはなお多くの人々が行き交い、店先では布商が反物を畳み、肉屋は血の付いた俎板を洗い流していた。焼餅を売る炉にはまだ赤い火が残り、香ばしい匂いが夕風に乗って漂う。その香りに混じるように、馬の汗と土埃の匂いが鼻をかすめ、都が一日を終えようとする気配を運んできた。


 薪を背負った男は家路を急ぎ、幼子は犬を追って路地を駆け回る。


 巷の入口では灯を手にした女が立ち止まり、まだ帰らぬ家族を静かに待っていた。


 どこにでもある、ありふれた夕暮れだった。


 だが、乱世を知る者にとって、その「ありふれている」ということほど得難いものはない。


 鄭仁は馬の歩みを緩めた。


 門前では白髪の老人が幼い孫を膝に抱き、一枚の粗い餅を二つに割っている。大きい方を孫へ渡し、自らは小さな欠片だけを口へ運ぶと、水で喉を潤して穏やかに笑った。


 少し先では宿衛の兵が二人、兜を抱えて肩を並べて歩いている。


「今日はお前が払え。」


「昨日は俺だった。」


 そんな他愛もない口論を交わしながら、二人は声を上げて笑った。


 その声を聞き、鄭仁は遠い昔を思い出す。


 神殿が街を見下ろし、祭壇の火が昼夜を問わず燃え続けていた時代。


 人々は神を畏れ、祈り、ただ静かに頭を垂れて生きていた。


 あの頃の都は、この咸陽よりはるかに壮麗だった。


 だが、その街に、今ここにあるような笑い声は少なかった。


 馬の蹄が石畳を打つ。


 規則正しい音が、遠い記憶を静かに断ち切っていく。


 鄭仁は小さく息をついた。


(少なくとも今は、人は酒のことで言い争える。)


 そんなことを思い、わずかに口元が緩む。


 やがて宮城の方角から、低く重い暮鼓の音が響いた。


 都じゅうへ広がるその響きを合図に、人々は残る仕事を急ぎ始める。門卒は荷車を促し、市の商人たちは手際よく店を畳んでいった。


 鄭仁は手綱を軽く引き、人通りの多い大路を離れる。


 喧騒は少しずつ遠ざかり、道幅は狭くなっていく。軒先に吊るされた灯火が一つ、また一つと夕闇の中に灯り始め、見慣れた路地には夕餉の香りが静かに漂っていた。


 巡察のあいだ幾度となく見知らぬ土地を歩いた足が、何も考えずとも帰るべき道を選んでいく。


 やがて、一軒の屋敷が灯の中に静かに姿を現した。


 門前は掃き清められ、軒灯が風に揺れている。


 その石段の下には、一人の男が背筋を正して静かに立っていた。


 景安であった。


 景安は馬の足音に気付くと、静かに門前へ歩み出た。


 夕灯がその横顔を淡く照らす。


 深く一礼し、穏やかな声で言った。


「お帰りなさいませ。」


 その一言だけで十分だった。


 長く留守にしていた屋敷も、人も、何一つ変わっていない。


 鄭仁は手綱を差し出した。


「ただいま。」


 景安は黙って手綱を受け取り、馬の首を軽く撫でる。


「先日の便にてご帰着との知らせがございました。」


「そうか。」


「しばらくお待ち申し上げておりました。」


 景安は少し間を置いて続けた。


「……黒玄殿は、すでに酒を半壺ほど。」


 鄭仁は思わず母屋へ目を向けた。


 障子には灯火が映り、一人の影が机にもたれ掛かっている。杯を口へ運ぶ仕草まで、どこか気怠く、気ままだった。


 姿を見ずとも分かる。


(……変わらないな。)


 二人は庭へ入った。


 堂の戸は開け放たれたままだった。


 酒の香りが、風に乗って先に流れてくる。


 黒玄は机に肘をつき、外衣を半ば脱いだまま座っている。長剣は鞘ごと脇へ立て掛けられ、机の上の小皿はどちらも半ばまで箸が進み、酒壺はすでに傾いていた。


 鄭仁の姿を認めると、黒玄は立ち上がることもなく、ゆっくりと杯を掲げた。


「遅い。」


 鄭仁は外衣を脱ぎ、景安へ渡す。


「巡察だ。酒を買いに行っていたわけじゃない。」


 黒玄は杯を空け、鼻で笑った。


「だから遅い。」


 鄭仁も思わず笑みを浮かべ、その向かいへ腰を下ろす。


「主人の帰りを待ちながら、主人の肴を食い、主人の酒を飲む。宮中宿衛とは、ずいぶん気楽な役目だな。」


 黒玄は声を上げて笑った。


「誰もいない卓ほど退屈なものはない。それに景安が酒を置いていったんだ。飲めと言っているようなものだろう。」


 ちょうどその時、景安が佩剣を刀架へ納めながら振り返った。


「その酒は、本来ご主人様のためにお出ししたものです。」


「今、主人は帰ってきた。まだ残っている。何も問題あるまい。」


 景安は傾いた酒壺へ一度だけ目をやった。


「……おっしゃる通りでございます。」


 その口調は、いつもと変わらず穏やかだった。


 だが、半ば空になった酒壺を見れば、その言葉が額面どおりの賛同ではないことは誰の目にも明らかだった。


 黒玄は一瞬だけ言葉に詰まり、やがて苦笑して鄭仁を見る。


「お前の家令、近頃ますます手強くなったな。」


 鄭仁は肩をすくめた。


「毎日お前を相手にしているからだ。」


 景安は何も答えず、冷めた肴を下げさせた。


 ほどなくして、湯気を立てる魚羹、炙った肉、粟飯、漬物が次々と卓へ並べられる。


 灯火の下に立ち上る湯気が、旅路でまとった埃と疲れを静かに溶かしていった。


 三人は箸を取る。


 景安は家令であるため、本来なら主人と同じ卓を囲む立場ではない。だが、この屋敷では違った。

 

景安は長く苦楽を共にしてきた家族同然の存在である。人目のない屋敷では礼法に縛られることなく、三人で同じ食卓を囲むのがいつしか当たり前になっていた。

 

しばらくは誰も口を開かなかった。

 

庭の竹を渡る風だけが、さらさらと葉を鳴らしていた。


 魚羹をひと口すする。


 温かな汁が腹へ落ちていき、ようやく自分が空腹だったことに気付いた。


 景安が静かに尋ねる。


「お口に合いましたでしょうか。」


「ちょうどいい。」


 景安は小さく頷いた。


「巡察中のお食事はいかがでしたか。」


 鄭仁は箸を止め、少しだけ考える。


「食べられはした。」


 黒玄が顔を上げた。


「その言い方は、大抵うまくなかった時だな。」


「少なくとも腹は壊していない。」


 黒玄は吹き出した。


「お前は毎度そうだ。景色を聞けば道の話をし、飯を聞けば死ななかったと言う。お前と話していると、役所の竹簡を読んでいる気分になる。」


 鄭仁は卓の端に置かれた酒壺へ目を向けた。


「竹簡は、人の酒を勝手に飲まない。」


 黒玄は笑いながら酒壺を持ち上げた。


 だが、傾けても一滴も落ちてこない。


 無言のまま景安を見る。


 景安もまた、静かに黒玄を見返した。


 しばらくしてから、新しい酒壺を卓へ置く。


「助かる。」


 黒玄は嬉しそうに手を伸ばした。


 景安は淡々と言う。


「こちらは、黒玄殿のお名前で帳面へ記しておきます。」


 黒玄の手がぴたりと止まった。


 鄭仁は羹を口へ運んだまま、肩をわずかに震わせる。


 黒玄が睨む。


「……今、笑ったな。」


「いや。」


「笑った。」


「羹が熱かっただけだ。」


 黒玄は不満そうに鼻を鳴らし、それでも酒を注い、半ばまで一息に飲み干してから口を開いた。


「今回の巡察は、どうだった。」


 鄭仁は箸を置く。


 堂内が、わずかに静まった。


 何気ない問いに聞こえる。だが、黒玄の眼差しはすでに先ほどまでとは違っていた。


 長く軍に身を置いてきた男である。巡察が本当に何事もなく終わったのであれば、鄭仁があれほど多くの木簡を持ち帰るはずがないと、直感していた。


 鄭仁は静かに答えた。


「田畑の作柄は悪くない。麦もよく育っていた。諸県から報告された戸口も、おおむね帳尻は合っている。倉の粟にも、目立った欠けはなかった。」


 黒玄が眉を上げる。


「それだけ聞けば、何も問題はないようだ。」


「そう見える。」


「なら、どうして木簡を何車も持ち帰った。」


 鄭仁はゆっくりと顔を上げた。


「何もないように見えたからだ。」


 黒玄は黙ったまま先を促す。


 景安もまた、酒を注ぐ手を止めていた。


 鄭仁は卓を指先で軽く叩く。


「数百里も離れた県同士が、まるで申し合わせたように同じ文句を並べている。倉は満ち、田は治まり、戸籍は整い、役人も民も皆安らかだと。」


 黒玄は首を傾げた。


「同じなら、良いことではないのか。」


「同じ過ぎる。」


 鄭仁は静かに言う。


「それが、かえって不自然だ。」


 黒玄はしばらく考え込んだ。


「誰かが、そう答えろと教えたのか。」


「そうとは限らない。」


 鄭仁は首を振る。


「朝廷が何を聞きたがっているか。それを皆が知っていただけかもしれない。」


 景安が穏やかな声で続ける。


「天下は統一されたばかりにございます。各地の長吏も、まずは己の立場を守ろうといたしましょう。乱れておりますと言えば、自ら罪を申し立てることになります。一切安らかでございますと言っておけば、少なくとも当座の咎めは避けられます。」


 鄭仁は景安を見た。


「その通りだ。」


 黒玄は酒杯を指先で弄びながら言う。


「それでも、お前は調べるのか。」


「もう調べた。」


「何が分かった。」


 鄭仁は少しだけ黙り込んだ。


「罪に問えるものは、まだ見つかっていない。」


 黒玄は小さく笑う。


「では骨折り損か。」


「いや。」


 鄭仁は庭へ目を向けた。


 庭灯に照らされた若竹が、夜風に触れ合い、葉を静かに鳴らしている。


「どこに証拠がないのか。それを知ることも、一つの成果だ。」


 黒玄は肩をすくめた。


「お前たち文官というのは、何も持ち帰らなくても勝ったように話す。」


 鄭仁は心の中で苦笑する。


(Value of Information.―情報にも価値がある。)

 

そう思った途端、自分でも可笑しくなった。


 長く生きるほど知る言葉は増えていく。だが、この時代で本当に口にできる言葉は、むしろ少なくなっていた。


 かつての世界の制度も、学問も、理論も、そのまま語れば誰にも伝わらない。


 だから万の概念をいくつかの平易な言葉へ置き換え、秦の人々にも理解できる形へ、一つずつ積み重ねていくしかなかった。


景安が静かに口を開いた。


「ご主人様、今回は何日ほどお休みになれますでしょうか。」


 鄭仁が答えるより早く、黒玄が笑った。


「お前が、そんなことを聞くとはな。」


 景安は黒玄へ視線を向けることなく答える。


「ご主人様は2ヶ月あまり屋敷を空けておられました。留守の間に積み重なった用向きもございます。次のご出立がいつになるか分かれば、それに合わせて支度を整えられます。」


 黒玄は杯を置いた。


「天下は一つになり、郡県にも官が置かれた。それぞれが務めを果たせばよい。京から何度も人を遣る必要など、そうあるまい。」


 景安は新しい酒を静かに注ぎながら言う。


「郡県は置かれました。しかし、旧き習わしが一朝にして改まるものではございません。役人もまた、すべてが秦の法に慣れているわけではありません。」


 一度言葉を切り、酒壺を卓へ戻す。


「法は咸陽より発せられます。されど、それが千里の彼方で誰の手に渡り、どのように行われているかは、木簡の報告だけでは知り得ぬこともございます。」


 黒玄は景安を見つめた。


 景安は穏やかな口調のまま続ける。


「朝廷が実情を知ろうと望まれるならば、やはり人を遣わし、自ら見届けるほかございません。」


 黒玄は苦く笑った。


「……つまり、こいつはまた遠くへ行かされるわけだ。」


 景安は静かに頷いた。


「おそらくは。」


 鄭仁は二人のやり取りを眺めながら、杯を口元へ運ぶ。


 先ほどまで旨く感じていた酒が、不思議と少し苦く思えた。


 心の中で、小さく呟く。


(働き方改革まであと二千年か。)


 景安が穏やかに言った。


「それでしたら、ご主人様。本日はお早めにお休みくださいませ。」


 黒玄は酒爵を揺らし、肩をすくめる。


「帰ってきたその日に寝てしまうとは、もったいない。」


 景安は静かに黒玄へ向き直った。


「黒玄殿は、明日も宮中宿衛のお務めがございます。」


 その一言で、黒玄の手が止まる。


 鄭仁は思い出したように尋ねた。


「明日も当番か。」


「卯の刻には宮中だ。」


 黒玄はそう答えると、何事もなかったように酒壺へ手を伸ばした。


 鄭仁は思わず眉を上げる。


「それで、まだ飲むのか。」


 黒玄は酒爵を持ち上げたまま笑う。


「酒を飲むのが悪いんじゃない。」


 一拍置いて続けた。


「酔わなければいい。」


 景安は新しく開けた酒壺へ目を落とす。


「接風のお酒は、先ほどすべて召し上がられました。」


 黒玄は酒壺と景安を見比べた。


「……では、この酒は。」


 景安は表情一つ変えずに答える。


「黒玄殿のお名前で帳面へ記す酒でございます。」


 鄭仁はとうとう堪え切れず、声を上げて笑った。


 黒玄は深々と息を吐き、酒爵を卓へ戻す。


「参った。お前たち主従が手を組んでは、勝ち目がない。」


 景安は穏やかなまま言う。


「黒玄殿は、お客様ではございません。」


 その一言に、堂内がふっと静かになった。


 黒玄は景安を見上げる。


 だが景安は、もう炭を継ぐよう使用人へ言いつけている。


 鄭仁は何も言わず酒壺を取り上げると、黒玄の杯へ最後の一杯だけを静かに注いだ。


 黒玄は酒面を眺め、小さく笑う。


「……そうだったな。」


 灯火は揺らぐことなく卓を照らし、酒面だけがかすかに波紋を返している。


 しばらく誰も口を開かなかった。


 やがて黒玄が何かを思い出したように顔を上げる。


「ところで、土産は。」


 鄭仁は一瞬だけ目を瞬かせた。


「土産?」


「何県も巡ってきたんだ。まさか手ぶらではあるまい。」


 景安も静かに鄭仁へ視線を向ける。


「ご主人様。ご出立の折、忘れませぬよう、お伝えいたしました。」


 鄭仁は黙った。


 黒玄が目を細める。


「……忘れたな。」


「忘れてはいない。」


「どこだ。」


 鄭仁は酒爵を置き、庭先を指した。


「車の上だ。」


 黒玄は待っていましたとばかりに立ち上がる。


 景安も侍者へ提灯を持つよう命じ、三人は連れ立って庭へ出た。


 夜風は心地よく頬を撫でる。


 荷車はまだ解かれておらず、旅の埃をまとったまま庭先に止められていた。


 黒玄は後ろの車へ歩み寄ると、覆い布を勢いよく払い上げる。


 提灯の灯が荷台を照らした。


 そこに積まれていたのは、整然と束ねられた木簡、竹牘、封泥、そして帳簿であった。


 革紐で固く結ばれ、一束ごとに県名と日付が記されている。


 黒玄は口を開いたまま動かなかった。


 景安も隣に立ち、黙って荷台を見つめている。


 鄭仁は両手を後ろに組み、静かに口を開いた。


「各地の土産だ。」


 黒玄はゆっくり振り返る。


「……これが土産か。」


「そうだ。」


「食えるのか。」


「食えない。」


「飲めるか。」


「飲めない。」


 黒玄は荷台いっぱいの木簡を指差した。


「では、何のために持って帰った。」


「明日、丞相府へ持って行く。」


 黒玄は天を仰ぎ、深いため息をつく。


 その横で、景安はそっと袖を口元へ寄せた。


 肩先だけが、わずかに震えている。


 黒玄は見逃さなかった。


「……お前も笑っているな。」


 景安は何事もなかったように向き直る。


「笑ってはおりません。」


「いや、笑った。」


 景安は袖を下ろし、静かに答えた。


「夜風が袖へ入っただけでございます。」


 黒玄はしばらく景安を見つめていたが、やがて苦笑して首を振る。


 その様子を眺めながら、鄭仁はふと気づいた。


 旅の疲れは、このやり取りの中でようやく身体から抜けていくのだと。


 遠く、宮城から更鼓が響いた。


 重く澄んだ音は坊壁を越え、静かな咸陽の夜へと流れていく。


 庭の灯火は風に押されて小さく揺れ、消えかけては、また静かに明るさを取り戻した。


 城下の灯は一つ、また一つと消えてゆく。


 それでも北阪の宮殿だけは、星を並べたような灯を夜通し輝かせていた。


 鄭仁はその光をしばらく見上げる。


 明日になれば、また丞相府へ赴き、この旅で集めた木簡を差し出さなければならない。


 その先には、新たな命令があり、新たな木簡があり、また新たな旅路が待っている。


 天下はようやく一つになったばかりだ。


 安らぎを求めるには、まだ早い。


 心の中で、小さく笑う。


(……終わることのないプロジェクトだな。)


 鄭仁は踵を返し、堂内へ戻った。


 景安は使用人に荷車の片付けを命じ、黒玄はなお荷台を眺めては首を振っている。


 三人の影は庭灯に長く伸び、やがて静かに堂の中へ溶け込んでいった。


 春風が咸陽の町を吹き抜ける。


 渭水は夜の底を、何事もなかったように東へ流れ続けていた。




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