プロローグ
『秦記』春風
春風入秦門
歸馬渡渭津
千峰收暮色
萬里共車輪
【訳】
春風は秦の都の門へ吹き入り、帰路の馬は渭水の渡しを越える。幾重もの峰は夕暮れを包み、天下はひとつの轍で結ばれていた。
【意味】
郡県巡察を終えた鄭仁が、咸陽へ帰還した際に詠んだ詩。統一後の天下に春が訪れ、人々が再び街道を往来する姿を「春風」と「車輪」で表している。また「萬里共車輪」は、車同軌によって天下が一つの秩序へ統一された秦を象徴する一句である。
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午後の日差しが、西へ傾き始めていた。
郡県での巡察を終えた俺は、咸陽へ続く街道を馬で進んでいた。後ろには数人の従者が続き、そのさらに後方を、一両の荷車がゆっくりとついてくる。車上には、巡察先で書きまとめた木簡が幾重にも束ねられ、革紐で固く結ばれていた。
車輪が乾いた土を踏むたび、低い軋みが響く。
それに馬の蹄の音が重なり、長く伸びた街道に一定の調子を刻んでいた。
道は、よく整えられている。
深く刻まれた轍は途切れることなく都の方角へ続き、商人の車列や徒歩の旅人、官吏を乗せた伝馬が、互いに道を譲りながら行き交っていた。荷を満載した牛車の脇を、空の荷車がゆっくりと通り過ぎる。旅人は道端で足を休め、商人たちは車輪の具合を確かめながら先を急いでいた。
誰も、必要以上には急がない。
けれど、誰も歩みを止めてはいなかった。
天下統一の翌年。
人々はようやく、この道を戦のためではなく、暮らしのために使い始めていた。
今回の巡察で命じられたことは、決して特別なものではない。
戸籍を改め、倉廩に収められた穀物を調べ、地方官の執務を見届ける。田畑の作付けを確かめ、徴税の状況を記し、民の訴えに耳を傾ける。
後の時代の言葉で言えば、地方行政の監査に過ぎない。
だが、国というものは、机の上に積まれた木簡だけで治められるほど単純ではなかった。
田畑は、帳簿に記されたとおりの実りをもたらしているのか。
倉の中には、報告どおりの穀物が収められているのか。
民は今日、腹を満たして眠れるのか。
役人は法を守らせることだけに満足し、その先にある暮らしを見失ってはいないか。
そうしたことは、自ら土を踏み、風を受け、人の声を聞かなければ分からない。
街道の両側では、芽吹いた麦が春風に揺れていた。
伸び始めた青い葉が一斉に傾くたび、畑の表面を淡い波が走っていく。農夫は鍬を肩に掛け、畦道を家へ向かっていた。浅瀬では、牧童が細い枝を振りながら牛を追っている。
村々からは、夕餉の支度を知らせる炊煙が立ち昇っていた。
風に流された煙の向こうから、犬の吠える声や、子どもたちの笑い声がかすかに届く。遠くでは商隊が長い列を組み、咸陽を目指していた。その脇を、急ぎの公文を運ぶ駅馬が、乾いた土煙を巻き上げながら駆け抜けていく。
戦乱の気配は、もうほとんど残っていない。
人は畑を耕し、市を開き、一日の終わりには家へ帰る。
そんな当たり前の営みが、ようやくこの大地へ戻ってきていた。
……俺は、この景色が好きだ。
前世で豊かな時代と聞けば、多くの人は、高くそびえる建物や便利な暮らし、あふれる物や富を思い浮かべていた。
けれど、今の俺は違う。
田を耕せること。
腹いっぱい食事ができること。
子どもが笑いながら野を駆け回り、老人が穏やかに陽を浴びて過ごせること。
日が暮れれば、家族の待つ家へ帰れること。
それだけで、人は十分に幸せなのだと思うようになった。
馬はゆっくりと丘陵を登っていく。
傾斜が緩み、視界を遮っていた木立が途切れた。
やがて眼前に広がったのは、夕陽を受けて銀色に輝く渭水だった。川は遠くの山々を映しながらゆるやかに流れ、その向こうには、春霞に沈む咸陽の城壁が長く横たわっている。
黒い城壁の奥には、幾重にも重なる宮殿の屋根が見えた。
高楼の上では、秦の黒旗が春風を受け、ゆっくりとはためいている。
初めてこの都を見た日のことは、今でも覚えていた。
巨大な城壁。
果ての見えない宮殿。
門へ吸い込まれていく人と車の列。
天下そのものを呑み込もうとするような都の威容を前に、あの頃の俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
だが、幾年もこの地で生きた今は違う。
あの城を見ると、無意識のうちに肩から力が抜けていく。
――帰ってきた。
そう思える場所になっていた。
人は案外、どのような土地にも馴染んでしまうものらしい。
朝は宮門をくぐって命を受け、郡県へ赴き、任を終えれば咸陽へ戻って報告する。
そんな日々を何年も重ねるうちに、俺は秦の衣をまとい、秦の食を口にし、秦の礼に従い、秦の言葉を話すことを当たり前に感じるようになっていた。
静かな夜に一人で考えでもしなければ、自分がこの時代の人間ではないことさえ忘れてしまう。
俺は、秦に生まれた人間ではない。
まして、この時代に生まれた人間でもなかった。
故郷は遥か未来。
二十一世紀の日本だ。
馬の代わりに車が走り、夜でも昼のように街が明るく、人々は掌ほどの機械一つで、遠く離れた相手と言葉を交わしていた。
俺も、そんな世界でごく普通に暮らしていた。
だが、ある日。
世界は何の前触れもなく反転した。
目を覚ましたとき、目の前に広がっていたのは、見たこともない山河だった。
空気の匂いも、地を覆う草木も、そこに暮らす人々の姿も、俺の知る世界とは何もかもが違っていた。
俺は最初、異世界へ迷い込んだのだと思った。
そう考えるしかなかった。
あの頃の世界には、神々が確かにいた。
深い山の霧の中に、人ならざる影を見た。
大河が氾濫する夜には、水を統べる者の声を聞いた。
火にも、星にも、風にも、それぞれを司る存在があり、人は畏れながらも、彼らと同じ空の下で生きていた。
後の時代なら神話と呼ばれる出来事が、その頃にはただの日常だった。
異世界ではないと言われても、誰が信じられただろう。
だが、時は容赦なく流れていった。
国が興り、滅びた。
言葉が変わり、神々の名も変わった。
森が切り開かれ、集落が生まれ、それがやがて城となった。
百年が過ぎた。
千年が過ぎた。
さらに、その何倍もの年月が流れた。
そして俺は、ようやく確信した。
――ここは異世界ではなかった。
地球だった。
ただ、人類がまだ「歴史」という名を持たなかっただけだ。
春風が、頬を撫でていく。
「鄭仁様」
不意に掛けられた声に、遠い過去へ向いていた意識が引き戻された。
振り返ると、従者の一人が馬を寄せていた。衣には街道の土埃が薄く積もり、額には乾いた汗の跡が残っている。それでも、その顔には長い任務を終えた安堵が浮かんでいた。
「ようやく、お帰りですな」
その言葉に、自然と口元が緩んだ。
「ああ」
短く応え、再び咸陽へ目を向ける。
鄭仁。
それは、戦乱の最中に金で買った戸籍に記されていた名だった。
身元を証明するものを持たない人間が、この時代を生きることは難しい。どこの邑に属し、誰の家に生まれ、いかなる身分にあるのか。それが記された戸籍がなければ、土地を持つことも、官に仕えることもできなかった。
だから俺は、死者の名を買った。
鄭仁という名で地方の下級官吏となり、与えられた仕事を一つずつこなした。倉の不正を見つけ、徴税の誤りを正し、争いを収めるうちに功績が積み重なり、やがて上官の推薦を受けて郎となった。
郎とは、皇帝の側近くに仕える官である。
宮中の宿衛を務める者もいれば、命を受けて使者となり、都の外へ赴く者もいる。俺のように、郡県の実情を調べ、戻って報告を命じられることもあった。
かつて金で手に入れた名は、今では誰も疑わない俺自身の名になっている。
春霞の向こうで、咸陽の城壁が夕陽を受けて鈍く輝いていた。城外には人家と市が広がり、渭水の渡しには、帰路を急ぐ旅人や荷車が列を作っている。
従者もその景色へ目を向け、次いで西の空を見上げた。
「この歩みなら、日が落ちる前には渡しへ着けましょう」
俺は街道の先へ目を遣った。
丘を下れば、渭水の渡しまでそう遠くはない。舟を待つ者が多ければ多少の時間は取られるだろうが、対岸へ渡ったあとも道は平坦だ。
空にはまだ明るさが残っている。
道も乾いていた。春先には雪解けの水でぬかるむこともあるが、この数日は雨も降っていない。馬の脚取りにも疲れは見えず、荷車の車輪にも異常はなかった。
これなら、城門が閉じられる前に咸陽へ入れる。
「なら、今夜は屋敷で眠れそうだ」
そう口にすると、隣を進んでいた従者がわずかに笑った。
「景安殿も、さぞお待ちでしょう」
「ああ。帰る頃合いは伝えてある」
景安は、俺の屋敷を預かる家令だった。
歳は四十をいくらか越えている。派手な衣を好まず、声を荒らげることもない。屋敷の出入りから食料の蓄え、使用人への指図、来客の取次ぎまで、俺が家の中で考えずに済んでいることの大半は、あの男が黙って片づけていた。
俺が何日留守にしようと、帰る日さえ分かっていれば、門は掃き清められ、湯は沸かされ、夕餉は冷めぬよう整えられている。
迎えに出た景安は、おそらく長旅を大げさに労うこともしない。
俺の外套を受け取り、履物の泥を見て、いつもの落ち着いた声で言うだけだ。
――お帰りなさいませ。
それで十分だった。
「もう、夕餉の支度も整えておられるでしょうな」
従者の声に、俺は小さく頷いた。
「景安ならな」
長く屋敷を空けたあとほど、あの男のありがたさがよく分かる。
郡県を巡っている間は、宿舎が用意されることもあれば、駅亭の粗末な寝台で夜を明かすこともある。食事も、その日の道程や土地の事情に左右された。温かい汁と、炊きたての粟が決まった時刻に出てくるだけでも、それがどれほど贅沢なことか身に染みる。
従者は少し間を置いてから、都の方へ目を細めた。
「黒玄殿も、お見えになるやもしれません」
「来るだろうな」
思わず苦笑が漏れた。
黒玄は、俺の古い友人だった。
年は四十前後。かつては百夫長として兵を率い、今は宮城の宿衛に就いている。将軍でも、高位の官でもない。だが、長く兵の中で生きてきた男らしく、立っているだけで周囲の空気がわずかに引き締まる。
腰には、使い込まれた剣を下げている。
飾り気はなく、鞘にも目立った装飾はない。だが、その刃が抜かれるところを見た者は、二度と粗末な剣だとは思わないだろう。
口数は決して多くない。
それでも、屋敷へ来れば景安と同じ卓につき、断りもなく酒を注ぎ、俺の巡察話を聞きながら、必要なところだけ短く言葉を挟む。
「酒も持ってくるでしょうな」
「持ってくるというより、自分が飲むために持ち込むんだ」
従者が肩を揺らした。
「鄭仁様のお帰りを祝うためでは?」
「最初の一杯まではな」
そのあとは理由など関係なくなる。
俺が疲れていようと、翌朝に報告が控えていようと、黒玄は平然と盃を満たすだろう。そして景安は止めるでもなく、酔いが回る前に水と食事を置く。
二人とも、俺とはまるで違う。
景安は家を守り、黒玄は宮城を守る。
俺は皇帝の命を受け、都と郡県の間を行き来する。
役目も、立場も異なる三人が同じ屋敷で食卓を囲むようになった経緯を、うまく説明することは難しい。
ただ、長い時間を生きてきた俺にとって、帰りを待つ者がいる場所は、それほど多くなかった。
「一杯で済めばよいのですが」
従者が言った。
「済まないだろう」
「では、明朝の登城に差し支えますな」
「そのときは、黒玄にも付き合わせる」
「宿衛の務めがあるのでは?」
「なら、今夜は控えるよう言っておけ」
従者は少し考えたあと、困ったように笑った。
「私から黒玄殿へ、でございますか」
「冗談だ」
俺が答えると、後ろを進んでいた者たちの間からも、小さな笑い声が漏れた。
長い巡察の終わりが近づき、皆の表情からも張り詰めたものが薄れている。
ここまで運んできた木簡は、明日、官府へ提出する。
巡察先の戸数、倉廩の蓄え、徴税の状況、地方官の働き、民から聞き取った訴え。その一つひとつが照合され、必要とあれば再調査が命じられるだろう。
今夜、咸陽へ着いたからといって、任務のすべてが終わるわけではない。
だが、報告の前に一夜だけでも自分の家へ帰れるなら、それでよかった。
風が丘の斜面を吹き下り、馬の鬣を揺らした。
眼下では、渭水の渡しへ向かう道がゆるやかに曲がっている。川辺には人と車が集まり、繋がれた舟が波に合わせて上下していた。舟人の呼び声が風に運ばれ、牛の鳴き声や、車輪の軋む音と重なって聞こえてくる。
川幅は広い。
雪解けの水を集めた渭水は、春の陽を映しながら、重たくゆるやかに流れていた。対岸へ目を向ければ、城外の家々から炊煙が立ち始め、その奥に咸陽の城門が黒い影となって見える。
日が沈むまでには、まだ間がある。
だが、渡しが混み始めれば、舟を待つだけで時間を取られる。
「少し歩みを速めよう」
俺が告げると、従者が後方を振り返った。
「荷車、進めよ」
声が伝わり、御者が手綱を操る。
牛が重い足を一歩前へ出し、荷車の車輪が乾いた轍へ深く沈んだ。従者たちも馬を寄せ、一行の間隔を狭めていく。
俺はもう一度、咸陽を見た。
あの城門をくぐれば、まず屋敷へ戻る。
景安に帰還を告げ、湯を使い、旅装を解く。
おそらく、腰を落ち着けるより先に黒玄が現れる。
それから夕餉を囲み、巡察先で見たことを話す。
地方官の愚痴も、道中の出来事も、木簡へ書くほどではない民の声も、二人になら話してよい気がした。
数千年を生きても、結局、帰る場所とはそういうものなのだろう。
「参ろう」
手綱を軽く引く。
馬は耳を動かし、小さく鼻を鳴らした。
一行は丘を下り、渭水の渡しへ向かって進み始める。
春風は川面を渡り、夕暮れの咸陽へ吹き込んでいた。
その先に、景安の守る屋敷がある。
そして今夜はきっと、黒玄の持ち込む酒が待っていた。
春霞の中、咸陽の宮殿はなお遠くまで連なって見える。
後に司馬遷は、その都の威容をこう記している。
秦每破諸侯、寫放其宮室、作之咸陽北阪上。南臨渭、自雍門以東至涇渭、殿屋複道周閣相屬。
秦は諸侯を破るたび、その宮殿を写して咸陽の北阪に建てた。南は渭水に臨み、雍門より東、涇水と渭水の辺りまで、宮殿と複道、高楼と回廊とが途切れることなく連なっていた。
それは、滅ぼされた六国の威容を一つの都へ呑み込み、天下そのものを形にしたような城だった。
俺は、その巨大な都へ帰っていく。
春風とともに。
――『史記』秦始皇本紀




