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神話時代から生きてますが、始皇帝の職場が一番ブラックでした ~なお、まだ旅の途中です~  作者: 謙信


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3/10

丞相召命

ブックマークや感想いただければ嬉しいです┏○ペコッ


春の朝には、まだ幾分かの寒気が残っていた。


 空が白みきらぬうちから、咸陽の城内には、車輪が石敷きの道を軋ませる音が響いている。鄭仁が目を覚ましたときも、屋外の灯はまだ消えていなかった。庭の竹葉には夜露が宿り、風が吹くたび、細かな雫が石段へ落ちた。


 巡察から戻って以来、家で迎える初めての朝だった。


 二月にわたって、鄭仁は幾つもの郡を巡り、県廷へ出入りし、伝舎に泊まった。行く先々で、道は穏やかに保たれ、倉廩は満ち、戸籍は明らかであると報告された。


 だが、各県から差し出された簿書は、あまりにも整いすぎていた。


 数十人の県令、県丞、令史がそれぞれ作成したものには見えない。まるで一人の人間が、同じ机の上で、一字ずつ写し取ったかのようだった。


 昨夜、景安や黒玄と酒を飲んでいるあいだは、それらをひとまず頭の外へ追いやることができた。しかし官服を身につける朝を迎えると、整いすぎた数字の一つ一つが、再び脳裏に浮かび上がってきた。


 景安はすでに外室で待っていた。内から物音がしたのを聞きつけ、温めた水を運んでくる。


 鄭仁は顔を洗いながら堂内を見回した。黒玄の姿がない。


「もう行ったのか」


「夜が明ける前に」


 景安は朝服を広げ、襟元と袖口を念入りに確かめた。


「黒玄様は本日、宿直にございます。宮門が開く前に、宿衛へ戻らねばなりません」


 鄭仁は、昨夜の黒玄を思い出した。


 酒甕を抱え、決して手放そうとはしなかった。まるで残りの生涯に飲むはずの酒を、一晩で飲み尽くすつもりにさえ見えた。それでいて出仕の刻となれば、何事もなかったように起き上がり、宮中へ向かう。


 宿衛の者はよほど身体が強いのか。それとも酒を酒とも思っていないのか。


 鄭仁には、いまだ判然としなかった。


 景安は衣帯を整えながら、低い声で言った。


「巡察の簡牘は、郡県ごとに束ねてあります。封泥にも異状はございません。主人が朝餉を召し上がったのち、車で丞相府へ送らせます」


 鄭仁はうなずいた。


 予定では、今日まず巡察で集めた簡牘を丞相府へ納めることになっている。書吏が封泥を改め、数を数え、出所を記録する。その後、丞相からの召しを待つ。


 すべて滞りなく運べば、午後には郎署へ戻れるはずだった。


 二月も離れていたのだ。署には相当な仕事が積み上がっているだろう。それでも机上の案牘である。外を駆け回ることに比べれば、安穏と呼べなくもない。


 巡察報告に記した、説明のつかない数々の相似についても、復命の折に申し述べるつもりだった。


 李斯が重く見るか否かは、李斯の決めることだ。


 だが鄭仁は、見たものを見なかったことにはできない。


 朝餉が案に並べられた、そのときだった。


 門外から、戸を叩く音がした。


 強い音ではない。ただ、間の取り方が規則正しかった。三度叩き、わずかに間を置いて、さらに二度。


 尋常の客ではない。


 景安は箸を置き、鄭仁へ一礼すると、堂を出ていった。


 ほどなくして戻ってきたとき、その後ろには黒衣の府吏が立っていた。男は内堂へは足を踏み入れず、戸口に立ったまま、両手で一枚の木牘を捧げている。腰には丞相府の符牌が下がっていた。


「丞相府より、郎官鄭仁へ召命を伝える。ただちに出府せよ。遅滞は許されぬ」


 鄭仁は、まだ湯気を立てている粟飯へ目をやった。


 次いで、封泥の破られていない木牘を見る。


 巡察の簡牘は、まだ邸内にある。それにもかかわらず、丞相府は通常の復命の順序を待たず、先に鄭仁を召した。


 使者の顔に浮かぶものは何もない。そこから用向きを読み取ることはできなかった。


 鄭仁は立ち上がって木牘を受け取り、印を改めた。


「丞相は、何のための召しか仰せになったか」


「下吏は召命を届けるよう命じられたのみ。ほかは何も存じません」


 意外な答えではなかった。


 丞相府の者がたとえ知っていたとしても、門前で口にするはずがない。


 鄭仁は木牘を景安へ渡した。


「車を用意させろ。簡牘は予定どおり丞相府へ送れ。私は先に向かう」


 景安は応じたものの、すぐには去らなかった。


 案の上に置かれた粟飯を小さな竹箱へ詰め、塩漬けの菜と肉脯を添えて包む。それを鄭仁へ差し出した。


 鄭仁は手渡された包みを見下ろした。


「丞相府へ行くだけだ。巡察に出るわけではない」


「主人は昨夜も、さほど召し上がっておりません」


 景安の顔色は変わらない。


「丞相府がいつ人を帰すかなど、誰にも分かりません」


 反論できず、鄭仁は竹箱を受け取った。


 家臣として、景安は多くのことにおいて決して分を越えない。ただし食事のことだけは、昔から一歩も引かなかった。


 上衣をまとい、邸門を出る。


 ちょうど、簡牘を運ぶ僕役たちも動き始めていた。


 数百枚の竹簡が郡県ごとに木箱へ納められ、縄で固く縛られている。外側には封泥が施され、巡察官と現地官署の印が押されていた。


 見たところ、数台の車に積まれた竹木にすぎない。


 だがそこには、沿道諸県の戸口、田畝、倉儲、刑獄、徭役が記されている。たった一枚失われただけでも、報告全体が証拠を失いかねない。


 鄭仁は僕役たちに、勝手に箱を開けてはならぬと念を押した。さらに随員の一人へ交付簿を持たせ、車に同行させる。


 それから自らは先に車へ乗り、丞相府へ向かった。


 咸陽の朝霧は、まだ晴れきっていなかった。


 それでも街路にはすでに、朝廷へ向かう官吏と、公文書を運ぶ車が満ちている。


 秦廷の諸官は、すべて時刻を法として動く。


 宮門が開く刻、官署が政務を始める刻、文書を差し出す刻。そのいずれもが定められていた。


 遅れた者に、道が遠かったという言い訳は通らない。


 鄭仁の車は、さほど速度を上げずに進んだ。


 前方を御史府の馬車が通り過ぎ、木匣を抱えた県吏が足早に道を横切る。誰もが、それぞれの官署へ向かっていた。


 咸陽の朝は毎日、同じように始まる。


 律令と符節と簡牘によって動く、巨大な絡繰りのようだった。わずかでも空が明るくなれば、誰かを待つことなく、自ら動き始める。


 丞相府は宮城の外にあった。


 宮殿ほどの規模ではないが、門の警備は厳しい。


 鄭仁は車を降り、召牘と官印を示した。門吏は身分を改めたうえで、氏名と入府の時刻を木版へ記し、ようやく案内の者を呼んだ。


 府内の廊には、すでに多くの者が行き交っている。


 書吏は簡を抱えて歩き、伝吏は符を手に走る。諸曹の門前には、文書を渡す順を待つ官吏が立ち並んでいた。


 声を張る者はいない。


 だが木履が床を打つ音、竹簡の触れ合う音、書刀が竹を削る音、吏員たちの低い問答が一つに混じり合い、市井よりもなお慌ただしく感じられた。


 鄭仁は東廊へ通され、そこで待つよう命じられた。


 召命を伝えた府吏は内堂へ報告に入り、代わって別の書吏が近づいてきた。


「巡察の簡牘は、いつ届きますか」


「車はすでに向かっている。まもなく着く」


 書吏は木牘を取り出し、簡牘の数、巡察区域、封印の種類を書き留めた。さらに随行する者の人数と、交付を担当する者の名まで尋ねる。


 一つ一つが記録され、口頭だけで済まされるものはなかった。


 秦法は証拠を重んじる。


 なかでも丞相府は徹底していた。


 一箱の簡牘が官吏の宅から運び出され、誰の手を経て、何時に門を入り、何時に封を開かれ、誰が数え、最後にどの曹へ渡ったのか。すべて痕跡を残さなければならない。


 煩瑣なこと、この上ない。


 しかし、だからこそ途中のどこかで過ちが起これば、その箇所をたどることができる。


 ほどなく、簡牘を積んだ車が府門へ到着した。


 鄭仁は受牘の場所へ呼ばれ、自ら書吏と引き渡しを行った。


 木箱は一つずつ降ろされた。


 まず二人の書吏がともに封泥を確かめ、交付簿に記された印と照合する。異状がないと認められてから、初めて刀で外封を削り、内の簡策を数えた。


 巡察簡牘は数が多く、その場ですべてを読み終えることはできない。


 ひとまず郡県と項目ごとに分けられ、戸籍は戸曹へ、田畝は田曹へ、倉廩と輸送に関するものはそれぞれ担当する官署へ送られた。


 鄭仁が自ら記した総報だけは、別に漆の匣へ納められ、丞相のいる内堂へ運ばれていった。


 年嵩の書吏が交付簿をめくりながら、不意に尋ねた。


「この数県の倉籍には、なぜそれぞれ別の一簡が添えてあるのです」


「元の倉籍に記された数が、あまりにも一致していた。そこで各県の倉廩を抜き打ちで調べ、実際に見た数を別に記した」


 書吏は顔を上げた。


「元の倉籍とは合わなかったのですか」


「おおむね合っている」


「合っているのなら、なぜ別に記す必要があるのです」


 鄭仁は一拍置いた。


「合いすぎているからだ」


 書吏はしばらく鄭仁を見た。


 だが、それ以上は何も問わず、簿の上に一筆を加えた。


 鄭仁が東廊へ戻っても、先ほどの府吏はまだ現れなかった。


 廊下で待つこと、およそ半刻。


 目の前では、次々と官吏が内堂へ呼び入れられ、また様々な顔色で出てくる。


 足早に立ち去る者がいる。顔を青ざめさせた者もいる。内堂を出るなり随吏を招き、その場で文書を口授する者もいた。


 丞相府の一命は、一人だけに落ちるものではない。


 諸曹から郡県へ、さらに驛道を伝い、たちまち天下へ広がっていく。


 ここで待つ一刻のあいだにも、堂内で発せられた一言によって、数十人の行程がすでに変えられているかもしれなかった。


 そこでようやく、鄭仁は景安から渡された竹箱を思い出した。


 蓋へ手をかけた、そのとき。


 内堂の方角から、一人の府吏が足早に近づいてきた。


 男は鄭仁の前で立ち止まり、告げた。


「丞相がお呼びです」


 鄭仁は府吏のあとに従い、二つの廊門を抜けた。


 内堂は広くない。


 案几と簡架、灯台、それに壁へ掛けられた地図。室内には、それ以外ほとんど何も置かれていなかった。権勢を誇るための調度ではなく、政務だけが積み重ねられた部屋だった。


 上座には李斯が座している。


 机上には鄭仁が提出した総報が開かれ、その傍らには巡察簡牘のうち何束かが抜き出されていた。


 堂内には属吏が二人いる。


 一人は筆を執り、もう一人は文書を運ぶ役目らしかった。


 鄭仁は進み出て礼をとった。


 李斯は召命を読み上げさせることも、巡察の労をねぎらうこともなかった。


 軽く手を上げ、起立を促す。


 そして総報へ目を落としたまま言った。


「報には、諸県とも大過なしとある」


「はい」


「倉廩は満ち、戸籍に欠けなく、田畝と租税もおおむね符合する」


「そのとおりにございます」


 李斯は一枚の竹簡を前へ押し出した。


「ならば、なぜ『そのまま信ずるべからず』と記した」


 鄭仁は竹簡へ目を向けた。


 そこには、自ら記した一節があった。


 すぐには答えず、一度だけ言葉を選ぶ。


「臣が巡察した先では、どの県も迎える支度を整えておりました」


 李斯は黙っている。


「道は修められ、倉門は開かれ、簿書は並べられ、百姓もまた、あらかじめ県吏が選んだ者ばかりでございました」


 鄭仁は静かに続けた。


「臣が見たものが虚偽であるとは申しませぬ。しかし、それだけが全てとも申せませぬ」


 李斯が口を開く。


「巡察を迎えるための準備は、どこの官府でもすることだ。それだけをもって疑うのか」


「それだけではございません」


 鄭仁は首を横に振った。


「臣が巡った県は、近いものも遠いものもございました。田土も戸口も収穫も、それぞれ異なります」


 一度言葉を切る。


「それにもかかわらず、差し出された簿書は、あまりにも似通っておりました」


 堂内は静まり返っている。


「戸籍の増減、倉の損耗、逃戸や未納の理由、刑獄未決の申し開きに至るまで、どれも似ております」


 鄭仁は李斯を見た。


「一県だけならば、政がよく行き届いているとも申せましょう。しかし幾つもの県が皆そうであれば、偶然とは思えません」


 李斯はなお竹簡へ目を落としていた。


「誰かが答え方を教えた、と」


「断じることはできません」


「断じられぬことを、総報へ書いた」


「断じられぬからこそ、書きました」


 筆を走らせていた属吏の手が、かすかに止まる。


 鄭仁はためらわず続けた。


「もし証があるならば、それは疑いではなく罪として奏上すべきことです。臣には、まだそこまでの証がございません」


 李斯は別の竹簡を手に取った。


「お前は倉も改めたな」


「はい」


「実数は簿書とほぼ一致している」


 そこで初めて李斯は顔を上げた。


「それでもなお、偽りがあるというのか」


「倉中の物は、移せます」


 堂内の空気が、わずかに変わった。


 李斯は表情を動かさない。


「どう移す」


「巡察には日程があります。符伝も県道を通ります。臣がどこへ向かうかを知る者があれば、隣県の粟をあらかじめ調べる倉へ移し、巡察が終われば、また次の県へ送ることができます」


 鄭仁は机上の竹簡へ視線を落とした。


「そうすれば、巡察の時だけ、どの倉も満ちて見えます。しかし一郡全体の備蓄が足りているとは限りません」


 李斯は静かに問い返した。


「その運糧の車を見たか」


「見ておりません」


「二つの県で、同じ倉籍を使っていた証を得たか」


「得ておりません」


「告発した者はいたか」


「おりません」


「ならば、それは推測だ」


「はい」


 鄭仁は正面から答えた。


「ですが、三つの県で、同じ麻袋を見ました」


 李斯の目が細くなる。


「袋口の編み方が同じでした。外側に残る古い墨の跡も似ております」


「尋ねたのか」


「はい。三県とも、『土地で織ったもの』と答えました」


 鄭仁は静かに言った。


「これだけでは証にはなりません。しかし、疑いを抱くには足ります」


 李斯はしばらく黙していた。


 やがて竹簡を机へ置く。


「なぜ、その場で調べなかった」


「臣は巡察を命じられました。捕治を命じられたわけではありません」


 鄭仁は答えた。


「その場で倉を封じ、官吏を取り調べれば、越権となる恐れがあります」


 一息置く。


「もし背後で諸県が通じているならば、他県へもすぐ知らせが届きます。痕跡は消えましょう」


 さらに続けた。


「逆に臣の疑いが誤っていたならば、一人の思い込みで地方の政務を乱すことになります」


 李斯はゆっくりと竹簡を置いた。


 その動きを見て、鄭仁は悟る。


 ここまでの問答は、まだ序にすぎなかった。


 空論を書き連ねた男かどうかを見極めるための問い。


 これから先こそが、本当の意味での答試になる。


 李斯は鄭仁を見据えた。


「もし、お前自身がこれを調べるとしたら」


 そして静かに問うた。


「どう調べる」


 鄭仁は答えた。


「まず、倉は調べません」


 李斯の眉が、わずかに動く。


「倉に不正があると疑いながら、倉を見ぬというのか」


「倉は移せます。簿書は書き換えられます。人もまた、命じられれば同じことを申します」


 鄭仁は静かに言った。


「倉だけを追っていては、いつまでも相手の後を歩くだけです」


 李斯は何も言わない。


 続きを促している。


「臣なら、まず運送を調べます」


 鄭仁は地に視線を落としたまま言葉を継いだ。


「粟は田から倉へ入り、倉から県廷や郡治、あるいは咸陽へ運ばれます」


「そのたびに車が要り、牛が要り、人足が要ります」


「道も通らねばなりません」


 堂内は静まり返っていた。


「倉籍は一夜で書き改められます。しかし車轍、草料、役夫名簿、伝舎の記録まで、一度に揃えて改めることは容易ではありません」


 鄭仁は顔を上げる。


「各県で近ごろ徴発した車牛の数を調べ、それを関津や伝舎、驛卒の記録と照らし合わせます」


「そうすれば巡察前に大量の糧が異常に動いたかどうか、おのずと見えてまいります」


 李斯は問う。


「その記録も改められていたなら」


「戸籍を見ます」


 答えに迷いはなかった。


「役夫は戸から徴発されます」


「名簿に十人と記されていれば、その十人には家があります」


「村で同じ日に十戸の働き手が消えていれば、帳簿と合います」


「もし名だけ記され、人は一歩も村を出ていなければ、それは虚記です」


 一息置いて続けた。


「牛馬も同じです」


「荷車が何百里も走れば、牛の蹄は減ります。草料も尽きます」


 鄭仁は淡々と言った。


「人には口止めができます」


「ですが、牛には命じられません」


 属吏の筆が、かすかに止まった。


 李斯は鄭仁を見つめたまま尋ねる。


「何人あれば足りる」


「一郡だけなら十人ほどで十分です」


「数郡なら」


「人数が増えれば、知らせも早く広まります」


 鄭仁は即座に答えた。


「臣は少ない方がよろしいかと存じます」


「時は」


「土地によります」


 鄭仁は言う。


「道が平らであれば、一月ほどで兆しは見えましょう」


「山川に隔てられていれば、それ以上かかるやもしれません」


 李斯は返事をしなかった。


 代わりに、傍らの属吏へ目を向ける。


「地図を」


 属吏は簡架から巻物を取り出し、机上へ広げた。


 巴、蜀、南郡、漢中。


 山河と街道が墨で細かく描かれている。


 李斯は指先を巴郡へ置いた。


 そのまま江筋をゆっくりとなぞり、一つの山地で止める。


「運送を見るというなら」


 李斯は地図から目を離さず言った。


「ここへ行け」


 鄭仁は地図を見つめた。


 すぐには答えられなかった。


 巡察中に感じた違和感を受け、李斯が命じるとしても、関中の数県を密かに調べ直す程度だと考えていた。


 巴郡。


 そこは今回巡った土地から遠く離れている。


 山は深く、道は険しい。


 郡県のありようも、関中とはまるで異なる。


 秦が巴蜀を平らげて久しいとはいえ、旧来の豪族と新たな官吏、その力関係が単純であったことは一度もない。


 塩、丹砂、木材、薬草。


 産物は豊かだった。


 しかし運送の多くは江と山道に頼る。


 法は行き渡っていても、土地の習いはなお深く残っている。


 一つの帳簿も、山へ入れば別の数字になって咸陽へ届く。


 そんな土地だった。


 鄭仁は静かに尋ねた。


「巴郡で、何をお調べになりますか」


 李斯は答えた。


「まず転運」


「その後、戸籍と倉廩だ」


「巴郡には、すでに御史も郡監もおります」


「いる」


「それでもなお、臣を遣わされるのは」


 李斯は鄭仁を見た。


「彼らの報告にも、大過がないからだ」


 その一言で、鄭仁は口を閉ざした。


 李斯は脇へ積まれていた竹簡を数枚、机の上へ押し出す。


「見よ」


 巴郡から送られてきた近年の奏報だった。


 塩の収納に数があり、丹砂にも数がある。穀物の転運にも数があり、逃戸、盗賊、徭役、刑獄に至るまで、すべてが整然と記されていた。


 どの数字も互いに食い違わない。


 むしろ鄭仁が巡察で目にした簿書以上に、よく整っている。


 整いすぎていた。


 鄭仁は一枚を手に取る。


 昨年、巴郡から咸陽へ送られた丹砂の記録だった。


「これらの数字は、咸陽へ届いた実数と照らし合わせましたか」


「照合した」


「一致しておりますか」


「おおむね」


「塩と木材も」


「同じだ」


 鄭仁は竹簡を机へ戻した。


「すべて一致しているのであれば」


 ゆっくりと言う。


「丞相は、何を疑われるのでしょう」


 李斯は答えなかった。


 代わりに問い返す。


「ある郡が毎年法に適い、租税に欠けず、産物も失われず、官吏への訴えもなく、民も乱れぬ」


 一拍置く。


「どう思う」


「善政と申せましょう」


「それが三年続いたなら」


 鄭仁は考えた末に答えた。


「なおさら、その理由を調べるべきかと」


 李斯の口元が、わずかに動いた。


 笑ったのかどうかは分からない。


 指先が地図の巴郡を示す。


「三年」


 静かな声だった。


「巴郡は三年にわたり、一度も大きな誤りを出しておらぬ」


「朝廷が調べても証は揃う」


「官を遣わして問い質しても、答えは合う」


 そこで李斯は鄭仁を見る。


「その間に」


「郡丞は二人替わった」


「県令は三人替わった」


「監御史も一人替わった」


 言葉を切る。


「官は替わる」


「筆も替わる」


 そして静かに言った。


「だが数字だけが替わらぬ」


 その瞬間、巡察の道中で見続けた簿書が、鄭仁の脳裏によみがえった。


 違う土地。


 違う官。


 違う田畑。


 違う戸口。


 それでも最後に差し出される答えだけが、どこも同じだった。


 関中の数県だけなら、巡察への備えと言えたかもしれない。


 だが巴郡では、それが三年も続いている。


 もはや県吏同士が口裏を合わせた程度では説明できない。


 鄭仁は地図へ目を落とした。


「丞相は、巴郡の簿書を統べる者がいるとお考えですか」


 李斯は首を振る。


「私はそうは言っておらぬ」


 その声音は静かだった。


「お前自身が言ったではないか」


「証なきものは、疑いと呼ぶしかないと」


 鄭仁は黙った。


 巴郡の山々が、墨で描かれた地図の上に連なっている。


 もし誰かが、あれほど広い郡の帳簿を何年にもわたり揃えてきたのだとすれば。


 その者が動かしているのは、書吏だけではない。


 転運。


 戸籍。


 倉廩。


 そして官吏同士の連絡。


 少なくとも、それだけの手が届いている。


 さらに厄介なのは、朝廷へ納められる物資そのものは不足していないことだった。


 表面だけを見れば、誰も損をしていない。


 ならば、そこに隠れているものは単なる横領とは限らない。


 利益を分け合っている者がいるのか。


 あるいは旧来のやり方で地方を保っている者がいるのか。


 朝廷の知らぬところで、郡、豪族、商人、官吏、その誰もが沈黙を選ぶ理由があるのか。


 地図を見つめたまま、鄭仁はゆっくり息を吐いた。


 李斯は鄭仁を見た。


「まだ十人で足りると思うか」


 問いは静かだった。


 鄭仁は考えた。


 巴郡の広さを思えば、人手は多いほどよい。しかし、人が増えれば口も増える。口が増えれば、知らせは早く漏れる。


 やがて彼は答えた。


「人数は変えません」


「理由は」


「多ければ、それだけ目立ちます」


 鄭仁は地図へ目を落としたまま続けた。


「臣が見たいのは、迎えられた巴郡ではございません」


「迎える暇のない巴郡です」


 李斯は小さくうなずいた。


「他には」


「巴郡近五年の戸籍、転運、倉廩、それに官吏交替の記録を拝見したく存じます」


「よかろう」


「さらに一人」


 鄭仁は言った。


「巴地の道と方言に通じた者が必要です」


「現地で用立てればよい」


「それはできません」


 李斯の視線が止まる。


「なぜだ」


「臣の疑いが郡中の官吏へ及ぶなら、現地の者を用いた時点で行動は筒抜けになります」


 鄭仁は迷いなく答えた。


「道に不慣れでも構いません。途中で尋ねながら進む方が、安全です」


「心当たりはあるか」


 その問いに、鄭仁は一瞬だけ口をつぐんだ。


 最初に思い浮かんだのは黒玄だった。


 宿衛として鍛えられ、腕も立つ。役人の虚実にも惑わされない男である。


 だが、宮中宿衛を勝手に連れ出せるはずもない。


 景安もまた頼りになる。


 文書をまとめ、車馬を整え、人の機微を読むことにかけては、並ぶ者はいない。


 しかし今回の巴郡行きは、案牘だけで済む仕事には思えなかった。


「まだ決めておりません」


 鄭仁は答えた。


「郎署へ戻って選びます」


 李斯は首を横に振った。


「その必要はない」


 鄭仁は顔を上げた。


「お前に付ける者はこちらで決める」


 胸の内が、わずかに沈む。


 上官が「こちらで決める」と言うとき、それは選択の余地がないという意味だった。


 李斯は案の脇から一枚の木牘を取り上げ、属吏へ渡す。


「三日」


 それだけ言った。


 属吏は筆を執る。


「巴郡近年の文書は副本を用意する。符伝も発給する」


 李斯は鄭仁へ向き直った。


「郎署へ戻り、旧務を引き継げ」


「三日後の朝、出立せよ」


 鄭仁は思わず聞き返した。


「三日でございますか」


「長いか」


「五日は頂けるものと思っておりました」


 李斯は淡々と答えた。


「五日与えれば、巴郡にも五日の備えを与えることになる」


 その一言で、鄭仁は何も言えなくなった。


 まだ咸陽を発ってもいない。


 それでも李斯は、いつ、どこから情報が漏れるかまで織り込んでいる。


 三日のうちに五年分の文書へ目を通し、郎署の仕事を引き継ぎ、車馬を整え、旅支度を済ませなければならない。


 今日の復命は終わりではなかった。


 すでに次の任務は始まっている。


 鄭仁が立ち上がろうとしたときだった。


「まだ終わっておらぬ」


 李斯の声に、動きを止める。


 属吏が一つの木匣を運んできた。


 匣は黒漆塗りで、錠が掛けられている。


 李斯は自ら鍵を開け、その中から細長い竹筒と青銅の符節を取り出した。


「これを持て」


 鄭仁は両手で受けた。


 符節は半分に割られた虎符ではない。


 巡察使へ交付される信符である。


 道中の関津を越え、駅馬を徴し、郡県へ命を伝えるためのものだった。


 だが、その重さが違う。


 手にした瞬間、青銅がずしりと掌へ沈んだ。


 表面には細かな文字が刻まれている。


 鄭仁は思わず目を落とした。


 通常の巡察符節より、上位の権限を示す印だった。


「これは……」


「必要になれば使え」


 李斯は簡潔に言う。


「必要にならねば」


「封を切るな」


 続いて竹筒を示した。


「こちらは」


「別命だ」


 封泥には、李斯自らの印が押されている。


「巴郡へ着くまで開くな」


 鄭仁は一礼した。


「承知いたしました」


 匣へ収めようとした、そのとき。


 李斯がふいに尋ねた。


「お前は巡察中、丹砂を見たか」


 思いがけない問いだった。


「はい」


「巴蜀から届いたものを」


「どう思った」


 鄭仁は少し考えた。


「質は良いかと」


「色も濃く、不純物も少ないように見受けました」


「量は」


「例年どおりと聞いております」


 李斯は静かに首を振った。


「例年どおり」


 その言葉だけを繰り返した。


「数字も、そう書いてある」


 鄭仁は何も言わない。


「だが」


 李斯は机上の一枚を指先で叩いた。


「宮中では近ごろ、丹砂が足りぬ」


 その一言に、鄭仁は顔を上げた。


「足りない……」


「記録では不足しておらぬ」


「咸陽へも届いている」


「だが、実際には不足している」


 堂内が静まり返る。


 丹砂はただの鉱物ではない。


 朱書に用いられ、封泥の印にも使われる。


 祭祀にも、薬にも欠かせない。


 宮中で不足するということは、どこかで消えているということだった。


「途中で失われたのでしょうか」


「それを調べる」


 李斯は短く答える。


「ただし」


 視線が鄭仁を射抜く。


「最初から丹砂だけを見るな」


 鄭仁はその意味を考えた。


 丹砂だけを追えば、丹砂だけを隠される。


 もし本当に何者かが物流を操っているなら、丹砂は現れた結果でしかない。


 転運全体を見なければ、消えた理由は見えない。


「心得ました」


 李斯は小さくうなずく。


「まず」


「誰が盗んだかを探すな」


 静かな声だった。


「先に」


「誰が間違えることを許さなかったかを探せ」


 その言葉は、不思議な響きを持っていた。


 盗人を追え、ではない。


 間違いを許さぬ者を探せ。


 帳簿を揃え続けた者。


 数字を揃え続けた者。


 誰か一人ではない。


 そうしなければならない仕組みそのものを見つけろ、と李斯は言っているのだった。


 鄭仁は深く一礼する。


「謹んで承ります」


 李斯はもう何も言わなかった。


 属吏が静かに戸口へ進み、退室を促す。


 鄭仁は符節と竹筒を抱え、内堂を辞した。


 戸が閉まる音だけが、静かな廊下へ長く響いた。


 丞相府を出たときには、日はすでに高く昇っていた。


 朝の冷気は薄れ、石畳の上には柔らかな陽が差している。


 府門の外には、巡察簡牘を運んできた車がまだ止まっていた。


 受け渡しを終えた僕役たちが、帰り支度をしている。


 景安もその中にいた。


 鄭仁の姿を認めると、すぐに歩み寄る。


「お帰りなさいませ」


 そして、鄭仁の腕に抱えられた木匣へ目を止めた。


「……何か、新たなご命令が」


「巴郡へ行く」


 景安は驚かなかった。


 ただ一つだけ尋ねる。


「いつ、ご出立で」


「三日後」


 その返答だけで十分だったらしい。


 景安は黙ってうなずき、頭の中で必要な支度を並べ始めたようだった。


「車は一台では足りません」


「書籍を積む車と、旅装を載せる車を分けます」


「道具は」


「後で決めよう」


 鄭仁は歩き出した。


 丞相府から郎署までは、それほど遠くない。


 途中、役人たちが慌ただしく行き交う。


 誰もが手に簡牘を抱え、足を止める者はいない。


 咸陽では、一日の遅れがそのまま政務の遅れになる。


 だから誰も急ぐ。


 その流れの中を歩きながらも、鄭仁の頭には、李斯の最後の言葉だけが残っていた。


 ――誰が盗んだかを探すな。


 ――誰が間違えることを許さなかったかを探せ。


 帳簿は人が書く。


 数字も人が記す。


 だが、その数字を何年も狂わせない仕組みを作るには、一人では足りない。


 命じる者。


 従う者。


 見逃す者。


 利益を受ける者。


 そのどれか一つでも欠ければ、三年ものあいだ数字を揃え続けることなどできない。


 郎署へ戻ると、まだ昼にもなっていなかった。


 留守中に積み上がった案牘が机を埋めている。


 同僚の郎官が顔を上げた。


「戻ったか」


「巡察はどうだった」


「話は後だ」


 鄭仁は短く答えた。


「三日後に巴郡へ発つ」


 郎官は思わず目を丸くした。


「今戻ったばかりだぞ」


「私もそう思う」


 苦笑ともため息ともつかぬ声だった。


 それから二人は、山積みになった案牘を見比べる。


「全部、引き継ぐのか」


「そうなる」


「三日で」


「三日でだ」


 郎官は天井を仰いだ。


「丞相も、人を休ませる気はないらしい」


「そのようだ」


 鄭仁は自席へ腰を下ろす。


 机の隅へ木匣を静かに置いた。


 封泥の付いた竹筒は、そのまま手を触れない。


 巴郡へ着くまで開くな。


 李斯の命は、それだけだった。


 何が記されているのか。


 考えないわけではない。


 だが考えても分からぬことに時間を費やす余裕はなかった。


 五年分の巴郡の文書。


 旧務の引き継ぎ。


 同行者の選定。


 旅支度。


 ふと、朝のまま持ち歩いていた竹箱が目に入った。


 景安が持たせた朝餉である。


 蓋を開けると、粟飯はすっかり冷え、塩菜も肉脯も朝と変わらぬ姿で並んでいた。


 鄭仁は思わず笑みを漏らす。


 結局、一口も食べる暇がなかった。


 箸を取り、ようやく最初の一口を口へ運ぶ。


 冷えてはいたが、不思議とうまかった。



 巴郡。


その名だけが、冷えた粟飯の向こうに静かに浮かんでいた。

 

このときの鄭仁は、まだ知らない。


 巴の地で、一人の人物と出会うことになることを。


 その出会いが、やがて彼自身の運命だけでなく、この事件の真相をも大きく動かしていくことを。

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