丞相召命
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春の朝には、まだ幾分かの寒気が残っていた。
空が白みきらぬうちから、咸陽の城内には、車輪が石敷きの道を軋ませる音が響いている。鄭仁が目を覚ましたときも、屋外の灯はまだ消えていなかった。庭の竹葉には夜露が宿り、風が吹くたび、細かな雫が石段へ落ちた。
巡察から戻って以来、家で迎える初めての朝だった。
二月にわたって、鄭仁は幾つもの郡を巡り、県廷へ出入りし、伝舎に泊まった。行く先々で、道は穏やかに保たれ、倉廩は満ち、戸籍は明らかであると報告された。
だが、各県から差し出された簿書は、あまりにも整いすぎていた。
数十人の県令、県丞、令史がそれぞれ作成したものには見えない。まるで一人の人間が、同じ机の上で、一字ずつ写し取ったかのようだった。
昨夜、景安や黒玄と酒を飲んでいるあいだは、それらをひとまず頭の外へ追いやることができた。しかし官服を身につける朝を迎えると、整いすぎた数字の一つ一つが、再び脳裏に浮かび上がってきた。
景安はすでに外室で待っていた。内から物音がしたのを聞きつけ、温めた水を運んでくる。
鄭仁は顔を洗いながら堂内を見回した。黒玄の姿がない。
「もう行ったのか」
「夜が明ける前に」
景安は朝服を広げ、襟元と袖口を念入りに確かめた。
「黒玄様は本日、宿直にございます。宮門が開く前に、宿衛へ戻らねばなりません」
鄭仁は、昨夜の黒玄を思い出した。
酒甕を抱え、決して手放そうとはしなかった。まるで残りの生涯に飲むはずの酒を、一晩で飲み尽くすつもりにさえ見えた。それでいて出仕の刻となれば、何事もなかったように起き上がり、宮中へ向かう。
宿衛の者はよほど身体が強いのか。それとも酒を酒とも思っていないのか。
鄭仁には、いまだ判然としなかった。
景安は衣帯を整えながら、低い声で言った。
「巡察の簡牘は、郡県ごとに束ねてあります。封泥にも異状はございません。主人が朝餉を召し上がったのち、車で丞相府へ送らせます」
鄭仁はうなずいた。
予定では、今日まず巡察で集めた簡牘を丞相府へ納めることになっている。書吏が封泥を改め、数を数え、出所を記録する。その後、丞相からの召しを待つ。
すべて滞りなく運べば、午後には郎署へ戻れるはずだった。
二月も離れていたのだ。署には相当な仕事が積み上がっているだろう。それでも机上の案牘である。外を駆け回ることに比べれば、安穏と呼べなくもない。
巡察報告に記した、説明のつかない数々の相似についても、復命の折に申し述べるつもりだった。
李斯が重く見るか否かは、李斯の決めることだ。
だが鄭仁は、見たものを見なかったことにはできない。
朝餉が案に並べられた、そのときだった。
門外から、戸を叩く音がした。
強い音ではない。ただ、間の取り方が規則正しかった。三度叩き、わずかに間を置いて、さらに二度。
尋常の客ではない。
景安は箸を置き、鄭仁へ一礼すると、堂を出ていった。
ほどなくして戻ってきたとき、その後ろには黒衣の府吏が立っていた。男は内堂へは足を踏み入れず、戸口に立ったまま、両手で一枚の木牘を捧げている。腰には丞相府の符牌が下がっていた。
「丞相府より、郎官鄭仁へ召命を伝える。ただちに出府せよ。遅滞は許されぬ」
鄭仁は、まだ湯気を立てている粟飯へ目をやった。
次いで、封泥の破られていない木牘を見る。
巡察の簡牘は、まだ邸内にある。それにもかかわらず、丞相府は通常の復命の順序を待たず、先に鄭仁を召した。
使者の顔に浮かぶものは何もない。そこから用向きを読み取ることはできなかった。
鄭仁は立ち上がって木牘を受け取り、印を改めた。
「丞相は、何のための召しか仰せになったか」
「下吏は召命を届けるよう命じられたのみ。ほかは何も存じません」
意外な答えではなかった。
丞相府の者がたとえ知っていたとしても、門前で口にするはずがない。
鄭仁は木牘を景安へ渡した。
「車を用意させろ。簡牘は予定どおり丞相府へ送れ。私は先に向かう」
景安は応じたものの、すぐには去らなかった。
案の上に置かれた粟飯を小さな竹箱へ詰め、塩漬けの菜と肉脯を添えて包む。それを鄭仁へ差し出した。
鄭仁は手渡された包みを見下ろした。
「丞相府へ行くだけだ。巡察に出るわけではない」
「主人は昨夜も、さほど召し上がっておりません」
景安の顔色は変わらない。
「丞相府がいつ人を帰すかなど、誰にも分かりません」
反論できず、鄭仁は竹箱を受け取った。
家臣として、景安は多くのことにおいて決して分を越えない。ただし食事のことだけは、昔から一歩も引かなかった。
上衣をまとい、邸門を出る。
ちょうど、簡牘を運ぶ僕役たちも動き始めていた。
数百枚の竹簡が郡県ごとに木箱へ納められ、縄で固く縛られている。外側には封泥が施され、巡察官と現地官署の印が押されていた。
見たところ、数台の車に積まれた竹木にすぎない。
だがそこには、沿道諸県の戸口、田畝、倉儲、刑獄、徭役が記されている。たった一枚失われただけでも、報告全体が証拠を失いかねない。
鄭仁は僕役たちに、勝手に箱を開けてはならぬと念を押した。さらに随員の一人へ交付簿を持たせ、車に同行させる。
それから自らは先に車へ乗り、丞相府へ向かった。
咸陽の朝霧は、まだ晴れきっていなかった。
それでも街路にはすでに、朝廷へ向かう官吏と、公文書を運ぶ車が満ちている。
秦廷の諸官は、すべて時刻を法として動く。
宮門が開く刻、官署が政務を始める刻、文書を差し出す刻。そのいずれもが定められていた。
遅れた者に、道が遠かったという言い訳は通らない。
鄭仁の車は、さほど速度を上げずに進んだ。
前方を御史府の馬車が通り過ぎ、木匣を抱えた県吏が足早に道を横切る。誰もが、それぞれの官署へ向かっていた。
咸陽の朝は毎日、同じように始まる。
律令と符節と簡牘によって動く、巨大な絡繰りのようだった。わずかでも空が明るくなれば、誰かを待つことなく、自ら動き始める。
丞相府は宮城の外にあった。
宮殿ほどの規模ではないが、門の警備は厳しい。
鄭仁は車を降り、召牘と官印を示した。門吏は身分を改めたうえで、氏名と入府の時刻を木版へ記し、ようやく案内の者を呼んだ。
府内の廊には、すでに多くの者が行き交っている。
書吏は簡を抱えて歩き、伝吏は符を手に走る。諸曹の門前には、文書を渡す順を待つ官吏が立ち並んでいた。
声を張る者はいない。
だが木履が床を打つ音、竹簡の触れ合う音、書刀が竹を削る音、吏員たちの低い問答が一つに混じり合い、市井よりもなお慌ただしく感じられた。
鄭仁は東廊へ通され、そこで待つよう命じられた。
召命を伝えた府吏は内堂へ報告に入り、代わって別の書吏が近づいてきた。
「巡察の簡牘は、いつ届きますか」
「車はすでに向かっている。まもなく着く」
書吏は木牘を取り出し、簡牘の数、巡察区域、封印の種類を書き留めた。さらに随行する者の人数と、交付を担当する者の名まで尋ねる。
一つ一つが記録され、口頭だけで済まされるものはなかった。
秦法は証拠を重んじる。
なかでも丞相府は徹底していた。
一箱の簡牘が官吏の宅から運び出され、誰の手を経て、何時に門を入り、何時に封を開かれ、誰が数え、最後にどの曹へ渡ったのか。すべて痕跡を残さなければならない。
煩瑣なこと、この上ない。
しかし、だからこそ途中のどこかで過ちが起これば、その箇所をたどることができる。
ほどなく、簡牘を積んだ車が府門へ到着した。
鄭仁は受牘の場所へ呼ばれ、自ら書吏と引き渡しを行った。
木箱は一つずつ降ろされた。
まず二人の書吏がともに封泥を確かめ、交付簿に記された印と照合する。異状がないと認められてから、初めて刀で外封を削り、内の簡策を数えた。
巡察簡牘は数が多く、その場ですべてを読み終えることはできない。
ひとまず郡県と項目ごとに分けられ、戸籍は戸曹へ、田畝は田曹へ、倉廩と輸送に関するものはそれぞれ担当する官署へ送られた。
鄭仁が自ら記した総報だけは、別に漆の匣へ納められ、丞相のいる内堂へ運ばれていった。
年嵩の書吏が交付簿をめくりながら、不意に尋ねた。
「この数県の倉籍には、なぜそれぞれ別の一簡が添えてあるのです」
「元の倉籍に記された数が、あまりにも一致していた。そこで各県の倉廩を抜き打ちで調べ、実際に見た数を別に記した」
書吏は顔を上げた。
「元の倉籍とは合わなかったのですか」
「おおむね合っている」
「合っているのなら、なぜ別に記す必要があるのです」
鄭仁は一拍置いた。
「合いすぎているからだ」
書吏はしばらく鄭仁を見た。
だが、それ以上は何も問わず、簿の上に一筆を加えた。
鄭仁が東廊へ戻っても、先ほどの府吏はまだ現れなかった。
廊下で待つこと、およそ半刻。
目の前では、次々と官吏が内堂へ呼び入れられ、また様々な顔色で出てくる。
足早に立ち去る者がいる。顔を青ざめさせた者もいる。内堂を出るなり随吏を招き、その場で文書を口授する者もいた。
丞相府の一命は、一人だけに落ちるものではない。
諸曹から郡県へ、さらに驛道を伝い、たちまち天下へ広がっていく。
ここで待つ一刻のあいだにも、堂内で発せられた一言によって、数十人の行程がすでに変えられているかもしれなかった。
そこでようやく、鄭仁は景安から渡された竹箱を思い出した。
蓋へ手をかけた、そのとき。
内堂の方角から、一人の府吏が足早に近づいてきた。
男は鄭仁の前で立ち止まり、告げた。
「丞相がお呼びです」
鄭仁は府吏のあとに従い、二つの廊門を抜けた。
内堂は広くない。
案几と簡架、灯台、それに壁へ掛けられた地図。室内には、それ以外ほとんど何も置かれていなかった。権勢を誇るための調度ではなく、政務だけが積み重ねられた部屋だった。
上座には李斯が座している。
机上には鄭仁が提出した総報が開かれ、その傍らには巡察簡牘のうち何束かが抜き出されていた。
堂内には属吏が二人いる。
一人は筆を執り、もう一人は文書を運ぶ役目らしかった。
鄭仁は進み出て礼をとった。
李斯は召命を読み上げさせることも、巡察の労をねぎらうこともなかった。
軽く手を上げ、起立を促す。
そして総報へ目を落としたまま言った。
「報には、諸県とも大過なしとある」
「はい」
「倉廩は満ち、戸籍に欠けなく、田畝と租税もおおむね符合する」
「そのとおりにございます」
李斯は一枚の竹簡を前へ押し出した。
「ならば、なぜ『そのまま信ずるべからず』と記した」
鄭仁は竹簡へ目を向けた。
そこには、自ら記した一節があった。
すぐには答えず、一度だけ言葉を選ぶ。
「臣が巡察した先では、どの県も迎える支度を整えておりました」
李斯は黙っている。
「道は修められ、倉門は開かれ、簿書は並べられ、百姓もまた、あらかじめ県吏が選んだ者ばかりでございました」
鄭仁は静かに続けた。
「臣が見たものが虚偽であるとは申しませぬ。しかし、それだけが全てとも申せませぬ」
李斯が口を開く。
「巡察を迎えるための準備は、どこの官府でもすることだ。それだけをもって疑うのか」
「それだけではございません」
鄭仁は首を横に振った。
「臣が巡った県は、近いものも遠いものもございました。田土も戸口も収穫も、それぞれ異なります」
一度言葉を切る。
「それにもかかわらず、差し出された簿書は、あまりにも似通っておりました」
堂内は静まり返っている。
「戸籍の増減、倉の損耗、逃戸や未納の理由、刑獄未決の申し開きに至るまで、どれも似ております」
鄭仁は李斯を見た。
「一県だけならば、政がよく行き届いているとも申せましょう。しかし幾つもの県が皆そうであれば、偶然とは思えません」
李斯はなお竹簡へ目を落としていた。
「誰かが答え方を教えた、と」
「断じることはできません」
「断じられぬことを、総報へ書いた」
「断じられぬからこそ、書きました」
筆を走らせていた属吏の手が、かすかに止まる。
鄭仁はためらわず続けた。
「もし証があるならば、それは疑いではなく罪として奏上すべきことです。臣には、まだそこまでの証がございません」
李斯は別の竹簡を手に取った。
「お前は倉も改めたな」
「はい」
「実数は簿書とほぼ一致している」
そこで初めて李斯は顔を上げた。
「それでもなお、偽りがあるというのか」
「倉中の物は、移せます」
堂内の空気が、わずかに変わった。
李斯は表情を動かさない。
「どう移す」
「巡察には日程があります。符伝も県道を通ります。臣がどこへ向かうかを知る者があれば、隣県の粟をあらかじめ調べる倉へ移し、巡察が終われば、また次の県へ送ることができます」
鄭仁は机上の竹簡へ視線を落とした。
「そうすれば、巡察の時だけ、どの倉も満ちて見えます。しかし一郡全体の備蓄が足りているとは限りません」
李斯は静かに問い返した。
「その運糧の車を見たか」
「見ておりません」
「二つの県で、同じ倉籍を使っていた証を得たか」
「得ておりません」
「告発した者はいたか」
「おりません」
「ならば、それは推測だ」
「はい」
鄭仁は正面から答えた。
「ですが、三つの県で、同じ麻袋を見ました」
李斯の目が細くなる。
「袋口の編み方が同じでした。外側に残る古い墨の跡も似ております」
「尋ねたのか」
「はい。三県とも、『土地で織ったもの』と答えました」
鄭仁は静かに言った。
「これだけでは証にはなりません。しかし、疑いを抱くには足ります」
李斯はしばらく黙していた。
やがて竹簡を机へ置く。
「なぜ、その場で調べなかった」
「臣は巡察を命じられました。捕治を命じられたわけではありません」
鄭仁は答えた。
「その場で倉を封じ、官吏を取り調べれば、越権となる恐れがあります」
一息置く。
「もし背後で諸県が通じているならば、他県へもすぐ知らせが届きます。痕跡は消えましょう」
さらに続けた。
「逆に臣の疑いが誤っていたならば、一人の思い込みで地方の政務を乱すことになります」
李斯はゆっくりと竹簡を置いた。
その動きを見て、鄭仁は悟る。
ここまでの問答は、まだ序にすぎなかった。
空論を書き連ねた男かどうかを見極めるための問い。
これから先こそが、本当の意味での答試になる。
李斯は鄭仁を見据えた。
「もし、お前自身がこれを調べるとしたら」
そして静かに問うた。
「どう調べる」
鄭仁は答えた。
「まず、倉は調べません」
李斯の眉が、わずかに動く。
「倉に不正があると疑いながら、倉を見ぬというのか」
「倉は移せます。簿書は書き換えられます。人もまた、命じられれば同じことを申します」
鄭仁は静かに言った。
「倉だけを追っていては、いつまでも相手の後を歩くだけです」
李斯は何も言わない。
続きを促している。
「臣なら、まず運送を調べます」
鄭仁は地に視線を落としたまま言葉を継いだ。
「粟は田から倉へ入り、倉から県廷や郡治、あるいは咸陽へ運ばれます」
「そのたびに車が要り、牛が要り、人足が要ります」
「道も通らねばなりません」
堂内は静まり返っていた。
「倉籍は一夜で書き改められます。しかし車轍、草料、役夫名簿、伝舎の記録まで、一度に揃えて改めることは容易ではありません」
鄭仁は顔を上げる。
「各県で近ごろ徴発した車牛の数を調べ、それを関津や伝舎、驛卒の記録と照らし合わせます」
「そうすれば巡察前に大量の糧が異常に動いたかどうか、おのずと見えてまいります」
李斯は問う。
「その記録も改められていたなら」
「戸籍を見ます」
答えに迷いはなかった。
「役夫は戸から徴発されます」
「名簿に十人と記されていれば、その十人には家があります」
「村で同じ日に十戸の働き手が消えていれば、帳簿と合います」
「もし名だけ記され、人は一歩も村を出ていなければ、それは虚記です」
一息置いて続けた。
「牛馬も同じです」
「荷車が何百里も走れば、牛の蹄は減ります。草料も尽きます」
鄭仁は淡々と言った。
「人には口止めができます」
「ですが、牛には命じられません」
属吏の筆が、かすかに止まった。
李斯は鄭仁を見つめたまま尋ねる。
「何人あれば足りる」
「一郡だけなら十人ほどで十分です」
「数郡なら」
「人数が増えれば、知らせも早く広まります」
鄭仁は即座に答えた。
「臣は少ない方がよろしいかと存じます」
「時は」
「土地によります」
鄭仁は言う。
「道が平らであれば、一月ほどで兆しは見えましょう」
「山川に隔てられていれば、それ以上かかるやもしれません」
李斯は返事をしなかった。
代わりに、傍らの属吏へ目を向ける。
「地図を」
属吏は簡架から巻物を取り出し、机上へ広げた。
巴、蜀、南郡、漢中。
山河と街道が墨で細かく描かれている。
李斯は指先を巴郡へ置いた。
そのまま江筋をゆっくりとなぞり、一つの山地で止める。
「運送を見るというなら」
李斯は地図から目を離さず言った。
「ここへ行け」
鄭仁は地図を見つめた。
すぐには答えられなかった。
巡察中に感じた違和感を受け、李斯が命じるとしても、関中の数県を密かに調べ直す程度だと考えていた。
巴郡。
そこは今回巡った土地から遠く離れている。
山は深く、道は険しい。
郡県のありようも、関中とはまるで異なる。
秦が巴蜀を平らげて久しいとはいえ、旧来の豪族と新たな官吏、その力関係が単純であったことは一度もない。
塩、丹砂、木材、薬草。
産物は豊かだった。
しかし運送の多くは江と山道に頼る。
法は行き渡っていても、土地の習いはなお深く残っている。
一つの帳簿も、山へ入れば別の数字になって咸陽へ届く。
そんな土地だった。
鄭仁は静かに尋ねた。
「巴郡で、何をお調べになりますか」
李斯は答えた。
「まず転運」
「その後、戸籍と倉廩だ」
「巴郡には、すでに御史も郡監もおります」
「いる」
「それでもなお、臣を遣わされるのは」
李斯は鄭仁を見た。
「彼らの報告にも、大過がないからだ」
その一言で、鄭仁は口を閉ざした。
李斯は脇へ積まれていた竹簡を数枚、机の上へ押し出す。
「見よ」
巴郡から送られてきた近年の奏報だった。
塩の収納に数があり、丹砂にも数がある。穀物の転運にも数があり、逃戸、盗賊、徭役、刑獄に至るまで、すべてが整然と記されていた。
どの数字も互いに食い違わない。
むしろ鄭仁が巡察で目にした簿書以上に、よく整っている。
整いすぎていた。
鄭仁は一枚を手に取る。
昨年、巴郡から咸陽へ送られた丹砂の記録だった。
「これらの数字は、咸陽へ届いた実数と照らし合わせましたか」
「照合した」
「一致しておりますか」
「おおむね」
「塩と木材も」
「同じだ」
鄭仁は竹簡を机へ戻した。
「すべて一致しているのであれば」
ゆっくりと言う。
「丞相は、何を疑われるのでしょう」
李斯は答えなかった。
代わりに問い返す。
「ある郡が毎年法に適い、租税に欠けず、産物も失われず、官吏への訴えもなく、民も乱れぬ」
一拍置く。
「どう思う」
「善政と申せましょう」
「それが三年続いたなら」
鄭仁は考えた末に答えた。
「なおさら、その理由を調べるべきかと」
李斯の口元が、わずかに動いた。
笑ったのかどうかは分からない。
指先が地図の巴郡を示す。
「三年」
静かな声だった。
「巴郡は三年にわたり、一度も大きな誤りを出しておらぬ」
「朝廷が調べても証は揃う」
「官を遣わして問い質しても、答えは合う」
そこで李斯は鄭仁を見る。
「その間に」
「郡丞は二人替わった」
「県令は三人替わった」
「監御史も一人替わった」
言葉を切る。
「官は替わる」
「筆も替わる」
そして静かに言った。
「だが数字だけが替わらぬ」
その瞬間、巡察の道中で見続けた簿書が、鄭仁の脳裏によみがえった。
違う土地。
違う官。
違う田畑。
違う戸口。
それでも最後に差し出される答えだけが、どこも同じだった。
関中の数県だけなら、巡察への備えと言えたかもしれない。
だが巴郡では、それが三年も続いている。
もはや県吏同士が口裏を合わせた程度では説明できない。
鄭仁は地図へ目を落とした。
「丞相は、巴郡の簿書を統べる者がいるとお考えですか」
李斯は首を振る。
「私はそうは言っておらぬ」
その声音は静かだった。
「お前自身が言ったではないか」
「証なきものは、疑いと呼ぶしかないと」
鄭仁は黙った。
巴郡の山々が、墨で描かれた地図の上に連なっている。
もし誰かが、あれほど広い郡の帳簿を何年にもわたり揃えてきたのだとすれば。
その者が動かしているのは、書吏だけではない。
転運。
戸籍。
倉廩。
そして官吏同士の連絡。
少なくとも、それだけの手が届いている。
さらに厄介なのは、朝廷へ納められる物資そのものは不足していないことだった。
表面だけを見れば、誰も損をしていない。
ならば、そこに隠れているものは単なる横領とは限らない。
利益を分け合っている者がいるのか。
あるいは旧来のやり方で地方を保っている者がいるのか。
朝廷の知らぬところで、郡、豪族、商人、官吏、その誰もが沈黙を選ぶ理由があるのか。
地図を見つめたまま、鄭仁はゆっくり息を吐いた。
李斯は鄭仁を見た。
「まだ十人で足りると思うか」
問いは静かだった。
鄭仁は考えた。
巴郡の広さを思えば、人手は多いほどよい。しかし、人が増えれば口も増える。口が増えれば、知らせは早く漏れる。
やがて彼は答えた。
「人数は変えません」
「理由は」
「多ければ、それだけ目立ちます」
鄭仁は地図へ目を落としたまま続けた。
「臣が見たいのは、迎えられた巴郡ではございません」
「迎える暇のない巴郡です」
李斯は小さくうなずいた。
「他には」
「巴郡近五年の戸籍、転運、倉廩、それに官吏交替の記録を拝見したく存じます」
「よかろう」
「さらに一人」
鄭仁は言った。
「巴地の道と方言に通じた者が必要です」
「現地で用立てればよい」
「それはできません」
李斯の視線が止まる。
「なぜだ」
「臣の疑いが郡中の官吏へ及ぶなら、現地の者を用いた時点で行動は筒抜けになります」
鄭仁は迷いなく答えた。
「道に不慣れでも構いません。途中で尋ねながら進む方が、安全です」
「心当たりはあるか」
その問いに、鄭仁は一瞬だけ口をつぐんだ。
最初に思い浮かんだのは黒玄だった。
宿衛として鍛えられ、腕も立つ。役人の虚実にも惑わされない男である。
だが、宮中宿衛を勝手に連れ出せるはずもない。
景安もまた頼りになる。
文書をまとめ、車馬を整え、人の機微を読むことにかけては、並ぶ者はいない。
しかし今回の巴郡行きは、案牘だけで済む仕事には思えなかった。
「まだ決めておりません」
鄭仁は答えた。
「郎署へ戻って選びます」
李斯は首を横に振った。
「その必要はない」
鄭仁は顔を上げた。
「お前に付ける者はこちらで決める」
胸の内が、わずかに沈む。
上官が「こちらで決める」と言うとき、それは選択の余地がないという意味だった。
李斯は案の脇から一枚の木牘を取り上げ、属吏へ渡す。
「三日」
それだけ言った。
属吏は筆を執る。
「巴郡近年の文書は副本を用意する。符伝も発給する」
李斯は鄭仁へ向き直った。
「郎署へ戻り、旧務を引き継げ」
「三日後の朝、出立せよ」
鄭仁は思わず聞き返した。
「三日でございますか」
「長いか」
「五日は頂けるものと思っておりました」
李斯は淡々と答えた。
「五日与えれば、巴郡にも五日の備えを与えることになる」
その一言で、鄭仁は何も言えなくなった。
まだ咸陽を発ってもいない。
それでも李斯は、いつ、どこから情報が漏れるかまで織り込んでいる。
三日のうちに五年分の文書へ目を通し、郎署の仕事を引き継ぎ、車馬を整え、旅支度を済ませなければならない。
今日の復命は終わりではなかった。
すでに次の任務は始まっている。
鄭仁が立ち上がろうとしたときだった。
「まだ終わっておらぬ」
李斯の声に、動きを止める。
属吏が一つの木匣を運んできた。
匣は黒漆塗りで、錠が掛けられている。
李斯は自ら鍵を開け、その中から細長い竹筒と青銅の符節を取り出した。
「これを持て」
鄭仁は両手で受けた。
符節は半分に割られた虎符ではない。
巡察使へ交付される信符である。
道中の関津を越え、駅馬を徴し、郡県へ命を伝えるためのものだった。
だが、その重さが違う。
手にした瞬間、青銅がずしりと掌へ沈んだ。
表面には細かな文字が刻まれている。
鄭仁は思わず目を落とした。
通常の巡察符節より、上位の権限を示す印だった。
「これは……」
「必要になれば使え」
李斯は簡潔に言う。
「必要にならねば」
「封を切るな」
続いて竹筒を示した。
「こちらは」
「別命だ」
封泥には、李斯自らの印が押されている。
「巴郡へ着くまで開くな」
鄭仁は一礼した。
「承知いたしました」
匣へ収めようとした、そのとき。
李斯がふいに尋ねた。
「お前は巡察中、丹砂を見たか」
思いがけない問いだった。
「はい」
「巴蜀から届いたものを」
「どう思った」
鄭仁は少し考えた。
「質は良いかと」
「色も濃く、不純物も少ないように見受けました」
「量は」
「例年どおりと聞いております」
李斯は静かに首を振った。
「例年どおり」
その言葉だけを繰り返した。
「数字も、そう書いてある」
鄭仁は何も言わない。
「だが」
李斯は机上の一枚を指先で叩いた。
「宮中では近ごろ、丹砂が足りぬ」
その一言に、鄭仁は顔を上げた。
「足りない……」
「記録では不足しておらぬ」
「咸陽へも届いている」
「だが、実際には不足している」
堂内が静まり返る。
丹砂はただの鉱物ではない。
朱書に用いられ、封泥の印にも使われる。
祭祀にも、薬にも欠かせない。
宮中で不足するということは、どこかで消えているということだった。
「途中で失われたのでしょうか」
「それを調べる」
李斯は短く答える。
「ただし」
視線が鄭仁を射抜く。
「最初から丹砂だけを見るな」
鄭仁はその意味を考えた。
丹砂だけを追えば、丹砂だけを隠される。
もし本当に何者かが物流を操っているなら、丹砂は現れた結果でしかない。
転運全体を見なければ、消えた理由は見えない。
「心得ました」
李斯は小さくうなずく。
「まず」
「誰が盗んだかを探すな」
静かな声だった。
「先に」
「誰が間違えることを許さなかったかを探せ」
その言葉は、不思議な響きを持っていた。
盗人を追え、ではない。
間違いを許さぬ者を探せ。
帳簿を揃え続けた者。
数字を揃え続けた者。
誰か一人ではない。
そうしなければならない仕組みそのものを見つけろ、と李斯は言っているのだった。
鄭仁は深く一礼する。
「謹んで承ります」
李斯はもう何も言わなかった。
属吏が静かに戸口へ進み、退室を促す。
鄭仁は符節と竹筒を抱え、内堂を辞した。
戸が閉まる音だけが、静かな廊下へ長く響いた。
丞相府を出たときには、日はすでに高く昇っていた。
朝の冷気は薄れ、石畳の上には柔らかな陽が差している。
府門の外には、巡察簡牘を運んできた車がまだ止まっていた。
受け渡しを終えた僕役たちが、帰り支度をしている。
景安もその中にいた。
鄭仁の姿を認めると、すぐに歩み寄る。
「お帰りなさいませ」
そして、鄭仁の腕に抱えられた木匣へ目を止めた。
「……何か、新たなご命令が」
「巴郡へ行く」
景安は驚かなかった。
ただ一つだけ尋ねる。
「いつ、ご出立で」
「三日後」
その返答だけで十分だったらしい。
景安は黙ってうなずき、頭の中で必要な支度を並べ始めたようだった。
「車は一台では足りません」
「書籍を積む車と、旅装を載せる車を分けます」
「道具は」
「後で決めよう」
鄭仁は歩き出した。
丞相府から郎署までは、それほど遠くない。
途中、役人たちが慌ただしく行き交う。
誰もが手に簡牘を抱え、足を止める者はいない。
咸陽では、一日の遅れがそのまま政務の遅れになる。
だから誰も急ぐ。
その流れの中を歩きながらも、鄭仁の頭には、李斯の最後の言葉だけが残っていた。
――誰が盗んだかを探すな。
――誰が間違えることを許さなかったかを探せ。
帳簿は人が書く。
数字も人が記す。
だが、その数字を何年も狂わせない仕組みを作るには、一人では足りない。
命じる者。
従う者。
見逃す者。
利益を受ける者。
そのどれか一つでも欠ければ、三年ものあいだ数字を揃え続けることなどできない。
郎署へ戻ると、まだ昼にもなっていなかった。
留守中に積み上がった案牘が机を埋めている。
同僚の郎官が顔を上げた。
「戻ったか」
「巡察はどうだった」
「話は後だ」
鄭仁は短く答えた。
「三日後に巴郡へ発つ」
郎官は思わず目を丸くした。
「今戻ったばかりだぞ」
「私もそう思う」
苦笑ともため息ともつかぬ声だった。
それから二人は、山積みになった案牘を見比べる。
「全部、引き継ぐのか」
「そうなる」
「三日で」
「三日でだ」
郎官は天井を仰いだ。
「丞相も、人を休ませる気はないらしい」
「そのようだ」
鄭仁は自席へ腰を下ろす。
机の隅へ木匣を静かに置いた。
封泥の付いた竹筒は、そのまま手を触れない。
巴郡へ着くまで開くな。
李斯の命は、それだけだった。
何が記されているのか。
考えないわけではない。
だが考えても分からぬことに時間を費やす余裕はなかった。
五年分の巴郡の文書。
旧務の引き継ぎ。
同行者の選定。
旅支度。
ふと、朝のまま持ち歩いていた竹箱が目に入った。
景安が持たせた朝餉である。
蓋を開けると、粟飯はすっかり冷え、塩菜も肉脯も朝と変わらぬ姿で並んでいた。
鄭仁は思わず笑みを漏らす。
結局、一口も食べる暇がなかった。
箸を取り、ようやく最初の一口を口へ運ぶ。
冷えてはいたが、不思議とうまかった。
巴郡。
その名だけが、冷えた粟飯の向こうに静かに浮かんでいた。
このときの鄭仁は、まだ知らない。
巴の地で、一人の人物と出会うことになることを。
その出会いが、やがて彼自身の運命だけでなく、この事件の真相をも大きく動かしていくことを。




