ep. 71 奸計(5)
「俺が」
秋彪は、片手を上げて青を制すると、音もなく枝を蹴った。
「ひっ……!」
目の前に落ちてきた気配に、曜桂が肩を跳ねさせた。
恐怖が伝播したのか、傍らの角駿もブルリと躯を震わせ、蹄で不安げに土を掻く。
青は高枝の闇に身を溶け込ませたまま、眼下の対峙を見守った。
「秋彪だ」
短く名乗る声には、「何用だ」という圧力が込められていた。
曜桂は、陸に上げられた魚のように口をパクパクと開閉させた。
言葉を紡ごうとする意志が、空回りしているようだ。
「これの、説明に来たのか」
秋彪の視線が、半壊した小屋の残骸へと向けられる。
「……」
曜桂は言葉を呑み込み、目の前に立つ男をまじまじと見上げた。
父と兄が蛇蝎の如く嫌う存在、禍鬼。
曜桂はしばし、無垢で遠慮のない視線を秋彪の上から下まで巡らせた後、意を決したように口を開いた。
「い、妹が、曜琳が世話になったことは……礼を言う……だが、わ、私は……許しを乞うために来たのでは……ない」
声の震えに反して、言葉の芯は強い。
「そもそも……貴殿らは、その立場に、無い、であろう」
秋彪は眉一つ動かさず、少年を見据えていた。
高枝の上で、青は口端を引き締めた。
「ち、父上も、兄上も……国のために心血を注いでおられる。我ら龍泉の……毒に穢れたと謂れる血族の名誉を守ろうとする覚悟を、私は……、誇りに思っている」
曜桂は握りしめた拳を胸に当て、一息に吐き出した。
「だが……分からなくなってしまったのだ」
曜桂の視線が、秋彪から逸れ、焼け落ちた小屋へと彷徨う。
「曜琳が言っていたことも、成そうとしていたことも、正しい。曜琳の夢は、間違いなく国のためになる。なのに父上も兄上も……ただ禍鬼を憎むあまり、曜琳を否定した。家名のため、民を手にかけた。それが、正しいとは思えない」
俯いたまま言葉を詰まらせる少年へ、秋彪は陽でも陰でもない声をかけた。
「ここまで来たことが、答えではないのか」
「!」
高枝の青からも、曜桂の細い肩がビクリと跳ねるのが見て取れた。
本質を突きながらも、決して詰問はしない。
逃げ道を塞ぐのではなく自ら道を選ばせる問答。
青は、懐かしさを覚えた。
図星であったのだろう。
曜桂から、強い否定は返らなかった。
夜風が梢を揺らす音が通りすぎ、やがて曜桂は夜気を振り払うように顔を上げた。
「……禍鬼の女は、生きている」
「そうか」
秋彪は眉一つ動かさなかった。
ただ、少年の次の言葉を待っている。
「女が口を割らなければ、泣骸湖畔の民たちが、逆賊として死ぬことになるかもしれない」
「っえ……」
高枝の上で、青は咄嗟に両手で口を塞いだ。
一方で、眼下の秋彪――藍鬼は、やはり表情を微動だにさせなかった。
「鉄亀ノ森に、砦がある……私が言えるのは、ここまでだ……」
曜桂は絞り出すように告げると、肺の中の空気をすべて吐き出したかのように肩を落とした。
「充分だ」
「っ!」
尚も表情を変えない秋彪が、曜桂には底知れぬ深淵に見えたのだろう。
弾かれたように顔を上げ、引きつった眼を見開いた。
「わ、私を質にとろうとしても、無駄だからな! こう見えても蛟の血胤!」
一歩、曜桂が踏み出すと同時に、まだ成長途中の華奢な輪郭が陽炎のように揺らぐ。首筋から頬にかけて、皮膚の下から黒い鱗が浮き上がり、滑らかな肌を食い破るように侵食を始めた。
「私が真の姿となれば、この森は毒炎に包まれることになるぞ!」
恐怖に裏返った叫びと共に、周囲の空気がじりじりと焼けつくような熱を帯びる。
草木が怯えるようにざわめき、夜気の中に甘く危険な、腐った果実のような毒の香りが漂い始めた。
少年の輪郭が陽炎のように揺らぐ。
白磁の肌がどす黒い鱗に侵食され、鼻梁から顎にかけてが犬のように長く突き出し始める。
辛うじて人の形を保ちながらも、その背後に幻視されるのは、鎌首をもたげた巨大な蛇神の影。漆黒の長い胴に、四肢の代わりとなる大きな鰭を備えた、闇を泳ぐ龍の姿である。
「……あの顔は……」
高枝から見下ろす青は、少年の変貌に息を呑んだ。
犬の吻を持つ水龍――泣骸ノ湖の主と同じ風貌がそこにある。
決定的に異なるのはその色彩だ。
湖の主が神気を帯びた純白であったのに対し、龍泉の蛟は深淵を煮詰めたごとき漆黒。
まるで光と影、陰と陽が背中合わせに存在する、一対の半身であるかのようだった。
「……」
放たれる殺気と毒波を、秋彪はただ、柳が風を受け流すように浴びていた。
虚勢で牙を剥く少年の姿と声は、威嚇よりも悲鳴に近しい。
「よく、決断した」
秋彪の唇が発したのは、腹の底へ届く肯定だった。
「!」
蛟の喉が、引きつった音を立てる。
するすると、黒の影が揺れて霧散していく。
浮き上がっていた鱗が肌に沈み、毒炎の熱気が夜風にさらわれて消えた。
森に残されたのは、どこか気弱そうな少年――曜桂の等身大の姿だけだ。
呆気にとられ、瞬きを繰り返すその顔は、まるで冷水を頭から浴びせられたかのように憑き物が落ちていた。
父や兄の影に隠れることしかできなかった少年が自らを奮い立たせ、家門への裏切りとなりかねない一線を越えたのだ。
その決意を、秋彪はただ、受け止めた。
緊張の糸が断ち切られ、曜桂の膝が腐葉土の上へ、がくりと折れた。
「う、……ぅうー……」
喉の奥から、言葉にならぬ嗚咽が漏れる。
見開かれたままの瞳から、堪えきれなくなった雫が溢れ出した。
一粒、また一粒と、やがて堰を切って土気色の頬を濡らし、顎を伝って足元の闇へと吸い込まれていく。
毒を宿す蛟の身から流れ落ちるものは、どこまでも透明で、痛々しいものだった。
「ブルル……」
主の慟哭に寄り添うように、傍らの角駿が長い首を垂れた。
湿った鼻先を曜桂の肩に押し当て、ざらりとした温かな舌で、涙に濡れた頬を舐め上げる。
「キュルルル……」
言葉を持たない獣の、ひたむきな慰めだけが、森の静寂に優しく響いた。
*
同じ頃。
都の亀鏡宮の奥深く、医官長の執務室は、静寂の帳に包まれていた。主は眠ることなく卓上の灯火の下で、筆の跡も生々しい数冊の帳面と対峙していた。
右に広げられたのは、ここ数年の都および湖周辺の水質検査、加えて戸口(人口)の増減の記録。
左に置かれたのは、龍泉家から定期的に上げられる禍鬼に関する調査報告書である。
女傑の鋭い眼光が、二つの資料を何度も往復する。
やがて、指先が一点で止まった。
奇妙な符合だ。記録によれば、湖周辺で「禍鬼」の目撃情報が増え始めた時期と、それまで悪化の一途を辿っていた水質が、微かではあるが快方へと向かい始めた時期が、重なっている。
そればかりではない。湖周辺の寒村における死亡数が、明確に減じているのだ。
龍泉家の報告には「禍鬼が水を穢し、玄武の国家転覆を画策す」とある。
だが数字が語る事実は、真逆であった。
「ふむ」
扇子の要が、硬質な音を立てて卓を叩いた。
武門の名家たる龍泉が、虚偽の報告を上げているとでもいうのか。
医官長の視線が、卓の隅に置かれた「禍鬼の遺留品」だと持ち込まれた品の数々を舐める。
臨時の雇われ薬師である青藍が、ごく短時間のうちに効能を見抜いてみせた。
宮廷に長く仕える熟練の薬師でさえ、数日は要する検分を、あのような若造が、呼吸をするごとき容易さで。
「あの『ぼうや』は」
医官長は閉じた扇子で口元を隠し、揺らめく灯火の芯を見つめた。
紫煙を燻らせるように細く息を吐き、誰に聞かせるでもなく、闇の奥へと問いを投げる。
「どこから迷い込んだ子なのかね……」




