ep. 71 奸計(4)
玄武の都を離れた郊外、荒涼とした岩場に築かれた砦の地下に、イズナはいた。
地下牢特有の、黴と湿気が淀んだ冷気が肌にまとわりつく。鉄格子の嵌められた石牢の隅で、イズナは膝を抱えてうずくまっていた。
手足に枷はない。
頬には乾いた涙の痕が幾筋も張り付いているが、今はもう、瞳から流れるものは枯れ果てている。
ただ、ひび割れた唇から、祈りのような言葉が繰り返し漏れ落ちるばかりだ。
「連治君……岳真君……小鈴ちゃん……」
瞼を閉じれば、惨劇が鮮明に蘇る。
小屋の前で連治が黒い刃に斬り伏せられた瞬間や、小屋の中から聞こえた岳真と小鈴の悲鳴。耳の奥で、甲高い断末魔が木霊し続けている。
三人の小さな命が断ち切られている間、イズナは動くことが許されなかった。黒ずくめの男たちに背後から殴打され、地面にねじ伏せられたのだ。
泥の味を噛み締めながら、皆が殺されていくのを見ているしかできなかった。
男たちが血で濡れた刀を提げて戻ってきた時、覚悟を決めた。振り上げられた刀の柄が頭部を強打し、イズナの意識は闇へと沈んだ。
次に意識が戻った時、イズナの視界は布で閉ざされ、体は荒縄で縛められていた。
ガタガタと全身が揺れる振動と、車輪が石を噛む音。荷車か何かに詰め込まれ、どこかへ運ばれているのだと悟ったが、抵抗する術は奪われていた。
そうして連行された先が、この薄暗い石の箱だった。
通気用の格子窓すらない。
「ごめんね……守ってあげられなくて、ごめんなさい……」
暗闇に向かって、ただただ謝罪を吐き出すしかできない。
自分がもっと強ければ。
もっと早く異変に気づいていれば。
後悔の念ばかりが、思考を抉る。
「祐真君は無事なのかな……秋彪黒士、シユウさん……申し訳ありません……私が、弱かったから……」
何十回、何百回と繰り返した懺悔は、冷たい石壁に吸い込まれて消えていく。牢番が置いていった水と粗末な食事は、手つかずのまま乾いていた。
イズナは、虚ろな瞳を巡らせて牢内を観察した。
床も壁も、隙間なく敷き詰められた硬い石畳だ。
武器も道具も、当然だが、全て奪われている。
逃げる算段は無い。
でも、ここで犬死にするつもりはなかった。
せめて、小鈴たちをあんな目に遭わせた奴らの正体だけでも、見届けてやる。命が尽きる前に、なんとかして秋彪かシユウへ式を飛ばせたら。
「!」
重厚な蝶番が錆びた音を立て、鉄扉が開かれた。
イズナは息を呑んで顔を上げる。
廊下の松明の灯りを背に、二つの人影が牢の前に立った。
長く伸びた影が、イズナの体を踏みつける。
揺らぐ炎に照らされて、薄汚れた石牢には不釣り合いな洗練された装束が浮かび上がる。
藍染の地に銀糸の刺繍が入った肩衣。
腰には、鞘の塗りも美しい一対の太刀が佩かれている。
明らかに、賊の類ではない。
前に立つ男はその場で膝を屈め、獲物を値踏みするような冷酷な眼差しでイズナを射抜いてくる。
対照的に、後ろの男――イズナと同年代らしき少年とも呼べる若者は、俯き加減に視線を彷徨わせていた。
それが龍泉家の兄弟、曜琳の兄たちであることをイズナが知る由もない。
「……ふん」
長兄が牢の隅に置かれたままの食事を一瞥し、嘲るように鼻を鳴らした。
「仲間はどこだ」
頭上から降ってきた冷たい問いに、イズナは石のように硬く口を閉ざす。
「禍鬼といえど、お前のような小娘一人で何ができるわけでもなかろう。糸を引く者がいるはずだ」
イズナは、膝を抱えた腕に力を込めるだけで、答えなかった。
「『大師』とやらは、どこにいるのだ」
長兄は、イズナの反応を探り出すように、ゆっくりと続けた。
「あの小屋の周辺で一晩張ってみたのだがな。残念ながら、『大師殿』にお会いすることは叶わなかった」
「っ……」
動揺を悟られまいと俯くイズナへ、長兄は甘い毒を含んだ声を落とす。
「仲間を手引きせよ。さすればその功に免じ、命ばかりは助けてやろう。悪い話ではあるまい?」
イズナは、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
沈黙こそが、唯一の抵抗だった。
秋彪やシユウを巻き込むわけにはいかない。
どうせ自分も殺される。
自分のいたらなさの責任は、自分でとるのだ。
「黙秘するか。小娘だてらに、なかなか肝が据わっておるわ」
長兄は、屈めていた膝をゆっくりと伸ばし、足元の影に蹲るイズナを冷徹に見下ろした。
「良かろう。貴様が役に立たぬというなら、湖畔の下民どもを処刑台へ引きずり上げるまでだ」
「――なっ……!」
初めて反応を見せたイズナに、長兄は冷たい毒の笑みを向けた。
その後ろでは、次兄も信じられないものを見るように兄の背中を凝視している。
「当然であろう。水の大国たる、この玄武の聖なる水を穢す輩に与し、あまつさえ禍祓霊の力を削ぐなど、国家転覆を企む大逆罪に他ならぬ」
「何を……言っているのです……っ」
イズナの背筋を、氷の戦慄が駆け抜けた。
目の前の男にあるのは、「禍鬼」への狂信的な憎悪と、己の正義を証明したいという歪んだ欲望だけなのだ。
「もうしばし、思案する猶予をやろう」
短く言い捨てて、長兄は牢の前から身を翻した。
その場に、次兄が残る。
俯いて震えるイズナを見つめ、何かを言いかけて息を吸い込んだ。
「何をしている」
「た、ただいま――」
次兄はその場から逃げるように、兄の声に従う。
石牢は再び、死のような静寂と闇に包まれた。
*
「兄上……兄上……!」
地下の淀んだ空気から抜け出して、次兄は地上へと続く螺旋の石段を駆け上がる。
砦の前庭に出ていた長兄は、繋柱に結ばれていた角駿の手綱を解き、鞍の歪みを直しているところだった。
「なんだ」
長兄は弟の方を見ようともせず、革帯を締める手元に視線を落としたまま問うた。
「さきほどのお話しは……本気なのですか」
「戯れに聞こえたか」
「いえ……ですが……」
次兄は言葉を詰まらせた。
「曜琳の言っていたことは、真実でした。小屋から発見された薬は水を穢す毒ではなく、清めるための良薬だと……亀鏡宮の医官長殿と薬師が証明したではありませんか」
「だから何だ」
「兄上……?」
拍子抜けするほど淡白な反応に、次兄は呆気にとられた。
長兄は、ようやく冷たい眼差しを弟へ向ける。
「医官長の言う通りだ。薬にどのような価値があるのかは、薬師らの領分。我ら武官の役目は、『禍鬼』を取り締まることにある」
「……」
あまりにも詭弁だ。
次兄は唇を震わせる。
長兄の瞳には一点の曇りもない。
唖然とする弟の前で、兄は角駿の鐙に足をかけ、ひらりと鞍上へ身を躍らせた。手綱を絞り、高い馬上から弟を見下ろして言い放つ。
「どちらに転ぼうと、我ら龍泉家にとっては好都合だ。違うか」
「兄上、それは――」
「先に戻るぞ」
弟の反論など待つ価値もないとばかりに、兄は角駿の腹を蹴った。嘶きと共に蹄が地を蹴る。巻き上がった砂煙が、弟の視界を茶色く染めた。
「兄上……」
次兄は砂塵の中で立ち尽くし、疾風の如く遠ざかる背中を見つめるしかなかった。
*
亀鏡宮での務めを終え、青は隠れ家である小屋へと戻った。そこに人の気配はない。
青は小屋周辺の匂いを探った。
血の臭いはない。
半壊した小屋の中に散乱していた葛篭や箱が、屋根の残った部屋の隅へと、それとなく片されている。
間も無く砂利を踏みしめる音がした。
「戻っていたか」
湖の方角から秋彪が姿を現した。
「はい。ちょうど先ほど。……祐真君は」
「村へ帰した」
もうここへは近づかないよう、堅く約束させて。
「そうですか。それが良いでしょう……」
青は安堵の息を吐き、肩の力を抜いた。
薬師の作業衣を畳んで丸めた包みを、残った壁の裏側の隙間へ隠すように押し込んだ。軒先の、焚き火跡に薪をくべ、火種を落とす。
「子どもたちに手をかけたのは、やはり曜琳さんの家人が関係していたようです」
火を育てながら、青は報告を始めた。
曜琳が女官見習いとして宮中に実質上、軟禁されたも同然であること。
薬師工房に龍泉家の兄弟が現れ、この小屋から略奪した薬や素材を「禍鬼の遺留品」として持ち込んだこと。
その場で浄化薬の効能を証明し、医官長がそれらを押収したこと。
龍泉家は、玄武における『禍鬼』の元締めを任されている一族だ。
水を穢す者を狩り処断する使命を、猛毒を操る『蛟』の血族が背負っている――この皮肉な因果が、彼らを律盟衆への常軌を逸した憎悪へと駆り立てているのであれば、それはもはや正義ではなく、呪いだ。
「曜琳にも気の毒なことをした」
秋彪は視線を落とした。
己の情報収集不足が、後手に回った一因だと自責しているのだ。
「仕方のないことです」
青は首を振った。
「我ら法軍と異なり、律盟衆の活動範囲は広大です。一方で組織規模は……失礼ながら、まだ途上にあるとお見受けします」
秋彪は、じっと炎越しに青を見つめている。
「その通りだが、言い訳にはならない」
弁解を飲み込み、ただ己の非力さを噛み締めるように、固く結んだ拳を膝の上に置く。
沈黙が落ち、刹那、二人の間に重たい空気が通り過ぎた。
「やはり……イズナさんは、彼らに捕らえられていると考えるのが妥当でしょうか」
青が静寂を破る。
「囮として利用する程度の策は弄するだろうな」
彼ら龍泉家の『禍鬼』への執着を考えれば。
「一昨日の朝までは式鳥が通じていたのですが……」
それが距離の問題なのか、あるいは結界のような式鳥を拒絶する空間に囚われているからなのか、それとも――。
「私牢の一つくらいは備えているだろう。場所さえ割れれば、牢破りは容易いが」
「容易い、ですか」
青は興味深そうに、炎越しに秋彪の目を覗く。
「要塞を陥とした男が、何を言う――」
冗談めかして緩みかけた秋彪の口元が、不意に引き結ばれた。はっ、と鋭い呼気と共に西の空を仰ぐ。
「辻風」
秋彪が短く詠うと同時に、片手を振るう。
巻き起こった小さな旋風が焚き火を掻き消し、立ち昇る煙ごと霧散させた。
「?!」
一拍遅れて、青も察知した。
西の木立を抜け、気配が近づいていた。
二人は視線を交わし、足音一つ立てず滑るようにその場を離れ、闇に溶け込む巨木の梢へと身を潜める。
ガサリ、と無防備な音をたてて茂みが揺れた。
現れたのは、まだ骨格が細く少年と呼んでも差し支えないほどの若い男だった。
昼間、四阿で兄の影に控えていた、龍泉家の次男。
傍らには、角駿が一頭。
手綱を握る指先は血の気が失せるほど白く、革に深く食い込んでいる。
「曜琳さんの……」
青が唇の動きだけで囁くと、隣の秋彪は無言で頷き、眼下の闖入者を見定めた。
少年は、どこに潜んでいるとも知れぬ相手を探るように視線を彷徨わせ、やがて暗い森の奥へ向かって、震える声を張り上げた。
「わ、私は、龍泉家が次男……曜琳の兄、な、名を曜桂と申す! せ、大師と話がしたく、参った!」
少年の頭上深く、闇に紛れる高枝の上で、青と秋彪は怪訝そうに顔を見合わせた。




