ep. 71 奸計(3)
翌朝、朝霧が晴れきらぬうちに、青は「臨時の雇われ薬師」として亀鏡宮の門をくぐった。目的は、曜琳との接触だ。
医官長が待つ医務院へと続く回廊を急ぐ青の視界に、一団の影が入った。列をなす揃いの薄浅葱の衣――女官見習いたちだ。
「あれは……っ」
その中に、曜琳がいた。
他の少女たちと同じ質素な官給の衣を身につけ、手には水桶や布を抱えている。
「――曜」
青は疑問を飲み込み、その背へ声をかけようと足を踏み出した。が、肩を横合いから伸びてきた手が強く引いた。
「ぼう、どこへ行くのだ」
医官長だ。
声に反応し、列の中の曜琳がふとこちらを向いた。青の姿を認め、その瞳が「あ」と揺れる。
次の瞬間には、感情の一切を心の奥底へ突き落としたかのように、無の貌に塗り替わった。他の女官見習いたちと動きを揃え、医官長と青へ深々と頭を下げる。
少女たちは無言のまま、再び歩き出し、回廊の角を曲がって消えていった。
「あの、曜琳さんはなぜ――」
医官長に袖を引かれて歩きながら、問いかけた。
「女官や見習いに話しかけることができるのは、王族か、その許しを得た者のみ。女官たちは身も心も王族のものだ。見習いであろうとな」
医官長は、前を見据えたまま答える。
機先を制してきたか。
青は唇を噛んだ。
これは宮廷という檻に曜琳を閉じ込めると同時に、「禍鬼」から護り隠すための措置だ。
釈然としない思いを抱えたまま、青は医官長に連れられ、薬師たちが集う工房へと足を踏み入れた。煎じ薬の湯気の中、すり鉢を叩く音が忙しなく拍を打つ。
「ぼうは、薬に詳しいようだな」
「はい」
青は即答した。
正確には「東方の薬術に」という注釈がつくが、些細なことは捨ておくに限る。
「ならば、こっちも手伝っておくれ」
引っ張られたのは、工房の奥まった一画に置かれた作業卓の前だった。封印の札が剥がされた木箱や、薬瓶が並べられている。
「禍鬼の隠れ家から押収されたとかいう品を検めるよう、仰せつかってな。ぼう、やれるか」
「禍鬼の――」
青は息を呑んだ。
検査するまでもなかった。
見紛うはずもない。
全て、小屋の棚や葛篭から消え失せた物ばかりだ。
「承ります」
再び、青は即答し、そして付け加える。
「検分の依頼者と、直接、お話しをさせていただけませんか」
青の申し出に、医官長は眉を片方だけ持ち上げた。
「ほう? ずいぶんと律儀なものよ」
医官長は面白がるように、閉じた扇子の先を指揮棒のように揺らし、あっさりと頷いた。
「よかろう。我も立ち会う」
*
薬師工房に隣接する中庭の一角、応接用の四阿に、二人の青年が通された。
午後の麗らかな陽射しには不釣り合いな、糊の効いた肩衣に飾り太刀という、物々しくも格式張った武官の出で立ち――龍泉家の長兄と、次兄である。
長兄は彫りの深い顔立ちに酷薄さを滲ませ、次兄はどこか落ち着きなく視線を遊ばせている。
「……」
青は奥歯を噛み締めた。
今は怒りを分厚い氷で強引に封じ込める。
呼吸一つ、視線の揺らぎ一つで悟られてはならない。
下座に控えた青は、あくまで一介の雇われ薬師として、恭しく頭を垂れた。傍らには、立会人として医官長が飄々《ひょうひょう》とした姿勢で立つ。
「検分の結果をご報告いたします」
青は淡々とした口調で切り出した。
卓上には、封を解かれた木箱や瓶が並んでいる。
「こちら左から、傷薬、鎮痛剤、風邪の症状を緩和するための煎じ薬と……薬草を独自に配合し、手ずから練り上げたもののようです」
「……なるほど」
長兄が、つまらなそうに息を吐いた。
期待していた「危険物」ではなかったからだろう。
「そして、こちらの右端は」
青は、青白い液体が入った小瓶を手に取った。
「こちらは、水や土を清める効能が確認できました」
「清める……だと」
長兄が眉間の皺を深くし、疑わしげな視線を青へ刺す。
「それは確かなのか。これらは、禍鬼の隠れ家から見つかったものだ」
「では、実際に効能をお目にかけましょう」
青は静かに立ち上がり、二人を促して四阿を出た。
医官長は閉じた扇子で手のひらに拍を打ちながら、おとなしくついてくる。
辿り着いたのは、修繕が進む回廊のさらに奥、裏庭の一画だ。地面が激しく抉れ、石組みが砕け散った破壊の跡が残されていた。
半壊した石組みのつくばいに、黒く澱んだ水が溜まっている。青は小瓶の蓋を開け、中身を数滴、微弱な瘴気が立ち上る水面へと垂らした。
微かな泡立つ音と波紋が広がると同時に、黒い澱が霧散しはじめる。
「ほう……これは、面白い」
医官長は無造作に指先を振った。
つくばいの溜まり水が生き物のようにうねり、薬液を取り込んで回転した。操水の術が、薬の効能を隅々まで行き渡らせ、立ち込めていた腐臭が、洗われるように消えていった。
「すごい、即興で……」
青が感嘆する目の前で、壊れたつくばいの水は穢れを完全に拭い去り、底に沈む苔の色さえ鮮やかに透かす清水へと変貌を遂げていた。
「どうだ、ぼう。こう使うのであろう」
医官長は満足げに目と唇を細めると、懐から取り出した扇子をパチリと開き、呆気にとられる青の横顔へ優雅に風を送ってみせた。
「な……」
次兄が目を見張り、身を乗り出した。
「兄上、曜琳が言っていたことは……」
「……」
長兄は舌打ちしたいのを堪えるように顔を歪めると、次兄が握る袖を払った。
「……検分、ご苦労だった」
控えていた部下の兵たちへ顎をしゃくる。
「引き上げろ」
「は」
兵たちが卓上の品々に手を伸ばした、その時だった。
「お待ちなされ」
パチリと音を立てて閉じた扇子の先が、兵たちを止める。
「それら全部、置いて行ってもらえまいか」
「何だと?」
長兄が怪訝な顔を向ける。
「実に興味深い品々である。処分するには惜しい」
医官長は涼しい顔で、薬瓶をひょいと取り上げた。
「しかし、これは禍鬼の遺留品。このような穢らわしい物を――」
「これらの価値を決めるのは、そなたたちではない」
医官長の主張に、長兄は苦々しげに顔を歪めた。
「国の安寧を守るのがそなたらの務めならば、国に有用な薬や技を見極めるのが、我らの務め。ご安心を。害があると認められれば、禍鬼の重要証拠としてお返しいたす」
「しかし……」
食い下がろうとする長兄の喉元へ、扇子の先が突きつけられる。
「我の言葉は、玄武后様のお言葉でもあると心得よ」
長兄は言葉を詰まらせた。
これ以上抗えば、王族への不敬となりかねない。
「……承知した。お好きになさると良い」
長兄は風をきるように踵を返し、部下たちを伴って四阿を出て行く。
「……」
次兄はその場で立ち止まり、医官長と青へ物を言いたげな、あるいは懺悔するような視線を投げる。
だが、結局は何も口にすることなく、逃げるようにして兄の背を追って姿を消した。
*
四阿を取り囲む生垣の裏で、曜琳は濡れた雑巾を手に、石畳の上に膝をついていた。
「これらの価値を決めるのは、そなたたちではない」
毅然とした声が、葉擦れの音の合間から漏れ聞こえる。
「!」
曜琳の手が止まった。
恐る恐る肩越しに振り向くと、四阿に兄たちと対峙する医官長と青藍がいる。
「国に有用な薬や技を見極めるのが、我らの務め」
医官長の言葉に、長兄は部下を引き連れて足早に去っていく。
双子の次兄が、立ち去る間際、名残惜しそうに一度だけ振り返った。
「……っ」
目が合った――そんな錯覚を覚え、曜琳は咄嗟に垣根の影へ身を伏せた。
亀の子のように小さく蹲り、雑巾を握りしめた手で、自身の襟元をきつく掴む。震えが止まらなかった。
仲間たちみんなで作りあげた薬の数々が、今、この国の医療界で最も権威ある女傑によって「国に必要なもの」として認められようとしている。
じわり、と視界が歪んだ。
手元の硬い石畳が、水面に浮かぶ月のように揺らぐ。
「曜琳ー、どこ? 置いていくわよ」
遠くから、女官見習いの仲間の声。
曜琳は慌てて粗末な衣の袖で目元をぬぐい、深呼吸を繰り返して震えを押し殺す。
「……っ、今、行くわ」
努めて平静な声を作り、重たい水桶を抱え上げる。
立ち去る前、四阿の方角へ向き直ると、誰に見られるでもなく一度だけ深く頭を下げ、小走りにその場を後にした。




