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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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ep. 72 双つの湖(1)

 斑咲村はんざきむらの夜は、湖底の如き眠りに沈んでいた。

 村人たちは翌朝からの野良仕事のため、早々に灯りを落としている。


 月光が青白く切り取る村の外れにある高台で、岩肌に同化するように祐真ゆうしんが膝を抱えてうずくまっていた。


 村に戻されてから、ほぼ一睡もできていない。

 まぶたを閉じれば悪夢を見て、目を開ければ己の無力さが闇の底から嘲笑あざわらうように迫ってくる。


「ん……」

 風が、湿った土の匂いと、ひずめの音を運んできた。


「!」

 祐真は這いつくばって身を乗り出した。


 眼下、都へ続く森へ入る道を一頭の角駿かくしゅんが疾走していく様子が見える。月明かりの下、漆塗りの鞍に施された金銀の細工が、冷たい光を弾いた。


 龍泉家のものだ。


「まさか、大師せんせいたちまで……!?」

 腰を上げかけて、思いとどまった。


 無力な自分が駆けつけたところで、どうする。

 それに、凄腕の大師たちが、単騎で乗り込んだ輩にやられるはずがない。


 祐真は、浮かせた腰を再び岩の上へと落とした。

「偵察だったのか……?」

 冷静に状況を分析しながらも、握りしめた拳に爪が食い込む。


 もし。

 もしも自分に、大師たちのような力があったなら。


 ――仇を、とれたのに


 騎乗の背中に刃を叩きつけ、落馬したところを組み伏せ、喉元を掻き切って、仲間たちの痛みを思い知らせてやれた。


「……」

 虚しいだけの妄想が、祐真の全身に悔恨の毒を巡らせていく。

 そんな時だった。


 とっ、とっ、とっ。


 柔らかく、頼りない足音が背後から近づいてきた。

 振り返るよりも早く、温かな重みが背中にふわりと乗った。


「ゆうしん兄ちゃん」

 小さな両腕が、祐真の首に回される。

 背中に押し付けられたのは、ひだまりのような体温と、微かに甘やかな乳と天花粉てんかふんの香り。


「つむ、ちゃん……?」

 強張っていた祐真の肩から、力が抜けた。

 振り返ると、祐真の肩に乗ったつむの丸く柔らかい頬と、頬がぶつかる。


 つむが小さな身体を目一杯に使って、祐真の背中にしがみついていた。


「こんな遅い時間に。もう寝ないと」

 唇が震える祐真の顔を、つむは潤んだ瞳でじっと見つめる。


「兄ちゃん、いっしょに、かえろ」

「……ああ」


 殺意の代わりに、熱い塊が喉元まで込み上げてくる。

 つむの丸々とした手に触れた指先から無垢な温もりが流れ込んできて、どろりと凝固しかけていた憎悪が溶けていくようだ。


 これが、湖の主が愛し、器に選んだ癒しの光。


「帰ろう」

 祐真は岩場を降り、つむの手を引いた。

 夜風はまだ冷たいが、繋いだ手の温もりは確かな道標となって二人を村へと導いていた。



 蹄音つまおとが夜の向こうへ溶け消えた後、青と秋彪は再びどちらからともなく焚き火の残火を挟むように腰を下ろした。


「これ、永濯さんからいただいた地図なのですが」

 青は懐から折り畳まれた紙を取り出し、炎のかたわらで広げた。


 粗い墨線で描かれた簡易な地図だ。

 湖の輪郭、街道、集落の位置――必要最低限の情報だけが、簡素に記されている。


 秋彪しゅうひょうは立ち上がり、火を回り込んで青の隣へと腰を下ろした。

 肩が触れるほどの距離で、二人は地図を覗き込む。


「『鉄亀ノ森』という名称が見当たらないので、遠方なのでしょうか」

「いや」

 青が指先で地図の余白を辿りながら言うと、秋彪は無言で一点を押さえた。


「え?」

 青は背後を振り返る。

 泣骸ノ湖の北東。

 濃い墨が塗り潰された、名称のない暗い森の一帯だ。


「……案外と近かったのですね」

「距離はな」


 含みのある一言に、青は横目で秋彪の横顔を伺った。


「あの森に、砦があることはすでに確認している。軍事的な要所なのだろうな」

 地元民の地図に名が記されていないのも、道理だ。


 秋彪は改まるように、顔を上げた。

「ここへ来る前、俺は『もう一つの湖』を探していた」

「湖が、他にも?」

「あの森――」


 秋彪が口を開きかけたその時。

 湿った落ち葉を踏む足音が、暗がりの中から近づいてくる。

 やがて茂みの向こうに、揺れる小さな灯りが浮かんだ。


「大師、シユウ大師……」

 提灯の橙色の光を掲げ、恐る恐ると姿を現したのは祐真だった。

 焚き火に照らされた二人の姿を認めると、ほっとしたように肩の力を抜いた。


「祐真、怪我は」

「祐真君、もう体の具合は?」

 同時に声が重なった。

 二人は思わず互いの顔を見合わせ、祐真が提灯の灯りの下で、こらえるように小さく笑った。


「角駿が走り去るのが見えたので……大師たちに何かあったのではと」

「心配してくれて――」

「ちょうどよかった。お前に聞きたいことがある」


 今度も二人の声が重なった。

 青は秋彪に一歩を譲り、口を閉じる。


「こっちへ」

 秋彪は余計な言葉を足さず、焚き火のそばを示した。

 祐真が焚き火の側まで歩み、腰を下ろすまでの一連の動きを、青はさりげなく目で追った。

 体を庇う素振りはない。


「どこも折れてはいなかったようだな」

 青より先に、秋彪の淡々とした声が向けられた。


「はい。お二人のお見立て通りでした」

 祐真は行儀良く膝の上に手を重ね、二人へ視線を向けた。


「それで、聞きたいこと、とは」

「『もう一つの湖』、のことだ」


 祐真が、ぽかんとした顔で秋彪を見た。


「シユウ、曜桂の変異しかけた姿を見て、何か気がついたか」

 唐突に話を振られ、青は「え、は、はい」と一拍詰まった。


「湖の主と同じ姿に見えました。色は異なりますが……まるで陰と陽の関係にあるような。『もう一つの湖』とは、もしかして?」


 青の言葉を継ぐように、秋彪は青から視線を移して今度は祐真へ向けた。

「水守たちの間で、そのような話は伝わっていないか」


「『泣骸ノ湖』の古い名前が『東龍泉』というのは、聞いたことがあります。東があるなら、西もあるのかとは……考えたことがありますけれど」

「班咲村の社にあった木札にも、同じ名前がありました」


 秋彪の視線が、すっと青へ向いた。


「どうやってそれを見たのだ」

「永濯さんに――あ、祐真君、これは内緒で……!」


 祐真が苦笑いで頷く。

 秋彪は呆れとも、感嘆ともつかぬ息を一つ吐いた。


「人の懐に入る、その能力。羨ましい限りだ」

「ふはっ……」


 青は曖昧に笑って、視線を地図へ逃がした。

 顔が赤くなることを悟られるのが、気恥ずかしい。


「俺がこの一帯を忍んで回ったのも、もとは水源調査のためだ。その折に『東龍泉』の地名を知った」

 秋彪は焚き火の向こうに広がる、闇に影絵を描く森を見やった。


「次の課題にするつもりだった」

「課題……?」

「古い地名には、先人が刻んだ歴史と手掛かりが眠っていることを学んで欲しかった。一帯の穢れを祓う糸口が見出せるかもしれない、と」


 青は微かに息を呑んだ。

「古い、地名に……」


 それは、青自身も龍に成り立ての頃、後輩たちに与えた助言と同じ。

 紛れもなく、藍鬼から授かった教えの中にあったものだ。


「あの黒い森には、今のところ湖の姿は確認できていない。だが砦が龍泉家のものであるならば――かつてそこに西龍泉という名の湖があったとしても、不自然ではなかろう」

「巨大な水脈が、残っているかもしれませんね……」


 青の声に、秋彪は頷く。

 地図の上、墨で塗り潰された黒い森の一帯へ、三人の視線が自然と集まった。


「曜桂の話が真実であれば、イズナは砦の地下に囚われている。砦の場所が、元・西龍泉の上に築かれたものだとすれば――地下に水脈が残っている可能性がある」

「何か、策が?」

「水攻めだ」


 短く言い切った秋彪に、青と祐真は同時に目を見開く。


「し、しかしイズナさんは確かに鮎の獣血を引いていると聞いていますが、魚に身を変えることはできないと……溺れてしまいます!」


 青の小さな狼狽を一顧しが秋彪は、静かな眼で疑問に応えた。

「シユウ。君は見たはずだ。イズナの技を」


 一瞬、間が生まれる。


「……泡」

 青の唇から、翡翠での記憶が声となって零れた。


 水と対話し、泡を駆使したイズナ独自の解呪――玉泡浄毒法。

 解毒薬を傷口へ浸透させ、体内の毒を浄化した上で水泡として体外へと排出する。


「色々と未熟ではあるが、水を器用に操る腕は確かだ。どうにかして生き残るだろう」

 秋彪はそれだけ言うと、地図へ視線を戻した。


「どうにかして」

 青と祐真は言葉なく、顔を見合わせた。

 互いの目の中に、同じ色が揺れている。


 弟子の可能性を信じ、時に荒療治のために突き放す。

「師匠」の教育方針は、十五年前と変わっていないのであった。

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