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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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302/308

ep. 72 双つの湖(2)

 同じ夜。

 鉄亀ノ森の砦。


 地上から石段を下る足音が響く。

 イズナは膝を抱えたまま顔を上げなかった。


 鉄扉てっぴが開く音に続いて、盆が床に置かれる音。

 冷えた水っぽい飯の匂いが鼻先を掠めた。

 それを置いた誰かが、格子の前で膝をつく気配。


「水くらいは飲んでおけよ」

「……」


 同年代の若い声に顔を上げると、前回は兄の影に隠れていた少年がいる。

 片手に水筒、もう片方の掌を、こちらへ向けて静かに開いた。


 通路に灯された小さな明かりに反射するのは、小さな鍵。


「何――」

「餓死されたら、困る」


 少年は遮るように言い、格子の隙間から水筒を転がした。

 鍵が紐で括られている。


「……」

 イズナはすぐには動かなかった。


「早く」

 短く促される。


 格子の外の牢番が、ちらりと肩越しにこちらへ意識を向けて、すぐまた逸らした。

 水筒は少年が作る影に隠れている。

 イズナは水筒へ手を伸ばし、鍵を手のひらで隠して水筒を掴み取った。


「……」

 少年は何も言わなかった。

 立ち上がり、盆を提げて踵を返す。

 鉄扉が閉まり、錠が落ち、石段を上がる音が遠ざかった。


 イズナは牢番の隙を見計らって、手のひらの鍵を見つめる。

 なぜ。

 鍵を握りしめたまま、イズナは冷静に状況を整理した。


 格子のすぐ外に番人が一人。

 地上へ上がればそれ以上の見張りがいるはずだ。

 鍵を手に入れたところで丸腰の毒使いが、正面から抜け出せるはずがない。


 だとしたら。

 イズナは改めて牢の中を見渡した。

 松明の乏しい明かりの下、びっちりと隙間なく組まれた石床を目で辿る。


「!」

 牢の隅、壁際の一角、石の継ぎ目が僅かに欠け、黒い土が顔を覗かせていた。


 イズナは牢番の視線を横目で測り、格子の手前に置かれた食事へ手を伸ばすために体を動かした。椀を引き寄せるふりをしながら、膝で移動する。


 土の露出した箇所の前で、静かに腰を落とした。

 水筒の栓を抜いて黒土へと傾ける。


 水はすぐには沁みていかず、しばらく薄い溜まりを作り、揺れる水面が静まるのを待ってから、ゆっくりと、ゆっくりと土へ吸い込まれていく。


「……」

 イズナは水たまりへそっと指先を添え、目を閉じた。



 翌朝、青は亀鏡宮を訪れた。


 目的は二つある。

 一つは、曜琳との接触を図ること。

 もう一つは、泣骸ノ湖に関する歴史を探ることだ。


 青は工房の薬師から聞き出した資料室へ向かった。

 回廊を抜けて東棟の奥まった場所にある重い木扉を押し開けると、日当たりの悪い室内に、天井まで届く書架が壁を埋め尽くして並んでいた。


「蟲之区のようにはいかないか」

 親切な案内や掲示のない書架を見上げ、背表紙を一つずつ目で辿る。

 玄武の古地図、無ければ神事や治水の記録など、水に関する手がかりは無いか。


 書架の下段へ手を伸ばしかけた時だった。


「ぼう、何か分からないことでもあるのか? 我が教えてやろう」

「!」


 聞き覚えしかない声を振り返ると、木戸の向こうから、扇子をゆったりと揺らしながら医官長がこちらへ歩み寄ってくる。


「い、いえ、その……お手を煩わせてしまいますから」

「まあそう言わずに」


 女傑は涼しい顔で、閉じた扇子の先を書架へ向けた。


「我で分かることならば、お教えしましょう。『お客人』」

「……」


 青は書架の下段に手を伸ばした中腰のまま、動きを止める。

 今、さぞ滑稽こっけいな姿勢であろう。


「そのような腰に悪そうな姿勢では、何だ。座って話をしようではないか、ぼう」

「――はい」


 扇子の先が、曇った瑠璃の窓際に置かれた卓を示す。

 青は一拍おいて、観念と共に静かに頷いた。


「無駄な議論は好かぬ。簡潔に答えよ」

 青が腰を下ろすのを待たずに、医官長は切り出した。


「ぼうは、どこで医術や薬を学んだのだ」

「な」

 何故、と口にするより先に、扇子がバサリと音を立てて開かれた。


 青は立ち上がり、椅子の脇に膝をついて床へ正座した。

「も、申し訳ありません! 私は――」

 深く頭を垂れる。


 都に忍び込んだこと、身分を偽ったこと、怪我人から衣を失敬したこと、宮殿へ入り込んだこと、果樹園や薬草園の労働者からこっそりお裾分けをもらっていたこと、無断で資料室を漁っていたこと――思いつく限りの罪状が、頭の中を矢継ぎ早に駆け巡った。


 だが。

「何をしておる」

「え」

 想定外の反応に、青は顔を上げた。

 医官長は開いた扇子の陰で口元を隠し、心底不思議そうにこちらを見下ろしている。


「盗みをはたらいたでもなし。よく勤めていたではないか」

「え」


 思わず、もう一度繰り返してしまった。

 医官長は再びパチリと音を立てて閉じた扇子の先で、卓の前の椅子を「座れ」と示す。


「ぼうが検分した押収品の浄化薬だが」

 青が床から立ち上がる間もなく、話が始まった。


「あれから、我もあれこれと試してみたのだ。言うなれば――泣骸ノ湖(なきがらのうみ)禍祓霊まがはらいのたまが持つ力に近い効果をもたらすものであるな」


 青は恐る恐る椅子に戻り、静かに息を呑んだ。

 医官長は扇子を開いたり閉じたりを繰り返しながら、まっすぐ青の目を見据える。


「我はこの邦の医療の頂点に、長く立ってきたつもりだ」

 扇子が、ぱちりと閉じる。


「だが――あのような薬効を持つものを、我はこの邦で、ただの一度も見たことがない。人の手で作れるという発想すらなかった」

 医官長の目に、値踏みでも詰問きつもんでもない熱が、灯った。


「それをぼうは、短時間の検分で見破っておったな」

 一拍の間が落ちる。

「それすなわち――知っておったということであろう?」


 青は神妙に口を閉じたまま、医官長の顔を見返した。

 否定も肯定も、どちらも早計に思われた。


 医官長の口から、追い打ちをかける言葉はない。

 女傑は整えられた爪先で、扇子を膝の上で軽く叩きながら続けた。


「冥気による我が国の水質や土壌の汚染悪化は、年々深刻さを増している。都の水瓶たる東の湖の水質維持は長年、はんざきの民たちの命に頼っておる状態だ」


 医官長は懐に手を突っ込んだかと思うと、どこに隠していたのか、帳面を取り出す。表紙にちらりと、「水質」「調査」などの文字列が見えた。


「あの浄化薬に、その悪循環を断ち切る可能性があるのならば、ぼうが何者であるかは、この際、どうでも良いことである」


 扇子の先が、帳面の表紙を器用に開く。

 青は盗み見るように帳面へ視線を落とした。

 が、扇子の先が再び表紙を閉じてしまう。


「禍祓霊が弱れば、また村の霊胤たまつぎが喰われることになる。陛下が冥気を退けるために喰われた玄珠げんしゅのようにな」


 青は膝の上に置いた手を、そっと握りしめた。


「我が何を言いたいのか、もう分かるな」

「あの……」

「察しが悪いな」


 医官長は青の言いよどみなど意に介さず、扇子をひらりと開いた。


「単刀直入に申そう。ぼうが持つ知識と技を、この邦のために貸してはもらえぬか。禍鬼まがきとやらであろうと、どこぞのつ邦の者であろうと問わぬ」


「えぇと、ですね……」

 青は口を開きかけ、また閉じた。


 懸命に言葉を選ぶ青の思考を、

「皇后陛下の、おなり――」

 回廊の方から届いた凛とした声が叩き落とした。


「えぇっ!?」

 青は弾かれたように椅子から腰を上げた。


 頭の中で、かつて読み込んだ西方の礼儀作法集のページが猛烈な速さで捲られていく。

 西方で王族に遭遇した場合はとにかく頭を低く――そうだ、膝をつくのだ。

 青は再び、床へ膝をつこうとした。


「だから。何をしておるのだ」

 医官長の手が青の腕を掴み、引き上げる。

「え、しかし――」

「いらん」

 何が、と問う前に、扉が静かに開かれた。


 先に姿を現したのは、女官長だ。

 続いて白い人影が、室内へと踏み入る。


 青の目に最初に飛び込んできたのは、白だった。


 雪のように白い肌、流れる銀の髪、碧い瞳。

 それは翠漣殿すいれんでんで目にしてきた、玄珠たちと同じ容姿であると、一目で判別できる。


 まとう衣は深い群青ぐんじょうの地に、銀糸で龍と水紋が織り成されたほう。肩には重ねのかすみがかかり、裾は石畳を静かに滑らかに引いている。

 髪には翡翠と白玉を連ねたかんざしが揺れ、重さを少しも感じさせない所作で、歩を進めた。


渟蘭ていらん、そのお方が?」

 青へちらと視線を向けてから、皇后は医官長へ顔を向けた。

 絹を重ねたような、滑らかで穏やかな声だ。


「そうだ。青藍せいらんだ」

「まあ、あなたの名前と少し似ているわね」


 医官長の「不敬な」口調を皇后は気にする様子もなく、親しげに微笑んだ。

 そのまま笑みの形の視線を青へと向け、両手を胸の前で重ね、ゆるやかに頭を下げた。


「青藍殿。わたくしからも、お頼み申し上げます」

 丁寧で、しかし媚びのない、凪いだ水面のような物腰だった。


 その隣で女官長が、微笑みの形に口元を整えたまま、「断るという選択肢はございませんよ」と全身で語るような目を、青へ突き刺してくる。


 青は、そっと室内を見渡した。

 正面に皇后。

 右隣に女官長。

 背後には医官長。


 逃げ場が、ない。


「め、滅相も……」

 絞り出した声は、我ながら情けないほど細かった。

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