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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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303/309

ep. 72 双つの湖(3)

 埃の匂いが、微かに漂う。

 天井まで届く書架に囲まれた薄暗い一室は、陽の光が瑠璃るりの窓越しにされて、水底のような青白いかげりを帯びていた。


 窓際に据えられた卓の上には、湯気を立てる茶器と、小ぶりな高坏に盛られた色鮮やかな菓子が並んでいる。


「懐かしい」

 皇后が、茶器を両手で包んで目を細めた。

 銀の髪に挿された翡翠のかんざしが揺れて、子どもの笑い声のように音をたてた。


「よくこうして、三人で隠れてお茶会をしたわね」

「隠れてなどと、人聞きの悪い。息抜きと申しましょう」

 女官長が澄まし顔で、茶を啜る。


瑩佳えいか(女官長)が厨房から菓子を山ほど失敬してな」

 向かいで医官長は、胡桃くるみなつめを飴で固めた琥珀色の糖菓とうか楊枝ようじを突き刺す。


霑珠てんじゅ(皇后)の偏食が酷かったからですよ」

「だって、普通のお食事は喉を通らないんですもの」

 皇后は、砂糖菓子のように微笑んだ。


「……」

 三人の女傑たちに囲まれた卓の中央で、青は背筋を棒のように固くしていた。

 なぜ、自分がこの状況に置かれているのか、いまだに飲み込めない。


「あら」

 皇后の碧い瞳が、青の手元に止まった。


「青藍殿、どうぞご遠慮はなさらず。瑩佳の特製ですのよ」

「は、はい……」


 促されて、ようやく青は茶器に指を添えた。

 恐る恐る口をつけると、柑橘かんきつの清涼と花の蜜が入り混じった、奥行きのある甘みが舌先に広がる。


「……美味しい」

 強張っていた肩が落ちる。

 思わず漏れた青の一言に、女官長が反応を見せた。


「それは金柑きんかんの花と、なつめを合わせたものです」

「この甘みの出方からすると……半乾きの段階で合わせていますね」

「あら、よくお分かりで。蒸し時間をほんの少し短くして、水気を残すと風味が残るのです」

「鎮静の薬効も保たれるので、気持ちを落ち着かせたい時に良いですね」


 女官長と青のやりとりを、皇后と医官長が物珍しそうに眺める。

「あらあら。お茶にうるさい瑩佳の蘊蓄うんちくについていける方がいるなんて」


 話題は、茶を淹れるコツから、薬草茶の効能について花が咲き、薬草から滋養食の話へと移り、気がつけば四人の卓は青の小講義の場となっていた。


青藍せいらん殿のお話は、とても楽しいわ」

「我もさんざん、似たようなことを教えてやったではないか」


 医官長の扇子が、ぱちりと不機嫌な音を立てた。


「だって、渟蘭ていらんは厳しいんですもの」

 皇后が柔らかく笑った。


「でも、私の悪阻つわりが酷かった時は、二人が作ってくれたお茶がとても助けになったのよ」

 皇后は茶器を両手で包み直し、その温もりを確かめるように指先を添えた。


 青は茶器の縁から、穏やかな笑みを交わし合う三人を見渡した。

「……皆様は、古くからのご友人なのですか」


 三人の視線が、一瞬だけ互いの間を渡った。


「私たちは三人とも、女官見習いの同期なのです」

 答えたのは、女官長だ。


翠漣殿すいれんでんが設けられるよりも、ずっと前のこと」

 皇后の碧い瞳が、青を向く。


 次いで、医官長が己の茶器に追加を注ぎながら、口を開いた。

「霑珠は、いずれ訪れる『その日』のために、宮中に置かれていたのだ」

 玄武王の一部となり消えた、玄珠の青年のように。


「三人で煤だらけになってあちこちのお掃除をしていたら、仲良しになったのよ」

 皇后の声は穏やかだったが、碧い瞳の底には深い水がたたえられている。


「わたくしたちは、誓い合いました――まさにこの、窓辺の卓でしたわね。必ずこの宮で身を立てて、この国を良くしていこう、と」

「……」


 青は手元の茶が放つ湯気の向こうに、三人の「少女たち」の姿を見た。



 青が女傑たちと茶の香に囲まれるより少し前、鉄亀ノ森(てっきのもり)

 森は絡み合う常緑の樹冠じゅかんが陽を拒み、地表には夜の名残のような薄闇がいつまでも居座っていた。苔むした幹から垂れ下がる灰色の地衣ちいが、風もなく揺れている。


 秋彪しゅうひょうは木々の幹に同化し、身体の重みを高枝のしなりに預けながら、砦を囲む窪地の全容を俯瞰ふかんしていた。


「らしい形跡だ」

 すり鉢状の地形が、広大な範囲にわたって森の底を沈ませている。

 中央には人工的に盛り上げた土壇が島のように据えられ、その上に黒ずんだ石壁の砦が鎮座している。


「東の物見台に二人。南門に三人……」

 秋彪は枝上で姿勢を低くし、砦を周回する巡回兵の動きを追い続けた。


 木漏れ日の角度が移り、やがて真上から落ちる陽射しが、森の床に小さな斑を散らし始める。その間も秋彪は、東の高枝から北側の巨木へ、さらに西の崖際の灌木の陰へと身を移しながら、四方から砦の内外で動く人の影を睨み続けた。


「巡回は二人一組、砦を半周するのにおよそ四半刻……組が入れ替わる折に、南東の角で視界に空白が生まれる……」


 秋彪は改めて、眼下の無骨な砦を見渡す。

 規模としては、さほどのものではない。

 守備兵もおよそ二十。

 腕の立つ四、五人程度の小隊であれば、落とせぬ難易度ではなかった。


「そもそも、何のための砦だ」

 ふと、疑問が生じる。


 壁の厚さも、兵の数も、櫓の高さも、前線の要衝として外敵を迎え撃つ造りには程遠い。門は一つきり、物見台からの視界も森に遮られて狭い。


 私牢を隠すための施設であることは明白ではあるが、秋彪の思考に引っかかるのは、建造した位置だ。己の祖たる湖を成した太い水脈や地底湖の真上に、なぜあえて建てたのか。


「……水を守っているのか、それとも……」

 警邏けいら間隙かんげきって、秋彪は高枝から降りた。

 足音を殺して窪地の斜面を滑り降り、乾ききった底を低い姿勢で移動する。

 掌を地面に添え、土の下に走る水の気配を探った。


「!」

 窪地の北側を辿っていた時だった。

 乾いた地面が、一箇所だけ変色している。

 駆け寄り膝をつき、湿った土に掌を押し当てた。


 ぽこ、ぽこ、と。

 泥の間から小さな泡が立ち昇り、水が地表へとせり上がっている。


「イズナか」

 秋彪の口元が、僅かに緩んだ。

 周囲の気配を探り、深く息を吸い込む。


「水神――深淵」

 泡を起点に、水脈を辿る。


 掌から流し込んだ気が地下の岩盤の隙間を縫い、砦の真下を貫く流れを捉えた。

 泡の軌跡を追い、岩盤の裂け目を縫って砦の土壇の内側へと潜り込んでいく。


 辿り着いたのは砦の南西、地下二層の深さ。

 イズナの居場所をおおむね突き止める。


 さらに深い層へと意識を沈めると、底が抜けたような感覚に襲われた。指先で辿っていた一筋の流れが、突如として巨大な水の塊へと合流し、探りの手が呑み込まれる。


「これは……」

 広い。

 途方もなく。


 砦の直下、盛り土と岩盤の遥か下に、地底湖とも呼ぶべき膨大な地下水の溜まりが息を潜めていた。

 干上がったはずの西龍泉は、地上から姿を消しただけで、大地の腹の中に沈み込んで眠っていたのだ。


「っ……は……」

 強烈な目眩。

 咄嗟に掌を地面から離し、秋彪は顔を振った。


「確実だ」

 古湖の存在を確信した秋彪は次に、壁際を低く移動しながら砦の外周に露出する排水口を一つずつ確認していく。


 東西南北の石壁の根元、苔に半ば埋もれた暗渠の口から、黒ずんだ水が細く流れ出ている。水の色や量を確かめ、砦内のおよその常駐人数を把握する。


 石組みの隙間や排水口へ、火を灯した線香を差し入れる。煙の挙動で空気が抜ける方角と速さを観察。苦無の柄で石壁を叩いて反響をみる。些細な情報の積み重ねから、内部の通路の走り方を割り出した。


 秋彪は再び、砦全体を見渡せる高枝へと飛び移る。

 一度、大きく深く、呼吸をした。


「秋彪の名のもとに命ず」

 懐から取り出した数枚の式符が、青灰色の小さな鼠へと変じる。

 式鼠たちは幹を駆け降り、東西南北それぞれの排水口の暗がりへと吸い込まれていく。


 秋彪は瞼を閉じた。

 松明の灯りが揺れる通路。

 階段の位置――鼠の目が捉える映像が、瞼の裏に流れ込んだ。


「……ふっ……」

 内部の構造を一巡させ、秋彪が強く息を吐くと式は解け、鼠たちは煙となって消える。


 と同時にこめかみの奥に鈍痛が走る。

 幹に背中を預け、秋彪は枝へ腰を下ろした。


「あいつは、よくやったものだな」

 脈打つ頭痛が徐々に凪いでいくのを待ちながら、秋彪はシユウを思いやった。


 粗末な砦とは比較にならぬ規模と堅牢さを誇った、蒼狼邦あおがみほうの要塞。

 あれを陥落させたのは、どうやら毒使いらしいという報せが涅麟くりんの里に届いたのは、里の柿が重く枝をたわませる頃のことだった。


 両儀会の広間に居並ぶ者たちの間を、大きなざわめきが走ったのを覚えている。


 蒼狼邦――最西極の大国・獅子邦の従属国であり、ししの掟の思想を色濃く受け継ぐ邦の一つだ。

 東方へ向けて国交の扉を開きつつある翡翠や白狼とは、対極にある。


 蒼狼は東西に長い国土を有している。

 もしあの要塞を拠点に白狼邦が陥落し、狼の背骨が制圧されていたならば、大陸の中央を貫く龍脈と幹道の半分以上が蒼狼の手に落ちることになる。


 東の諸国にとっても、律盟衆にとっても、座視できぬ脅威であった。

 そのくさびを打ち砕いたのが、凪邦の長の命を受けた、一人の毒使い。


 だが実際に遭遇してみれば、二十を少し越えたばかりの、臆面もなく人前で涙を流し、焚き火に突っ込みかけて鼻を赤くする、どこか危なっかしい若者だ。


「不思議な男だ」

 秋彪は幹から背を離し、枝の上で膝を立てた。

 樹冠の隙間から、都の白い城壁が、遠く霞んで見える。


 情報収集のために宮廷へ乗り込んだシユウを思いやり、秋彪は立ち上がった。

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