ep. 72 双つの湖(4)
資料室の奥から戻ってきた医官長は、開け放った出入り口で忌々しげに長衣の袖を振った。頭髪から肩にかけて、薄灰色の埃が粉雪のごとく降り積もっている。
「瑩佳、女官たちにきちんと掃除をさせよ。書庫の奥が蜘蛛の巣だらけではないか」
「これは失礼を。手が回っておりませんでしたわね」
女官長が涼やかに笑う。
医官長は念入りに衿元や袖口の埃を払い、乱れた髪を手櫛で整えてから、ようやく卓へと戻った。
卓上の茶器は退かされ、巻物が広げられている。
黄ばんだ紙面には、墨と朱で古い地図が描かれていた。
現在の泣骸ノ湖にあたる場所に「東龍泉」の文字があり、そしてその西方に、ほぼ同じ大きさの楕円が、「西龍泉」の名とともに描かれている。
東の湖には白墨で犬のような吻を持つ水神が、西の湖には朱墨で同じ姿の水神が、それぞれとぐろを巻いて鎮座する姿が描かれている。
白と朱、二柱の水神は湖を隔てて向かい合い、双子のように寄り添っていた。
「やはり西の湖にも、主がいたのですね」
「少なくとも、その頃には、であるが。この地図は、千年以上も前のものだ」
ぱちり、と扇子が鳴った。
「度重なる天変地異、西から押し寄せる厄災を一身に受け止め続けた末に、西の湖は枯れ、主は毒の蛟へと変じた。ぼう、押収品を持ち込んだ若い武官たちを覚えておろう。あれは国の防衛を担う龍泉家の者だ。そして――西の主の末裔である」
「元は禍祓霊の末裔……」
青は、古地図に描かれた朱の水神を見つめた。
――我ら龍泉の、毒に穢れたと謂われる血族
曜桂が絞り出した叫びは、一族の悲哀そのものだったと、知る。
「――っ」
青の唇が、僅かに開きかけた。
子どもたちのことを告発すべきか、逡巡する。
冷たくなった三人の額に触れた感触を、指先が覚えている。
だがそれは同時に律盟衆――彼らにとって「禍鬼」の草の根活動を晒すことにもなり、更に今の青の立場においては個人の義憤でしかないのだ。
「ですから我が邦は、龍泉家を切り捨てることはできぬのです」
言葉に迷い視線を伏せた青に、皇后の声が降る。
「……」
牽制するような言葉の中に、真実を見透かしたような含みを感じるのは、思い過ごしか。
「――そうだわ、龍泉家といえば」
皇后が、三杯目の茶を受け皿に戻しながら、切り出した。
「女官見習いの中に、お茶を淹れるのが上手な娘がいますわね」
「曜琳のことですね」
女官長が応じた。
言葉に迷う青の目前で、「少女たち」の言葉が飛び交う。
「ええ。ことに璃雹がその子のお茶を気に入っていてね。しょっちゅう茶房に出入りしているようなの」
「生娘を揶揄うご趣味は親譲りかの」
「あまり初心な見習い女官に意地悪をしてもらっては困りますよ」
医官長と女官長が釘を刺すと、皇后は「あら」と首を傾げてみせた。
「わたくしも気に入っているのよ。璃雹のお嫁さんにどうかしら、と」
「……!」
青の手の中で、茶器がかちりと音を立てた。
「これはめでたい。龍泉の家は安泰だな」
医官長が扇子をパチリと打ち鳴らした。
「確か龍泉家にはご子息がおりましたね。《《二人》》」
女官長が、さも記憶を辿るかのように指先を頬に添えた。
「ええ。《《どちら》》が、跡を継ぐのかしら」
皇后の声は、春の風のように柔らかい。
申し合わせたように三人の視線が、水底の石のように固まる青へと向いた。
*
同日、夕方。
青は片手に握った文を確かめながら、湖畔を迂回して斑咲村へと向かう。
秋彪からの式鳥が運んできた文に従った道順を抜けると、村の外縁にある古い納屋に辿り着いた。
「工房?」
土間に踏み入れた青は、一瞬、足を止めた。
「シユウか」
「あ、シユウ大師!」
壁に向かっていた秋彪と祐真が、振り返る。
外から見た納屋の佇まいは農具を仕舞い込むだけの掘立小屋だが、室内は青の想像の三倍は広かった。
板を渡しただけの棚が三方の壁に沿って巡らされ、壺や硝子瓶が口を揃えて並んでいる他、下段には乳鉢、薬研。目の高さには小刀、匙などの道具類が並ぶ。土間の竈には鉄瓶が据えられ、煎じ薬の湯気が細く立ち昇っていた。
竈の前で薬草を煎じていた秋彪は、村の男たちが身に着けるような藍染の作業着に袖を通している。
室内の真ん中では祐真が、巨大な摺鉢を両足で押さえて擂粉木を回していた。
「作り足しておいた」
秋彪は竈から離れ、壁際に設えられた作業台を指し示した。
「必要なものを、持っていくといい」
「助かります!」
青は促されるまま台へ駆け寄り、並べられた薬瓶や紙包みを繁々と見渡した。
傷薬、消炎剤、鎮静薬などが用途ごとに仕分けられ、蓋や札には秋彪の手による簡潔な品名が墨書されている。
「あれ……」
いくつか並ぶ毒薬瓶の中で、ある一点に青の視線が止まった。
黒褐色の小瓶に巻かれた札に、朱色の墨書きでこう書かれている。
強酸・塗布毒――効果:壊死。
「逆飛泉……」
青は瓶を取り上げた。
封蝋の色、瓶の口に残る微かな刺激臭。
鼻腔の奥を針で突くような、馴染み深い酸の気配。
逆飛泉。
主として刃先へ塗布して用いる戦闘毒だ。
急所を突けば即死効果が得られ、たとえ掠り傷であっても、含有される強烈な酸が筋繊維を侵し、巨大な獣や妖魔の動きすら急激に鈍らせる。
その名の由来は、使用時に激しく上がる白い煙を、逆さの滝になぞらえている。
間違えるはずがない。
これは藍鬼の名で法軍の毒薬目録に登録されている、藍鬼の代名詞のような毒薬。
「ああ、それは――」
「小屋の前で戦った折にも……お使いでしたね」
秋彪の声に、青の言葉が重なった。
「分かるのか。説明するまでもなかったな」
秋彪は感心したように目を細める。
「分かるも何も……」
青は奥歯を強く噛み締めた。
毒術師となってから今も尚、青が愛用している必携品の一つだ。
「こちら、頂戴します」
角張った懐かしい筆跡が走る札を、青は指先で撫でた。
「ああ。シユウならば扱うのも容易いだろう」
秋彪は再び、薬草が煮立つ土瓶へ意識を戻す。
「……」
擂粉木を動かし続けていた祐真が、二人の間に流れる不思議な空気を、物珍しげに眺めていた。
「ゆうしん兄ちゃん、センセイ!」
草木の繊維が潰されるざらついた低音に、弾む幼い声が割り込む。
「ごはんどうぞ! あ。水をきれいにしたお兄ちゃんもいる!」
緋色の着物姿のつむが、身の丈に合わない大きな盆を両手で捧げ持って現れた。
盆の上には素焼きの皿が載り、片手でつまめるほどの握り飯と干し芋、それに竹筒の水が並んでいる。危うげな足取りで、こぼすまいとする真剣な面差しが、場の空気を和らげる。
その背後から、永濯が続いた。
「永濯さん、これは、この方は、その」
青は慌てて、秋彪と永濯の顔を交互に見返す。
「祐真のセンセイなんだってな。シユウみてぇのがもう一人増えたようなもんだろ」
「永濯さん……」
あっけらかんとした永濯の態度が、青の強張った背を緩ませた。
「永濯おじさん、村の分はそれです」
祐真が擂粉木を置いて、奥の卓に置かれた革袋を示した。
傷薬と解毒剤を詰めた、村への分配品だ。
「お、ありがてぇ」
永濯は革袋を受け取ると、つむの肩に手を置いた。
「邪魔しちゃいけねぇ。戻るぞ」
「永濯さん」
踵を返しかけた背中へ、青の声が追いかけた。
「ん?」
「ちょうどよかった、皆さん――永濯さんにも聞いていただきたいことがあります」
「聞こう。俺も報告すべきことがある」
秋彪が竈門の上で煮え立つ鉄瓶を布で掴み、作業台の端へと移した。竈の火口に蓋を被せ、炎を落とす。祐真は擂粉木を置き、布で手を拭った。
永濯は入り口で立ち止まり、つむの背をそっと村の方へ押す。
「先に戻ってろ、つむ」
「はあい」
遠ざかる素朴な足音が充分に離れたのを見届けてから、青は改めて工房の中の面々に視線を巡らせた。
「皇后陛下に、この活動をお認めいただけました」
青は手のひらで、薬瓶の並ぶ棚を、乳鉢や薬研を、干された薬草の束を――工房の隅々をゆるやかに示すように、宙をひと撫でした。
沈黙が、一拍。
秋彪の切れ長の双眸が、僅かに見開かれた。祐真は擂粉木を持ったまま口を半開きにし、永濯は革袋を握る手を宙に浮かせたまま。その一瞬だけ、三人揃って石に変じたように動きを止めた。
蓋をされた竈の中で、燃え尽きかけた炭の塊が崩れ落ちる音が転がる。
「皇后?」
最初に声を発したのは、秋彪だった。
声音は平静を保っているが、切れ長の瞳の奥に、針先ほどの揺らぎが走る。
「こ……」
祐真と永濯は、ただ呆然と青の顔を見つめている。
遠目に拝むことすら叶わない存在の名が、非現実的に響くだけだ。
「医官長様と、女官長様も交えたお茶会の場を、設けてくださいまして」
青の説明に秋彪は呆れたような、いっそ感嘆めいた息を一つ、長く吐き出した。
「茶……人たらしもそこまで来ると、一種の技能だな」
一拍置いて、独り言のように付け加える。
「――分からないでもないが」
「え、え」
青は顔を綻ばせ、聞き返そうと秋彪へ身を乗り出しかけた。
だが秋彪はすでに表情を引き締め、先を促すように顎をわずかに上げている。
青は咳払いを一つ落として、居住まいを正した。
「皇后陛下をはじめ、医官長様も女官長様も、湖周辺の水質改善と人々の健康被害の改善を、切に願っておられる。その手立てを、探しておいでなのです」
青の視線が、室内の棚や卓に並ぶ薬や素材を巡る。
「医官長様は、既にお気づきでした」
「医官長って、宮中の……?」
小さく身震いした祐真の手が擂粉木に当たり、石がぶつかる音がやけに大きく響いた。
「皇后陛下ご承認のもと、医官長様を筆頭に民間医療改善に向けた調査班の組成が進められることになりました。先例として、湖周辺の村々を取り上げたいと」
それは実質上、村の人々が皇后の保護下に置かれると同義。
そして龍泉家がイズナを縛っていた脅迫が、その根拠を失うことを意味する。
「……そうか」
「――はい」
青と秋彪は、互いの双眸へ、頷きあった。




