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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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305/308

ep. 72 双つの湖(5)

 払暁ふつぎょう、鉄亀の森。

 青は砦の南側に身を潜めていた。秋彪は北側に待機している。


 高枝の上で青は、懐から折り畳んだ地図を取り出した。

 紙面の余白は、墨と朱の書き込みで隙間なく埋め尽くされている。

 青はその一つ一つを、指先で辿って最後の確認をした。


 前夜、村で作業を終えた後、青と秋彪は焚き火を挟んで互いの報告を突き合わせた。


 青が宮廷の「茶会」で得た情報を語れば、秋彪からは砦の内部構造、巡回の人数と間隔、イズナが囚われている位置、さらに読み取った水脈と地底湖の存在について、子細な報告が返ってきた。それらを一つずつ地図に落とし込み、作戦を練り上げた。


「短時間のうちに、そこまで……」

 秋彪の報告の精度と効率の良さに、青は舌を巻くほかなかった。

 かつて自分が蒼狼の要塞を陥とした折は、下調べに獣鬼隊の子どもたちの力を借りながら数日を費やしたというのに。


 感嘆を素直に告げると、秋彪はただ小さく苦笑するだけだった。


 地図を畳み、懐へ戻す。

 梢の隙間から東の空を仰いだ。霧の底は未だ暗い。


 やがて、都の方角から鐘の音が届いた。

 低く、長く。

 早朝の刻を告げる玄武の時鐘。


 余韻に紛れて、青は地面へと降りた。

 秋彪の調査により、岩盤が薄く水脈に近い箇所が七つ特定されている。

 窪地の南側四箇所を青が受け持ち、北側の三箇所を秋彪が担う。


 窪地の斜面を這うように移動し、青は苔と地衣に覆われた岩盤の裂け目の前に立つ。腰の道具袋から小瓶を取り出し、封蝋を親指の爪で割って蓋を外して眼前に掲げる。


「玉」

 短い詠唱に応じ、瓶の口から琥珀色の液体がゆるりと吸い上げられた。

 重力に逆らい、宙に解き放たれた薬液は、青の指先の高さで小さな球体となって浮かぶ。


「水龍」

 水を纏いながら膨れ上がった水玉が、やがて龍の形を成す。水光の鱗を散らしながら青の手元を旋回すると、岩盤の亀裂の奥へと吸い込まれて消えた。


 すかさず青は両の掌を岩肌へ押し当て、瞼を閉じる。

「深淵」

 意識が、岩盤の向こう側へと潜った。


 瞼の裏に、暗い地層の断面が浮かび上がる。

 固く噛み合った岩の繊維の間を、水龍は毛細の管を伝う血のごとく、岩盤層の内部へと潜り続ける。


「よし」

 青は目を開け、岩盤から手を離した。

 こうして残り三箇所。

 要所の岩盤を一つずつ脆化させ、崩し、地下の水脈へ亀裂を通すのだ。


 染み出した水が砦の足元を泥濘ぬかるみと化し、窪地の底を満たし始め、やがて土壇どたんそのものが浸水していく。


 計算では半日もしないうちに砦は沈み、それから数日をかけて、森全体に広がるすり鉢状の地形が水に呑まれ、かつての湖の姿を取り戻すだろう。


 そこに一つ、懸念があった。


 半日。

 砦が水没するまでに、それだけの猶予がある。

 守備兵が異変に気づき、報告を上げ、都から増援が駆けつける猶予が、十分にあった。


「増援が来たら、どうするつもりですか」

 という青の問いに、秋彪は淡々とこう答えた。

「駆けつけたところで、どうすることもできまい」


 同感だった。

 だがその中にもし、子どもたちに手をかけた張本人たちが姿を現したら――青の意図を読み取ったのだろう、秋彪はやはり、淡白にも聞こえる声調で、こう答えた。


「奴ら次第だ」

 それきり口を閉ざした秋彪へ、青もまた、それ以上は問わなかった。


 南側、四箇所目の仕込みが完了した。

 青が岩肌から掌を離した直後、頭上の梢を掠めて式鳥が舞い降りる。

 秋彪から、北側の作業が完了した知らせだ。


 青も式鳥を放ち、周囲に気を配りながら、あらかじめ定めておいた合流地点へと戻った。

 砦の全容を見下ろせる巨木の高枝へ身を躍らせると、すでに秋彪の影が闇に溶け込むようにしてそこにあった。


 互いに無言の頷きを返す。

 あとは、待つだけだ。


 最初の変化は、ごく静かだった。


 砦の東側、石壁の根元で、地面が湿り気を帯び始めた。

 乾ききっていた土に黒い染みが滲み出し、見る間に広がっていく。


 次いで、南の排水口から逆流した水が、細い帯となって窪地の底を這い始めた。

 物見台の見張りが、異変に気づき始める。

 石畳の継ぎ目から、水が滲み始めている。


「……何だ?」

 森を包む朝霧の中に、兵たちの呟きが行き交う頃には、砦を囲む窪地の最も低い部分に、薄い水鏡が生まれていた。



 砦の地下、石牢の中。

 イズナは牢番に背を向けて、冷たい石の床に横たわって眠っているように装っていた。


 鼻腔を、土と鉄を含んだ水の気配がよぎった。

 イズナは目を開ける。

 石と石の継ぎ目から、黒い水が糸のように滲み出していた。


 牢の床は通路よりもわずかに窪んでおり、水はまず格子の内側へと集まっていく。

 牢番が座る通路の石畳は、まだ乾いたままだ。


 イズナは身じろぎせず、声も出さなかった。

 懐に忍ばせた鍵を指先で探り、手のひらの中に固く握り込んだ。


 水は、少しずつ増えていった。

 やがて床一面を薄く覆い、横たわるイズナの頬を浸し始めた。


 そっと、片手を水に浸した。

 指先が水面に触れた瞬間、水が応える。

 牢の外へと溢れかけていた水が、見えない堤に阻まれたかのように止まる。

 格子の内側で渦を巻き、牢の中にとどまった。


 もっと。

 もっと水嵩が増すまで。

 手遅れになる、その瞬間まで――待つ。


 水が腹を浸し、胸にかかり始めた頃、イズナは音を殺して身を起こした。

 水飛沫を立てぬよう、ゆっくりと立ち上がる。


 やがて牢の内側の水嵩は膝を超え、腰に迫ろうとしていた。


「ん……?」

 牢番が、ゆるりと首を巡らせた。


 今だ。

 イズナは腹の底に力を込めた。

 見えざる堰が切れた。


 渦を巻いて内側に溜め込まれていた水が、格子の隙間から一気に廊下側へ噴き出した。通路を呑み込み、牢番の足元を一瞬にして沈める。


「何だ!?」

 椅子ごと押し流されかけた牢番が、悲鳴に近い叫びを上げて立ち上がった。

 水は瞬く間に腰の高さまで達する。


 牢番は振り返ることすらせず、水を蹴散らしながら石段を駆け上がっていった。

 叫び声と水を叩く足音が、螺旋の階段を昇って遠ざかる。


 イズナは水音に紛れて呼吸を整え、鍵を握り直し、格子の錠前へと腕を伸ばす。

 水中で手探りのまま、鍵穴に差し込んだ。


 かちり、と固い手応えがした。



「来ました」

 蹄の音が近づいた。


 森の切れ間から、鉄紺の軍装に身を固めた騎兵の一団が、泥を蹴散らしながら窪地の縁で一斉に止まる。眼下の光景に、先頭の騎手が手綱を引いて馬上で凍りついた。


 報告を受けて駆けつけてみれば、砦は既に巨大な椀の底に沈みゆく石のようだった。


 盛り土の裾は既に水面の下に没している。

 砦の門は辛うじて水面の上に顔を出しているものの、石段の半ばまでが水に呑まれ、物見台からは守備兵たちが為す術もなく水嵩の増す様を見下ろしている。


 騎兵たちの先頭に立つのは、龍泉家の当主と、二人の子息たちだ。


「何をしている! 砦内の者を引き上げさせよ!」

「承知!」


 当主の号令が飛ぶと、騎兵たちが一斉に展開した。

 巨大なみさごに姿を変え、空から砦の物見台へと救助に降り立つ者、全身に鱗を走らせてわにや大亀へと変じ、濁った水を掻き分けて砦へと向かう者、角駿かくしゅんを迂回させて砦の裏側に回る者、それぞれに動き出す。


禍鬼まがきの娘はどうした」

「それが……浸水の勢いが強すぎて、地下から連れ出すことができず」


 報告を受けた当主の顔が、険しく歪んだ。

「死んだか」

「地下の牢は、とうに水没しておりますれば」


 守備兵が水面を示す。

 水は砦の石壁を越えて溢れ出ていた。


 当主と兄の背後から、曜桂ようけいは何度となく水面に何かを探すように覗く。


「曜桂」

 不意に当主――父が振り返り、末の息子に命じた。


「お前は水に潜り、禍鬼の娘の生死を確かめよ」

「も、もし、死んでいたら、どうなさるのですか」


 視線が泳ぐ末息子の掠れた声に、轟音が重なった。

 石壁の一角が、せきを越えた水圧に耐えきれず内側から膨れ上がり、崩落した。


 巨大な石塊が水柱を上げて椀の底へと沈み、衝撃が水面を一枚布のように揺らす。

 崩れた壁の穴から、堰き止められていた水が一気に噴き出し、窪地を満たす速度がにわかに増した。


 次々と水柱が上がり、足元の土が削られる。

 水際の騎兵たちは慌てて距離をとる。


 その時、砦北の水際で、暴れる水面を割って小さな影が浮かび上がった。

 喘ぐように岸へと這い上がる小柄な影。


「イズナさんが!」

 青は高枝から身を乗り出した。

「待て」

 その腕を、秋彪の手が掴んだ。


「あのむすめ……どうやって!」

 一方、水際では龍泉の長兄が、反対側の岸辺に這い上がるイズナを目に留めた。


「生きていたなら好都合だ。捕らえよ」

 父の命を受け、長兄が水際を駆け出そうとしたその目前に、曜桂が割り込んだ。


「おやめください!」

 両手を広げ、父と兄の行く手に立ち塞がった。


「何のつもりだ、曜桂」

 父と兄の声が重なる。


 高枝の上の青もまた、息を呑んで声を殺す。

 秋彪は冷えた鋼のように、事の成り行きを見据えていた。


「父上も、兄上も……禍鬼憎しのあまり、守るべきものを見失っています」

 曜桂の声は震えていた。

 けれど視線だけは、真っ直ぐに父を射抜いている。


 父のかおから、潮が引くかの如く、顔色が薄らいだ。

 それは、激昂げっこうの前兆。


「曜桂……よもやお前まで……」

 低く、地を這う父の声は、次第に獣の唸り声へと変容する。


「禍鬼にかどわかされたのか!」

 首筋に血管が怒張し、皮膚の下から赤黒い鱗が隆起し始めた。

 足元の泥水を踏みしめる足が鉤爪に変わり、地面が軋む。

 兵たちが、主の放つ殺気にかれたように身を退いた。


「かどわかされているのは、父上の方です……過去と、よどんだ憎悪という幻影に!」

 曜桂もまた、泥の上で両足を踏みしめた。

 華奢な輪郭が陽炎のように揺れる。白磁の肌を食い破るように黒い鱗が噴き出し、細い四肢が伸長し、人の形を置き去りにしていく。


 曜桂の背後で水がざわめいた。

 水面が急激に隆起し、弾け、荒れ狂い始めた。


 歴戦の傷を抱いた赤黒い鱗と、若く艶やかに濡れた漆黒の鱗――水際に、二体の蛟が対峙した。


「曜桂、やめよ!」

 人の姿を保った長兄が、弟に向けて叫んだ。

 黒い蛟は、鎌首をゆるりと横に振り、父と兄へ大きくあごを開く。


 ――ヴォオオオオオォッ!


 若い咆哮が水面を叩き、森の梢を震わせた。

 それは、覚悟の宣言だった。


 高枝の上で水の霊の対峙を見つめていた秋彪が、動いた。

 懐から式符を抜き出す。


「秋彪の名のもとに命ず」

 放たれた符が青光を帯びて膨張し、一頭の蒼い狼へ変じた。

 狼は四肢で幹を蹴って着地すると、窪地の縁を大きく迂回して水際を駆けた。


 全ての目がみずちたちの対峙に釘付けになっている隙を縫い、一直線に、水から上がったイズナの元へと走る。


「黒士の式!」

 狼は、両手を振るイズナの衣の襟元を咥え、ひょいと背中へ放り上げた。

 不格好にしがみつく小柄な体を乗せて、式は森の奥へと疾駆する。


 青は隣の秋彪を見やった。

 どうする、と、目だけで問う。


「曜桂を援護する」

「もちろんです」


 青は深く頷いた。

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