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毒使い  作者: キタノユ
第五部

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306/308

ep. 72 双つの湖(6)

 蒼い狼は鉄亀ノ森の暗がりを駆け、白銀に輝く泣骸ノ湖へと抜けた。

 狼は速度を緩めることなく砂利を蹴散らし、岸辺へと滑り込む。


「イズナ姉師せんせい!」

 待ち構えていた祐真が、声を裏返らせて駆け寄る。

 背後には永濯えいたくをはじめ、斑咲村の水守たちが控えていた。


「祐真君!!」

 イズナは、狼の背から転がり落ちるように降り立った。

 式は風に攫われて霧散する。

 泥水に濡れそぼったまま、イズナは覚束ない足取りで祐真の元へと走った。


「無事だったんですね!」

 祐真の姿を確かめてから、イズナは初めて周囲に目を巡らせた。

 永濯ら水守の男たちが、ただ黙って待ち受ける。


 イズナは深く、腰を折った。

「も、申し訳ありません。私が、至らないばかりに……」

「僕は」

 祐真が、堪えきれないように言葉を被せた。


「姉師に教わった風術のおかげで、生還できたんです!」

 そばかすの散る頬が、上気している。


「しんみりした挨拶は後回しだ」

 永濯が、一歩前に踏み出た。


「シユウたちから、お前さんのことは聞いてる。これから起こることも」

 誰もが視線を西側を向けたと同時に、泣骸ノ湖(なきがらのうみ)の水面が、にわかにざわめいた。


 湖心から巨大な水柱が立ち上がり、飛沫が虹を掛ける。

 白い鱗が水を弾き、長大な胴が波紋を蹴散らしながら浮上した。


 主が、その身を水上に現す。

 長い吻を天へ持ち上げ、西の森の彼方を見据えた。

 今まさに水が満ちつつある、もう一つの湖の方角を。



 窪地を満たす水辺で、二体のみずちが激突した。


 父――赤黒い巨躯が尾をしならせて水面を叩く。

 凄まじい水柱が立ち上がり、尾が一閃。


 曜桂ようけいは身を沈め、水中へ滑り込んで一撃をかわして父の懐をくぐり抜ける。浮上と同時に鎌首を返し、黒い牙が赤黒い鱗の脇腹を掠めた。


 赤蛟が低く唸り、顎門を限界まで開く。

 喉の奥から、焼け焦げた鉄の匂いを伴う紫黒の霧が噴き出した。


 曜桂は天を仰いで咆哮した。

 せり上がった水壁が紫黒の毒霧を正面から受け止める。

 泡立ち、霧散し崩れ落ちる水柱を蹴り破って、父の巨躯へ激突した。


『ゴォオッ!』

『グルルルルッ』


 水が爆ぜ、二体の巨躯が絡み合って沈む。

 水底から突き上げる衝撃が波となって四方の岸を打ち、立ち木が根本から揺さぶられた。


 先に浮上したのは、父だった。

 長い吻を振り上げ、渾身の力で子の首筋に噛みつく。


 曜桂は苦悶に身を捩ったが、父に噛まれたままひれで水を掻き体勢を入れ替える。長い尾を絡めて父の後肢を絡め取り、その巨体を横倒しに引きずり込んだ。


「曜桂! もうやめろ!」

 長兄の、懇願に似た叫びは水しぶきにかき消される。


「ちっ……」

 長兄は歯噛みし、水飛沫が雨のように降り注ぐ中に立ちすくむ兵たちへ振り返った。


「何をしている! 砦に残っている者たちを引き上げさせよ!」

 号令に弾かれ、兵たちは崩落が進む砦へ向かう。


 その間も、水中の戦況は動いていた。

 曜桂の尾が渦を巻く水流をまとい、横殴りに父の顎を打ち据えた。

 赤蛟の巨体がよろめき、水面を叩いて体勢を崩したところへ――曜桂が全身のしなりを乗せて突進した。


 そこへ、水際から鉄紺の鱗――長兄が滑り込む。

 ズドンと、鈍い衝撃音が森を揺るがす。

 一蹴りで横合いから曜桂の首筋へ、体当たりを見舞った。


 虚を突かれた曜桂の黒い巨躯が弾き飛ばされ、水際の泥地に背から叩きつけられた。間髪入れず鉄紺の爪が弟へ振り下ろされる。


「水神――」

 倒れた曜桂の腹の上に、秋彪が降り立つ。


蟲糸むしいと

 短い詠唱と共に、水糸が扇状に展開――宙に巨大な蜘蛛の巣を描いた。


『グオォッ!』

 異様な粘性を帯びた巨大な水の網が、長兄の鎌首へ正面から絡みつく。

 顎を閉じることも開くこともできず、鉄紺の蛟は首を振って糸を引き千切ろうと暴れた。


 その隙に曜桂が胴を一回転させて跳ね起き、勢いそのまま尾に乗せ、兄を横薙ぎに払う。鉄紺の巨体が水面を跳ね、浅瀬に叩きつけられた。


『オノレ禍鬼!!』

 父蛟が咆哮した。

 黄金の瞳が秋彪を捉える。


 膨れ上がった怒りが瘴気となって、赤黒い鱗の一枚一枚から噴き出し始めた。

 水面が泡立ち、水際の泥がみるみる乾き、焼けていく。


 一方の青は、秋彪から距離を置いての待機と援護を言いつけられていた。


「蟲糸なんて術、初めて見た! 師匠が創ったのかな」

 高枝から、青は身を乗り出して声を弾ませる。


 既存の術に毒を混合させることで術の威力を底上げする青と異なり、秋彪は毒の効能を最大限に活かすために、術そのものの構造を造り変えている。


「凄い……」

 師の技に感嘆しながら、青は、水没しかけた砦を背景に繰り広げられる湖の霊たちの戦いと、藍鬼の立ち振る舞いを見つめた。


 いつでも飛び出せるよう身構えているものの、父と兄を相手どった曜桂の善戦は予想外だった。


「下手に僕が手を出さない方が良さそうか」

 青は高枝から地形を俯瞰ふかんし、思考を巡らせる――ふと、視界の端を黒い霧が掠めた。


「あれ?」

 西側の空が、揺らいでいる。

 天候の崩れか。大気が黒く濁り、木々の輪郭を塗り潰していくように見える。


「あれってまさか……」

 青は懐へ手を走らせた。


「シユウの名のもとに命ず」

 指先に挟んだ式符が小鳥へと変じ、高枝から一直線に降下する。

 水際で蛟の間合いを測っていた秋彪の眼前を、小鳥はするりと二度旋回し、そのまま西の空へと飛び去って消えた。


 秋彪は水辺から身を引き、鳥の軌跡を追って西を仰ぐ。

 彼方の空は、刻一刻と濃さを増していた。


「わっ!」

 唐突に、大樹が縦に揺れた。

 地鳴りが脊髄せきずいを突き上げる。


 青は咄嗟に幹にしがみついた。

 森が一斉に悲鳴を上げる。

 窪地を満たしていた水が大きく波打ち、沈みかけた砦と岸を洗う。


 西から――それははしり来た。


「あれは!」

 黒い嵐が、森の梢を呑み込みながら迫ってくる。

 地平を埋め尽くす闇の壁が、大地の底から噴き上がる瘴気を巻き込んで、鉄亀ノ森を丸ごと飲み下さんと押し寄せていた。


『グル……ッ』

 絡み合っていた蛟たちの動きが、止まった。

 長兄が、曜桂が、鎌首を持ち上げて西を見た。


 二つの咆哮が、同時に森に轟く。

 兄弟の双顎から迸った号令に水が応じ、螺旋を描いて西の空に立ち上がった。

 扇状に広がった水の巨大な防護壁へ、迫り来る黒い嵐が飲み込まれる。


 そこへ――


『グギャッ!』

 曜桂の黒い鎌首に、父蛟の赤黒の牙が突き立った。


「!?」

 青は反射的に、両腕を振り抜いた。

 放たれた四本の毒針が、赤蛟の鼻腔の縁、瞼の際、顎の付け根――分厚い鱗の隙間から覗く、柔らかな粘膜に的中、白い煙が噴出する。


『ゴゥッ!!』

 赤蛟が悲鳴を上げ、曜桂に喰らいついたまま仰け反った。


 水を守ろうとする本能に従った兄弟と対照的に、父蛟の黄金の双眸は憤怒に支配されている。


「我を失っているのか」

 距離をとり、青の援護の結果を見つめる秋彪の足元が、再び激しく突き上げた。

 すぐ背後の巨木が根こそぎ傾ぎ、岸辺の土に亀裂が走る。


 砦を中心とした一帯が、内側から噛み砕かれるように崩落した。

 地下水が噴き上がり、瞬く間に土砂を攫って森が抜ける。

 砦の物見台が傾ぎ、濁流の渦に呑まれて消えた。

 連鎖する崩壊が西へ西へと喰い広がっていった。


「師匠!」

 青は高枝から叫ぶ。

 水に飲まれかけた秋彪が風術を発動させて足場を伝って陥没から逃れた様子に、刹那せつなの安堵を吐く。


 東西の湖を隔てていた岩盤と白骨の層が、轟音とともに割れた。

 亀裂からあふれた水が壁を崩し、噴き、もはや止められるものは何もない。


 水が合流した瞬間、衝撃波が水面を走り、泥と岩と木々を巻き込んだ濁流が四方へと爆発した。気づけば蛟たちの巨躯が、消えている。


「秋彪さん!」

 青は残された高台の岩棚を目掛けて着地し、秋彪と合流した。


「あれは、湖が、繋がったんでしょうか!?」

「そのようだな」


 砦の森は、一変していた。

 黒い森の闇を作り出していた樹冠も、蛟の威容を示す砦も沈んだ。

 森の高台や稜線だけが細い岸となって水から顔を覗かせ、新たな地形が生まれつつある。


 青は頬を紅く染めて、地図が書き変わる光景に口を開けていた。

 隣の秋彪は、濡れた前髪を掻き上げながら、凪いだ目で東西の水面を見渡している。


「曜桂君は……龍泉家の人たちは」

「東へ流されたのだろうな――行こう」

「はい!」


 応えた青の声は、まだ興奮に上擦っていた。


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