ep. 72 双つの湖(7)
刻々と姿を変えていく泣骸ノ湖を、水守たちは呆然と見守るしかなかった。
西の緑線を越えて途方もない量の水が東へ流れ込み続け、巨大な水鏡が東西に長く延びつつある。
イズナ、祐真、永濯、そして一部の水守の男たちは東の丘の上にいた。
湖畔沿いの道はとうに水浸しになって、湖の一部となっている。
周辺の村々へは浸水への備えと避難の触れを回してあるものの、眼下の事態は想定外だった。
湖は、西からの濁流を受け止めて大きく渦を巻いている。茶褐色に混じって水面を這う、黒い瘴気の泡立ちが、やがて意思を持ったかのように凝集し始める。鰭を生やし、顎を開き、妖魚や水蛇の形をとって水中を奔った。
荒れ狂う水際から這い上がろうとしている人影があった。
年若い少年、人の姿に戻った曜桂が、岸辺の岩角に指を掛けて這いあがろうとしている。
「っ!」
水が割れ、黒い水蛇が足首に絡みついて曜桂を水底へと引きずり込もうとする。
「曜桂君!」
西から駆け下りてきた青の手が、もがく曜桂の手首を掴んだ。
「亀鏡宮の……」
泥の上に引きずり上げられ、曜桂は肩で荒い息をつきながら顔を上げた。
追いついた秋彪と、青の面差しを交互に見やり、悟ったように唇を結ぶ。
青は曜桂を岩陰へ移すと、腰の道具袋から薬瓶と符を手早く引き抜いた。
父と兄との戦いで負った身体中の裂傷の止血に取り掛かる。
最後に鎮痛の丸薬を一粒、曜桂の唇に押し込んだ。
「噛まずに、舌の下で溶かして」
寸時、曜桂は歯を食いしばったが、諦めて従った。
薬効の巡りは早く、青白かった頬に仄かな赤みが戻る。
湖上から、水が低く唸った。
振り向けば、白き主が見据える先の湖水が押し上げられ、裂け、黒い飛沫を撒き散らしながら赤黒い鱗の巨躯が姿を現した。
『グルルルルッ……』
二つの威嚇が重なる。
東西の水の主が、境界を失った湖の中央で対峙した。
「父上!」
曜桂が、泥の上から叫んだ。
父蛟の黄金色だったはずの瞳は、赤黒い濁りに侵されて光を失っていた。
鱗と鱗の隙間からは、紫黒の瘴気が間欠泉のように噴き出している。
湖水に渦巻く黒い妖魚らが、引き寄せられるように赤蛟の巨躯へ纏わりつく。
「瘴気を取り込んでいる?」
青は満身創痍の曜桂の肩を支えながら、側の師の横顔を見上げた。
「逆だ。取り込まれている」
秋彪が、低く告げた。
「そんな……父上!」
曜桂は泥を蹴って進みかけるが、二歩も踏み出せぬうちに膝が折れる。
再び青の手が伸びて肩を掴み、支えた。
赤蛟が水面を蹴る。瘴気の尾が残光を刻む。長い吻を開き、喉の奥底から腐食の毒息を吹き出した。
白の主は首を低く沈め、迎え撃つ。鰭で水を掻き上げ、編み込んだ水網で毒霧を絡めとる。
すかさず赤黒の牙が白い喉に迫った。
東の主は紙一重で牙を躱して長い首を返し、純白の吻で赤蛟の喉元を突き上げる。
鈍い衝撃が湖面を震わせ、赤蛟の巨体が大きく仰け反った。
が、紫黒の瘴気が幾筋もの触手となって蠢き始め、白蛟を抱き込もうと迫る。
白い鎌首が鋭く振られ、一閃で黒の触手を引き千切り、胴を回転させて振りほどく。白尾が赤黒の横面を強かに叩いた。
東西の水霊たちは反発したように互いに後退する。
その時――赤蛟の背後で、新たに水面が割れた。
湖底から現れたのは、鉄紺の鱗。龍泉家の長子だ。
『ゴォオオォォオ!』
しならせた鎌首を振り下ろし、父に向けて開いた顎門から、凝縮された水の条が奔った。渦を巻く奔流は父の巨躯に絡みつき、瘴気の帯を灼き払わんと碧い霊光を迸らせる。
だが――父は息子の断罪を、受け容れなかった。
尾の一振りが生んだ渦が、鉄紺の蛟を引き摺り込む。
「兄上!」
曜桂が伸ばした指の先で鉄紺の蛟は水中を潜航し、水底を蹴って父の横腹へ回り込んで浮上する。鉄紺の牙が父の胴に食らいついた。
父蛟は激しく身を捩る。
食い込んだ牙を引き剥がそうと、子を振り回す。
固い鱗が軋み、砕ける音が地鳴きのように岸まで響いた。
痺れを切らした赤蛟の尾が跳ね上がり、鉄紺の喉を絡め取る。
『ギ、ギ……ッ』
無数の濁った泡が湖面で、沸騰したかの如く破裂した。
「やめろ!」
曜桂の絶叫が、湖を渡る。
赤蛟の耳に子の声は届かず、濁った瞳にもその姿は映っていなかった。
尾から解放された濃紺の鱗は、螺旋に巻き込まれて水底へ姿を消す。
「兄上……」
青が支える腕の中で、少年の体が震えた。
湖に屹立する父は、瘴気を骨肉として纏い直した、名もなき禍つ獣と果てていた。赤黒い牙が伸びて吻を突き破り、剥き出しの喰らう器官と化している。裂けた顎門から垂れる涎が、じゅうと音を立てて湖水を腐らせる。
「……」
曜桂はただ、兄が消え、父だった異形が蠢く光景を、濡れた睫毛の奥から見つめるしかなかった。
*
暗赤色の禍つ獣が吠えた。
湖水を黒く染める無数の影が、鮎や水蛇の形をとる。
異形の群れが、東の白き主を取り囲んだ。
『グルルルル……』
白い首が持ち上がり、閉じられていた黄金の双眸が見開かれる。
湖底深く白砂に眠る太古の骸たちが、仄かな燐光を帯び始めた。
光は水脈を伝い、東から西へ、新たに繋がった水域の果てまで脈打って広がっていく。
『ガァアアア!』
白の主に向けて、裂けるほどに開かれた赤黒い顎門から、紫黒の光線が放たれた。
湖面を灼きながら一直線に走る闇の条が、白銀を貫かんと迫る。
燐光の水渦が立ち上り白鱗を包み、幾筋にも重なる水環が闇を弾いた。
白く滑らかな尾が湖底を攪拌すると、流れは即座に急流の渦となって群がる妖魚の群れを捻り、水底に叩きつけ、押し潰していく。
「どう動くつもりですか」
曜桂を岩場に腰掛けさせ、青は東西の霊たちの戦いを見据える秋彪へ駆け寄った。
「どうもしない」
秋彪の応答はいつも通り、短い。
「あれは霊《神》同士の戦いだ。露流河の時と性質が違う」
「何故それを」
露流河事変――河の化身たる無渡霊・露が、侵食者たる焔の大蛇と激突した戦い。凪の法軍、翡翠の自警団、白狼ノ國の三者が轡を並べ、露の勝利を支えた歴史的な一戦だ。
「しかし」
青の声は轟音に掻き消される。
白い鱗と赤黒い甲殻のぶつかり合いが衝撃波を発生させ、岸辺の泥を削って巻き上げた。
「ここで東の主が敗れたら、この湖は」
「そうはならない」
水面を叩く爆音が続く。
秋彪は表情一つ変えない。
「何故、言い切れるのですか」
反対に青の瞳が、焦りに揺れた。
「あれらは、この湖の『理』だからだ」
秋彪の横顔と声は、研ぎ上げた刃のように澄んでいた。
「あ……!」
不意に、掠れた声が上がる。
曜桂が体を庇いながら立ち上がり、西側の岸辺へ向いた。
波に洗われる浅瀬に、人が横たわっている。
鉄紺の軍装姿だ。
「兄上!」
曜桂は泥に膝をつきながら浅瀬へと入り、自分よりも一回り大きな兄の体を岸へ引きずり上げる。乾いた砂利の上に兄を仰向けに横たえて、ようやく安堵の息を落とした。
「生きてる……」
「揺らさないで」
追いついた青が、傍らに膝をつく。
意識はないが、呼吸は保たれていた。
衣の合わせを開くと、青年の首筋から鎖骨にかけて、父の尾に締め上げられた痕が暗い斑紋となって生々しく残っている。
「内出血が引くまで、安静に」
青は薬剤符を用いて腫れ上がった鬱血痕の治療を行う。
その間、秋彪が肩当てや胸当てを外した。
足裏を、振動が擽る。
「まただ」
大きくはないが、砂利の下を這い回る小刻みで執拗な揺れが続く。
湖の西側から、水面に油膜の層が広がる。
波立つ水面下から、異形の鰭や尾が跳ねては沈んでいき、岸に小魚が打ち上がっていた。
湖の中央では、父蛟の異形化が進行している。
瘴気が巨躯に吸い寄せられるたびに甲殻が膨れ上がっていった。
一方で東の主の純白の鱗にも、妖魚や水蛇が蚤の如くとりついている。
黒い点が白い体表を侵食し、噛みつき、鱗を剥がし、腐の色に塗り替えようとしていた。
「主さまが」
東側の丘では。永濯はじめとする水守たち、そして祐真が、蛟たちの戦いを前に固唾を飲んでいる。
イズナも岩壁から身を乗り出していた。
荒れ狂う湖面の手前、西寄りの岸辺に人影が見える。
「あれは……黒士、シユウ殿!」
声を上げるのと、斜面を駆け出すのはほぼ同時だった。
「イズナ姉師!」
祐真が振り返り、引き留めようと手を伸ばしかける。
「お前はここにいろ。危ない」
永濯の手が、祐真の肩を押し戻した。
祐真は唇を噛んで足を止め、再び湖側を振り返る。
「あれは」
眼下の湖畔に、小さな紅点が動いた。
森の際から飛び出した、緋色の着物。
小さな足が砂利を蹴散らしながら、真っ直ぐに湖へと向かっている。
「な、つむ!?」
「つむちゃん!」
二人分の絶叫が、周囲の水守たちの動揺に重なった。
森の奥へ、村の女房たちに託して避難させていたはずが。
「つむ!」
永濯が丘の斜面を蹴った。
祐真も続き、二人は草と石を蹴散らしながら湖畔へと駆け下りていった。




